砂糖の王冠

 ふっくら柔らかくて美味しそうなクリーム色の頬は、今は青白く硬っている。浅く静かな息は、目を凝らしていても息をしているか分からない。いつもは猫みたいに暖かい体は熱を失い、ひんやりとした体に布団を重ねて魔力で熱を発する懐炉を入れて温める。
 力の抜けた兄さんの手を握っても、何も変わらないのはわかっていた。
 体に傷はなく、病気らしい症状もない。回復呪文は必要ないし、意識がなく眠り続ける兄さんに薬を飲ませるのは困難だ。
 エテーネ村を滅ぼされ一人アストルティアに放り出された僕に、ずっと寄り添ってくれた兄さん。冥王と戦い、故郷を探し、ナドラガンドへ共に来てくれた兄さん。あんなに僕が困った時に助けてくれた人が、いざ困った状況になって何もできない。ただ隣に座っているだけだなんて、気が狂ってしまいそうだ。
 無意識に力んだ肩に、そっと手が置かれた。
「お医者様も魔力の使い過ぎで、暫くすれば意識が戻られるだろうって言ってたじゃないか。少しは肩の力を抜いたらどうだい?」
 おっとりとした声が、僕の不安を分かち合おうと優しく語りかけてくる。
 顔を上げればテンレス兄さんくらいの年齢の人間が、僕を見下ろしていた。榛色の髪は雨露の糸のように濡れた光沢でもさらさらと肩まで落ちていて、狭い部屋の灯りで金色に光っている。兄さんを心配し過ぎて参っちゃうんじゃない?って訴える瞳は、若葉の緑だ。トイレに行く時、この部屋の高さのない扉に派手におでこをぶつけて痛々しい。厚手の紫の布に、肩口や前を止める留金のラインに革を補強する頑丈な服。鞄やブーツも冒険者が好む実用的なものだ。剣を持つ者の無骨な手の甲に浮かんだ、翼を広げた鳳のような不思議な痣が目を引いた。
 僕が頷いて兄さんの手を布団に入れると、部屋に持って来られていた食事が渡される。もう冷めてしまったスープと、放ったらかしたから固くなったパン。僕はスープにパンを浸して噛み締めるけど、味が分からない。ただ塊が喉を通っていく。
 僕が食べている間に、大きな背中が兄さんの横に椅子を引っ張って座る。摩り下ろした果実を包んだ布を、兄さんの口の上にとんとんと置く。水分とか栄養が体の中に入りますようにって、果汁をちょっとずつ口の中に含ませているのだ。
「ここのお屋敷のお嬢様もこの子を気に掛けてる。『意識がないのに、物置に閉じ込めるなんて酷い!』って、弟さんと大喧嘩したそうだよ。お医者様の手配も、賄いでも暖かい料理をいただけるなんてありがたいよ」
 デルカダールの地下牢に入れられた時の待遇を思えば、月とエビルタートルだよ。よくわからないけれど、この人はとっても苦労してるみたい。
 僕は飲み込む次いでに頷く。
「あのお嬢様には感謝しています。怪しい侵入者として外に放り出されても仕方ないですから」
 エテーネ村でテンレス兄さんが残した銀の箱を、兄さんが僕へ返した瞬間、光が迸った。
 何が起きたんだろうと思った時には、兄さんは意識を失ってぐったりしてる。一緒にご飯食べてた仲間は誰もいなくて、エテーネ村の僕の家じゃない。王宮みたいな部屋に、金の枠で縁取られた大きな窓。床に敷かれた絨毯は新芽の芝生みたいに柔らかくて、カーテンも調度品も高そうなのが遠目からでも分かる。
 にゃあお。口元が白い黒猫が僕の鼻先で鳴いた。首輪に付けられた星の飾りがきらりと光った向こうで、椅子に座っている紫の長い髪のが見えたんだ。
 僕は背中を向けて座っていた人間のお嬢様に、助けを求めた。だって、兄さんがぐったりして、普通じゃない。死んじゃうかもしれない。そんなの、嫌だ!
 必死な僕の叫びに驚いて振り返ったお嬢様は、倒れている兄さんに驚いた声をあげた。
 その声を聞きつけて飛び込んできたのが、お嬢様の弟。驚きの声が上がって直ぐ飛び込んできたから、隣の部屋から駆けつけたって間はなかった。丁度用事があって、部屋の前にいたんだろう。そうであって欲しいし、そうじゃなかったら怖い。
 兄さんを助けて欲しいって言う暇なんかなかった。僕と兄さんをクモノでぐるぐる巻きにして、この物置に押し込んだんだ! 意識のない兄さんは、可哀相に頭にたんこぶ一つ作らされてしまった。意識が無いって誰が見てもわかるのに、なんて乱暴なんだろう!
