自由の鐘

 エジャルナの裏路地に埋もれるようにある遺跡めいた扉。見る者によっては壁の一部に見えるほどに炎の領界に吹く煤に汚れた扉の奥は、アストルティアに繋がっています。かつて勇者と大魔王が雌雄を決した奈落の門へ続くいざないの間には、アストルティアからナドラガ神復活の為に誘拐された神の器達と友人達が帰還の途につこうとしていました。
 私はルアム君とテンレスさんという同郷達と並んでお見送りです。
 和気藹々とした賑わいの中で、ウェディらしい良く通る声が響く。トンブレロソンブレロを背に引っ掛けたイサークさんが、幼馴染だというヒューザさんの背鰭を摘んで延々と訴えているのです。
「ヒュー君、ヴェリナードとレーン村に一回戻ろうよ!」
 無事に戻ってきましたくらい、言ったってバチあたんないってー。不明瞭な説得が寄せては返す波のように延々と続いています。それらはうるせぇうるせぇと、流されてしまう。
 耳を傾ければ、ヴェリナードで誘拐された一件は、彼らの故郷であるレーン村にまで伝わってしまったらしい。影武者として招き誘拐されて生死不明になった落ち度を考えれば、王族として正式な謝罪が必要と考えた計らいだったのでしょう。
 誘拐された本人は『余計なことを』と忌々しげに呟きました。
「俺は一人旅を続ける。俺の生死なんざ、他人には興味ないだろう」
 ふいとそっぽを向く整った面差しを、恨みがましく見上げる背からトンブレロソンブレロが呆れた声で言うのです。
『もう諦めなよ、イサーク。この小魚は根掘り葉掘り聞き出されるのが嫌なんだよ』
 ぱかぱかと動く帽子の内側に、イサークさんの背鰭が見え隠れ。丸くなった背中が『あー』と呻きました。
「ルベカちゃんも、オーディス王子もしつこいからなー。ヒュー君が怖がるのも仕方がないねー」
 相棒の帽子の言葉に納得したイサークさんの胸ぐらが、逞しい剣士の腕によって掴み上げられる。ずいっと互いの鼻が触れ合うほどに、怖い顔が詰め寄ります。
「誰が、誰を、怖がるだって?」
 嫌だなぁー、ヒュー君。本気になってー。胸ぐらを掴み上げられ浮かんだ足をぶらぶらさせながら、イサークさんはへらへらと笑います。トンブレロソンブレロの炎のため息が、飛竜の尻尾の上に零れる。ちょっと暖かく感じる程度なのか、母親に撫でられている飛竜の尻尾は嬉しそうに揺れている。
「マイユ。待たせてすまない。出発しよう」
「良いのよ。ずいぶん待たせてしまったけど、彼をようやく治してあげられる。少し遅れたからって、怒ったりしないわ」
 アンテロによって毒に侵されたマイユさんの婚約者は、アストルティアの薬では治療が出来ません。しかし、闇の領界の毒に深く侵されている為に、村から動かすことも難しい。そんな中、同じ毒に軽いながらも侵されていた宿屋協会の警備部長が、ナドラガンドに来て治験に協力していたのです。闇の領界の毒を解析し、薬師達の研究が功を奏しついに薬が完成しました。
 完成した治療薬を大事そうに胸に抱えたマイユさんは、嬉しそうに微笑んだ。あまりにも嬉しそうなので、ルミラさんが『ごちそうさま』と言いながら頬擦りする飛竜の頭を撫でました。
「さぁ、ギル。出発しよう」
 ひらりとオーガの女性達がしなやかに飛竜の背に飛び乗り、先に乗ったウェディの戦士は友人の襟首を掴んで乱暴に引きずり上げる。ルミラさんが集まった者達に『それでは、お先に』と小さく頭を下げ、飛竜は大きな翼を広げる。飛竜の翼に押し出され巻き起こった強い風が、軽やかに飛竜の巨体を浮き上がらせる。
 開門! 開門! ナドラガ協団の神官達が開け放った扉目掛けて、ギルさんは踏み出したのです。躊躇いもなく飛び込んだ飛竜が、扉の向こうの闇に飲み込まれて消えてしまいました。
 ウェナ諸島経由でオーグリードへ飛んだ背を見送ったエンジュさんが重い溜息を吐く。エルドナ神の器である少女が、くすくすと笑いながら見上げていました。
「お姉様、まだ乗り物酔いを克服できないのね」
 なんだか、可愛らしいわ。そう笑うフウラさんにガノ殿も加わる。
「フウラ嬢のお父上も大層心配されておった。早く戻って、元気な姿を皆に見せてやるがよいぞ」
