鳴り響く鐘の音が私の心臓と重なって溶けていく -後編-

 ナドラガの凄まじい悲鳴が、衝撃波となってナドラガンドを揺さぶった。
 ナドラグラムの上空を飛んでいたクロウズさんが、乱気流に飲まれたように衝撃波に揉みくちゃにされる。背に乗った僕諸共、天も地も右も左も分からなくなり、大地に向かって引き摺り込まれる。クロウズさんは悪態とも気合とも言えない声を張り上げて、半ば強引に体勢を戻した。
 僕の体がクロウズさんの背中に押し付けられ、重力に押し潰される。ぐうっと声が漏れるのを堪えることができない。
「大丈夫か! ルアム!」
 僕も負けじと大声で無事を告げる。僕はクロウズさんの体に自分の体を縛り付けるように、命綱を繋げていた。しがみ付いていた手はクロウズさんの鱗から離れたけれど、命綱が互いをしっかり結びつけてくれていたんだ。
 テンレス兄さんの作った矢に力を込める為、僕はクロウズさんの翼でナドラグラムの上空を舞っていた。ナドラグラムに迫った各領界の力を拾い、矢に注ぐ為だ。ナドラガの上を旋回しながら再び高度を上げ始めたクロウズさんは、僕に話しかける。
「力を集めるだけで命懸けだな。まだ、集めるのか?」
 ナドラガを抑え込む為、神獣達が主である種族神の力を領界から引き出している。領界から絶え間なく厄災の力が降り注ぐものだから、僕達はギリギリまで接近し時には髪一重で避けながら力を拾い集めていた。被弾すれば死ぬ脅威の合間を飛ぶクロウズさんは、まさに命懸けだ。
 神がナドラガと戦う際に使っただろう剣の破片から錬金した矢は、眩い光を放っていた。鏃は剣と同じ、満点の星空を閉じ込めたような美しい金属。矢尻から羽根に至る篦は彗星の尾のようで、羽根の部分は星屑が虚空に散っていくように収束した輝きが解けていく。手を離せば今にも空に飛び上がってしまいそうな矢から、弾けてしまいそうな力を掌越しに感じる。
「十分な気がします。ギリギリまで力を集めつつ、ナドラガを射つ機会を待ちます」
 眼下に広がるナドラグラムでは、激しい戦いが繰り広げられていた。
 冥王ネルゲルを彷彿とさせる毒々しい光沢を宿した黄金に包まれたナドラガと、神々しい七色の光を宿した白銀の鱗に覆われたダズニフさんが激しく揉み合っている。殴りつけ、叩きつけ、時には押さえつけて。互いに激しく密着し、立ち位置が目まぐるしく変わる。さらに、ダズニフさんの背後から神獣達がナドラガを打ち据える。上空から矢を射掛けても、届く瞬く間であっても位置が変わっているだろう。この状態で狙っても、ナドラガの眉間を射抜くことはできない。
 大丈夫。僕は目を眇める。
 普段行う狩りと何も変わらない。どんなに警戒心の強い獣でも必ず隙は生まれるものだし、ましてや目の前の竜の神は神獣達の攻撃で明らかに疲弊してきている。白い神獣によって体内から魔瘴が引き摺り出されて的は小さくなっているが、僕が普段射抜く動物や魔物に比べれば外しようなどないくらい大きい。
 機会は必ず来る。心を鎮め、待つんだ。
 僕は弓に矢を番えながら、ナドラガを見下ろしていた。
 ナドラガを見下ろす位置で旋回を繰り返すクロウズさんが、ぽつりと『良かったな』と言った。僕が顔を上げると、クロウズさんがちらりと僕を見遣って再び前を向く。
「皆、生き返って良かったな」
 僕はくしゃりと顔が歪んでしまう。
 死んだ時よりも泣いたかもしれない。テンレス兄さんが完成させた矢を持って、クロウズさんの背に乗って飛び立とうとした時、ルアムの声が聞こえたんだ。相棒!相棒!って無邪気に、嬉しそうに言うんだもん。まるで兄さんが僕に抱きついてきたような喜びと温かさに、僕は人目を憚らずに泣いた。兄さんの目で生き返った仲間達を見て、大声を上げて泣いてしまったんだ。
 そのまま飛び立って力を必死に矢に溜めていたから、こうして改めて言われると、仲間が生き返った実感が湧く。クロウズさんの祝福が堪らなく嬉しかった。
「本当に良かったです。本当に…」
 噛み締めて言う目の前を、氷の領界から巨大なナドラガの骨が滑落するように落ちていく。向こうでは水の領界から大量の水が、あっちでは炎の領界の溶岩が、ナドラグラムに降り注ぐ。なんて恐ろしい戦いなんだろう。