 そんな物置部屋には先客がいた。
 それが目の前にいる、レナートさんだった。
 彼もこの屋敷に迷い込んで、この物置部屋に押し込まれている。でも、物置部屋にはベッドはあるし、布団は干させてもらってフカフカだし、ランプもランプオイルもあるんだ。快適だよねって呑気に笑ってる。食べ終わった食器も片付けてお盆に載せてるけど、これ、レナートさんが自分で調理場に下げに行くんだ。侵入者として勾留されているとは、側から見たら分からないくらい堂々としている。
 レナートさんが僕の頭を撫でると、ふっと笑みを深くする。
 何となく、シンイさんが僕に向ける笑みに似ていた。血の繋がりはないけれど、小さい村で兄弟同然に育ったお兄さん。雰囲気やのんびりとした口調が、彼の平和で長閑な故郷を感じさせた。
「君は本当に彼を大事に思ってるんだね」
「僕の命を守ってくれて、家族のように僕を支えてくれる人なんです」
 そうなんだ。レナートさんが兄さんへ目を向けると、悲しそうに目を細めた。
「心配だね」
 なんだろう、心配しているだけとは思えない悲しみが込められた声だ。大事な人が死んだような、取り返しのつかない事をしたような、自分を許せないって悔やんでる。唇を噛み締めて横たわる兄さんを見つめている瞳は、別の何かを見ていた。何故、そんな顔をするんです? 僕は戸惑いながらレナートさんの顔を見上げる。
 レナートさん? そう声を出そうとした時だった。
 物置部屋の扉がノックされる。可愛らしくトントンと響いたら、『入っていいかしら?』と女の人の声が聞こえてくる。返事をしたレナートさんが扉に向かう間に、ドアノブが動いて扉が開いた。
「プクリポ君の意識は戻ったのかしら?」
 にゃーお。黒猫が星の飾りを瞬かせながら、我が物顔で物置部屋に入ってくる。この屋敷に来た時、目の前にいた黒猫だ。しっぽの先に結ばれた赤いリボンをなびかせながら、猫は奥で寝ている兄さんの胸に乗って顔を覗き込む。
「まだ、意識は戻りません。お嬢様、入ってきちゃダメですよ」
 レナートさんが丁寧にそう言うと、覗き込んだお嬢様は頬を膨らませた。肩が見える淡いピンクと白のドレスは、至る所にフリルが効いていて可愛らしいデザインだ。足元まですっぽりと覆うスカートに、腰まである長い紫色の髪が丁寧に梳き解されて、やんごとなき身分だと思う。でも腰に手をやり、豊満な胸を張り、肩をいからす仕草は、服が演出しようとする全てを押し退けてお転婆な感じを隠しきれない。
 レナートさんに嗜められて、碧の瞳が挑戦的に輝いた。
「まぁ! この屋敷の主人の娘である私に『入ってくるな!』なんて口利いて良いのかしら?」
 レナートさんは諭すようにお嬢様に言う。
「僕達は冒険者です。武器を持っていなくとも、細腕のお嬢様を簡単に汲み伏してしまいます。そんな輩がいる部屋に単独で入って来ようだなんて、不用心ですよ」
「あら。優しそうな目をしてる貴方達は、そんなことしないわ。私は人を見る目があるの!」
 胸に手を置いて自慢げに言い放つ。黒猫とお揃いの星の飾りが、誇らしく瞬いた。
「貴女はそう言っても、皆を心配させるのはどうかと思いますよ」
 物置部屋の外に押し出してレナートさんが目配せすれば、物置部屋の前に控えていた執事のおじさんが神妙に頷いた。僕達がいなければ小言が迸りそうな口元にお嬢様が気が付いて、しまったって顔してる。唇を尖らせて、くるりと大きな瞳を回すと、良いこと考えたって手を打った。
「じゃあ、お庭でお茶をしましょう。クオードが王都に行ったら、貴方達を客として扱うつもりだったの。お茶の一つもおもてなし出来ないなんて、ドミネウスの娘として恥ずかしいもの!」
 別にお客様扱いして頂かなくても、今の待遇で十分です。
 兄さんを一人で寝かしておくのは不安だなって振り返れば、黒猫が任せろとばかりに鳴いた。

 お屋敷の庭はメギストリスの王城の中庭みたいに、綺麗に手入れされている。舗装に使われた白い石はぴったりと同じ形で揃えられ、タイル張りみたいに平たく整っている。鮮やかな緑の芝生は均一に狩られて、木の葉一つ落ちていない。寄せ植えられている花々や大輪の花を咲かせる木は、故郷の島に生息している種類に似ている。屋敷にいるのは人間ばかりだから、ここはレンダーシア大陸のどこかなんだろう。
 普通の庭は山が見えたり湖が見えたりするものだけど、ここからは空しか見えない。なんだかシャボン玉を内側から見るような不思議な空だ。空気は暑すぎず寒すぎず穏やかに凪いで、絶好の午後のティータイム日和だ。
 ドライフルーツを贅沢に混ぜ込んだパウンドケーキはしっとりと焼きあがっていて、ふわりと甘い花の香りがする。僕が美味しさに目をまんまるくすると、お嬢様は嬉しそうに笑う。
「うふふ。ようやく不安いっぱいの顔以外の表情が見れたわ! かわいいっ!」
 かわいい。恥ずかしくて顔が熱くなる。
 紙みたいに薄くて羽みたいに軽いのに、陶器みたいに硬い不思議なカップを持ち上げて紅茶を啜る。紅茶の底に花が開いていて、口の中に花が咲いたように香りでいっぱいだ。
