悪魔が別れを告げた日に - 後編 -

 黄金色の光を抜けた先は、毎日目覚めると見上げていたベッドの天蓋があった。
 頭を包み込む柔らかい枕の感触、指先が触れる滑らかなシルクのシーツ。首を巡らすと、傍にピペと見知らぬ男性がいた。
「目覚めたようだな。おはよう、アンルシア姫」
 目深にかぶったツバの広い帽子の影で、にこりと笑った表情に悪意は見られない。鞣した皮のコートは収穫時の小麦のような色合いで、ベストは不思議な鱗を連ねたもの。さらに胸元には、巨大な魔物の牙に紐を通した首飾りが下がっている。武器は腰に短剣をぶら下げてはいるが、色白い手は私よりも綺麗かもしれない。
 彼は笑みを浮かべたまま、ピペの肩を軽く叩いた。
「俺の名はクロウズ。彼女を真の勇者の元へ連れていくのに、護衛まがいの事をした冒険者さ。ちなみに彼女の相棒は怪我人を城下町に運んでくれていて、席を外している」
 ピペが頷いた。福与かな丸みを帯びた頬、円らな瞳、プクリポであると誰もが思う小柄な体つき。夢の中で私を導いた紫色の髪を三つ編みにした少女と、目の前のピペが重なった。
 私はベッドから身を起こす。布団の下から現れたのは、今までの道のりを歩いてきたミシュアの深紅のエプロンドレス。そんなミシュアが護身用に携えていた、グランゼドーラ第一王女アンルシアのレイピアと盾はベッドの傍に立てかけられていた。手を伸ばし膝に乗せたレイピアは、ミシュアでは感じられなかった重みを持っていた。
 兄を守れなかった実力のない自分。本当は勇者だった真実と、いきなり背負わされた重圧。このレイピアを抜くということは、私がミシュアを棄ててアンルシアとして立つ決意を固める事と同意義だろう。
「改めて自己紹介をしなくちゃね。私はグランゼドーラ王国の王女。アンルシア」
 ピペが涙ぐむ。小さな体を抱き寄せると、鼻腔いっぱいに油絵の具の匂いがした。
「ピペ。ありがとう。貴女の導きが、私を目覚めさせてくれたの。私の中のミシュアは消えない。ミシュアの存在がアンルシアを救い、勇者にしてくれたの。貴女は私の友達であることに、なんら変わりはないわ」
 ミシュアが居なかったら、そう思うとゾッとする。きっと、アンルシアは勇者として目覚めることはできなかっただろう。兄が勇者の影武者であった事。本当の勇者を守る為の嘘に疑心暗鬼になったアンルシアは、城に馴染めず、人々を疑い、最愛の兄を失った事に心を病んでいった姿をありありと描く事ができた。
 ピペを離す。目元をぐしぐしと擦る彼女から悲しみが薄らいだのを確認して、私は周囲を見回した。
 グランゼドーラ王国第一王女、アンルシアに充てられた部屋。壁に掛けられた晴天の空と白亜の美しい勇者の王国の絵、侍女達が毎日美し花を生けてくれる花瓶、歴代の部屋の主人が使い込んだ飴色の本棚には記憶の中と全く同じ配置の背表紙が揃っている。何もかもが記憶のままなのに、まるで鏡合わせのような違和感がある。
「ねぇ、クロウズさん。ここは、いったいどこなのかしら?」
「勿論、レンダーシアのグランゼドーラ城さ」
 クロウズさんは椅子に座り、寛ぐように足を組んだ。
「俺も含め、五大陸の精鋭で結成された調査団は、レンドア港から出航したグランドタイタス号に乗り込み、不気味な迷いの霧を抜け、このレンダーシアへ辿り着いた。この経緯は、ミシュアの時にルアムから聞いているんじゃないか?」
 そう。その通りだ。ミシュアの時にメルサンディ村にやってきたルアムさんは、今のクロウズさんと同じ事を言った。ルアムさんはこの大地が人間の大陸、レンダーシアである事を疑ってはいなかった。それはレンダーシアの事を知らないからだ。ルアムさんは、メルサンディ村を訪れるのは初めてだと言っていた。
 でも、私は違う。アンルシアとしてグランゼドーラで生まれ、育ってきた。
「ここは本当のグランゼドーラでは無いわ。私の知っている人は、この城のどこにもいない。国王である父も、王妃である母も、ノガート兵士長も、ルシェンダ様も、コルシュ大臣も、私が覚えている筈の人は誰一人いない」