 それでも、今も兄さんを通じて仲間達の楽しげな雑談が耳に届いていた。僕がいかにカッコ良くナドラガを仕留めるのか、大袈裟なくらいに言うんだ。なんだか笑っちゃうよ。
 ん。
 ナドラガを注視していた僕の感覚に何かが引っかかる。考えよりも先に、感覚が反応することはよくあること。僕はその勘めいた感覚を大事にしていた。
 ナドラガとダズニフさんの間に光が溢れる。
 状況が変わる。その予感に、僕は腰を浮かせる。
「クロウズさん、なるべくナドラガの真上を飛んでください」
 ダズニフさんの一撃がナドラガの頬を打ち抜き、喉の奥に手を突っ込んだのだ。ナドラガの喉の奥から光が漏れる。一瞬ブレスかと思ったが、それは柔らかく暖かい光で攻撃的なものを感じない。一気に腕を引き抜いたダズニフさんの手は、竜化したエステラさんの手を掴んでいた。鳥のような羽毛に覆われた美しき竜が、ナドラガから引き摺り出される。
 竜の神が絶叫した。その絶叫は魂を引き裂かれるような、聞いているこっちが悲しくなるような悲痛な声。ナドラガは顎が外れるほどに大きな口を開け、天を仰いで全ての息を叫び声に変える。
 竜の神の魂を降ろす神の器が、肉体から失われた。
 その変化は絶叫の余韻が消える前に現れた。
 ナドラガの体が崩れていく。黄金の鱗が肉からずる剥けて剥がれ落ち、まるで脱皮した蛇の抜け殻のようにナドラグラムに滑落した。真っ黒い肉が瞬く間に腐って流れ出し、骨が剥き出しになる。翼が風化したように大きくヒビが入り、ぼろぼろと崩れ落ちていく。ナドラガの崩れた体がナドラグラムの上に砕ける度に、強烈な腐敗臭が舞い上がって鼻にこびり付いた。牙が抜け、真っ黒い魔瘴を血のように口から溢れさせながら、最も力を持つとされる女神ルティアナの長子が崩壊していく。
 ダズニフさんがナドラガの背後に回り込み、羽交締めにして動きを止める。崩壊するナドラガに密着するなんて、濃厚な魔瘴を直に浴びる行為と同じだ。それでもダズニフさんは耐える為に食いしばった口を大きく開けて、咆哮のように僕へ言う。
「撃て! ルアム!」
 誰もが薄々と勘付いている。ナドラガ神はもう、何もしなくても壊れて滅んでいくのだと。
 それでも、この一撃を撃てと言う。
 この魔瘴によって消滅する前、ナドラガがナドラガであるうちに死ぬということ。それが、女神ルティアナの長子である誇り高き竜の神への手向けになるのだろう。
「クロウズさん、行きます!」
 頼もしい応答を言い切る前に、クロウズさんは翼を折りたたみ、ナドラガを目掛けて落下していく。天から雷のように光が尾を引いて、ナドラガに突き刺さらんとする勢いだ。
 僕は矢を番え弓を引き絞る。ナドラガの眉間と、矢が結びついた。
 手を離そうと、指の力を抜こうとした時だった。
 ナドラガから爆発のように大量の魔瘴が湧き出した。あまりの濃密さに煙状の魔瘴が、まるで液体に感じられる。僕とクロウズさんは魔瘴の海に頭から飛び込んだ形になってしまった。狙いをつけていた僕の手は激しく震えて、ナドラガの眉間に据えていた鏃がぶれる。クロウズさんはまるで壁に激突したように、垂直に落としていた体が跳ねた。クロウズさんと命綱で繋がった体が引っ張られる。
 僕は咄嗟に短剣を引き抜いて、命綱を切った。
「ルアム!」
 僕との繋がりを失ったのを感じたのだろう。寄る方なき虚空に放りだされた僕を掴もうと、クロウズさんが手を伸ばす。でも、僕はそのまま魔瘴の霧に飲まれ、視界が真っ黒に塗り替えられる。瞬く間であったのに、クロウズさんが僕を呼ぶ声は遥か彼方にあった。
 吹き出す魔瘴の勢いは衰えず、投げ出された僕は揉みくちゃにされている。真っ暗な闇の中では、僕がナドラガの上にいるのか、それとも今にもナドラグラムに激突するほどに落ちているのかすらわからない。ただ、魔瘴が吹き出す一点に向かって、矢を構える。
 シンイさんが見たんだ。僕がナドラガの眉間を撃ち抜く未来を。
 集中しろ。必ず、射抜く機会が巡ってくる。
 ナドラガを倒すんだ。二度と仲間が殺されないように。二度とアストルティアが脅かされないように。ナドラガを射抜けるなら、僕の命なんて惜しくない!