 僕は口の中がしっかり空っぽになってから、お嬢様に向かって頭を下げた。
「僕達の名前はルアムと言います。僕の兄さんを助けてくれて、ありがとうございます」
「まぁ。種族が違うのに兄弟で、同じ名前なのね」
 驚いて目を見開くお嬢様に、レナートさんも頭を下げる。
「お嬢様にお目に掛かるのは初めてですね。僕はレナートと申します」
 僕達の自己紹介を聞いて、お嬢様も背筋を伸ばした。他所向けの顔は貴族の令嬢らしく、上品で控えめ。僕達をまっすぐ見つめて、凛とした声を響かす。
「私はドミネウスの娘、メレアーデ。弟クオードが貴方達の状況に耳を貸さず乱暴に扱ったことを、弟に代わり謝罪します」
「しゃ、謝罪をするのはこっちです! いきなり部屋に現れて、驚かせてごめんなさい。メレアーデ様が兄さんを診るようお医者様に頼んでくれたり、ご飯や寝床をくれて助けてくれて、感謝してもしきれません」
 僕が慌てて言うと、メレアーデ様はくすくすと笑う。
「困っている民を助けるのは、王族として当然の行為よ」
「お、おうぞく?」
 呆然とするのは僕だけじゃない。レナートさんも驚いたようにメレアーデ様を見てる。そんな僕達の視線を受け止めて、メレアーデ様は立ち上がった。
「そう。私の父ドミネウスはこの国を治める王なの」
 庭の端まで歩いたメレアーデ様は、どうぞとばかりに手で空を示す。
 僕とレナートさんがメレアーデ様に近づくと、この場所の異様さにすぐ気が付いた。メレアーデ様が立つ庭の端から先がない。ここが空中庭園だったとしても、街並みや高い山、遠くに海が見えても良いはずなのに見えるのは空ばかりだ。
 空の上? ここが?
 僕はギル君やダズニフさんやクロウズさんに乗せてもらって、空を何度も飛んだ。空気は薄くて、身を斬るように強く研ぎ澄まされている。この屋敷にはそれが一切感じられなかった。
 もう一歩でメレアーデ様と並ぶ。そして、僕達は庭から下を覗き込んだ。
 視界いっぱいに広がる大地は豊かな自然に覆われて、大きな川が縦横無尽に走って地面を潤している。大きな大陸の中心に大きな宝石のように輝くのは、大きな都だ。高い山はずっと下。空に浮かんでいるはずの雲も、気持ちよさそうに飛ぶ鳥も見上げる位置にはない。
 この家が飛んでる?
 突然陰った薄寒さに顔を上げると、太陽を遮って浮かんでいる塊がある。よく目を凝らせば、立派な建物が建つ島が空に浮いているんだ。島というか金銀で飾り立てた美しい陶器のようで、まるで芸術品が空に浮かんでいるようだ。金の輪が島を囲んでいて不思議な色の煙を吐いている島を見れば、何かの技術で浮かんでいるのがわかる。
 なんなんだ。これ、もしかして夢なの? 信じられないというか、現実に存在できると思えないあり得なさで、目の前の光景が理解できない。驚きで混乱した頭に、メレアーデ様の言葉が響いた。
「時と錬金術が導く永遠の国。エテーネ王国のね」
 肺の中の全ての空気が驚きの声に圧縮されて迸った。
 僕の故郷と同じ名前の王国。レンダーシアの考古学者様が遥か昔の手記から見つけた名前。でも手記は捏造と疑われる程に痕跡のない王国だった。
 目の前の大陸全部、エテーネ王国? グランゼドーラよりも巨大な国じゃない?
 頭が真っ白になってる僕と、言葉を失って呆然とするレナートさんを見て、メレアーデ様は笑う。僕達をお茶の席まで引っ張って戻すと、『はい、どーぞ』っておかわりを注いでくれた。
「エテーネ王国の人はちょっとやそっとの事じゃ驚かないけど、貴方達がいきなりこの屋敷に現れた時は本当に驚いたわ。空中に浮かんでいるこの屋敷に来る方法は限定されていて、貴方達はそれを一切利用していない。屋敷を包む術式に何の反応もないから、空から侵入する可能性もないわ。クオードがどうやって侵入したんだって、眉間に皺寄せて考えてたのよ」
 お嬢様は眉に指を乗せて眉間に皺を寄せるように押す。楽しそうに笑いながら、身を乗り出した。ねぇ。こっそりと潜められた声で、僕達に囁く。
「どんな方法を使ったの? おねーさんにこっそり教えてよ」
 僕の方が知りたいよ。僕はずずっとお茶を啜る。
 別れ際にテンレス兄さんから託された銀の箱。テンレス兄さんが使っていた時は、ひとりでに浮いたり動いたりして、凄い力を発していた。でも僕の手の上に乗せられてからは、ただの銀で出来た綺麗な箱だ。エンジュさんやガノさんが興味津々で調べ尽くしたし、錬金術師の知識を持つヤクウさんに見てもらっても、何一つわからない。
 それがいきなり光って、知らない場所にいて、兄さんが意識を失っている。
 全く訳がわからない。テンレス兄さんも、もう少し説明してから渡して欲しかったな。
 僕はですねぇ。そうレナートさんが話し出すのを横に聞きながら、僕は重要な事を思い出した。斬り上げるように顔を上げ、二人の肩が跳ねる。
「…銀の箱!」
 兄さんが意識を失ったことで頭がいっぱいだったけど、肝心の銀の箱が無くなってる! メレアーデ様に助けを求めてる直前に、兄さんの手から転げ落ちたのを見てぐったりしてるのに気がついたんだ。それまでは確かにあった。
 その後、どこにいったんだ?