 でも本当のグランゼドーラには、もう、トーマ兄様はいない。鈍い痛みを伴う現実に、唇を軽く噛む。
 クロウズさんが緑の瞳を柔らかく細めた。
「その通り。ここはグランゼドーラであって、君の知るグランゼドーラでは無い」
 だけどね。彼は勿体振るように、長い指で自身の目の横を突いて見せた。
「俺の相棒はちょっと未来を視れる奴でね。彼が言うには、選択次第でここが本当のグランゼドーラになってしまうそうだ」
「どういう…意味?」
 クロウズさんの口調は、妙に明るかった。本当のグランゼドーラでは無い、そう知ってなお、偽りの王国の最深部で彼はこの状況を楽しんでいるとすら思えてしまう。胸を掠めた不信感は、表に出た疑惑で悟られなかったようだ。彼の明るさは曇らない。
「お前は、あのアンルシアが何者だと思う?」
 あのアンルシア。このグランゼドーラで勇者姫と名乗ったアンルシアのことだろう。
 ミシュアの目から見た彼女のことを思い出す。瞳の色、髪の色艶は瓜二つ。装いの色使いは暗めで、動きやすいズボンを選択していたが、それは彼女の自分を擦り減らす程の多忙さを鑑みれば納得のものだったろう。ミシュアでは気がつけなかったが、剣術に秀でた者の身のこなしを所作の端々に感じた。
 勇者にならねば。そう、口癖のように言っていた。
 なぜ、彼女は勇者にならねばならなかったのだろう?
「ここに来るまで、俺はグランゼドーラを徹底的に調べた。住人が沢山行方不明になったのに、居なくなったのが身内ですら些細な出来事のように忘れてしまう。そして、この城の地下牢で行方不明だった若者を助けた。勇者姫にここに居ろと命じられて、自ら牢屋に入ったそうだ。その若者は瀕死の状態だった」
 冷えた眼差しだった。口調が明るくても、瞳の芯がとても冷たい色をしている。
 勇者である私が、不甲斐ないばかりに人が死んだと責められている気がした。ミシュアにそんな力は無かったと言いたかったけれど、それは言い訳にしかならない。舌が膨らんで回らず、喉に詰まってしまいそうだ。
「自分の目で、あのアンルシアが何者か、見極めなくてはならない。それが勇者としての最初の勤めになるだろう」
 私は頷いた。勇者として、最初の勤め。確かにそうなるだろうと、思いながら。

 窓辺が夕日とは違う赤に染まる既視感に、胸がざわついた。無人の真紅のカーペットが敷かれた廊下を掛け、いくつもの扉を明け放ち、勇者の橋と城下を一望できるバルコニーへ駆け込む。噎せ返るような戦場の匂いが私達を包み込み、驚きに言葉を失った。
 そこは、アンルシアの最後の記憶。勇者の橋まで魔物が侵攻し、トーマ兄様と進撃した光景と酷似していた。散乱する瓦礫。何かが焼け焦げた匂いと、潮風が混ざった風が砂埃を巻き上げている。トーマ兄様の最後が脳裏を過ぎり、顔からざぁっと血の気が引いていく。目覚める前の夢と現実が混ざり合ったようで、吐き気すら込み上げてくる。
 だが、言葉を失った理由は別にある。
 城下町の上空に、黒いものが浮いている。城下町を舐め厚く垂れ込めた雲に手を伸ばすが如き炎の光すら映り込まず、まるでぽっかりと穴が空いていて黒い空間を覗き込んでいるようだ。そこから感じる不吉で邪悪な気配に、冷や汗が止まらない。
 一体、ミシュアが囚われ、目覚めるまでの間に何が起きたと言うのだろう。
 城には誰もいる気配がしない。勇者の橋も戦いの跡は色濃く残るも、死体一つない。城下町は窓から不安げに周囲を伺う、住人の影すら見えない。誘われるように黒い塊の下にやってきて、ピペが初めて見つけることのできた人影に駆け寄った。
「ピペ! ミシュア! クロウズ! どうして 逃げなかった!」
 ピペを抱き留めたラチックが、慌てた様子で私達の元へ駆け寄ってくる。ラチックが大きな怪我もなくて安心したけれど、どっしりとした穏やかな彼が血相を変えて声を荒げる姿は尋常ではない事が起きたんだろうと分かる。
「ラチック、一体、何が起きたの?」
「それ 今 話す 違う! 今すぐ 逃げろ!」
