愛することこそ何よりの幸福 - 前編 -

 エムリヤ。子供達を頼む。
 そう妻に言った旅立ちの日を、今も鮮明に覚えている。
 エテーネ村に時折生まれる未来を見通す力。未来は絶対ではないが、変える事は簡単ではない。それでも私はアバ様より告げられた未来を変える為、旅立とうとしていた。
 五つ目の神話で勇者の祖父が乳飲み子を抱いて故郷を旅立つ事に比べれば、5歳になる下の子とその兄を連れて行く事は容易い。しかし旅の空の下、妻と子供達に苦難を強いたくはなかった。
 口の中に水溜りができるような蒸し暑い日は、青臭い森の匂いが鼻を刺す程に強かった。陽炎にゆらめく村を飲み込む黒々とした森の入り口で、妻は子供達と手を繋いで私を見送りに来てくれた。途方もない困難な道に踏み出そうとする私を想って流れる涙を拭い、妻を抱きしめた。
「エムリヤ。子供達を頼む」
 アーヴ。妻が私の名を呼んで、私の胸に顔を押し付けた。胸に押しつけた唇が『私もいきます』と囁いた。
 言葉を失った私に、顔を上げた妻は矢継ぎ早に行った。
「私は後悔したくありません。貴方に任せておきながら未来が変わらなかったら、私は貴方を恨むでしょう。アバ様のお告げが現実のものとならぬ為に、私も力を尽くしたい」
「子供達はどうするんだ」
 目的を果たす道は、旅人が通るような道ではなかった。街道を通っても、最終的に目指すのは辺境の地や世界の果てといった場所ばかりになるだろう。魔物と遭遇する確率など語るに及ばず、さらには悪路に足を掬われて事故死する事も十分にありうる。子供を救う旅なのに、子供を危険に晒しては本末転倒だ。
 私達が声を強めて言い合うのを、幼いルアムはきょとんと見上げている。
「私の親戚に託します」
 小さい村には親のいない子供も少なくない。狩りの最中に魔物に襲われ命を落とす父。産後の肥立ちが悪く儚くなる新妻も多かった。流行病で両親が天へ旅立った家庭もあった。両親と死別して残された子供は親族の家に託され、親族も居ない子供は最も年の近い子供がいる家の子となる。
 一つの家族という小さい村。妻の親族を信頼していない訳ではない。
 ただ、幼い子供達を村に残して世界を旅する私達夫婦は、褒められた人間ではないだろう。子供達は私達に捨てられたと恨まないだろうか? 親に捨てられた子供だと、他の子供達に虐められたりしないだろうか? 雷と雨が建物を揺らすような酷い嵐の夜に、子供達を抱きしめることが出来ないもどかしさ。
 妻の親族なら私達の代わりに愛情を注いでくれるだろう。ましてや、アバ様のお告げを絶対視する村人達は、それでも我が子の為にと旅立つ私を応援していた。
 あぁ、だが! 私は己の心を掻き毟るように乱れた。
 妻が傍にいて旅を支えてくれる未来は、どんな黄金よりも魅力的だった。踏み出す先にある不安や孤独が、妻の一言で融解していくのが分かる。目的へ向かって途方もなく続く無味乾燥とした道端に、花が咲き、鳥が歌い、暖かく日が差すのを感じずにはいられない。
 私がホーロー様のように強い心を持っていれば、一人で行くと断言できるのに…!