 ざっと血の気が引く。大事な物であるのもそうだけれど、この状況に陥った原因が銀の箱にあるとしか思えない。その原因が行方不明になったら、意識を失った兄さんも、僕の故郷に帰る方法もわからないかもしれない!
 僕はテーブルの上に身を乗り出して、メレアーデ様に詰め寄った。
「メレアーデ様、銀の箱知りませんか? 大事な物なんです!」
 前髪が触れ合いそうな近さで、大きな瞳に僕が映る。長いまつ毛がぱちぱちと上下すると、身を引いて背もたれに身を預ける。うーんどうだったかなーって唸って、頬に指を添えながら首を傾げている。
「ルアム君がここ来たのは、その銀の箱が関係しているのかな?」
「今の所、それしか思い当たりません」
 レナートさんの問いに頷いた僕を見て、メレアーデ様の口元がきゅっと持ち上げた。
「その銀の箱が大事な物なら、貴方に返さなくちゃね!」
 楽しそうなものを見つけたメレアーデ様の笑顔が光っている。
「私の部屋に落ちていた物を、使用人として雇っている者が勝手に持ち出すことはないわ。汚れや破損、安全性の問題で部屋から持ち出したなら、どんな些細な内容でも私に報告があるの」
 そう爛々と瞳を輝かせ状況を整理する。
 確かに、僕が迷い込んだ部屋には、メレアーデ様と彼女が飼っている黒猫がいただけだ。兄さんの手から零れ落ちた銀の箱が、僕の物であると断言出来るのはメレアーデ様だけ。メレアーデ様が銀の箱の所在を知らないなら、あの騒ぎの間に誰かが部屋から持ち出したんだろう。
 誰が。思い浮かぶのは僕らを拘束した、クオードというメレアーデ様の弟だろう。
 意識を失った兄さんを抱いて狼狽える僕達を、頭ごなしに侵入者って悪者と断定した乱暴者。年齢は僕と同じくらいで、僕の瞳と同じ色の吊り目に込められた敵意が脳裏に焼き付いている。
 しかし、あの銀の箱が姉の私物ではないと断定できるのか?
 同じ屋根の下で暮らしていたテンレス兄さんとは、全ての空間を共有していた。なんなら僕はテンレス兄さんの私物を、所有者本人よりも詳しく把握していた。ルアムー。あれ、どこいったっけ? 『あれ』で分かる僕もどうかと思うけど。
 でも、メレアーデ様とクオードは異性の姉弟だ。しかもお屋敷の主人の家族である彼女達は、完全にプライバシーが守られている。それなのに銀の箱はメレアーデ様の物じゃない、僕の物だと断定して持ち出しているとしたら、それはそれで怖い。
「だから、ルアムの銀の箱を持ち出したのは報告義務のないクオードで確定よ。クオードの部屋に行って、銀の箱を取り戻しましょう!」
 本人に聞けば全て解決しそうだが『姉さんはコイツらに騙されているんだ!』『あの箱はやはり何かあるんだな!』と拗れる予感しかしない。
 それでも年頃の弟の部屋を姉が家探しするって、かなり可哀想だ。
「メレアーデ様。それは流石にやり過ぎでは…?」
 大丈夫! 弾んだ声に、僕らは己の無力を噛み締めた。
「私はクオードの姉なのよ? 長女である私は、王宮で執務に忙しい父から屋敷を任されているわ。私が良いと言うのだから良いのよ!」
 だめだ。この人、もう弟の部屋を荒らす気満々だ。引き出しを全部開け放って恋文一つ見つけたら、読んで相手が誰だか記憶の中から探し出して、その相手と弟がどんなロマン溢れる逢瀬を重ねているか、義理の妹のウエディングドレスまで想像が止まらない。
 思ったが吉日と言わんばかりに椅子から立ち上がり、ドレスを摘んで早歩きで屋敷のカーペットを颯爽と歩く。両手で勢いよく扉を開け放ったら、二の腕に掛かるレースの裾をたくし上げる仕草をする。メレアーデ様の快進撃を止める者など居らず、部屋の戸という戸が、箱という箱が、ベッドの下、本棚の本一冊一冊まで詳らかにされてしまった。
 あら!これは私がクオードの軍部就任を祝って贈った万年筆だわ! まぁ、誕生日の時に毎年送る刺繍入りスカーフが綺麗に並んでる! 錬金術の論文や戦術の教本ばっかりじゃない! 幼い頃に描いてもらった姉弟の肖像画! クオードが小さくて可愛いわ! あ! クオードが考えたすごい魔法生物! あの子が楽しそうに説明してくれて楽しかったわね!