 突き飛ばすように肩を押した大きな手を、私は掴んだ。彼の丸いサングラスの向こうを覗き込むように、私は言い放つ。
「私は逃げない!」
 そう、今まで逃げてきた。兄が死んだことを直視出来ず、兄を影武者に立てた家族を裏切ったと思って逃げ出した。ミシュアとして何もかも忘れて生きてきた。ピペはミシュアがアンルシアになることを、望んではいなかった。兄様もミシュアとして生きていて良いと、思っていただろう。誰も、アンルシアとして、真の勇者として、立ち上がれなどとは言わなかった。
 私がアンルシアとしてここにいるのは、私が選んだからだ。
 私は、私が選んだ事を、決して無かったことにしない。そう、決めたんだ。
「お願い、ラチック。私は勇者姫会わなくちゃいけないの。私が、私であるために!」
 私の真剣な表情が、彼のサングラスに映り込んだ。ラチックは私の肩に置いた手を、のろのろと上へ向けた。
 頭上に迫った黒い塊は真下から見上げれば、黒い雲が渦巻いているのが見て取れた。それが瞬く間に縮小し、磨かれた黒曜石のような煌めきを宿す。すると、内側から何かが殻を突き破ろうとするように、塊の表面が波打ち始めた。深いヒビがいくつも走ると、ガラスが砕けるように一瞬で砕け散った。
 霧散した黒の内側にいた勇者姫が、まるで朝の目覚めたばかりと言いたげに伸びをした。体はゆっくりを地面に降り立ち、紫のサーコートが、金色の癖毛がふんわりと彼女の体に寄り添う。金の睫毛が縁取る瞼が震え、ゆっくりと瞳が開かれる。赤かった。本物のアンルシアではあり得ない血のような泥濘んだ赤が、私を見て細められた。
「やぁ、ミシュア。記憶を取り戻したようだな。おめでとう」
 それは心の底から喜んでいるような、柔らかで弾んだ声だった。拍手が軽やかに響かせるが、彼女はこの状況が見えているのだろうか? 勇者姫として彼女が守ろうとしていた王国が、こうも無残に破壊され尽くされているというのに…。
「貴女は何者なの? なぜ、私の名を騙るの?」
「騙る? 意味がわからないな。私はアンルシア。勇者となるべく生まれた者だ」
 淀みなく紡がれた言葉は、嘘偽りを含んでいない純粋な響きを帯びていた。その言葉を言った勇者姫の表情も、己がアンルシアであるという誇りに輝いてすらいた。彼女は自信たっぷりに、私に向けて手を差し出した。
「勇者として覚醒した以上、ミシュア、お前が本物のアンルシアであると主張するのは当然だ。覚醒の光を目にした私も、それを否定することはない」
 私を勇者アンルシアと認める。そんな言葉を素直に受け取ることが出来なかった私は、思わず目元が険しくなる。
「だが、お前が本物のアンルシアであろうと、私がアンルシアであり勇者となるべく生まれた者である意味が揺らぐことはない」
「な、何を言っているの? 私が本物の勇者だと認めているのに、貴女は私を騙り続けるの?」
「騙り続けるつもりなど、毛頭ない」
 勇者姫が剣を抜き放った。私が父から賜ったレイピアと寸分違わぬ刀身が、私を写している。
「私はお前を倒し、本物の勇者の力を手に入れる。そして、私こそが本物のアンルシアであり勇者であると、全てが知るのだ!」
 一瞬にして懐に踏み込まれ、ほとんど反射的に胸元に持ってきた鞘に収まったレイピアで受け止める。走る火花が互いの顔に降りかかる。きゅっと足元が鳴る音が響けば、勇者姫は身を翻し力強い横薙ぎが体を宙へ吹き飛ばす。咄嗟に飛んで衝撃を逃しはしたが、吹き飛ばされた勢いも手伝って大きく間合いが開いた。
 レイピアを抜き放ち、互いに糸を引き合うように駆け寄って切り込む。互いの鋭い突きが、衣の裾を、耳を、鋭く掠めて行く。一進一退の攻防に見えたのは、勇者姫の剣術が私の学んできたものと鏡合わせのように同じであったからだ。次にこの攻撃が来る。この攻撃は隙が大きくなりやすい。自分の事のように相手の攻撃が読めるのだ。
 だが、勇者姫の猛攻は私を超えている。私に突き刺さるはずだったレイピアが、すんでの所で勇者の守りであるだろう障壁に遮られ甲高い音を立てて弾かれる。それは何度も続いた。彼女がこの地の民を守る為に積み重ねた力が、私を何度も超えて、それでも私の勇者の力に阻まれてしまう。