 世界樹の頂にて襲撃され、皆の目の前で誘拐されてしまったエルドナ神の器。風乗りやエルドナ神の器という大層な肩書きがあったとしても、フウラさんのお父上にとって唯一残された目に入れても痛くない一人娘です。拐われた翌日には寝込んでしまわれたそうで、娘の帰還を毎日神に祈願していたそうです。その心労に窶れた姿に、アズランの民も大層心を痛めているとか。
 世界樹の巫女ヒメア様や、カミハルムイを治めるニコロイ王など、フウラさんの帰還を待ち侘びる人がたくさん待っています。それらを思い浮かべ、フウラさんのあどけない顔が嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「そうだね。早く帰らなくっちゃ!」
 まるで祖父と孫。大きな手に頭を撫でられ、フウラさんが声を上げて笑う。和やかな雰囲気の向こうから、どたどたと解放者を引っ張る小さい影。
「神の器だかなんだか知りませんが、ワシを持て囃す場所からは、さっさとおさらばですよ!」
「わぁってるって! なんだかやることが、いっぱいなんだって!」
 総主教オルストフが行方不明となり、神官長ナダイアを筆頭とした多くの神官を追悼する葬儀が密やかに執り行われました。ナドラガ教団は竜の神の信仰を伝える役目を終え、解放された全ての領界の竜族を支える『ナドラガ協団』という新たな組織へと移行します。そんな大改革において、解放者の存在は引っ張りだこです。
「忙しそうじゃな、ナドラガンドの解放者殿は」
 まぁったくだよ。ダズニフさんが疲れ切って項垂れる。
 エステラさんとトビアスさんという、真面目な幹部に挟まれ、解放者は渋々と文句を言いながら改革を指揮するのです。『トビアスだって解放者だし、エステラはナドラガ神の器じゃねぇか!』と不満を叫ぶ解放者に、『ダズニフは歴代神官長を輩出した名家の跡取りでしょう?』と首根っこを掴まれるのです。
 トビアスさんは大量の魔瘴を浄化する為に、ナドラグラムの竜の柩で眠ることになったルビーさんの元に足繁く通っています。魔瘴の浄化が完了し目覚めるのは、明日かもしれないし数百年先のことかもしれません。目覚めたルビーさんに生まれ変わったナドラガンドを見せるのだと、オルストフ様の目指した竜族の真の解放を実現するのだと、トビアスさんとエステラさんはやる気満々です。
 そんな三人が力を合わせ改革する姿は、ナドラガンドの明るい未来を確固たるものとする。
「エンジュも泣きそうな顔すんなって! なるべく揺れないよう、頑張って飛ぶからよ!」
 ガヤガヤと虹を宿す白銀の背に人々を乗せ、解放者は軽やかにアストルティアに飛び立っていく。門の向こうに消えても残っていた賑わいの余韻が消えると、一つ静寂を深めた空間でアストルティアの勇者が一つ息を吐きました。
「不甲斐ないわ。こんな未熟な勇者じゃ、アストルティアを到底守れない…」
 厳重な警備が敷かれた祭典からテンレスさんに成す術なく誘拐され、ナドラガ神復活に巻き込まれたアンルシア姫。彼女は時折、ひどく思い詰めた顔で俯いていました。人々を守るべき立場でありながら、立場の違いで害する側になるナドラガ教団との抗争。抵抗も出来ずにナドラガ教団に捕われ、目の前で己を庇ってラチックさんが殺される。神との対決ではグランゼニス神をずっと降ろしていた為に、勇者としての責務は果たせなかったと悔やんでいる。
 そんな勇者の肩を、盟友とその保護者が包む。
「アン。アリオス王とユリア王妃 とても 心配してる」
 肩から勇者の胸元に転がり込んだ盟友を、年相応の女の子に戻った勇者が抱き止める。悔しげに眉根を寄せる顔をぺたぺたと触る盟友に、勇者はくしゃりと微笑んだ。
「そうね。お父様とお母様にいっぱい心配を掛けてしまったわ。ノガートも責任を感じているかもしれない。早く帰って安心させてあげなくっちゃね」
 そんな勇者一行を眺めながら、クロウズが足元の小さな王様に言う。
「悪いな。グランゼドーラの方が近いから、メギストリスが後になる」
 アストルティアの勇者と、プクリポの王子様御一行を送迎する役割を担うクロウズの言葉に、ラグアス王子は『大丈夫です』と労わるように笑う。
「王座を長く空けるのは忍びないですが、ナブレット伯父さんが留守番してくれていますから」
 メギストリスまで送ってくださる事に、とても感謝しています。生真面目に感謝するラグアス王子に、赤い猫耳を掻きながらルアムさんが体を傾げる。
「折角だから、ちょっと観光して帰ろうよ。グランゼドーラのスイーツ巡りしてーなー」
