天使が迎えに来る日まで - 後編 -

 靴底に鉄板を敷いた戦闘を担う者が愛用するブーツが、大理石の床を踏みしめる音が向かってくる。懐かしい足音だ。軽快なノックに、私は『どうぞ』と応じた。一拍置いて、繊細な彫刻が施された大きな扉が開かれる。簡略的な会釈をして踏み込んで来たのは、トーマ兄様だった。
 私と同じ亜麻色の髪をうなじで一つに結い、緑の衣に身を包む。背筋がピンと伸び、張った胸にはグランゼドーラの王家の紋章の刺繍がキラリとひかる。グランゼドーラの第一王子。今代の勇者トーマ兄様だ。私が心から憧れる、私の勇者様。
「戦場は芳しくない。もう魔王の軍勢が勇者の橋まで攻め込んでいる」
 兄様は憂う表情で告げた。そんな言葉が必要ないくらいに、外の音は部屋の中に響いている。魔法の爆音、剣が打ち合わさる甲高い響き、悲鳴、魔物のおぞましい雄叫び。城の中に避難している人達がどれだけ不安に駆られているか、私は胸が痛くなる。
「堅牢を誇る城壁が崩されれば、この国は滅ぶ。我々が身を投じる戦いが、決戦となるだろう」
 私が力強く頷くと、兄様は私が愛用しているレイピアを差し出した。先月の魔物との戦いで刃毀れしてしまい、打ち直しに出したものだ。綺麗に磨いて真新しい銀の輝きが私の色を写し、柄には滑り止めの真新しい鞣した皮が巻き直されている。
 私が兄様からレイピアを受け取ると、鞘から滑るように刃を引き抜く。歪みも曇り一つない、ひたすらに真っ直ぐで澄んだ刀身が私の目の前にあった。剣を構え動作を確認すべく演武の動作を一通り行う。切っ先が空気を突く鋭い音が、外の騒音をも貫いて無音にも感じる静寂が満ちる。突き、払い、回避のステップ、柄の握り心地を確かめ、しゃんと軽やかな音を立てて刃は鞘に吸い込まれる。
 ふう。熱を帯びた息が漏れる。
 勇者の盟友になりたい。そうお父様に訴えて、女子でも使いやすいと賜ったレイピア。今まで沢山の剣に触れてみたけれど、このレイピア以上の使い心地を超えることができなかった。大事な一戦で、自分は全力を出すことができると剣が囁いているようだ。
 ふふ。兄様が笑う声が聞こえた。呆れたように笑う兄様は、私に言う。
「全く、一国の王女にしてはお転婆が過ぎるんじゃないかい?」
「あら、私の剣術は兄様にだって劣らないつもりです」
 私は剣を持って、不敵に笑ってみせる。
「いざとなったら、私が勇者であるトーマ兄様をお守りします!」
 それは頼もしい。兄様はそう笑って私の前に歩み寄った。慈しむような優しい眼差しが、すっと凍りついて戦いに身を置く者の目になる。
「だが自分の身すら守れぬ者に、他者を守る事はできない。アンルシア、私がどのような危機に陥ろうと、お前はお前自身の身を守ることに専念しなさい」
 不満が発酵するパンのように膨れ上がった。兄様は勇者であり、人類の希望なのだ。この世界を思えば、私とトーマ兄様、どちらの命の方が重いか兄様は自覚していない。まだ、兄様の盟友として覚醒していない私ではあるけれど、兄様を守るためなら命だって捨てる覚悟がある。
 この身が燃えるような決意だった。兄様の言葉を守るよう務めたとしても、私は兄様が危険に晒されたら身を呈して守る。それは、勇者だからじゃない。私が心の底から大好きな、私のただ一人の兄様だからだ。絶対に、死なせやしない。
 兄様が肩に触れた。分厚い手袋越しではあるが、大きな暖かい手の感触。
「いつの間にか大きくなったな」