 きっと戦わず突っ立っていても、彼女の攻撃は届かないかもしれない。それでも、彼女は攻撃の手を緩めない。悔しげに歪んだ顔を見るのが苦しかった。
「本物の勇者には、敵わぬというのか…。いや、そんなことは認めない。私は、私は勇者にならねばならぬのだ…!」
 勇者姫は大きく肩で息をし、忌々しげに私を見た。恐ろしかった。そんな恐ろしい目で見てくる人間を私は知らなかったし、自分と同じ顔がこうも憎しみに歪んでいると、ミシュアになれなかったアンルシアを重ねてしまう。助けてあげたいと、心の底にいるミシュアが私に訴える。
「どうして勇者にならなければならないの? 貴女は十分に強いわ。勇者の力がなくても、貴女はグランゼドーラの民の勇者姫であることができるのに…」
「勇者様はお優しいな。勇者の力がなくても、私が勇者であると慰めるのだな…。だが勇者の力が無くば、私ただの失敗作でしかないのだよ」
 勇者姫が暗く嗤う。
「勇者様、私は勇者になれず見限られた。だが、勇者になる事を諦められず、やれることは全てやった。お前の知る理想の勇者の行動の全てを行うのと同時に、勇者ならば決して許されぬ外道をも行なった。見ろ、この民一人いない、火に包まれ滅びゆくグランゼドーラの有様を。これは、私がしたのだ」
 両手を広げ、狂ったように笑う。
 そんな彼女を見て、心の中はなぜで一杯になる。精一杯、勇者の力に目覚めぬとも勇者姫として民の為に尽くしてきた彼女の眩さを知るからこそ、苦しくて苦しくてたまらなくなる。
「幾人もの民を拐かし、魔力と命を我がものとした。覚醒したお前に勝る為に、この国の民のほぼ全ての命を貪った。だが、届かぬのか。勇者とは、なんとまぁ大層な者だ! このグランゼドーラの全てを叩きつけても、傷一つ付けられぬとは!」
 勇者姫は鋭く叫んだ。キルギル! その言葉が強風のように突き抜ける。
 その声に待っていましたとばかりに『ひょーっひょっひょひょ』と耳障りな笑い声が響いた。その声に気が向いてしまったようで、いきなり現れ深く踏み込んだ兵士の一撃を飛んで避ける。勇者姫の周りには3人の兵士と、魔道士風の老人がいつの間にか立っていた。魔道士風の男が彼自身よりも長い両手杖を高々と掲げた。
「お声が掛かるのを、お待ちしておりましたぞ。さぁ、今こそ、使命を果たす時!」
 三人の兵士達はあまりにも自然に、短剣を抜き放ち自分自身に刃を向けた。
「我らが命、アンルシア様のために!」「悲願たる勇者へ至る道の、礎とならん!」「勇者姫に栄光あれ!」
 三者三様に声を張り上げ、その素っ首に刃を突き立て横ざまに切り抜くまでに止める間もなかった。あっという間にあり得ない方向に傾いだ首の断面から、想像を絶するほどの魔瘴が吹き上がる。それが空に立ち込めた雲を、深夜の夜空のように真っ黒く塗りつぶして行く。老人が変な笑い声を上げながら杖を振るえば、真っ黒い空に紫色の禍々しい気配を放つ魔法陣が描かれて行く。
「勇者姫。貴女にこの世界に満ちる、創世の力を与えましょうぞ!」
 魔法陣の輝きが瞬く間に強くなり、勇者姫を飲み込んだ。禍々しい気配が強まり膨れ上がる。
「ミシュア!」
「近づかないで! 彼女は、私が打ち倒さなければならないの!」
 ラチックの声に、私は自分に言い聞かすように叫んだ。
 光の中の気配は、もう光の中に収まっているとは思えぬほどに強くなる。突き出された手は勇者姫のほっそりとした手ではなく、まるで籠手を彷彿とさせるような硬い殻に覆われている。足は竜の彫刻を思わせる太さを持ち、長く現れた尾は黄金色に輝いた。もう、人の姿ではない。悪魔。魔族の類であると誰もがわかる異形の姿が、光を引き裂き、アストルティアの空気を震撼させるおぞましい産声を上げた。咆哮は衝撃波になって炎で脆くなった町並みを、薙ぎ払って何もなかったかのように均して行く。
「おぉ…、まさに、魔の勇者」
 感極まった老人は、光から飛び出した魔物に踏み潰された。まるで果実が踏み潰されるように、黄金色の魔物の足元を赤いものが弾けて石畳に散った。
