イブの林檎 - 後編 -

 竜守の小屋に降りて来た時、それは待ち構えるようにそこにいた。
 飛竜の峰にいた長らしき竜だ。強き者に従うのは野生の本能。他の飛竜よりも一回りは大きいだろう個体で、人語を操り、飛竜が従うところを見ると規格外の強さを持っているのを伺わせる。
 先日は烈火のような怒りに身を任せ気性の荒さから、会話すら困難という有様だったが、今は奪って喰うような殺意は感じない。ドラクロン山から下山するには、竜守の小屋の前の坂を通らなくてはならない。竜の長の前を避けて通ることは無理だろう。
 イサークと視線を交わし、腹を括ってゆっくりと進み出る。
 竜もまた、自分達が進み出て足を止めるまでの間、敵意がないことを示すかのように微動だにしなかった。自分とイサーク、ワンドーラをそれぞれに見遣って、徐に話始める。落ち着いた彼の言葉は、竜の長にふさわしい威厳を帯びて響く。
『気が変わった。貴様らに飛竜を与えてやろう』
 そう体を動かせば、その巨体の背後に大きな卵が置かれている。思わず目を剥く自分達に竜は言葉を続けた。
『貴様の竜笛の音色は害悪。だが、これから生まれる純粋無垢の飛竜ならば、貴様らの操る楽器の音色を教え込めば応じてくれるようになるだろう』
 そこで竜は再び卵を隠すように、居住まいを正した。
『ただし、条件がある』
 条件。その単語にイサークは表情を引き締めた。一体、どんな条件を突きつけてくるのか、価値観が我々と異なる故に想像がつかない。古来の竜は金銀財宝を好み、己の巣に溜め込むと言われていたが、目の前の竜が黄金に目が眩むとは思えなかった。
『一つは竜笛の破棄。壊れているのか害意ある音は苦痛でしかない』
 ワンドーラさんを見やれば、渋々だが頷いた。
 そして鋭い爪がイサークへ向けられた。いや、イサークが被っているブレラに向けられている。
『ブレラ。発言を撤回しろ』
 トンブレロソンブレロはイサークの頭上で、太々しく曰った。
『坊やの頭が古臭いって奴だね。良いだろう。撤回しよう。少しは譲歩することができるんなら、先もあるだろうからね』
『相変わらず、口の減らぬ帽子だな』
 竜の長は顔をしかめたが、不快を示すのはそれだけだった。彼は翼を広げ飛び立った。一息の合間に、高々と舞い上がり峡谷の隙間へ消えていく。あれほどの非礼をした訳だが、こうして卵を授けてくれたことはイサークの治療への感謝ともとれよう。
 イサークが深々と竜が去っていった方角に頭を下げている横に、自分も習った。
 背後でワンドーラの感極まった声が聞こえる。振り返れば感動に体を震わせながら、ワンドーラは飛竜の残した卵を見上げていた。白に赤い斑ら模様の卵は高さは成人のオーガに匹敵し、その卵の幅はオーガ2人が手を伸ばして手を繋ぐことが出来るかどうかという程の大きさ。竜の卵は初めて見る。繁殖期の竜は縄張りに入るだけで殺されてしまいかねない程に攻撃的だからだ。
「生きて飛竜の卵を見ることができようとは…! こうしてはいられません! 卵を冷やさないように小屋に入れましょう!」
 ワンドーラがテキパキと、竜守の小屋の扉を開ける。自分達が出入りする扉ではなく、脇から入る両開きの扉だ。部屋に入れるとそこはむっと温かい空気に満ちていて、竜守の小屋の暖房を司る火元を管理する部屋なのだと分かった。乾草を巣のように敷き詰めて転がらぬことを確認して、自分達はようやく一息付くことができた。
「竜の王様に殺されかかった時は、死を覚悟したもんですが、まさかワスの代で飛竜の卵を孵す事になろうとは、これほどの栄誉はありませんて」
「怖い思いをさせてしまったな。申し訳なかった」
 イサークの用意してくれた茶をそれぞれに飲みながら卵を囲む。自分の謝罪にワンドーラはぶんぶんと首を振った。
「とんでもない! あのような神々しい王様を目にできて、このまま竜達に殺されても本望と思うちょりました。麓の村の者も飛竜などとうに絶滅していると、したり顔で言う者もおりまさぁ。ワスの孫とて、竜守は引き継がんと都に思いを馳せるばかり。今こうしていても、夢を見ている思いでさぁ」
 涙ぐむワンドーラに、イサークの傍に置かれたブレラが言った。
『感動は卵から無事に飛竜が孵ってからにしな。卵を孵す方法を、しっかりと思い出しておくれ』