 ふと浮かべた笑みは、大好きな兄様の顔だった。その言葉の意味を汲み取ろうとする前に、『行こう』と身を翻して歩き出してしまう。
 私は横にいるピペと、暗くぼんやりしていると思ったら黒いフードを目深に被り黒い外套にすっぽりと体を覆っている男になってしまった人に一つ頷いた。いつもとは違う可愛らしいピペと、黒フードの男は、私に応じるように頷き返した。

 グランゼドーラ城は避難して来た住人達でごった返していた。怪我人を治療する癒し手は教会の僧侶だけでは足りず、多くの冒険者達の手も借りている。人々は私と兄様を見て口々に『頑張ってください』『生きて戻って来て』『魔物を打ち倒してください』と言い募った。応援する気持ちが、陰鬱としたこの場の空気を一瞬でも明るくする。
 私はその声援に応えるため、一度だけ足を止めて振り返った。剣を抜き放って掲げてみせれば、人々の歓声は爆発した。
 勇者ではないけれど、私はグランゼドーラの王女。人々の希望となる為に、自分の不安を隠して奮い立たせなくてはならない。それに、黒いフードの男の人は言った。『この先に、恐ろしい現実が待っている』と。しかし、今の段階でも十二分に恐ろしい。魔物達が大挙して襲いくる戦場であり、突破されれば目の前にいる人々が虐殺されてしまうのだ。
 絶対に死守しなくてはならない。私は強く柄を握り、大門を開くよう命じた。
 大砲の轟音が至近距離で轟いた。イオナズンの衝撃か、勇者の橋のレンガが壊れて四方八方に飛び散る。生き物の焼ける臭い、魔物が瘴気となって吹き払われる臭い、埃っぽい空気が飛び込んだ私を瞬く間に包み込んだ。戦場は人間と魔物が入り乱れ、どこから手をつければいいか分からないほどだった。
 グランゼドーラの兵士だけでなく多くの冒険者の加勢もあったが、それ以上に魔物の軍勢が凄まじい。空を分厚い黒い雲が覆い、雨霰のように空を飛ぶ魔物達が降りてくる。城壁に陣取った弓兵や砲兵が、それらを打ち抜き、死体がバラバラと落ちて血腥さを増してくる。
 兄様は最前線へ向かったらしい。戦闘の影響で烟る視界には、頼もしい緑の色の背中は見えない。
 私は城を守る為に、魔物達を退けて前線へ向かおう。私はそう思い立って、手近な魔物に向かった。アークデーモンの巨体を支える膝に軽く足を掛けて飛び上がれば、その身は軽々とアークデーモンの頭上をとった。レイピアを一閃し喉を突く。ぐらりと傾いだ体は、兵士の大剣がなぎ払った。瘴気となり消え失せる前にアークデーモンの背を蹴って、スターキメラを突いた。
 少し高くなった視界から戦場を見る。左前方に苦戦している冒険者達がいる。どうやら、メラミが面になって放たれて手も足も出ない様子だ。相手は魔法を使う魔物のようで、瓦礫の間から冒険者達を狙っているようだ。着地した私は盾を構え、背後から魔物達を傷は浅いものの切り裂いていく。集中力が一瞬でも途絶えれば、呪文は中断される。メラミが止む隙を伺っていた冒険者達は、一瞬の隙を見逃さず飛び出して瓦礫に潜む魔物達に襲いかかった。
 傷を負った兵士を担ぎ後退する兵士を狙っていたドラキーマを、落ちた剣を投げて貫き落とす。
 息をつく間も惜しいほどに立て続けに、様々な戦線を渡り歩く。じりじりと前を目指す。後ろは人々の優勢に転じているらしく、足止めをされていた兵士や冒険者達も私に続いてくる。門前まで攻めていた魔物の軍勢は、勇者の橋の中間まで押し返されていた。
 トーマ兄様はどこへ向かったのだろう?
