鳴り響く鐘の音が私の心臓と重なって溶けていく -中編-

 マティルの村で神官長夫妻が殉死され、教団が運営していた孤児院の事業はオルストフ様が引き継がれました。既にご高齢なオルストフ様が孤児達の面倒を見るのは、相当のご負担。大神殿の一角に子供達の部屋を設け、教団に奉仕に来てくださる信徒の方や、孤児院を卒業した神官達が代わる代わるお世話をしてくださいました。
 孤児院に預けられた子供の未来は二つ。里親に巡り合い引き取られていく未来と、見習いとしてナドラガ教団の神官になる道。私は身罷られた神官長夫妻のお背中を見ていた時から、教団の神官になる道を進むと心に決めていました。
 孤児院の子供達が遊んでいるのを横目に、私は清掃に勤しんでいました。奉仕にくる信徒の皆さんに混じって、建物の隅々に入り込んだ煤を取り除き、床に降り積もる火山灰や砂を払うのです。特に床の掃除を欠かすと、砂を踏んで石畳が傷ついてしまう。輝石を敷き詰めたモザイクタイルがいつまでも美しくあるように、私は丁寧に砂埃を払った上で布で磨くのです。
 オルストフ様や神官様が説法を施してくださる場所が綺麗になる頃、床に這いつくばる私に影が落ちる。床に映り込んだのは、私を後ろから覗き込むオルストフ様です!
「おやおや、エステラ。お陰様で、とても綺麗になりましたね」
 褒められた! 嬉しさに飛び跳ねて喜んでしまうのをぐっと堪えていると、オルストフ様は奉仕に勤しむ信徒の皆さんに声を掛けました。
「皆さん、我らがナドラガ神の為にありがとうございます。心ばかりですが茶菓子を用意しております。どうぞ、お手を止めて休まれてください」
 炊事当番の神官様達が、オスルトフ様の後ろからお菓子やお茶が乗った盆を持ってきてくださいました。神官様を手伝い信徒の皆さんにお茶を配っていると、お茶菓子を目敏く嗅ぎつけた孤児院の子供達が混じるのです。神官様が注意をすれば『俺達も手伝ったもん!』と調子の良い声が聞こえてきます。
 私は皆さんから少し離れた椅子に腰掛ける、オルストフ様へお茶を持っていく。
「オルストフさま。どうぞ」
 ありがとう、エステラ。嬉しそうにお茶を受け取るオルストフ様の隣に、私は腰をかける。オルストフ様は私の黒くなった膝を、優しく拭ってくださいました。
「エステラは偉いですね。遊びたい盛りでしょうに神に奉仕するだなんて、なかなかできることではありません」
 私はぶんぶんと頭を振った。
「いまは おそうじしか できなくて、はずかしいです」
 掃除は子供でも出来る奉仕です。私はまだ幼過ぎて、炊事場で働く神官様のお手伝いすらできません。それどころか昼間の学びの時間に、神官様から文字を学ばせていただく機会をもらえるんです。私は多くのことをして頂くばかりで、何もお返しできないのです。
 早く大人になりたい。無力な自分が不甲斐なさ過ぎて、ぼろぼろと涙が出てしまいます。
「はやく オルストフさまの おやくに たちたいです。しんかんさまになって りゅうぞくの みんなを すくえるひとに なりたいです」
 オスルトフ様は『焦る必要はありませんよ』と、私の涙を清潔な布で拭ってくださいました。私の前に回り込んでくださると、優しいお顔を微笑ませて頭を撫でてくださるのです。
「貴女なら竜族の皆を救える、素晴らしい人になれます」
 私は寝床から起きる事に大きく成長していきました。
 炊事場の手伝いを許されれば、神官様から料理を教えていただきました。野菜の下拵えに、肉に香辛料を擦り付けて臭みを取る方法。強すぎる火加減を適切に調整し、スープを上手に煮立たせる。指を切ってしまって、薬師の知識がある神官様の元に訪れれば、治療の基礎を教えていただきました。修練で怪我をする見習いに薬を塗って包帯を巻く。『回復呪文は使ってはいけないのですか?』と問えば、『痛みを学ぶ機会ですから』と神官様は笑った。
 神殿の中を忙しなく駆け回る私は、学びの機会が火山灰のように降り注ぐのを感じていました。見当違いな遠い事柄が、学ぶことで響きあうのです。私は貪るようにありとあらゆる事を学び、教えて欲しいとせがんだのです。