 手の震えは全身に行き渡り、側からは痙攣しているように見えただろう。このまま本当に痙攣して倒れてしまえば良いのに、悪魔の悪戯か私の手は動いてしまった。
 子供達の手を解かせ、私は妻の手を取ったのだ。
 最初の頃は村の周辺で数日には帰ってこれた旅路だが、島を出て遠方に向かう程に村に帰る日は遠退いて行った。一年に一度帰る程度になれば、もう、親などと名乗れる者ではなかろう。
 理由は何であれ子供達は私達に恨み言一つ言って良い筈なのに、真っ直ぐに育ってくれた。私を父と呼び笑って出迎えてくれる様を見ると、村人達に私達は感謝し尽くせぬ想いだった。下げた頭がいつまでも上がらぬので、ルアムが心配して顔を覗き込んだことが何度あったか。
 随分と遠くにやってきた時、私達の旅路に大きな転機が訪れた。
 転機は無造作に伸ばした毛髪に細かな刺繍が擦り切れた古いローブを着た、世捨ての老賢者を絵に描いたような御人の姿をしていた。金属の棍を杖代わりにして体重を預け、白髪は銀細工のように世界の色を映し込み、肌は艶やかな赤金に照っている。黄金の瞳を優しげに細めた老人が私達を誘ったのだ。
「どうかね、若いの。私達と共に行かぬか?」
 それは不思議な集団だった。年齢も種族も、職業も、てんでバラバラ。親子で参加している者達、仲の良い友人同士、当然単独で加わっている者もいる。目的も誰一人同じではなかったが、ほぼ全員に共通点があった。それが、私達の目的と重なっていたのだ。
「たった二人で達せられる目的ではなかろう。なぁに、参加も離脱も自由じゃ。其方達の目的を私が引き継いでも良い」
 私達はその一団を率いる長老オバリス様のお言葉を、二つ返事で了承した。
 たった二人、途方もない道を歩いてきた旅路が一変した。苦労した情報収集は誰かが聞いてきた内容を精査し、更に自分達が求めるものを聞き込みに行ける。毎日行う食事や洗濯、宿の手配を持ち回りで行うので、自由な時間が増えた。何より魔物や盗賊といった外敵から、集団故に身を守って貰える事に助けられた。そして所属する人員は入れ替わりが激しく、長老のようにずっと所属する者、様々な理由で二度と戻ってこない者、定期的に出たり入ったりを繰り返す者もいて、まるで小さな大地の箱舟のようだった。
 そして何より嬉しかったのは、故郷に残した我が子達に会いに行けるようになった事だ。
 大きな町に着けば、一団は補給を兼ねて数日間滞在する。その間、故郷に戻り子供達と過ごすよう、長老様が招きの翼を渡して送り出してくれたのだ。お陰で子供達に会いに行く間隔は、一月から半年に一度になった。あまりにも短い間隔で気兼ねする時や、重要な情報が得られそうな時は、妻だけ故郷に帰ってもらった。多くの土産を持たされて、私達は子供達に会いに行く。
 やんちゃ盛りのテンレスと、しっかり者のルアム。二人の子供達の温もりに触れると、必ずや目的を達して帰らねばならないと決意を新たにする。それでも子供達の成長を見守れる幸せを、私達は噛み締めていた。
 旅は順調に運び、未来を変えられる、子供達の元に帰れると希望が灯った頃だった。
「これは…」
 言葉を失った。間違いであれと、何度心に思っただろう。
 私達がいつものように村に戻ると、あったはずの村が焼き払われていたのだ。あの家は祖父母から妻の兄夫婦に譲られた家、旅に出る直前に子供を授かった夫婦が笑っていた家、一つ一つに大切な記憶が宿る故郷が瓦礫の山に成り果てている。駆け込んだ我が家は潰れていて、爪を剥がしながら梁を退けて子供達を探したが誰の遺体もなかった。豊作の時は見渡す限り青々と茂ったハツラツ豆の畑は、酷く汚染され腐った水に瘴気が溶け込み毒の沼地となっていた。亡骸は全て焼き尽くされたか獣に食われたか、弔うべき遺体一つ見つからなかったのだ。
 滅んだ故郷を見た日は、酷く混乱していて記憶が曖昧だった。
 ただ、後悔と妻の悲鳴が頭の中に反響して、目がちかちかと霞んでいた。
 私達の旅に子供達も連れて来れば、死なずに済んだのではないか。守るべき子供達が死んでしまうだなんて、私達の旅は何だったのか! 村が滅ぶことをアバ様が知らない訳がない。どうして、私達を頼ってくれなかったのか!