 ふと、そんな疑問が頭をもたげた。これだけの魔物の軍勢を率いてくるのだ、指揮官らしい存在が必ずいる。トーマ兄様はきっとそいつを探しているに違いないと思ったのだ。最も人と魔物の攻防が激しい場所に向かっているはずなのに、周囲は徐々に静かになっていく。
 煽られるほどの強い海風が吹き荒み、私は思わず足を止め堪える。風が凪いで再び目を開けた時、そこには一つの人影が立ちふさがるように立っていた。
『どうして、思い出そうとするの?』
 人影がそう問いかける。声は聞き覚えのある女性の声だ。
『この記憶を封じること、それは私の望みなのよ』
 人影に見えたそれは、女性の石像だった。アンルシア姫の石像。今の私と同じ、サーコートとブラウスとスカートに抜き身のレイピアを持つ石像だ。石像は所々ひび割れて、瞳の場所にある空洞から止め処もなく涙が流れていた。
『忘れているから、知ろうと思うのね。私が大切な人を守ることもできない、どうしようない無力な存在であること。嘆きと悲しみに満ちた世界を、変えることができないこと。それを思い知れば、ミシュア、貴女も納得してくれるわ』
 この先が黒いフードの人が言った、残酷な現実がある。ミシュアが記憶喪失であったのは、アンルシアがその現実を無かったことにして忘れようと封じた結果なのかもしれない。そして、アンルシアの意思と反して、私がここにいれるのは『ミシュア』というアンルシアでありながらアンルシアではない存在があるからだ。
 どんな悲しいことがあったのだろう。ジャンナの死を花と共に伝えにきたシタル座長を見て、アンルシアは昏倒した。涙が枯れるほどに泣き、高熱に身が窶れ、家族でさえ死を覚悟するほどに憔悴した。胸が張り裂けるような悲しみを、アンルシアの記憶を取り戻しつつある私は理解できる。
 私は石像に向かい合い、問いかけた。
「ならば、どうしてアンルシアは生きているの?」
 ジャンナの死は、自ら死を選びそうになる程にアンルシアを追い詰めた。苦しかった。いっそ死んだ方が楽になるのでは、そんな誘惑が絶望の淵に立つアンルシアには甘美に思えた。ほんの一つ、些細なきっかけが背中を押す程で、どうして生きているのか不思議に思える。
 それ以上の苦しみ。それに対して、どうしてアンルシアは記憶の封印だけで済ましたのだろう?
「生きている限り、私達がアンルシアである過去が変わることはない。ミシュアとして生きていても、アンルシアとしての運命が必ず関わってくる。アンルシアが記憶喪失なら、全て見逃してくれるの? お父様もお母様も兄様も、アンルシアのことを忘れてくれると思っているの?」
 ザンクローネ様が言った『英雄は死なない』。そんな彼の信念が、ミシュアを旅立たせた。
 セレドの町で子供達に勇者アルヴァンの物語を読み聞かせた。そんな何気ない日常が、絵本を読み聞かせてくれた兄様を思い出す切っ掛けになった。
 アラハギーロでセラフィさんは言った。生きてみなければ分からない。生き方を選ぶのは本人なのだと。私は自分を取り戻し生きたいと強く思うようになった。
 そして、私はグランゼドーラにきて、勇者姫に出会った。それは運命だったんだと思う。メルサンディでミシュアとして生きていたとしても、いずれ会う定めであったと思う。
「ミシュアとして生きてきて、思ったの。本当の私は、どんな人だったんだろうって…」
 石像に微笑みかける。
「素敵なお父様とお母様がいて、勇者の兄様がいて、そんな兄様の盟友になりたいと一生懸命修練を重ねるお姫様。同じ年のくらいの友達ができて、心の底から嬉しかった可愛らしい人。死んでしまって我が身のことのように嘆く優しさ。乗り越えて、盟友になれなくても民を守ろうとする真摯な姿勢。とても、素敵な人だわ。ミシュアなら身に余る光栄って笑ったわね」
 私は一歩石像に歩み寄った。