「おぉ! もちろんでさぁ! ご先祖様が残して下すった文献を調べて、すぐにお伝えしますで待ってておくんなせぇ」
 ばたばたとワンドーラが階段を登って、生活スペースへ続く扉を潜っていくのを見送る。静かに卵を見つめるイサークの瞳は酷く遠くを見ているようだ。冥界を行き来できる、僧侶としてはかなりの腕前を持つイサークだ。この卵の健康状態を、様々な面から診ているのだろう。
 自分は傍で暑さに怠そうにへたるブレラに話しかけた。
「ブレラ。あの竜とは知り合いのようだが、あのような物別れのような結果で良かったのか?」
『あの坊やは、アタシが何を言っても気に入らんさ。あの坊やは鱗が柔らかい頃から、もう可愛げなど無かった。それは、時代が悪かったせいだろう。これから少しでも良い方向へ進むなら、再び道が交わることもあるだろうさ』
 ブレラは帽子の先をゆっくりと持ち上げて、こちらを見た。
 改めて不思議な存在だ。イサークが被っているトンブレロソンブレロのブレラ。彼女はイサークの魔力を借りて強力な呪文を放つことができる、一種の両手杖のような力を拡張する存在と思っていた。しかし、こうして古き知識を持ち、飛竜の長とも顔見知りであると知れば、彼女の歩んできた道は自分が想像する以上の長さと波乱があるに違いない。
『アタシの過去が知りたいかい? ルミラ』
 試すようにブレラが言う。自分は小さく首を横に振った。
「人には知られたくない事がある。語ってくれるなら聴くが、話してくれと強請りはしない」
 帽子はくすぐったそうな笑いをあげた。
『人の子は面白いね』

 飛竜の卵が与えられた知らせは、瞬く間に広がっていった。
 自分達が卵を温める為に必要な、竜炎石を集めて戻ってきた時には卵を囲んで麓の村の住民が宴を繰り広げていた。実在しない伝説を目の当たりにしてか、竜の存在を忘れていた者達は興奮し熱狂した。ワンドーラは涙を浮かべながら、目の前の賑わいを喜んでいただろう。
 自分が卵を囲んで宴を繰り広げる写真は、仲間達に送られた。仲間達が集うのに、時間は要らなかった。
 冬が訪れて、寒さが深まれば、麓の民は滅多に小屋に上がってこなくなった。寒さに強い自分とルアムが連れ立って麓から食料を持ってドラクロン山を上る。冬眠しているのか竜の声すら聞こえない山に、鋲を打ち付けた靴が地面を掻く音が響く。雪深い光景は故郷を思い出すし、ルアムと初めて出会って冒険した場所も雪山であったと歩んできた道を振り返る。切り裂くほどに冴えた世界は、水平線の彼方まで見通せた。飛竜の見る世界は美しい。
 雪に閉ざされた小屋で、自分達はそれぞれにエテーネの情報を持ち寄り、地図を広げなから場所の目星をつける。飛竜が飛ぶべきコース、長距離を飛ぶための体力トレーニングの立案。火を見つめ暖かい飲み物を手に他愛無い言葉をやりとりする穏やかな時の流れ。話題は花畑のように広がり、鮮やかで希望に満ちて、とても楽しいひと時を過ごした。
 飛竜の誕生を人々は待ちわび、山に踏みつけられるように存在した竜守の小屋と麓の集落は活気付いた。そうして月が3回ほど満ち欠けを繰り返し、待望の時がやってくる。切り裂くほどに張り詰めた空気は緩み、雪解けて泥濘んだ大地は緑に覆われつつあった。
「もうそろそろ、孵りそうだねー」
 イサークがそう笑った。毎日卵に寄り添い、状態を観察していた彼には竜が卵の殻を破る頃合いを見極めていた。「楽しみですわね!」と喜んだエンジュの横で、竜炎石を拾い集めていたルアムが悲鳴を上げた。炎の精霊の加護があるエンジュが一喜一憂するだけで、竜炎石の温度が変化するのである。ガノもワンドーラと並んで小刻みに揺れ始めた卵を見つめている。
 ぴしり。
 小さい亀裂と音が、小屋の中に響く。
 亀裂は深まり、音は更に大きく間隔を短くしていく。ぴしり。ぱりっ。音が響く度にヒビ入り、卵の一部が壊れて落ちる。ルアムが「手伝っちゃダメなのか?」と尋ねれば、レディが『自分でやらねばならないんだよ』と返した。
 翼が殻を突き破る。足が不安定な殻を踏みつけて転ぶが、立ち上がるのを皆が固唾を呑んで待った。立ち上がり、大きく身震いする。ついに頭に覆いかぶさっていた大きな殻が外れた。青い大きな瞳と目があう。
 ぎゅるーん!