『勇敢と無謀は紙一重です』
 柔らかい声と共に、爽やかな風が僕を包み込んだ。脇に寄り添った温もりにぎょっと目を向ければ、神秘的な輝く風を纏ったフウラちゃんがいる。風乗りが纏う美しい衣に、風を含んでふわふわと寄り添う羽衣。幼い顔立ちには似つかわしくない円熟した微笑みが浮かんでいた。
『兄様の欲望はよく理解できます。しかし、自らの両足で歩く子を見守ることは、親の勤め』
 どんなに力を込めても震えていた狙いが、ぴたりと留まる。驚いて前を向けば、威厳ある輝きを纏ったダストンさんが僕の矢に触れていた。壮年のドワーフに威厳を添える顰めっ面が、やれやれと呆れた色を滲ませて頭振る。
『神の時代はとうに終わっておる。見苦しく醜態を晒すなど、全くらしくない』
 弓に戦士の手が添えられる。生命力に溢れた瑞々しい光に包まれたヒューザさんが、雄々しい勇壮な光を放つマイユさんが、左右から僕の弓を支えていた。
『兄さんって、どれだけ愚かなのかしら?』
『俺達はアンタが気付くのを、ずっと待ってたんだがな…』
 ぱんぱかぱーん! 底抜けに明るいラグアス王子の声が響くと、背後から弾むような明るい光が差して魔瘴が払われる。僕はナドラガに向かって落ちていて、目の前に射抜くべき相手がいる。
 待ちに待った最高の瞬間。ナドラガの眉間と矢が結ばれた。
『さぁさぁ、終演だ! 長い長い物語に、ついに幕を下ろす時が来たよ!』
 両肩にほっそりとした女性の手が置かれ、胸が一つ高鳴る。
 矢を射る瞬間は、どうしても緊張した。矢が相手の肉に食い込み、貫いて、命を奪うからだ。生きていく為には他人の命がどうしても必要だった。僕はいつも小さく感謝を告げて動物を射る。命を脅かし退いてくれない魔物には、謝罪を告げて射る。兄さんを殺した竜族を射殺した時は、無我夢中頭の中が真っ白だった。
 いざ、射殺す瞬間になると拍子抜けした。
 子供である竜族は誰一人神に寄り添う事なく、断頭台へ連行される罪人のようだった。どんな獲物でも絶命する瞬間まで生きることを諦めないのに、竜の神はこちらを見上げて呆然としている。もう疲れ果ててしまったように、絶望のあまりに死を望んでいるかのように、竜の神はもう生命として死んでいた。それが、今まで死んでいった多くの命を思うとやりきれない。
 なんで生き返ったんだ。浮かんだ疑問を、心の中で問いかける。
『兄よ』
 アンルシア姫の声は、穏やかに凪いでいた。
『世界の一部となり、我らと共に子供達の行く末を見守ろう』
 そうか。僕は周囲に集まった種族神の暖かい気配を感じて悟った。
 迎えに来たんだ。
 彼らの、お兄さんを。
 指が一つ一つと矢から離れていく。まるで離れ難い相手と別れなくてはならないように、指先を離す筋肉の動き一つ一つが酷く緩慢に感じた。指の腹に感じていた硬い感覚が消えていく、そうして、全ての指が離れた。
 光が放たれる。
 五つの領界が浮かぶ空から、光り輝く流星が一つ、ナドラガの眉間目掛けて落ちていく。
 行け。弟妹達と行ってくれ。
 竜の神様。僕達は貴方の子供達と仲良く暮らしていくから。
 流星の光がじゅうじゅうと音を立てて、ナドラガから溢れる闇を焼き払っていく。ボロボロの剥き出しの肉に、疎に残った黄金の鱗が光った。牙が抜け落ちた口から、干魃した大地のような硬く乾いた舌から血が溢れる。迸った怒声は乾き掠れていた。
『愚か者ども、兄を讃えよ! 讃えぬか…!』
 ナドラガの愕然とした顔が、流星に照らし出された。見開いた目が光に溶ける。