「もう! 面白いものが何も出てこないじゃない!」
 絶え間なく響き続ける物音がようやく止んだ頃には、ベッドの上に身を投げ悔しそうに叫ぶメレアーデ様がいる。
 絶対に銀の箱を探すことを忘れてるね。そうですね。僕達は深々と頷いた。
「部屋にないなら、王都に出かける時に持って行ったのか」
「銀の箱は小さいので、鞄に入れて運ばれたら気が付けないでしょう。持って行ったか聞いて、分かりますかね?」
 流石に服に縫い付けたポケットには大き過ぎるので、ポケットに入れたり手に持てば嫌でも目に付く。でも荷物に混ぜられたら先ず分からないだろう。
「なぜ、クオードが荷物を持って出掛ける必要が生まれるの?」
 部屋の扉を後ろ手で閉めたメレアーデ様は首を傾げる。
「この屋敷はエテーネ王国の王の住まい。転移装置で首都キィンベルや王宮と直に繋がっているし、必要なものは行く先々で用意されているわ」
 そう、あっけらかんと言い放つメレアーデ様。
 …貴族って僕達とは別次元の常識を持ってるんだな。アンルシア姫様はミシュアとしてメルサンディ村で暮らしていたから、庶民の感覚に理解があるだけだったんだ。
 でも、そうね。メレアーデ様が心得顔で頷いた。
「目の付け所が良いわ! もし、クオードが銀の箱を屋敷から持ち出すなら、従者に運ばせることになるわ。お見送りの執事が必ず気付く!」
「お言葉ですが、メレアーデ様」
 ずいっと真横から影のように詰め寄ったのは、物置部屋の前で気を揉んでいた執事さんだ。突然現れたような存在感に、僕もレナートさんも身を強張らせ、メレアーデ様は悲鳴を上げて驚いた猫さながらに跳ねる。
 『驚かさないで、ジェリナン!』胸を押さえメレアーデ様が叫ぶ。
 執事さん、お庭からずっと付いて来てたんだけどな…。
 アイロンと糊の効いた皺一つない黒い執事服に、深い紫のベストが格調の高さを演出する。懐中時計を繋いでいる銀の鎖が、詰め寄った一歩できらりと揺れた。青い瞳を尖らせ、整えた口髭も毛羽立っている気がする。不穏な空気に敏腕執事の凄みが増す。
「私にはお屋敷の主人とそのご家族をお守りする責務がございます。例えメレアーデ様自らのご意志とはいえ、クオード様のお部屋を検めるのは如何なものかと思います」
「もう、本当にお堅いんだから!」
 目を閉じて言い返すメレアーデ様の全身から、煩くて面倒臭くて嫌々な感じが迸る。
 目を細めて眺めていると、凄まじい既視感の正体がわかった。僕が注意する時のテンレス兄さんだ。朝、目が覚めるのが遅くて叩き起こすんだけど『遅くまで起きてるからだよ!』って注意する時こんな反応なんだ。
「ジェリナン。クオードが出かける時、何か持っていなかった?」
 きっとメレアーデ様はいつもの調子で問いかけているんだろう。でも、執事さんは気難しい顔で黙っている。
 分かるなぁ。だって『姉であっても弟の部屋を荒らすのは、止めたらどうですか?』って注意が、完全に耳の右から左へ抜けているんだもん。注意に耳を傾ける姿勢もないだなんて、意地悪の一つはしたくなる。
 火に油を注いだことにも気がつかないメレアーデ様へ、執事さんはゆっくりと言った。
「お客様のいる前で、私共相手とはいえ淑女として相応しくない言葉遣いは感心できません。良いですか、メレアーデ様。正しい言葉遣いとは常日頃からの…」
 あぁ!テンレス兄さんを叱る時のアバ様と同じだ。このお説教は長くなるぞ!
 ばっと音を響かせる勢いで、メレアーデ様が執事さんへ両掌を突き出した。
「はい! ジェリナン、そこまで! お小言なら後でいくらでも聞くって約束するわ! 今はクオードのことを教えて!」
 テンレス兄さんも同じように言って、誤魔化せたことは一度もないよ。なんなら『後で』の約束がきちんと果たされたこともない。村でのテンレス兄さんの信頼は、地面を這うバブルスライム並みに低いんだ。
 執事さんは胸を張って、縋り付くようなメレアーデ様の訴えを跳ね除ける。
「誤魔化そうとしても駄目です。今日という今日は聞いていただきます」
 ここにきてようやく、長い長いお説教が避けられない事を察した。メレアーデ様の目つきが、起死回生の手段を実行すべきと覚悟を秘めたものに切り替わる。
 突き出した手をゆったりと淀みなく胸の前に組み、祈るように顔を上げた。唇から紡がれる声は無邪気な子供から、舞台の上に立つ女優に変わる。
「お待ちになって、ジェリナン! お客様の目の前でお説教を始めるのは、如何なものでしょう?」
 メレアーデ様の反撃! これは会心の一撃だ!