「エステラ。頑張っていますね」
 オルストフ様は私を常に気に掛けてくださいました。
 私がオルストフ様に引き取られた初めての孤児だからでしょうと、神官様はおっしゃいます。双子のお子様を授かった神官長夫妻とは違い、伴侶も得ずに神に身を捧げたお方なので、初めての子育てに気を揉んでおられるのですよ。エステラが可愛い良い子であるからと、独り占めしてしまうのでしょうね。そう、しみじみと語られておりました。
 時々、お茶をお持ちする機会がある時、オスルトフ様は私を膝に乗せてくれました。今思えば、お優しいオルストフ様は孤児院の子供達誰にでもしていたことだったかもしれません。しかし、村が疫病で滅び、家族全員が苦しみ抜いて死んだ私には、本当の家族のように膝に乗せてくださることが特別なことだと思っていたのです。
 オルストフ様の膝の上では、良い子のエステラも我儘を言うのです。
「オルストフ様! わたし ナドラガさまが まいごの こどもを さがしてくれる おはなしが ききたいです!」
 ほっほっほ。オルストフ様は朗らかに笑うのです。
 低く穏やかな夜を思わせる声が、お髭の間から紡がれる。私はもじゃもじゃと動くお髭が大好きでした。なんだかふかふかして可愛らしかったのです。
 広大な天の海にはナドラガンドの各地から、多くの船が行き来する海の交差点。ルシュカの地は天の宝石と称されるのに相応しい活気に満ちていました。
 そんな海では事故も多い。行き交う船が上手く擦れ違えない時にぶつかってしまったり、ムストニアから気まぐれに強風が吹き下ろされて転覆してしまうこともありました。船員となった者達は、命を掛けて交易の品を運んでいたのです。
 そんなある日、海底から急に迫り上がった魔物に船底を押し上げられ、一つの交易船が激しく揺さぶられました。穏やかな海で順調な航海をしていた船は突然突き上げられ、多くの船員が海に投げ出されてしまいました。不幸にも、甲板で遊んでいた船員の子供達が殆どでした。
 大人達は次々と海に飛び込んで、子供達を救いました。
 しかし、どうしても一人見つかりません。
 太陽の光を浴びてキラキラと輝く平穏な海に、大人達は目を凝らしましたが子供は見つかりません。日が暮れて船の上に炎を焚き、海を照らして子供の名前を呼び続けます。海に投げ出された子供を探す為、ルシュカに滞在するほぼ全ての船が海に繰り出しました。漁師はあみを投げて海底を浚い、航海士は海の流れを読んで探すべき場所を示し、最も目の良い船員が双眼鏡を手に目を凝らす。竜化出来る竜族が空を舞い、捜索は幾日にも及びました。
 子供はついに見つからず、死んでしまったと思われた時でした。親は神に祈りました。
 ナドラガ様。どうか、我が子を探してください。泣き疲れ不安に震えている、小さな命を見つけてください。
 親の声は遥かなるナドラグラムに届き、神はその黄金の目を天の海へ向けました。全てを見通す目が子供を見つけると、すっと指を動かしました。
 すると、なんということでしょう。大人達の前で海が割れていくではありませんか。親の船と天の海の端にある小さな島を結ぶように、天の海が海底を覗かせたのです。まるで道のように続く奇跡を、親は必死で駆け抜けました。そして島の方からとぼとぼと歩いてくる子供と、海底で再会したのです。
 そうして、子供と両親はルシュカへ無事に辿りつき、幸せな日々を過ごしました。
 竜の民が困難から救われ、いつまでも幸せに暮らす。オルストフ様のいつも同じ結末のお話に、幼い私は何の疑問も抱くことはありませんでした。
 しかし、今の私は違います。
 ナドラガ神の器として神を降ろした私は、オルストフ様の魂にも触れたのです。オルストフ様が今に至るまでの間、竜族の為に尽くしてくださった気が遠くなる年月。それは幸せや平穏ばかりではありません。ありふれた悲劇も不条理の死も、数えきれぬほどありました。そして領界の厄災という共通の災いを共に凌ぎながらも、竜族同士の諍いが確かにありました。