 このまま子供達の後を追おう。
 強い死への願望に突き動かされる私達の背に、ぽっと温もりが灯った。いっておいで。長老様の柔らかい声が聞こえる。楽しんできなよ。そう、快活に言い放つ仲間達の笑い声。家族がいるっていいもんだ。しみじみと噛み締める呟き。
 恐ろしい時間を掛けて開いた手から、刃物がこぼれ落ちて地面に刺さった。強く握りすぎて手も腕も震えていた。
「…もどろう。このまま死んでは、長老様達に迷惑を掛けてしまう」
 私の言葉に妻もゆっくりと頷いた。
 後悔に項垂れて帰ってきた私達を、仲間達が優しく迎えてくれた。誰もが大切な者を失っていたので、無言で抱きしめられ、目の前に温かい飲み物を差し出され、普段通りの空間に身を置かれた事は有り難かった。死に場所を求めて離脱の意思を告げる時、長老様は言った。
「やり遂げてから死んでも、遅くはないのではないかね? 全てが中途半端のまま天で再会しては、子供達が何の為に村に残ったのか報告一つできんじゃろう?」
 全くその通りだ。
 何一つ成し遂げられずに後を追えば、子供達に我慢を強いた全てが無駄になる。子供達が我慢したから誇れる結果が一つでも生まれたのだと、報告する義務が私達にはあるのだ。
 私達は黙々と目的を果たす為に、長老様の一団と共に行動していた。
 上の息子が成人する歳だ。下の息子は背が伸びる頃合いか。今の時期の村は種植えの為に、総出で畑を耕しているだろう。月が強く輝けば、村にも同じ光が降り注いで明るいことだろう。そんなことを考えながら過ごしていた。
 そんなある日、仲間が私達の前に駆け込んできた。
「アーヴ! エムリヤ! エテーネって村が、い、今、移住者を募ってるって…!」
 それは行商人の噂話だった。
 魔族に滅ぼされた村が復興したが、辺境の地ということで移住者に難儀しているとか。面白い売り物を探そうにも、まだまだ住んでいる人間が食うのに苦労するので先の事だろうとか。それでも、新しい村だ。面白い話のネタになるかもしれない、とか。
 長老様の一声で、一団はエテーネ村へやってきた。
 そうして目に入ったのは、復興というよりも発展を遂げた故郷だった。森の中にひっそりと存在した村の中を流れる小川はそのままに、多様な種族が移住し、家は新たに建て直され、魔物や獣除けの壁に囲まれ、ハツラツ豆の畑が豊かに実る。村の中央にある小高い丘には、青々と大木が緑の葉をつけ、大きく翼を広げた天翔けるペガサスのようだった。
「こんにちわ! ようこそ、エテーネ村へ」
 出迎えた子供に、私達は目を見開いた。
 ふわふわとした青紫の髪に、狩りが上手で日に焼けていた肌。幼さが残る丸い輪郭なのに、兄よりもしっかりした顔立ちの子供。着ている服は森の緑に馴染むようオリーブマリーで染め上げた、原始獣のコートセット。得意な弓矢や短剣が、彼が狩人だと物語る。
 子供は私達に視線を留めて、大きく息を吸い込むと、目をまんまるに見開いた。吐き出した息は信じられないという感情を、声にして紡いだ。
「お父さん…? お母さん…?」
 妻も私も喉が張り裂けそうになる大声で、ルアムの名前を叫んだ。駆け寄って傷がないか冒険者らしい筋肉を宿す腕をさすり、亡霊でないことを確かめるように柔らかい頬に触れる。溢れる涙に滲む世界の向こうで、息子もつぶらな瞳から涙が流れていた。私達三人は互いに体の隙間が無くなる程に、強く強く抱き合った。
「あぁ! ルアム! 良く、無事で! 神様、ありがとう! ありがとうございます!」
 妻が涙声と歓声を綯い交ぜにして叫び、折れんばかりにルアムを抱きしめた。胸に埋もれる顔がもぞりと動いて、妻の背に回した小さい手がそろそろと上下に動いた。私も日向の香りのする髪に手を沈め、形の良い後頭部を何度も何度も撫でた。少し背の伸びた息子から伝う温もりに、私は信じてもいなかった神という存在に心の底から感謝した。