「ミシュアは消えてしまうかもしれない。寂しくないなんて言ったら、嘘になるわ。でも、私は、ミシュアは常に思っていたの。力の弱さが恨めしい。もっと皆みたいに、誰かの役に立てればいいのにって。魔物に苦しめられている人を救えずただ見続けるなんて、とても耐えられない」
 服が引かれる感覚がした。見下ろせば涙を浮かべてピペが私を見ている。
 ごめんなさい。ピペ。貴女と共に過ごしたミシュアがいなくなる。そんな悲しい思い、させたくは無かった。ピペから視線を外し、私は石像を正面に見た。
「私は進みます。死を選ばなかった貴女が、それを望んでいるのだから!」
 私はレイピアを構え、鋭く石像に突き刺した。石像は刃を阻むこともできず、まるで固めた砂のようにあっけなく貫かれた。ガラガラと崩れた石像は、煉瓦に触れて粉々になっていく。『いや…。思い出したくない…』呟く顔の欠けらを見下ろして、私は呟いた。
「さようなら。アンルシア」
 奥から爆風が駆け抜け、立ち込める煙を吹き払った。崩れた橋の一部からは、橋の下層部分が見えている。夥しい瀕死の魔物が転がり、瘴気が薄い煙のように立ち上っている。激しい戦闘が行われているのは明白だった。
 目の前には雄々しい武人を彷彿とさせる偉丈夫が浮かんでいた。黒い天鵞絨の外套に、大人の人間の身長すらありそうな巨大な剣を下げている。隆々とした筋肉は鋼のようで、鋭い眼光の精悍な顔立ちは只者ではないとわかる。頭からは角が生え、耳は尖り、肌は紫色。明らかに魔族であり、知的な雰囲気から指揮官と分かった。
「我ら魔族に幾度も煮え湯を飲ませた勇者の末裔が、如何様な存在かと期待したが、所詮この程度か…。大魔王様のお手を煩わす必要もない」
 トーマ兄様の気合の声が響いた。激しい剣戟、飛び交う魔法。私が間に入ることも出来ない、激しい攻防がそこにある。しかし、魔族は余裕の笑みを崩さず、まるで子供を去なすように加減しているのがわかる。
 あのトーマ兄様が遅れをとっている。
 魔物の討伐でどんな恐ろしい魔物をも倒してきたトーマ兄様が、魔族に圧倒されていることが信じられなかった。そして、目の前の魔族はそれだけの実力者なのだ。このグランゼドーラに攻め入る程の軍勢を率いた元凶。それが、目の前にいる。知らず識らずのうちに手のひらにかいた汗を、私はサーコートの裾で拭った。
「それでも光栄に思うがいい、勇者よ。我が偉大なる大魔王様の右腕たる我が、直接引導を渡すのだからな!」
 魔族が兄様に迫る。まだ、激しい攻撃に態勢が崩れたままだった。兄様を守る為、私は魔族の凶刃の前に躍り出る。
 凄まじい衝撃だった。受けたレイピアが折れんばかりの衝撃に、火花が目の前を花火のように散った。魔族は突然の援軍に驚いたのか、力を抜いたおかげで私は今の攻撃を凌ぐ事ができた。とても勝てるとは思えない。しかし、命を賭ければ兄様を逃がす事はできるはずだ。私はレイピアを魔族に向けて構えた。
「勇者は大魔王に屈したりしない!」
 アンルシア…。兄様の声が掠れて背中に触れる。どうか逃げて。貴方は世界の希望なのだから。そう兄様に向けて願う。
 一瞬でも意識を背後に向けて隙を作ってしまったが、目の前の魔族は怪訝な顔で首を傾げていた。どうしたのだろう? 剣を握る手の力を弛まずにいても、そんな疑問が目の前をチラチラする。すると、魔物は笑みを深くしたと思った瞬間、笑い声をあげた。心の底から愉快そうに、八重歯を見せて声を上げる。
「そうか、そういう事だったのか! 勇者トーマ、貴様の演技力に我々はまんまと騙されたということか! これは傑作!」
 魔族は笑い声を収めると、私に剣を向けた。
「真の勇者よ。貴様の魂をもらい受ける!」
 魔族の体が一瞬ブレた気がした。そう思った時には全てが遅かった。
 魔族の剣が私の胸を貫く位置に既にあった。反応することもできなかったのだ。防ぐことも避けることも、もう、できない。
 殺 さ れ る