 うぐっ! 執事さんが声を喉に詰まらせ、ちらりと僕達を見た。この屋敷の関係者であれば、契約上の守秘義務として黙っていろと言うだけで良かっただろう。しかし、部外者の僕らが屋敷の外で『王女様が執事にしかられていた』なんて吹聴してしまう可能性がある。王族の評判も家臣である彼らが守らなければならぬものだ。だからメレアーデ様の言葉遣いへの注意も厳しいんだろう。
 執事さんは大きなため息を吐いた。敗北を認め、メレアーデ様が勝利を収めたのだ。
「クオード様は普段とお変わりなく、お出掛けになられました。荷物を運ぶ為の供もなく、クオード様ご自身が何かを所持している様子は見受けられませんでした」
「ありがとう! ジェリナン!」
 嬉しそうにお礼を言われて、執事さんはやれやれと首を振った。
 クオードが銀の箱を屋敷の外に持ち出していないのに、部屋にはない。じゃあ、メレアーデ様の部屋から持ち出した銀の箱は、どこに行ってしまったんだろう? 首を傾げる僕の目の前で、メレアーデ様は執事さんに問う。
「クオードが出かけた後、部屋の清掃はしたのかしら?」
 執事さんが掃除の担当者を聞き出して歩き出したメレアーデ様の後を、僕らは置いていかれないよう追いかける。
 侍女達が控える部屋を開け放ったメレアーデ様に、部屋の中にいた侍女達が一斉に立ち上がり頭を下げる。メレアーデ様が『頭を上げてちょうだい』と言っている間に、一番年嵩の女性が歩み寄って来た。
「メレアーデ様、どうされました?」
「クオードの部屋を最後に掃除した者に、部屋に銀色の小箱が無かったか確認したいの。ジェリナンから担当がポーラだと聞いているわ」
 左様でございますか。そうゆったりと答えた女性は、背後に控える女性達へ向かって『ポーラ。前へいらっしゃい』と呼び掛ける。進み出たのは艶やかな黒髪を肩口で切り揃え、黒縁の眼鏡を掛けた若い女性だ。颯爽と会釈をする様子が、生真面目な性格さを窺わせる。
「ポーラ。クオード様の部屋に銀の小箱がありましたか?」
「いいえ。ありませんでした」
 年嵩の侍女の問いに返された即答を聞きながら、僕は落胆を隠せなかった。
 もう元の場所に戻ることは横に置いて、兄さんを治そう。テンレス兄さんには悪いけど、銀の小箱はなくしちゃいましたって謝れば良い。そう考えながら落とした視界に、メレアーデ様のドレスのスカートがフワリと前へ進む。
「ポーラ」
 顔を上げると、メレアーデ様が黒髪の侍女の前に立っていた。無邪気にはしゃいだ声からは想像できない、威厳に満ちた頼り甲斐のある声で呼びかける。
「正直に答えてちょうだい」
「私は嘘など申しません」
 ポーラと呼ばれた侍女は年下の主人に礼をするように目を伏せ、はっきりとした声で断言する。分厚い眼鏡のレンズの向こうにある瞳を覗き込むように、メレアーデ様は少しだけ屈んだ。
 本当に? 眉毛に被さるように切り揃えた前髪を、囁いた声がそっと揺らす。
「さっきと同じ答えを、私の目を見て言えるのね?」
 息を詰まらして強張った体は、さらりとした黒髪を大きく震わせた。眼鏡越しの視線は床を舐めるように彷徨い、嘘を言わないと宣言した口が『それは…』『その…』と呻く。
 己が犯人だと認めたも同然の反応だった。
 でも、メレアーデ様は『貴女が盗みを働いたのね』と糾弾しない。主人である彼女が黙っているので、その場に居合わせた侍女達がひそひそと言葉を交わすこともない。ポーラさんが罪を認め謝罪するのを待っている微温い沈黙の中で、黒いスカートと白いエプロンが翻る。ポーラさんは自分の荷物をしまう棚から小さい布袋を取り出して戻ってくると、『申し訳ありません』と黒髪が深々と下げられた。
 ポーラさんが布が取り払うと、テンレス兄さんから託された銀の小箱が息を大きく吸い込むように輝いた。
「銀の小箱をクオード様のお部屋から持ち出したのは、私です。あまりに綺麗な箱だったので、つい、出来心で…。屋敷を追い出される覚悟はできております」
 覚悟を決めた固い言葉。キツく後悔の原因を握りしめ小刻みに輝きが溢れる手を、メレアーデ様が掬い上げて挟むように包み込む。上がらない頭に巡っている断罪の恐怖を鎮めようと、メレアーデ様は子守唄を歌うように言葉を紡ぐ。
「ねぇ、ポーラ。まだ、何か隠しているわね?」
 はっと上がった顔を、メレアーデ様は見定めるように見つめる。
「貴女がそんな理由で盗みを働く人じゃないって、私は知っているもの」
