毒薬は口に甘し
猛吹雪の中を、一匹のシールドオーガが火の玉となって駆けて行く。
グレン城を囲む多くの人が行き交う沿道も、溢れんばかりの人で犇く大地の方舟の駅舎と東側を繋ぐ吊り橋前の交差点も、白い雪に覆い隠され警戒の兵士が要所要所に立っているだけ。真っ黒い雪雲から吐き出される輝く息に沈黙した大地を、騒音を振り撒いて通り抜けて行くのです。
そっちに行ったぞ! 回り込んで挟み撃ちにしろ!
前からも後ろからも、吹雪に負けぬ声が反響する。
大きな足が凍りついた地面を滑る事なく捉えて立ち止まると、前を向いていた首がぐるりと周囲を見渡す。警笛が鳴り響き、がちゃがちゃと武具が打ち鳴らされる音がグレン全体に広がりつつありました。剣鷹のような鋭い鼻筋が向いたのは、傍に聳える壁。
周囲を見回しながら、僕を担いでいるシールドオーガに囁きました。
「ガルードさん。もう少し粘ってください」
種族で開催される力比べでオーグリード大陸で最強の称号を手にしたガルードさんは、シールドオーガ族でも一つ抜きん出た巨躯を持っていらっしゃいます。生半可な刃物すら通さぬ鉄壁の胸板、落石すらも受け止める巨木の腕、巨大な裸足が大地を蹴れば おおくちばしと並走するだろう巨体に見合わぬ速度を出すのです。背に背負った巨大な盾は、かつて鬼岩城の玉座の間の大扉だったとか。腰のチャンピオンベルトにはドランド王国の紋章が刻まれています。
ガルードさんは三日月型に切り裂いた口から、真っ白い牙を剥き出して笑ったのです。
「誰ニ 言ッテンダ! オ安イ 御用ヨ!」
壁に太い指が食い込んだと思えば、大岩のような巨体が飛び上がるように引き上げられるのです。屈強な両手足が全力で駆ける事に使われれば、その速度や迫力は格上の魔物ですら尻込みするほど。積もった雪を蹴散らしながら屋上を駆け抜け、巻き取られた日除けの布を張る為の綱を引っ掴み宙へ身を躍らせる。
しかし、屈強なシールドオーガの重量に耐え切れず、綱が千切れて落下する。強靭な足腰が地響きを響かせて地面を捉え、着地点に居合わせた兵士達が腰を抜かしたのです。背に背負った盾を掴んで振り下ろせば、ガルードさんの体を隠す大扉が生み出す風圧が雪を撒き散らしながらオーガ達を吹き飛ばしたのです!
無様にも折り重なった兵士達を見て、愉快そうな笑い声が響き渡ります。
「随分と楽しそうではないか!」
僕達に高みから声をかけてきたのは、繭から現れた異形獣を食らった悪鬼ゾンガロン。
旅の最中ありとあらゆる魔物を見てきた僕ですら、異様と思える体躯を持つ魔物です。指の間に皮膜を張ったような手のような形の翼に、全長の半分以上の長さと異様な発達をした剛腕。分厚い胸板や鍛え抜かれた上半身とは裏腹に、下半身は驚くほど小さい。しかし巨大な前腕が一度大地を掻けば、その巨体が放たれた礫のように勢いよく前進する。飛び降りた巨躯を受け止めた紅蓮の岩盤が砕け、翼が羽ばたけば篝火が固定された綱ごと薙ぎ倒される。
僕は礼を言ってガルードさんの広い肩から降りた。
ざくっと凍りついた雪を踏み締め、火傷しそうな憎悪の視線を真っ向から受け止める。帽子を外して胸に抱えると、煉獄鳥の炎が優美な弧を描いて吹雪を彩りました。半歩片足を下げ、慇懃に頭を下げる。
「轟雷王より貴方に死を告げるようにと、冥府より推参いたしました」
頭頂部に『ドランドを唆した人間か?』と信じられない呟きが触れる。しかし、それは小さい火花であっても、悪鬼の憎悪を焚きつけるには十分なものでした。次の瞬間には、悪鬼が烈火の如く怒り出したのです。
「貴様が関わった頃より、何もかもが上手く行かぬようになった! 貴様を生きたまま引き裂き、スープ代わりに血を一滴残らず飲み干してくれるわ!」
正直、ゾンガロンが覚えているかと問われれば微妙です。ガルードさんに派手に暴れ回って注目を集めてもらっても、僕に目を留めるかは賭けでありました。
しかし、彼は覚えていた。
僕は頭が下がっているのを良いことに、笑みを隠しませんでした。その笑みを拭うように真面目なものに正して顔を上げ、深々と帽子を被って銀の竪琴を構えました。
「出来るものなら、やってごらんなさい」
悪鬼と僕の間にガルードさんが躍り出る。
雄々しい気合いと共に、彼の真紅の肉体が大きく膨れ上がったのです。そのあまりに見事な造形美に、集まってきたグレンの戦士達も感嘆の声を上げました。
「ガルードさん! 貴方に怯まぬ勇気を…!」
「オレ様ノ 伝説ガ 始マルッテ時ニ、誰ガ 怯ム カヨ!」
巨大な体が真っ向からぶつかり、吹雪が衝撃に弾き返される。巨大な巌をくり抜いて造られたグレンが、大きく揺さぶられます。力は互角か。そう思った次の瞬間には、互いの拳が顔面に炸裂する。オーガ族なら首の骨があらぬ方向に折れるような衝撃ですが、屈強なシールドオーガ族の彼は踏みとどまりました。鋼のような腹筋にめり込む鉄拳が、胸板が波打つ衝撃の一撃が、彼らの間に間髪なく激しい火花となって瞬く。
あ。その声が誰の声かを認識する前に、出来事は起きていました。
ガルードさんの腕が取られ、大きく振り回されグレンの壁面に叩きつけられる。背に背負った扉も緩衝材にはならない。ガルードさんは血を吐きながら、ずるりと大きくひび割れた壁面を滑って行く。
意識が飛んで動かなくなったガルードさんを、ゾンガロンは一方的に高笑いと血の混じった唾液を撒き散らしながら嬲っている。巨大な手を組んで振り下ろし、巨大な背を、頭を滅多打ちにするのです。一方的な攻撃は、至近距離でイオが炸裂したかのような音と衝撃でグレンを揺さぶる。
「こいつが死んだら、次は貴様だ! 人間は一撃で粉々になってしまうから、一本一本骨を抜き肉を引きちぎり、生きたまま腑を喰うてやろう! 逃げても良いぞ! 絶望する貴様を追いかけるのが、今から楽しみだっ!」
ぐっと奥歯を噛み締める。
どうにも回復も行えぬ支援職はもどかしい限りです。ガルードさんには手出しは無用といわれている手前、友人に支援を要請する事はできません。
曲を変えるか。僕が脳内で膨大な量の楽譜に指を掛けた時でした。
頑張れ!