 そう思った時だった。後ろから強く引かれ、何かが私の前に割り込んだ。耳に柔らかいものをねじ込まれたような不快な音がして、生暖かいものが服を濡らして腹に張り付いた。嫌な予感がする。
「アンルシア。僕は、勇者を守るための影武者だったんだ」
 世界が緩やかに動き出す。私の前に割り込んだのはトーマ兄様だった。その胸は大剣に深々と貫かれ、私に届く寸での所で止まっている。兄様が突き出した剣もまた、魔族の肩に深々と突き刺さっていた。魔族はこの時初めて、苦痛に顔を歪めた。
「本当の勇者は、アンルシア、君なんだ」
 魔族が剣を引き抜いた。その反動で兄様は地面に顔から倒れた。真っ赤な液体が倒れた体の下から、止め処もなく溢れて流れていく。
 うそ。うそでしょ。力が抜けて膝が折れる。兄様傍に這いずって、ホイミを掛ける。血が止まらない。ホイミではダメなんだ。ザオラルを唱えなくては。そう思って手から放たれる光の力が変わるが、震える手、動揺した気持ちからくる呪文は兄様を助ける力には程遠かった。
 青い色が見えた。兄様の血にまみれた顔が微かに微笑んだ気がした。
「アンルシア…アストルティ…アの…ゆう…しゃ。みなを…まも…って…く」
 青い色から光が消える。
 いや…。いや。どうして? どうして? 頭の中が真っ白になっていく。
 幼い頃、城のバルコニーで突如ガーゴイルに襲われた時、兄様は私を庇った。でも、兄様は死ななかった。どうして?って訊いたら、『勇者は死なないんだよ』と笑った。背に受けたメラミの痛みに体を折りながらも、私に力強く微笑んだ兄様。兄様こそが勇者だと思っていた。お父様もお母様も賢者ルシェンダ様もノガート兵士長も、誰もが兄様が勇者だと讃えた。でも、誰が本当のことを知っていたの? それは、嘘だったの? それらが、本当の勇者である私を魔族の目から隠すため? そんなことない! 兄様は、確かに勇者だった! 私の、私が勇者と認められるのはトーマ兄様だけだった!
 今までの全てが崩れ落ちていく。
 幼くとも勇者として毅然な振る舞いをして居た兄様。憧れる兄を支えるため、勇者の盟友を目指して修行した日々。兄を勇者と呼ぶ両親や賢者に吐き気が込み上げた。アンルシアが盟友になれますようにと願いが込められた花が枯れてしまったのも、勇者である自分には盟友になれないからだったんだ…!
 一つの嘘が、全て裏切りに見えた。アンルシアのための嘘だったとしても、それは最悪のタイミングで明かされて全てが信じられなくなっていた。激しい拒絶が稲妻のように心を打ちのめす。口を開き絶叫した。このまま心臓まで吐き出してしまいたいほどに、いくら叫んでも喉が裂けそうな音量であっても心の中のどす黒い感情は薄れさえしなかった。
『アンルシア、貴女は唯一の希望』
 そんなの、知らない。
『貴女はここで死んではいけないのです』
 死なせてよ。
 兄様が死に、今まで信頼してきた家族に嫌悪する私が、どうして生きられるだろう? もう、城にだって戻れない。こんな気持ちで、家族に、城の皆に会えるわけがない。
 せめて、せめて、何もかも忘れてしまいたい…。
 頬を一筋の涙が流れた。

 これが、アンルシアが封じた記憶。心が壊れてしまうほどに辛い現実に、私は起き上がれずにいた。
 メルサンディの懐かしい麦畑の香り、ラスカの声、ガッシュさんが抱き上げてくれる感触。暖かい布団が、私を包んでいる。そんな私の傍にピペがいた。心配そうに私を見て、頬を流れる涙を拭ってくれる。
『これから…どうするの?』
 ピペが静かに聞いてきた。メルサンディ村の柔らかい空気。ミシュアとして何一つ覚えて居ない私を受け入れてくれた世界。もう一度、この世界でミシュアとして生きていられたら、どんなに良いだろうと思う自分が確かにいる。
 でも、この世界の空気が、絶望した私の心を包みこみ癒してくれた。今も、兄様が死んだ記憶を抱いたまま、横になっている。