 私はひと回り小さくなってしまった老人に向かい合っていました。
「オルストフ様。貴方なら竜族を力で従属させることは簡単だったはずです」
 ダズニフでさえ例外ではない。
 彼はオスルトフ様の手の内で生まれた命。暴力を魂に刻んで従わせることも、精神を支配してどんな命令も遂行する道具にすることもできたでしょう。私のように心酔させる物語を、いくらでも用意できたはずでした。
「しかし、決してそうはしませんでした」
 ダズニフに与えられたのは、神を降ろしたことで齎された半身との別れ。オルストフ様はダズニフの親である神官長の行いを、尊重したと言えるでしょう。狂信であれ、神の器を作ろうとしたのは紛れもない献身。
 幼い子供達をどんなに憐れんでも、欲望に飲み込まれていくのを止めることはなかったのです。今は解放者となった子供は、確かに絶望をも跳ね除ける強靭な存在に成長した。しかし、それはオルストフ様が祈った喜ばしい結果であっても、望んでそうさせた訳ではない。
「私には、その理由が分かります」
 オルストフ様はひたすらに見守っておいでだった。
 全ての竜族の善も悪も、成した全てを祝福した。
 それを表す言葉を、私は一つしか知らない。
 大きな神が私の前に聳え立っていました。黄金の鱗に覆われた山のような巨体の影に、老人は萎んで飲み込まれて消えていきます。広げられた翼は大空のように私の頭上を覆い、吐息は微風のように優しく私に届きました。瞳に浮かぶのは紛れもない慈しみ。その手に生えた鋭い爪でさえ、世界に存在するあらゆる脅威に勝る武器であるのに、何の危険も感じることはありません。
 息をすることすら忘れて神を見つめていた私は、言葉を紡ぐ為に息を吸う。
『皆まで言うでない。我は竜族の神、ナドラガ』
 私の言葉を留めたナドラガ神の歓喜が押し寄せる。喜びが膨大な魔力を刺激して眩い輝きに変え、今、私はナドラガ神の光に包まれている。まるで母の胎内で眠っているような、父の腕に抱かれているような、弟と手を繋いでいるような、そしてオルストフ様の膝の上に座っているような。心が幸福感に満たされている。このまま溺れて、ナドラガ神の光に包まれたまま眠ってしまえれば、どんなに幸せなことであろうかと思ってしまうほど。
『お前達を愛しているに決まっている』
 断言に涙が流れる。
 あぁ、神は私達を救ってくれる。
 私達が信じた神は、確かに存在したのだ。
 この神話の戦いが始まり、贖罪の日々を重ねる今に至るまでの全ての竜族が願った。死の苦しみに悶えた時、神に救いを求めた。絶望の中で生きる中で、一縷の望みと神に縋った。日々の喜びを神に感謝し、親しき者の死に神を呪った。竜族はありとあらゆる感情を神に捧げた。
 全てを神は愛でもって受け止める。
 全ての竜族がその一言で報われる。そう感じずにはいられなかったのです。
「ナドラガ様。竜族を愛してくださると言うのなら、どうか、私の願いを聞き届けてください」
 訴える私に神が耳を傾けているのが分かりました。
 私の心臓の音が、耳が痛いほどの静寂の中で響いている。私は唇を湿らせ、神を見上げて口を開きました。
「私達は貴方の描いた、誇り高き空の民を名乗るには程遠い存在です」
 神は静かに頷きました。私達の苦しみに寄り添う沈痛な心に、私は首まで浸されてしまう。その鎮痛な空気を振り払うように、私は腹の底から声を出す。響き渡る声は闇の彼方を目掛けて放たれていきました。
「しかし、私はナドラガ神に誓いましょう。女神ルティアナにアストルティアを託された長兄である貴方の子として、恥ずかしくない存在になることを。弟妹神の子より尊敬を集める空の民として相応き存在になることを…!」
 神は言葉を失い、暫くして大きく身を震わせました。体の輪郭が溶けてしまいそうな程に、眩い光が溢れて溢れて止まらない。私はその光の奔流に飲み込まれてしまします。
 光の勢いが衰えても、感極まった神が震えるのを感じるのです。