 元々この村には宿屋協会が進出していな為に宿屋が無かった。外からの来訪者は居なかったが、息子の新居に客が泊まれる離れが用意されていた。そこに通されると、仲間達は自分達が持参した食糧を全て使って離れの中を宴会の会場に変えてしまった。村人から新鮮な魚や肉や野菜を買い付け、囲炉裏の周囲を美味しく煮える予定の鍋で囲い込み、串に刺した魚やタレを何度も塗った肉を槍衾のように並び立て、瑞々しい果物を切って宝石の山のように皿に盛った。酒やジュースが行き渡り乾杯の音頭が取られれば、最高の気分で美味い物が胃と心を満たしていく。
 仲間達は当然息子のことで興味津々だ。滅んだ村を逃げ延び、見事復興させた冒険譚をぜひ聞かせて欲しいと強請った。全く、遠慮のない仲間達だ。
 無視しても良いぞと言ったが、心優しい息子は快く今までの旅路を語った。
 息子が滅んだ村から旅立ち復興させた今に至るまでの物語を、私達は寝るのを忘れて聞き入った。村を滅ぼした冥王と名乗る魔族との対決。迷いの霧に包まれたレンダーシアを巡り、故郷の地へ至った長い道のり。伝説の竜族が暮らした大地ナドラガンドの冒険では、もう一人の息子テンレスの生存も明確に語られた。かの有名な吟遊詩人ガライでさえ、これ程に数奇な物語を語る事はできまい。私は息子の大きな成長を誇らしく思いながら、困難一つ支える事ができなかった不甲斐ない自分を恥じてしまう。
 そんな息子が兄と慕う同じ名前のプクリポに礼を言いたかったが、意識を失って目が覚めないらしい。プクランドで合流した長老様の知人の背が、診察の為か寝床に向かうのを見送る。
 宴もたけなわになった頃、息子は深々と長老様へ頭を下げた。
「改めまして、アーヴとエムリヤの息子ルアムです。父と母から、オバリス様に大変良くしていただいていると聞いております。両親をなにくれと助けていただき、ありがとうございます」
 ほっほ。朗らかに笑うと立派な顎髭を撫で下ろし、長老様は私達に目をやりました。
「これはこれは、聞きしに勝る自慢の子。 鉄から白金が生まれたようじゃな」
「全くです。誰に似たのやら…」
 私はがりがりと頭を掻いた。固くボサボサとした髪が、指の間を通っていく。ルアムは私の顔を見るなり『身だしなみに気を遣わない所、テンレス兄さんにそっくり!』と叫んで、明日にでも髪を切ろうと約束している。
 未来の約束か…。
 私は自嘲気味に笑ったが、恥ずかしそうに笑ったように見えたろう。
 それにしても。長老様は目に覆い被さるような眉の下で、金色がちかりと炎の色を吸った。肩に掛けていた金属の棍を羽根のように持ち上げると、息子の腰に固定したポーチを突いた。その動作は老人とは思えぬ、素早く自然な動きだった。
「その銀は生きておるな?」
 息子が『え?』と首を傾げたのと、長老様がポーチから銀の小箱を跳ね上げたのは同時だった。
 キューー! っと甲高い子供の声が、蛍光色の光に包まれた箱の中から響き渡る。光が箱から離れると、両手に乗るような小さな生き物の姿になった。青い体から細い腕と脚が伸び、ぽっちゃりとした丸い体を支える為か大きな足。くりっとした目の間には、黄色い小鳥の嘴が付いています。緑のフードと一体化したマントを頭からかぶっていて、三角の大きな襟や裾の切れ込みが洒落ている。頭のてっぺんから土から頭を出したばかりの新芽のような突起が生えて、顔をぷるぷると振った拍子に揺れた。
「うわあああぁっ!」
 生き物を見て悲鳴を上げたルアムに、つぶらな瞳がぎゅっと尖った。
「ルアム! ボクの声、ずっと無視するなんて酷いキュ!」
 息子は眦を吊り上げて髪を掻き毟り、小さき生き物に言い返す。私達夫婦は初めて見るだろうルアムの感情的な姿に、目を丸くするばかりだ。
「あんな悪夢を信じろってのが無理な話だよ!」
「信じるも信じないも関係ないキュ! 近い未来でこの時間軸における世界は滅び、ルアムが見た終末の光景に成り果てるキュ!」
 『嘘だ!』『嘘じゃないキュ!』と言い争う合間に、長老様が『なんとも穏やかではないのぉ』と呑気に挟まれている。水掛け論を断ち切るように二人の間を金属の棍が振り下ろされた。ぶおんと鼻先を掠めた棍に、二人がびくりと体を強張らせる。