 『ミシュア。大丈夫か? 美味しいもの食べたら元気になるか?』ピペの向かいから真っ赤なちょんまげが生えた。心配そうに私を見るのはルアムさんだ。そんな彼の上にザンクローネ様が立って『コペのパンは絶妙な塩加減だ。ちょっと取ってきてやろう』と去っていく。ラスカが『ザンクローネ様の味見で全部なくなっちゃうよー』と追いかけていく。
 『あらあら、ミシュアさん。体調が優れませんの? まぁ! 貴方達! 具合の悪い人の部屋に勝手に立ち入ってはいけませんわよ! ルミラさん、どうして、入れたりしたんですか!』エンジュさんがそう叫ぶと、セレドの町の子供達が大挙してやってきた。幼い子は勇者の物語の本を持ってまできている。エンジュさんがルミラさんに怒っている。
 『ねぇ、見て! みーんな脱走してきちゃった!』そうセラフィさんが明るい声で言うと、魔物達が窓から顔を覗かせて見せた。地下牢で見た時とは比べ物にならない明るい表情の魔物達の後ろで、イサークさんが『全く、たくましいなぁ』と、呆れている。
ミシュアとして出会ってきた人達。その顔一つ一つを見ると、暖かい思い出が鮮やかに蘇ってくる。もっと良く見たい。そう思うと、絶望で鉛のように重くなった体が軽くなり、ベッドの上で体を起こす事ができた。
「勇者とは、世界の人々の希望だ。だが、勇者だから人々の希望になろうと努める必要はない。大切な人々を守りたい気持ち。それさえあれば、誰もが勇者になれる」
 ピペの後ろにいた黒いフードの人が、集まった人々を見回して私に目を留めた。
「そう、僕は確かに勇者だった。君の、君だけの勇者だった」
 その言葉に、私は弾かれるように黒いフードの人を見上げた。彼の口元が笑みの形になり、黒い手袋がそっとフードを後ろに下ろす。黒い外套が霞のように霧散した。
 緑の衣に縫い取られたグランゼドーラの紋章。愛用の剣が下げられた、華美過ぎない装い。亜麻色のサラサラとした髪に、優しい青空のような澄んだ瞳。その微笑みに私は堪らなくなって飛びついた。
「兄様!」
 夢でもなんでもよかった。抱きしめた時に感じる兄様の体温、頭を撫でてくれる少し硬い手のひら。はにかむように笑う、愛おしい笑顔。優しく話しかけてくれるだけで、誇らしく感じる声。心から湧き出る喜びに、悲しみが吹き飛んだ。
「アンルシア。僕はね、君を守れたことを誇りに思っている。勇者の影武者となり魔の者の目から君を守れたこと、大魔王の手先から君を守れたこと、それを一瞬でも後悔したことはない」
 一体、いつから私を守ろうとしてくれたのだろう。物心着いた時には、もう兄様は勇者だった。私が生まれた時には、兄様は勇者の影武者になる事を決めていたのかもしれない。
 兄様の優しさに、涙が溢れてくる。
「僕はね、本当は君の盟友になりたかった。それだけが、心残りではある」
 私は激しく首を振った。兄様が盟友なんて、想像がつかない。だって、だって、兄様は…
「でもね、君の勇者は僕だけだ。いつ、如何なる時も、僕は君を守る。…必ず」
 力強い笑み。それに応じるために、私も微笑んだ。
「ありがとう。兄様」
 扉がゆっくりと開く。そこには旅に必要な荷物を持った、ラチックさんが立っていた。ピペがラチックさんに飛びついて、定位置のフードの中に潜り込む。ピペとラチックさんが『どうする?』と言いたげに、私を見ている。
 行くわ。行くに決まっている。
 まだ勇者としての自覚は足りないかもしれない。勇者として立つ意味も、不確かな未熟者だとは思う。でも、私は生きる。生きて、生きた先に勇者としての道があるのなら、私はその道を歩くだろう。でも、今は生きて、アンルシアが立ち止まって進めなかった道を歩いて行く。それが、今の私にできることだ。
 立ち上がった私を見て、兄様がピペに振り返った。
「ピペさん、僕の大事な妹を頼みます」
 私はピペとラチックさんの元に歩み寄り、兄様に振り返った。大好きな兄様に手を大きく振って、自分ができる一番良い笑顔を向けた。
「兄様、行ってきます!」
 進む先は、黄金色の光で満ちていた。