『おぉ…! よくぞ申した! それでこそ我が誇り、竜の民よ…!』
 神の大きな手が私を包み込むように伸ばされ、爪が肩に触れたのです。まるで花弁が肩に触れたかのような軽やかで優しい感触が、肩から暖かさとなって体に染み込んできます。
 神の慈愛を一身に受けながら、私は小さく首を振りました。
「その為に歩む私達を見守っていて欲しいのです」
 世界が息を飲みました。
 驚きに息を止めた神が、ゆるゆると息を吐き出します。神が身を乗り出して私の顔を覗き込むと、赤子をあやすように甘く優しく言いました。
『何故だ。我に頼れ、縋るがいい。我は竜族の父。子の望みを喜んで叶えようぞ!』
 私は先ほどよりも強く首を振った。いいえ。神に否定を突きつける。
「解放者が示してくださった」
 故郷である教団を捨て、炎の領界の竜族に嘲笑われながらも進もうとした解放者。いつの間にか、彼の周りには弟妹神の子供達が集まっていた。私はそれを密かに羨ましく思ったものです。
 しかし彼らがダズニフに寄せる信頼は、神が与えたものではありません。ダズニフが自ら歩き、自ら積み重ね、自ら選んだ結果。それが弟妹神の子供達の揺るがぬ信頼となり、固い絆となって共にある。信頼と絆を得たダズニフの自信溢れる姿に、私は眩しさと羨望を抱かずにはいられなかった。それが私達が描いた誇り高き竜族に最も近い姿であると、自覚せずとも分かっていたからです。
 私もダズニフのようになりたい。
 弟妹神の子らに信頼を寄せられ、絆を結ぶ関係となりたい。その為にどうするべきか、ダズニフが、弟妹神の子らが、私に教えてくれました。
「自らの力で掴まねばならぬのです!」
 私は大きく息を吸い込み、竜の姿に変じる。白い羽毛のような透ける程に薄く柔らかい鱗に包まれた、優美な姿の竜。翼を広げ大地を蹴ると、私は軽やかに舞い上がる。
 神が私へ必死に手を伸ばした。見下ろす顔に浮かんだのは、愛した子供達に捨てられ忘れられる恐怖でした。私達は貴方の子。どうして忘れ捨てることができましょうか。それでも、神の顔にははっきりとした恐怖がある。
『行くな! お前達を愛している我が、一番お前達に幸せを与えることができるのだ!』
 その手は非常に乱暴で力が込められたものでした。もし掴まれれば握りつぶされ、掠めでもしたら内臓が飛び散る威力を肌で感じる。先程までの慈愛は一欠片も存在しなくなり、身の危険を感じる殺意を帯びた混乱が吹き荒れる。
 神に背を向け逃げ出した私に、行くなと悲鳴が上がる。その悲鳴が泡立ち水っぽく変わっていくので、訝しげに感じた私はちらりと振り返ったのです。
 ピシリと音を立て、神の腹に黒い線が一本走った。
 つるりとした竜の腹部が首から尾に向かって縦に割れ、黒々とした線が走っていたのです。驚きに言葉を失う私の目の前で、縦に割れた闇がぐいっと横に押し広げらる。なぜ。目を凝らせばナドラガ神の腹に、手が掛けられている。そう、手です。闇の中から光を吸い込むような漆黒の手が這い出し、ナドラガ神の割れた腹に手を掛けたのです。
 なに。神の腹から、何かが這い出してくる。
 ぞわりと私は体全ての鱗が裏返るような、不快感を感じていました。
 あれはナドラガ神の一部ではない。ナドラガ神とは違う、女神ルティアナが創造した物とは異なる。決して受け入れられない、魂が拒絶を訴え吐き気が込み上げる邪悪さ。世界の生命を尽く奪い滅ぼす執念が、手となって掴む全てを握り潰そうとする。迸った邪悪を私は水の領界で感じたことがあった。
 魔瘴。
 アストルティアの生命を尽く奪い滅ぼすもの。その闇は魔瘴によく似ていた。
『イぐナぁアアアぁぁァあァッ!』
 口から、目から、鼻から、穴という穴から真っ黒い魔瘴が流れる。蛇のようにどこまでも伸びる長い腕をもって、腹から漆黒の手が私に伸びてくる。手は腹だけではなく、鱗を弾き飛ばし、皮膚という皮膚を突き破って数え切れぬほどに増えていく。ナドラガ神は瞬く間に魔瘴の臭いがする闇に内側から突き破られ、形を失ってしまったのです!