 光がナドラガの眉間に触れた。まるで柔らかい土に指を埋めるように、光はナドラガの内側に深く沈んでいく。顔が陥没し、喉を貫き、腹に突き抜ける。ナドラガの体が内側から放たれる強い光に押し広げられ、大きく膨れ上がる。ボロボロだった肉体の隙間という隙間から、光が外に溢れてナドラガンドを照らしていく。
 ナドラガが喉を鳴らした。消え入りそうな音がして、一つ唾を飲み込むように舌が動いた。
『はは う え』
 ナドラガの体が爆ぜた。
 真っ黒い肉片と血が爆風となってナドラグラムを薙ぎ払い、ダズニフさんも耐えきれずに吹き飛ばされる。ナドラガの体内にあった魔瘴が黒い煙となってもうもうと大地を覆っていく。その中から黒い小さな塊が飛び出してきた。放たれた矢のように、魔瘴の煙の尾を引きながら小さな塊が真っ直ぐ虚空に向かって飛んでいく。小さいから飛ぶ速度も早くって、あと一呼吸も過ぎればナドラガンドの虚空に飲まれていってしまうと誰もが思っただろう。
『ぴぃ!』
 ナドラグラムから小さい白い光が、流れ星のように黒を追う。白い生き物の全速力は闇の中に白い残像を刻み、猛烈な追い上げで黒に迫る。突然、一直線に飛んでいた黒の軌跡が、ぐにゃりと曲がった。追いかける白を撒こうと、予想もしない動きで撹乱する。しかし、白は冷静だった。
 小さい生き物は『ぴぃ!』と甲高く鳴いて、想像以上に機敏な反応で黒をひと飲みにした。黒が真っ直ぐ逃げるのを諦め直進以外の進路を選んだ時には、もう白に食われる運命だったのだ。げふぅ、と白がげっぷを漏らす。
 それらの世界が横様に引っ張られて線を描く。クロウズさんが僕を掴んだ。
「命綱を切るだなんて、二度としないでくれ!」
 怒りを存分に含んだお叱りを、僕はへらりと謝りながら躱す。ナドラグラムの魔瘴は薄れていき、神々の光は兄がさっきまで立っていた場所に向かってゆっくりと降りていく。あれほど争いに塗れていた世界が静寂に満たされる。
 ふと、五つの領界の真ん中に向かって、小さい光が動いていくのが見えた。
 なんだろう。どんなに目を凝らしても、小さく瞬く星にしか見えない。その星から高らかな笛の音が響き渡った。大地の箱舟の到着と出発を告げる駅員が鳴らす、ホイッスルに似た澄んだ音色。ナドラガンドの隅々に行き渡るように、長く長く笛の音が鳴らされる。
 小さい星を見つめていた僕は、ふと気がついた。
 星がなかった漆黒の空に、一つ一つと星が瞬き出したんだ。
 星は瞬く間に増えていき、ナドラガンドの空に満天の星空が広がった。空を駆ける彗星。強い光を放つ星、弱くも瞬く星。赤い星、青い星、群れて漆黒を青白く染め上げる銀河。空に満ちた星々が落ちてくる。5つの領界に、ナドラグラムに、降り注ぐ星々はまるで雪のようだ。それは瞬く間に吹雪となって、ナドラガンドに吹き荒れた。
「星吹雪だ…」
 星々はナドラグラムに降り立つと、大地から光を掬い上げて再び空に舞い上がる。光はさらに輝きを増して忙しなく天と地を行き来し、5つの領界が、神との戦いで崩壊しつつあるナドラグラムが星々の光に掻き消さんばかりに照らされる。
「閉ざされたナドラガンドの竜族の魂を迎えに来たんだ」
 僕はナドラグラムから飛び立つ星々を見上げる。
 そうだ。神代の戦いでこの地に逃げ延び、昇天することも、生まれ変わることもできずに留まっていた魂達。彼らは星空の守り人の導きで、昇天の梯を昇るんだ。5つの領界の過酷な環境で死んでいった、たくさんの竜族達が安らかな天へ誘われていく。
 赦された。なぜか、そう思う。
 星吹雪は終わらない。
 神代から続く戦いが、いかに長かったかを物語るようだった。