 メレアーデ様…! 黒縁の眼鏡の下を一筋涙が伝い、伏せた顔から嗚咽が漏れる。途切れ途切れに語ったのは、ポーラさんの母が病に倒れ、治療の為に高価な薬が必要なこと。美しい銀の小箱を見て、これを売れば母の薬を工面できると思ってしまったこと。本当に申し訳ございませんでした。頭が床に付いてしまう程に下げた後頭部に、メレアーデ様は問う。
「お母様の薬の為に換金するなら、屋敷に置いてある物を持ち出しても良かったのよ? なぜ、ルアムの箱を選んだの?」
「私はこの屋敷に勤める者。屋敷の物に手を出すことはなりません」
 なるほど、主人の物に手を出せば屋敷を追い出されるという制裁が降る。それに主人の物に手を出したという悪評は瞬く間に広がり、ポーラさんは侍女として誰かに仕えることは二度と出来なくなるだろう。しかし僕が諦めて熱りさえ冷めてしまえば、外部の人間の私物が紛失したことなど問題にすらならない。
 僕にとって非常に大事な物であったのが、ポーラさんの誤算だったんだ。
「貴女の罪を裁くのは、この屋敷を預かる私ではありません」
 メレアーデ様はポーラさんの手を離して、一歩身を引いた。
 僕の肩に細い手が置かれ、そっと背中を押される。メレアーデ様に並んだ僕は、黒い頭頂部にできた旋毛から見える白い頭皮が月のように光って見えた。
「この銀の箱の持ち主であるルアムが、貴女を裁きます。この屋敷で起きた全ての責任をドミネウスの娘メレアーデは負い、ルアムが下した沙汰を完全に遂行することを誓いましょう」
 え? 戸惑いが口から押し出された。
 確かに銀の小箱が持っていかれて、戻ってこないかもって思った。でも、目の前に銀の小箱はあって、ポーラさんは一緒に働く仲間の前で罪を暴かれ、罪を認めて後悔に打ち拉がれている。これ以上、僕に何を裁けって言うんだろう?
 ぶるぶると身を激しく振るわせ、立っているのもやっとなポーラさんが可哀想だった。僕はポーラさんに一歩近づき、肘を支えた。驚いてびくりと跳ねた細い腕が、雨に打たれたように冷え切っている。
「僕は今、大事な人の意識が戻らず、このまま死ぬかもしれない不安で頭がいっぱいです。助ける為なら、自分が破滅したって構わない。貴女が抱いている気持ちが痛いほど分かります」
 歯の根も噛み合わず痙攣していた唇が開くと、大きな嗚咽が溢れた。膝が折れて崩れ落ちると、床に広がった白いエプロンに大粒の涙が次々に落ちてドレスの黒に塗り替えていく。
 僕は膝を付き、ゆっくりとポーラさんの手を膝の上に下ろした。
「銀の小箱を手放してください。僕はこの屋敷で見失った物を、この屋敷で発見して拾ったのです。何の問題がありましょうか?」
 真っ白くなるほどに銀の小箱に押し当てた指が、綻ぶように剥がれていく。雨樋に流れ込む水のように、箱は涙に濡れていく。指先と箱の間に滑り込んだ涙が滑り、銀の小箱はポーラさんのエプロンの上を転がって木の板を貼り合わせた床の上に落ちた。落ちた拍子に散った涙が、床の色を点々と塗り変える。
 僕は銀の小箱を拾い上げると、謝罪が綯い交ぜになった嗚咽を吐き続けるポーラさんに頭を下げた。
「ポーラさん。ありがとうございます」

 ■ □ ■ □

 王都へ繋がる転移装置の入力事項は機密なので、僕らはそれを入れてもらう為に装置の前で待っていた。移動装置と玄関の間は見事な庭になっていて、まるで天上の楽園みたいな花々で彩られている。蝶が舞い、鳥の囀りが聞こえて、池で泳ぐ魚が煌めいている。
「君のお陰で、僕の疑いも随分と早く晴れてくれたよ」
 レナートさんの言葉に、僕は首を傾げた。
 翌日になっても兄さんは目覚めず、王都キィンベルへ降りて医師に診せることになった。身一つで放り出された僕が持っているのは、護身用の短剣に、腰のベルトに固定した銀の小箱や路銀を収納したポーチ。そして僕の原始獣のコートの裾を外して巻いた、意識がない兄さんだけだ。
 僕と同じくレナートさんも王都へ降ろされる。確かに屋敷に迷い込んだが、問題を起こさなかったので無罪放免なんだって。冒険者らしく荷物は腰に下げた鞄一つで、腰には大量生産された鋼鉄の剣が下げられている。
 確かに、あの一件から完全にお客様だ。それは僕のお陰だってレナートさんは言う。
「メレアーデ様は君を試したんだ」
 銀の小箱を持ち出したポーラさんを裁く時、メレアーデ様は『ルアムが望む全ての要求を呑む』と宣言した。多くの執事や従業員が証人として宣言を聞いていて、王族の娘として正式な発言となった。目をまんまるくする僕へ、淡々とレナートさんの説明が続く。