 私は歯を食いしばり全速力で闇の中を駆け抜けていました。
 あの手に捕まったら死ぬと、本能が告げるのです。
 しかし、手の数はさらに増え、どこまでも伸びてくる。私は掴もうとした手を鱗一枚で避け、挟み撃ちしようとした腕の下をくぐり抜け、触れそうになる指をブレスで払う。手は叢雲のような塊となって、ナドラガ神から膨れ上がり続けていました。
 見渡す限り闇が広がる。どこへ逃げれば良いというのでしょう。
「誰か! 誰かいませんか!」
 闇の中には誰もいない。そんなの、分かりきっていました。
 私はナドラガ神の器。神の魂を肉体に下ろす為に、ナドラガ神の心臓と共に神の肉体に捧げられたのです。神の一部として神の中にいる私以外に、誰が居るというのでしょう。
 私の声は誰にも届かない。
 このまま、闇の中を逃げ続けていてもいずれ捕まってしまう。
 闇が嗤う。さぁ、諦めてしまいなさい。諦めて捕まって神の寵愛に身を委ねればいい。そうすれば、もう、何も考える必要はない。竜族は神に縋り神に心を委ねてきた今までと、同じことを繰り返すだけでいい。ただ、微睡むような幸せが貴方を包み込むでしょう。
 いいえ、居る。私は嘲笑を振り払った。
 一人だけ、ナドラガ神の中にいる私の声を、聞くことができるだろう男が。
「ダズニフ!」
 私の声が闇の中に響く。外へ。ナドラガ神の外へ。私は全力で飛びながら、解放者の名を叫んだのです。
「私はここです! ダズニフ! 私の声をどうか聞いてください!」
 盲目故に恐るべき聴覚を持った解放者。彼ならば、神の内にいる私の声を聞き取ってくれるかもしれない。お願い、届いて。願いを込めて、手を避けながら可能な限りダズニフの名を叫ぶ。喉が枯れ、ブレスの威力が落ちる。叫びすぎて酸素が体に行き渡らず、頭がガンガンと痛んで眩暈がする。
 それでも、私は叫び続けた。神に縋るのはもうやめたのです。自分の力で未来を切り開く。そう、神に宣言したのですから…!
「お願い…! 私を見つけて…!」
 体力の限界を超えて飛び続け、一瞬でも気を抜けば糸が切れて墜落してしまいそうでした。もう、声が掠れて大声が出ない。目の前に突きつけられた限界を無視し続けていましたが、もう、無理だと思った時でした。
 闇の中に鈍い光が見えたのです。
 それは星のように瞬くでもなく、炎のように照らすでもない。闇よりも暗くなかった為に、闇であっても鈍い光のように浮かび上がっていたのです。私は最後の力を振り絞って鈍い光を目指します。全速力は瞬く間に、鈍い光が点から人の大きさに変えたのです。
 私は息を呑んだ。世界が止まったように見えました。
 鈍い光は年老いた竜族の男性でした。優しげに微笑むように刻まれた皺深いお顔を、真っ白いお髭が覆っている。誰よりも尊敬し、誰よりもこの方のお役に立ってご恩をお返ししたいと切望した人。
 オルストフ様…!
 オルストフ様は手に持っていた杖を高々と掲げると、その背の闇が大きくひび割れたのです。七色の光を含んだ清らかな銀色の光が、甲高い音を立てて広がるヒビの合間から漏れる。がぁんがぁんと激しく打つ音が、闇を揺さぶりました。そしてついに闇は砕け、光が闇を貫いたのです。私の翼を掴もうとした手が痙攣するように震えて、真っ黒い霧となって霧散していく。完璧な生命の形を肉体に落とし込んだ竜が、闇に身を乗り出して私に手を差し伸べたのです。
 私は駆ける。オルストフ様の真横を全力で抜ける時、一瞬だけ、一瞬だけそのお顔を覗き見たのです。
 オスルトフ様はいつものお優しい顔で、小さく頷いたのです。
 いってらっしゃい。そう言われているようでした。さようなら。私はオルストフ様に心を込めてお別れを言います。もう、二度と見ることは叶わぬだろう。今生の別れになると、私は分かっていたのです。
 さようなら。さようなら。お父さん。私は別れの言葉の代わりに涙を一粒置いていく。
 私は精一杯前へ手を伸ばしました。ぞろりと鋭い牙が並ぶ竜の顎は、竜化した私の頭を丸呑みにしてしまうほどに大きく耳元まで裂ける。楽しげな笑い声が、大きく開かれた口から迸ったのです。
「来い!エステラ!」
 ダズニフの大きな手が、私の手を掴んだのです。