 流石、出身も年齢も種族も職業も、てんでばらばらな者達を束ねて旅を牽引してきた長老様。やや強引に二人の怒りを鎮めると、髭を撫でながら『さて』と切り出した。
「先ずはこの世界が滅ぶという不穏な話から聞こうではないか」
 長老様の促しに応じて、ルアムが訥々と語り出した。
「僕達がこの村から突然消えてしまったのは、ご存じですよね?」
 それは私達がこの村にやってくる少し前の出来事だ。ルアムの友人達やホーロー様やシンイ様の目の前で、突然息子と同じ名前のプクリポの二人が消えてしまったそうだ。直ぐにルアムの友人達は探す手がかりを求めて世界に散り、ホーロー様は勇者の王国の賢者様に相談しに旅立ち、シンイ様はひたすら無事を願って待ち続けた。
 消えるのが唐突であったように、帰還も唐突だったそうだ。ある日、ルアムとプクリポは消えた場所に倒れ伏していたのだ。
 こちらでは月が一度満ち欠けた時間が過ぎていたのに、ルアムにとっては数日間の出来事であったそうだ。何があったかは、シンイ様も未だに聞けてはいない。戻ってきたルアムは昏睡状態で、意識が戻っても同じ名前のプクリポの容体が気になってそれどころではなかったとか。
「この村に戻ってくる直前に、僕は悪夢を見たんです」
 ルアムは曇った表情で語り出した。
 空は瘴気を含んだドス黒い雲に覆われて、真夜中のような暗闇がありました。冷たく乾燥した風が、闇の中をごうごうと唸りを上げて吹き荒んでいます。暗雲の中を紫電が走って、近くに兄さんを包んでいた原始獣のコートの裾が見えました。干魃した亀裂が縦横無尽に走る地面を這う体はすごく重くて、凄い時間を掛けて兄さんの元に辿り着きました。
 微かに息のある兄さんでしたが、意識を失ったまま。
 それでも死んでいないのを確認して、僕はようやく周囲の状況を見回したのです。
 黒く分厚い雲が強風に流されて線を描いて動くのが分かるのは、何か明るいものを透かしているからでした。目を凝らしていると、雲の隙間に明るいものの正体が見えたのです。
 それは、光る繭でした。
「光る繭?」
 仲間達が互いに顔を見合わせ、首を傾げた。『しっ』と他の仲間に静かにするよう促がされ口を紡ぐと、息子は静寂の中で再び口を開いた。
 繭はそれはもう、大きなものでした。遥か上空から大地へ天へと糸を伸ばして浮かんでいる為に、その大きさは山と例えても良い位に巨大なものでしょう。繭は不気味な薄紫色の光を放ち、闇に沈んでいた世界を浮かび上がらせました。
 先ず目に入ったのは、アラハギーロのデフェル荒野に建つ天に届かんばかりの魔塔が折れている姿でした。そしてその手前に、ドラクロン山の天を突く峰が見えました。背後にグランゼドーラが見える位置にいるのだと、僕は理解して振り返ったのです。
 グランゼドーラの南は緑豊かな地域なのに、周囲には草木も生き物の姿もありません。ただただ、荒涼としたひび割れた地面があるばかり。そしてグランゼドーラ城の三対の尖塔が、ボロボロになって建っているのが見えたのです。尖塔の一つは無惨に崩れて半分になっていて、屋根がない塔、形は残っていても虫食いようにポッカリと壁に穴が開いているのです。薄紫の光に照らされた世界に、人間も、魔物も、植物も、ありとあらゆる生き物が死に絶えているのだと突きつけられました。
 光が強くなり、僕の真っ黒い影が灰色の地面に長く長く果てしなく向こうまで伸びていく。
 繭に背を向けていた僕は、その光が繭から放たれているのがわかりました。あれ程冷たかった空気が、瞬く間に温まり、熱を帯びていく。じりじりと剥き出しの肌に痛みを感じ、僕を殺そうとしているのだと思った時でした。
 テンレス兄さんの残してくれた銀の小箱が浮き上がり、反発するように光ったのです。
「気がついた時には、エテーネ村の自宅の寝床の上でした」
 ルアムが全てを語ったと口を閉ざすと、どっかりと沈黙が座り込んだ。誰もが『世界の滅亡だなんて!』と冗談めかす物言いはしない。あまりにも生々しい語りと、世界の滅びを見てきただろうルアムの絶望し切った表情に、誰もが黙り込み『滅亡の未来』という衝撃に打ち拉がれる。