「悪い考えを持つ者なら、その宣言を利用しない手はない。国が一つ買えてしまう金額を望めば手に入り、王国の重役に取り立てろと言えば叶っただろう。メレアーデ様に命をもって償えと言えば、彼女は自害したに違いない」
 僕は『そんなこと、考えたこともなかった…』と声を漏らすのが精一杯だった。
「君は己が潔白であると証明したんだよ」
 そして侍女が起こした屋敷にとって不名誉な出来事は、元々無かったことになった。ポーラさんが屋敷を解雇される理由はなくなり、ドミネウスは屋敷は従者をコントロールできないと能力の低さを侮られることはない。
 メレアーデ様は早速、ポーラさんのお母様の薬を手配したそうだよ。そう言いながら、レナートさんはゆったりと言葉を紡いでいく。
「主人の命と財産、そして名誉。彼らが守りたい全てを、君は守ったんだ。君の気質を見抜いたメレアーデ様の目は、確かだったんだ」
 断言されて僕は顔から火が出そうだ。恥ずかしい…。
「ねぇ、クロちゃん。もう少し、もうちょっとだけ待てない? ダメなの? ダメなのねー。もう、しょうがないんだから!」
 閉じた玄関の向こうから、デレデレなメレアーデ様の声と黒猫の猫撫で声がハーモニーを奏でる。お見送りに玄関まで来たメレアーデ様だったが、黒猫の愛くるしいおねだりに魅了されてしまったのだろう。『二人とも、直ぐに戻るからね!』と元気な声を玄関先に置き去りにして、メレアーデ様は愛猫のおやつを求めて行ってしまう。
「レナートさんは、急ぐ旅じゃないんですか?」
 物置部屋でのんびりしていたんだ。愛猫のおやつタイムくらい待てるだろう。思った通り『大丈夫、急がないよ』と、返事が返ってくる。
「僕も大切な人を助ける為に旅をしているんだ。ずっと。助けられるまで…」 
 背筋を悪寒が走った。空気が澱んで木々の騒めきが消え、蝶の羽ばたきが静止したように緩慢になっている。レナートさんは笑みを浮かべたまま、立ち尽くしていた。胸の中の兄さんは意識がないまま。僕は自然と助けを求めて玄関先に目を向けて、そこに一人の女性が立っていることに気がついた。
「メレアーデ様?」
 そこに立っているのはメレアーデ様だった。美しい紫の髪は光の下で赤や青の煌めきに移ろい、赤いリボンで結んだ長い髪は背中へ流れる。碧の大きくぱっちりとした瞳も、整った目鼻立ちも、今日会ったメレアーデ様と全く同じ。
 服はドレスではなく冒険者風の装いだ。皮を鞣した動きやすい丈のワンピースをベルトで止め、首に巻いたマフラーが風を含む。靴も実用一辺倒で、使い慣れた様子で足を運ぶ。もしかして、お忍びで一緒に王都へ行くつもりなんだろうか?
 しげしげと見れば見るほど、目の前のメレアーデ様は本当にメレアーデ様なのだろうか?と疑問が浮かぶ。メレアーデ様なのに、別人のような雰囲気なんだ。
「やっと会えた…」
 そう僕を見据えて零したのは、感慨深さが滲み出る重い声だった。
「ルアム。貴方にこれを託します」
 メレアーデ様が差し出したのは、握り拳くらいの赤い正八面体の結晶だ。透き通った結晶越しに、手が手入れの行き届いたお嬢様の手じゃない冒険者の手が見える。思わず差し出された結晶を受け取ると、メレアーデ様は言葉を続ける。
「エテーネ王国の王都キィンベルへ。私の弟…クオードにこの記憶の赤結晶を渡してください」
 それはメレアーデ様がした方が良いんじゃない?
 兄さん共々一方的に縛り上げた敵意いっぱいの顔を思い出して、僕は表情が渋くなるのを堪えられなかった。僕の反応を黙殺したメレアーデ様が『必ず、貴方とクオードが揃った状態で、赤結晶の中身を確認するのです』と念を押してくる。
 何が記録されているんだろう?『二人とも仲良くしなさい』って内容じゃ、絶対ないだろうな。僕が赤い結晶を覗き込んでいると、メレアーデ様の手が顔の前に翳される。
「その前に……貴方は見なくてはならない」
 甲高い音を一つ立てて、ポーチから銀の小箱が飛び出してきた!
「この世の、終末を…」
 メレアーデ様が翳した掌の前で、銀の小箱が回転して強い光を放つ。その光はその場にいた全てを、蛍光色の光に塗り替えてしまう。立っていた地面が消えて落ちる感覚が襲った瞬間、確かに、メレアーデ様は言った。
「ルアム。貴方を信じているわ…」
 祈るように、願うように、言葉は僕へ手向けられた。