「ナドラガンドの戦いで頑張った、ご褒美ってやつだな」
 にやりと悪そうな顔をする二人の下で、あわあわと王子が慌てています。
「だ、だめです! そ、そんなスイーツ巡りだなんて、誘惑しないでください!」
「大魔王討伐記念に、決戦ギガ盛りパフェってチャレンジメニューが登場したんだ。話のネタに食べていこーぜ」
 オイラ達の頭くらいの大きさの器に、塩気の効いたバターとメイプルシロップがヒタヒタな焼きたてスフレに、てんこ盛りなカラフルなフルーツとアイスクリームに歯触りのいいナッツが散りばめられるんだ。クッキーで出来たアンルシア姫愛用のレイピアが刺さってて、イタ映えするって世界中の街角掲示板を賑わせてるんだぜ。レイピアクッキーさえ用意できれば決戦ギガ盛りパフェを名乗れてさ、店ごとにチョコレートメインとかエルトナ風とか色々あるんだ。最大4人で挑めるのも、大魔王に挑む勇者一行へのオマージュらしいぞ。
「いいな! 三人で食べれば何軒も梯子できるぞ!」
 楽しみだな!とクロウズが目を輝かせます。クロウズって細身な見た目に反して健啖家なんですよね。本人は竜化するとお腹が空くと言いますが、純粋に美味しいものを食べるのが好きなようです。お祖父様と引き合わせたら、美味しい料理で何日でも話が尽きなさそうな予感がします。
 捲し立てられる食レポに、ラグアス王子が頭を抱えました。
「あぁ! 僕とルアムさんのお腹がまん丸くなって、毛玉になっちゃう未来が見える! 皆でパフェを食べ歩くなんて、楽しいに決まってるっ!」
 赤い瞳がこちらを向くと、ぴょんと弾むようにプクリポが向き直る。ぱっと両手を上げて、ぶんぶんと手を振ります。踊っているようなプクリポに、ルアム君が小さく手を振って応じる。
「相棒、またな! 暇な時おしゃべりしよーぜ!」
「真夜中にケーキ食べてます報告はしなくて良いから」
 えー。不満そうな演技も次の瞬間には満面の笑み。背に送る者達を乗せた竜が、ちらりと私に目配せする。その視線には私の魂を抱えながら共に過ごした者だから分かる、感謝の念がありました。
 よかったですね、クロウズ。私は微笑みます。
 故郷の滅びを止めるべく、ナドラガンドの竜族と交易する。辿り着いたナドラガンドは贖罪の日々に追われ、アストルティアの竜族の隠れ里の存在を認識させることも難しい状況でした。しかしナドラガ神から解放された竜族は、アストルティアの弟妹神の子供達と交流を重ねていくでしょう。その時、クロウズの故郷がナドラガンドとアストルティアを繋ぐ、重要な拠点になることは間違いありません。
 隠れ里が多くの竜族で賑わう未来が見えます。貴方が描いた未来とは少し違うかもしれませんが、少なくとも、貴方の故郷が滅ぶことはないでしょう。
 私が小さく頷くのを見届けて、クロウズは前を向いて奈落の門を潜っていきました。
 奈落の門が音を立てて閉じられ、いざないの間に残ったのはたった三人。エテーネ村という共通の故郷を持つ、幼馴染達です。先ほどまであんなに賑やかだったのを惜しむように、テンレスさんが言いました。
「お別れって、なんだか寂しいな」
 そうですね。そうだね。私達も寂しさを分かち合い、しんみりと相槌を打ちました。
 テンレスさんの横でふごふごと地面を嗅いでいるハナの隣には、もう小さな壺はありません。プオーンは父親と共に、ナドラガが開けた亀裂を通ってアストルティアへ帰っていきました。ファルシオン様も『世界の自己修復機能が働き、数日で閉じると思われます』と言いながら、程度を確かめる為か亀裂を通って帰っていかれました。
 カメ様がファルシオン様として旅立たれてから、一度もお戻りになられたことはない。お忙しいと思いつつ、生まれた時からそこにあったものが無くなって寂しくないといえば嘘になります。
「エテーネ村が冥王ネルゲルの襲撃を受けてから、随分と経ちましたね」
 森からもうもうと立ち上がる煙を目指して、草原を息を切らして縦断した日差しの強い日。煙に覆われ立ち込める暗雲の下で赤々と燃える故郷。朝挨拶をした知人が、物言わぬ塊となって転がっている地獄。テンスの花を抱えておばあ様のいるお屋敷へ駆ける決意をした時が、三人揃っていた最後の記憶です。
 毎日のように顔を見合わせていた、兄弟のように育った幼馴染。久々に揃った三人は、その長い旅路で成長し一回りも二回りも大きくなっていました。