「ルアムが見た光景が、未来の滅亡を迎えたレンダーシアだキュ!」
 そんな沈黙をものともせず、銀の小箱の上に座った生き物が得意げに言い放つ。『出鱈目だ!』『真実キュ!』そう言い合う二人を前に、私は思わず呟いた。
「世界中を巡ってきたつもりだが、光る繭も、世界が滅亡するような異常もなかったぞ」
 妻も同意するように、隣で頷いている。
 私達は世界の機微を感じ取れるよう、常に目を光らせ感覚を研ぎ澄ましていた。ルアムが見てきた未来が真実だとしても、俄に信じられぬ平穏が今の世に満ちている。確かに近年は大魔王の襲撃に、ナドラガンドと再び結びつくなど、世界が傾ぐ出来事が立て続いた。それらを乗り越える力がある世界を滅ぼす厄災など、想像もできなかった。
 それよりも、だ。
 私は徐に立ち上がると、興奮する息子の背後に回る。まだ小さい肩に腕を回し、背中から抱き竦めた。
「少し静かにしていなさい」
 大声を出そうと息を吸い込んだ口に手で蓋をすると、ルアムが不満げに もごもご言う。
「初めまして、私はアーヴ。テンレスとルアムの父だ。息子の話からして、危機を救ってくれたのは君ではないかね? 礼を言わせて欲しい。息子を救ってくれてありがとう」
 水色の肌の生き物は、無感情に私の感謝の言葉を受け取った。
「状況の結果、ルアムを救出する形になっただけキュ」
 そして小さな生き物は銀の小箱にどかりと腰を下ろすと、手でぺちぺちと銀の面を叩いた。
「この銀の小箱は『エテーネルキューブ』。時間跳躍制御装置キュ」
 ほう。その場全員の視線が、銀の小箱に注がれる。
 美しく鏡のように磨かれた銀の生立方体。目を凝らせば全ての面に精緻な紋様がうっすらと刻まれていて、芸術品の美しさを兼ね備えている。箱だけでも、一流の道具鍛冶職人の技量が必要な難易度だ。この小箱がテンレスからルアムに託されたのなら、錬金術で作られたのだろう。用途はまだ把握しきれないが、錬金術師としては親である私を既に超えているに違いない。
「エテーネの民はその身に宿す時渡りの力で、時間と空間を越える事が出来るキュ。でも、どんなに強い時渡りの力を宿しても、時間と空間を越える事ですら難しいキュ。目的とした時間からズレたり、目的地とは見当違いな場所に出たり、まぁ、碌な事にはならないキュ」
 実際に見てきたかのように、生き物は呆れた表情で遠くを見遣った。
 この生き物が思い返しているのが息子のテンレスなら、なるほど、技量は上がっても性格は変わらないのだろう。失敗しても憎めない笑みを浮かべて、諦めないのが目に浮かぶ。
「つまり、時渡りの力を持つエテーネの民が『エテーネルキューブ』を使う事で、任意の時間と空間へ正確に移動できるという訳だね?」
 私の確認に、生き物がこくりと頷いた。
「流石はテンレスと血縁関係にある個体キュ。理解が早いキュ」
 テンレスはなんというものを作ったのだろう。私は息子の才能に激しい嫉妬を覚えた。
 我々が呪文として行使する魔法は、世界に存在する力をほんの一部引き出すことしかできない。圧倒的に使用者が少なく解明されていない力が殆どで、魔法や呪文として確立していないものばかりだ。エテーネの民の時に関わる力も、その一つといえる。
 解明されていない魔法の何が難しいかといえば、魔法を起因する呪文や、魔法を発生させる仕組みが不明なのが大きな原因といえるだろう。その為に資質を持っている者でも、魔法を使う難易度は非常に高いのだ。『エテーネルキューブ』はエテーネの時渡りの力に限定したものとはいえ、魔法への理解が乏しくとも魔法を発動させてしまう道具なのだ。
 これをエテーネの民に持たせれば、アバ様やシンイ様以外の者でも未来が見えるし、ルアム以外にも時を渡る事が可能となる。村が滅ぼされず存続していれば、エテーネの民は多くの国が喉から手が出る程の垂涎の力を擁した事だろう。
 そこまで考えて、ぞっと悪寒が走る。
 エテーネの民は古くからここに存在した。
 この村を、民を滅ぼそうとしたタイミングが、なぜ今なのだ?