 これが。これが、勇者姫が選んだ事。
 人を捨て、悪魔に魂を売ってまで、勇者となるために選択した結果。国を、民を、仲間を犠牲にし、自分自身も後戻りが出来ぬ場所まで来てしまった。彼女は止まらないだろう。私を殺し、勇者となろうとするまでに至った全ての行為が報われるまで。
 彼女はアンルシアだ。
 ミシュアを知らないアンルシアだ。
 兄様を失い絶望し、ミシュアを知らぬままに生きたアンルシアが目の前にいる。兄が影武者であった事を隠した、両親や賢者への不信。されど勇者として目覚めなくてはならない重責。迫る脅威は待ってはくれない。彼女は勇者とは何か考え抜き、できることは全てしただろう。それでもきっと、勇者として目覚めなかっただろう。勇者姫の焦りは他人事と片付けるには、あまりにも現実味があった。
 頬を、涙が伝った。
「貴女は勇者だわ。私よりも勇者に相応しい努力を重ねてきた」
 ミシュアであったことが無駄であるとは、決して思わない。けれど、彼女は私がミシュアであった間もずっと、勇者になろうと研鑽し考え抜いたのだ。私が勇者の力に目覚めていなければ、殺されていたのは私の方だろう。
 『大切な人を守りたい気持ち。それさえあれば、誰もが勇者になれる』そう、兄様は言った。勇者姫には、兄様の言った勇者になる心構えが欠けている。彼女は勇者になることがゴールであって、勇者になった後の事を考えていない。
 私は超えなくてはならない。目の前の勇者である彼女を。
「でも、私も勇者なの。だから、貴女を打ち砕かねばならない。貴女が二度と立ち上がることが出来ないほどに…」
 大好きな勇者の物語だったけれど、いつも不思議だった。勇者は優しいのに、どうして魔物を殺し魔王を倒したのだろうか…と。今ならわかる。決して相容れぬ双方、庇うべき存在の前に勇者として立ち続けるのであるならば、倒さねばならなかったのだ。
 ごめんなさい。口から漏れそうになった言葉を飲み込んだ。
 どんなに哀れな感情が相手を救えと懇願しても、相手を賞賛し認める自分があったとしても、謝罪を口にすることは相手への冒涜に他ならない。私の都合を押し通すならば、謝罪など口が裂けても言うべきではないのだ。
「勇者、アンルシア! 推して参る!」
 咆哮が応じた。見た事もない程に巨大な鉤爪が、紫電を帯びて爆ぜる。
 私も構えたレイピアに、黄金色の雷光が爆ぜる。勇者が扱う神鳴りの呪文、それが剣に圧縮されているのだ。
 突き出すのは同時。真っ向から打つかる力が、瓦礫を巻き上げ空を掻き回す。暗雲が渦を巻き、晴天の日差しが大地に降り注ぐ。気合いとも悲鳴ともつかない叫び声が、稲妻の爆ぜる音と押し合う力の轟音にかき消されていく。互角の力。その均衡が徐々に押され気味になって行く。創世の力と老人が言っていた力が、異形の怪物になった勇者姫から尽きる気配がない。
 勇者姫が笑った。相手が勝利を確信したのが、わかった。
 でも、私は諦める訳にはいかない。
 相手の力が強まり、手が震え、切っ先までもが震える。力の集約が少しでも乱れれば、紫の稲妻が私を貫いてしまうだろう。
 負けるな、アンルシア! 貴女は、兄様の命を無駄にしてはいけない! 仲間を背後に庇っているのよ! 決して、負けては、いけない!
 歯をくいしばる音が、脳をぎりりと締め付ける。込めた力が安定しなくて、さらに震える。止まらない。
「ミシュア 頑張れ!」
 震える手を、大きな手が支えてくれる。暖かく力強い手は、震える剣先をピタリと止めてくれた。
 肩に誰かが乗った。目の前を一枚の紙が翻ると、金色の稲妻はそれを瞬く間に食い破った。紙から光がほとばしり、暴走魔法陣が目の前に描かれる。一瞬にして増幅した力は、ライデインよりもさらに強力なギガデインになって、目の前を貫いた!
 なにか、硬いものが砕ける音がして、それから全ての音が風に吹き払われて行く。
 光が収まると、そこにはもう誰もいなかった。勇者姫がいた場所に落ちていた砕けた宝石が、空から差し込む光にキラリと瞬いていた。