 竜が声を上げた! 雄々しさからは遠いが、生まれたての赤子のような愛らしさを感じる声色だ。戦士である自分に母性はないと思っていたが、思わず笑みを浮かべ目の前の竜の子を守ろうという気持ちが湧き上がってくる。竜は自分を覗き込み、粘液でベタベタする体を擦り付けてきた。
「こら。やめないか」
 なぜ寄ってくるんだ。顔に柔らかい鱗が押しつけられ、髪も顔もべたべただ。押し切られてたまらず尻餅をついた自分に、タオルで念入りに竜の子を拭くワンドーラが笑うように言った。
「きっとルミラさんを一番に見たからでしょう。竜の子は一番最初に見た者を親と思う習性があるんですよ」
「刷り込み現象か。竜の親になれるだなんて、羨ましいのぉ」
 な。
 自分が竜を見上げれば、竜の子は親愛の眼差しを向けてから腹に頭を押し付けた。確かに飛竜を求めて来たが、竜の親になるとは思わなかった。子が育ち、餌の取り方を学び、巣立つまで、どう関わっていけばいいのか。剣術を後輩に指南する事は何度かあったし、子供の面倒を見るのも嫌いではない。だが、竜となると責任は重大だ。どうするべきか。頭の中を様々な問題が降って湧いて回っている。
「ねぇねぇ、名前はどうしよっか? ルミラママはどんな名前がいい?」
「いつまでも竜の子じゃあダメだよ。名前は魂と肉体を繋ぐ重要なものだからねー。いい名前を考えてあげてねー」
 名前。そうだ。まずは名前が必要だな。
 ふーむ。
 目を閉じて考える。誰一人、自分の考えを邪魔すまいと息を潜めているのがわかった。目を開き、皆を見回す。
「ギルルキュッキュ…はどうだろうか」
 ……。
 なんだろう? 皆、反応してくれないな。
 オーガの男子としては、濁点がある響きは雄々しいから良しとされている。だが、女子であった場合は可愛らしい名を付ける事が最近の流行だ。しかも竜の声に似た響きであれば、竜の子にも分かりやすかろう。自分で言うのもなんだが、なかなか気の利いた名前だと思う。
 エンジュがハッとしたように声を上げた。
「ちょ、ちょっと長過ぎません? 呼びにくいんじゃありませんの? ねぇ?」
「うんー! そうだねー! 名前は短くても愛情注いで呼ぶものだから、ギルだけでも全然良いと思うよー!」
 ん。そうかもしれん。自分達の旅はそれなりに危険が付き纏うもの。危険を知らせるのに、名前が長すぎて遅れて怪我をさせてはかわいそうだ。
 自分は頷いて竜の子の額を撫でた。
「お前の名前はギルだ。よろしくな」
 ぎゅるーん!
 ギルの声を聞きながら、皆が一様に安堵するのが不思議だった。まぁ、健康な子が無事生まれたのだ。皆、ホッとするのだろうな。