 エテーネ村を滅ぼした魔族は、その事を知っていた? 魔族の背後にエテーネの民を滅ぼせと唆した者がいるのではないか? そうであるならば、その者は『エテーネルキューブ』の存在を知っていた事になる。時に関わるエテーネの民と『エテーネルキューブ』を結び付けぬ為に…。
 テンレスが間接的に村を滅ぼす切っ掛けを生み出した。
 いや、違う! 私は心の中で強く否定した。
 テンレスが作ったのは、ただの道具だ。道具は使う者次第。テンレスがルアムに『エテーネルキューブ』を託したのは、善き目的に使うと分かっているからだ。
「『エテーネルキューブ』を緊急起動し、ルアムの時渡りの力を使って終焉の時間から脱出したキュ」
 考えを分断するように、生き物が腰を下ろしたまま小箱は回転した。生き物は何事もないように小箱に腰を下ろし続け、逆さになったまま喋っている。
「状況は理解できた。一つ聞きたいのだが、えっと…」
「ボクは時を渡る力を制御する『時の妖精』と分類されているキュ。個体名としてキュルルと呼ぶ事を推奨するキュ」
 私が生き物をどう呼ぶべきか、考えあぐねているのを察したのか。感情に乏しい機械的な思考の生き物かと思ったが、心配りはできるようだ。
 一つ頷くと、『では、キュルル』と切り出した。
「私が『エテーネルキューブ』を使って、世界の終焉の時間に飛ぶ事は可能か?」
 私の腕の中でルアムが『お父さん!』と叫んだ。
 ルアムが未来で見てきた光る繭から生まれる存在によって、世界が終焉を迎えると推定できる。繭になる前の状態を予測し、その存在を葬ることで世界の終焉を回避できるやもしれぬ。光る繭を観察できれば、繭になる前の段階を予測できるかもしれん。
 キュルルが私を覗き込むように前のめりになり、黒い瞳に私の顔が写り込んだ。ふいっと首を振ると、後頭部から伸びる新芽のような突起が揺れる。
「『エテーネルキューブ』に貯蔵されたエネルギー残量が、ゼロに近いキュ。時間跳躍を行うなら、エネルギーの補給を要請するキュ」
「具体的にどう行うのだ?」
 箱が回転して、キュルルが重力に従った座位に戻る。
「エネルギーの補給に用いる素材は、錬金術の残留物キュ。特殊な方法でエネルギーに変換できるキュ。残り僅かなエネルギー残量を考慮し、『エテーネルキューブ』の活動を制限するキュ」
 ぽんと音を立てたように、キュルルが黄緑色の光の粒子となって空気へ溶けていった。くらりと傾いた小箱が地面に向かって落ちていくのを、慌てて受け止める。
 ひんやりと手の平に乗る小箱には、首を傾げる皆の姿が映り込んでいた。
 錬金術の残留物。アストルティアの人々が想像する錬金術は、ツボやランプを用いて道具に能力を付加するもの。職人ギルドが結成され、今も何百何千と職人達によって繰り広げられる錬金は、失敗であろうと大成功であろうと残留物など発生しない。私も錬金術師として錬金釜で数多くの物を作り出したが、残留物が発生したことはない。
 錬金術で生み出すのでは無く、生み出した過程で生まれる残留物。
 そんなものが発生するのであるならば、釜には止まらないもっと大規模な施設で、強大な物を作らねばならない。アストルティアにそんな錬金術の施設が存在するのか?