 テンレスさんが、がりがりと頭を掻いて『随分と…ね』と呟きました。その様子を見ていたルアム君が、目を見開いてテンレスさんの頭を指差す。
「兄さん、手が…」
 テンレスさんの手が透けている。予知はしていたが、予想していたよりも早い。驚いて目を剥いた私に『大丈夫、痛くも痒くもないから』と、安心させるように笑う。嵐の領界で再会し、一緒にエテーネ村に帰れるとばかり考えていたのでしょう。ルアムは不安いっぱいの顔で、顔を覗き込むテンレスさんを見る。
「ルアム。冥王ネルゲルの手から逃してくれたお前が、死んでいたんじゃないかってずっとずっと悔やんでた。お前が死ぬなら、俺が代わりに死んでやりたい。無理なら一緒に死ぬ。とにかく、お前が俺より先に死ぬのが、守れなかったのが堪らなく辛かった」
 テンレスさんは旅立たねばならない。
 私でさえ、テンレスさんの未来を予知で追うことは出来なかった。とても、とても長い旅路を彼が歩まされることだけ、目を凝らして見た先の遠さから窺い知ることができるのです。必ず巡り合う予感はありましたが、いつ、どこでは分かりませんでした。『最後に三人で話がしたい』そう語ったテンレスさんは、もう二度と会えない今生の別れすら覚悟しているかもしれません。
 ルアム君とテンレスさんは、再会から別れまでの時間が短い。出来る限り共にいられる時間を作ってあげたかった。今出来ることは、二人の兄弟の別れを静かに見守ることくらいです。
「生きてて、すごく嬉しかった。今度こそ、お前を守ろうって俺は誓ったんだ」
 ルアム。兄にそう呼ばれて、今にも泣きそうな顔が上がった。そんな顔を透ける手が愛おしそうに撫でて、テンレスさんは微笑んだ。
「遥か遠い時代でも、どんな姿でも、俺はお前の兄貴だ」
「当たり前のこと、言わないでよ! 僕の兄さんは、テンレス兄さんしかいないじゃないか!」
 火が出る勢いで顔を赤らめた弟は、右腕にしていたブレスレットを引き千切るように外した。汗と涙の結晶とナドラガンドの素材で出来た、ウェナ風のブレスレット。ぎゅっと、兄の体に埋める勢いで押しつけると、今にも泣きそうな顔で言葉を叩きつける。
「どんなに遠い未来でも、どんな姿でも、僕は兄さんを必ず見つける!」
 テンレスさんがぽかんと空けた口が、一拍の間を置いてへらりと笑う。『ルアムからの初めてのプレゼントだ!』って、嬉しそうにブレスレットを右腕に付けた。ハナ、おいで。ニコニコと笑う花をあしらって、ご機嫌な赤と黄色の帽子が小さい足をちょこちょこと動かして寄り添う。全身が透けてきたテンレスさんに触れると、ハナもまた透けていく。
「お前が俺を兄貴だって認めてくれる。それだけで、俺は存在を許される気がするんだ」
 腰に抱きついた弟を兄が抱き止める。無事であれ。幸せであれ。そう願いを込めるように、手が優しく弟の髪に触れ、背を撫でていく。つむじに唇を落とすように顔を寄せ、テンレスさんは溢れんばかりの弟への慈しみを声にして囁いた。
「またな。ルアム」
 消えていく。どんなに目を凝らしても、いざないの間の石畳が見えるばかり。ハナの荒い鼻息も、いつの間にか聞こえなくなっていました。
 私が幼馴染の肩に手を置くと、兄を抱きしめていた手に銀色の小箱が握られているのが見えました。それを大事そうに懐に収めたルアム君に、私は『帰りましょう』と言いましいた。驚いて振り返る青紫の瞳に、微笑む私が写っています。
 ナドラガが倒れ、アストルティアが脅かされる未来が消えました。薄雲が晴れて星空が覗くように、新しい未来が見え始めています。しかしまだ、私が何を成すべきかは見えません。
 なら、故郷に帰って良いと思うのです。
「帰りましょう。私達の故郷、エテーネ村へ」
 はい。そう頷いた幼馴染は、もじもじと視線を彷徨わせた。まだ火照りの残る頬は、恥じらうように赤らんでいます。あの、シンイさん。ルアム君にしては歯切れの悪い声が紡がれる。
「おかえりなさい」
 胸に温かい気持ちが満ち溢れる。この言葉を言ってくれる相手が存在する幸せを、故郷が滅ばず今に在る喜びを噛み締めた。ルアム君の頭を撫でて、祝福を授けるように囁く。
 ただいま。

To be continued Ver.4 5000年の旅路 遥かなる故郷へ