 長老様に率いられ巡った世界、妻と共に旅をした道のり、子供達を授かった懐かしき村の景色。記憶を遡るほどに私は若くなる。妻と出会った頃、まだ両親が生きていた幼い頃。父が振り返り、いつもの優しい笑みとはかけ離れた険しい顔で私に秘密を打ち明ける。
 あ。私は思わず声を漏らした。
「バルザック…」
 それは四つ目の神話に登場する、邪悪な錬金術師の名前だった。
 勇者と共に世界を救うべく導かれし者達の中に、美麗な双子の姉妹がいた。太陽の眩さと苛烈さを秘めた姉と、月の慎ましやかさと神秘さを宿した妹。そんな姉妹の育ての父が弟子の一人に殺害されてしまい、姉妹は復讐の旅に出る。四つ目の神話の姉妹の章の冒頭部分だ。
 姉妹の仇をバルザックという。
 バルザックは野心の強い男で、師匠である姉妹の父から研究結果を奪ったとも、錬金術を悪き目的で使おうとしたのを止めようとした師を殺害したとも、師の才能を妬んで殺したとも言われている。どんな諸説があろうとも、バルザックは姉妹の育ての親を殺し、悪の道に走り、最終的に異形の魔物の姿となって姉妹に討ち取られるのである。
『アーヴ。お前の祖父はバルザックという名前なんだ』
 今も懐疑的な父の秘密だった。正直、今だって冗談だと思っている。
 四つ目の神話の存在から『バルザック』という名前を我が子につける親などいない。私の祖父は四つ目の神話のバルザック本人か、神話の悪人の名前を好き好んで名乗ったのだろう。
『バルザックは狂っていたよ』
 断言した瞳は酷い恐怖に揺れていた。
 そこは最早、生き物が生活する空間ではなかった。『究極の錬金術』というあやふやな概念に取り憑かれ、見上げる背中は人の形を失っていた。魔力と生命力を食い尽くされた死体は、骨と皮に成り果てて、人成らざる生き物が身動ぐ振動だけで崩れていく。とても悪い空気で、少しの物音をも響かせぬ為に水瓶に頭を突っ込んで咳をした。このままでは、自分も地面に転がるものと同じになる。父は過呼吸になりながら私に言う。
『逃げた。逃げて逃げて、この村に辿り着いた』
 アーヴ。肩を掴んだ手がぎりぎりと食い込んで酷く痛んだが、父の血走った目が、口の端からこぼれ落ちる泡だった涎が恐ろしかった。はぁはぁと吹き付ける息から、血の香りがする。
『研究所には近づくな』
 頷くまで手は緩まなかった。『分かった。近づかない』そう言うと、父は何事もなかった様子で笑って『さぁ、晩御飯の支度をしよう』と立ち上がったものだ。
 父はその後、死ぬまでバルザックの話をすることはなかった。夢でも見たのかと思う程に普段通りだった。確かに父はエテーネ村の外から来た余所者だったが、エテーネ村には十年に一度程度は迷い人が訪れるので珍しくはない。街へ嫁いだ者も、街から戻ってくる者もいる。悪さをしなければ問題視されないし、母と結婚し私という子を成して平凡な家庭を築いた。私が妻を迎え子供に恵まれても、父が語った神話の悪人の影は無かった。
 ただ、父は錬金術の才能があった。
 私も、息子のテンレスにも引き継がれている。
 その才能がバルザックに因るものなら?
 私は頭から音を立てて血が落ちていくのを感じていた。頭の中に氷が詰められたように冷え切り、心臓が弾けそうな程にがなりたてる。暗転した視界の中で、アバ様のぽっちゃりとした手が浮かんで私を指差した。
『お前達の息子は、いずれ恐ろしきものに成り果てる』
 私達の旅の始まりを告げる言葉が、闇の中に反響した。