その声は吹雪の音を割って響きました。
疾走感と音階を駆け上がる音が、大陸を滅ぼす脅威に一歩も引かぬ勇気を引き出す。その音はガルードさんだけでなく、集まった兵士達をも鼓舞したのです。いつの間にか声援が響き、篝火が吹雪を退け、太鼓の音が音楽に加わる。
その様子を忌々しそうに見遣ったゾンガロンの隙を、ガルードさんは見逃しませんでした。
彼は背に背負った扉を瞬く間に引き抜きながら、ゾンガロンに体当たりしたのです。思わずよろめいたゾンガロンでしたが、ガルードさんの姿を見て怪訝な顔をする。両開きの扉なので、左右に一枚づつ。それは防御を最大に高める背面の握りではなく、まるで扇のように扉の下方を摘むように持っていたのです。
びしり! ガルードさんの指が扉に食い込む。
不敵な笑みをニッと浮かべた彼の顔に、諦めは一片も存在しない。
「ヒーローハ 遅レテ 来ルモン ナンダヨ!」
気合い一閃、鋼鉄製の扉の重量と鋭角がもたらす鈍器の衝撃がゾンガロンを滅多打ちにする! 扉が振り回されることで生まれる間合いは槍と変わらず、さらに両手に一枚づつ持たれている為に隙が生まれにくい。ゾンガロンが拳を突き出そうとすれば叩き落とされ、戸惑っている間に肩に扉の縁が突き刺さる。
まさに扉乱舞!
あんな巨大な鉄の扉を、扇代わりに使えるのなんて世界広しと言えどガルードさんくらいなものでしょう。
ゾンガロンは大きく後退り、低く唸りながら片膝を付いたのです。ぎょろりとした目は憎悪に塗れていましたが、現在の状況が信じられぬという驚嘆がちかりと瞬いたのを僕は見逃しませんでした。僕は彼の驚きが生んだ心の隙間に、するりと言葉を滑り込ます。
「思ったより力が出ないですか? それは、貴方の思い違いではありません」
心を読まれたのか? そんな心情が出た顔面に、僕は穏やかに微笑み掛けました。
「貴方は既に、戦神から見放されているのです」
僕は竪琴を爪弾いては、音をひとつひとつと零しながら問う。
食へのこだわりが強い貴方が、食べたものを吐くとは思えません。排泄をした記憶はおありですか? さて、貴方が貪り食った数え切れぬオーガの民は、一体どこへ消えてしまったのでしょう?睡眠を必要としない貴方は、一睡もせず十の国を連続して滅ぼしたそうですね? 貴方はオーガ族を破滅の淵に追いやっていた時、疲労すら感じなかったのではないですか?
重ねた問いに、泳ぐ目を見据える。
「強力な加護は祝福であると同時に、呪いであり、枷でもあります」
『ランドンの戦神』と呼ばれた、邪悪なる神。その神がオーガ族を滅ぼす為に生み出したとされる悪鬼なのだから、戦う以外の能力など必要ないのです。
食事は必要なく、睡眠も要らず、排泄は行われない。女と番っても子供を成す事もできないでしょう。それを万能感と捉えるのは勘違いです。食事をとっても消化できず、栄養として吸収もできない。老廃物は排出できず、休息をとる事で体を整える事もできない。ゾンガロンとは、戦神を騙る邪神の力で動く人形でしかないのです。
しかし。僕は言葉を区切り、一拍の間を置いて言葉を続けた。
「貴方が存在するだけでオーガ族の結束は高まり、復活する脅威に備えて弱体化する兆しすらない。貴方がどんなに戦神に己の有用性を主張しようと、もう邪魔でしかないのです」
戦神が用無しと判断し力を断てば、どうなるか。
自分で自分を生かす事のできない身体が、どうなるか。
僕が絶望に塗れた顔をじっくりと眺め、言葉をはっきりと紡いだ。
「貴方は死ぬ」
グォォォォオオォオオオッ!
身の毛が弥立つような咆哮がグレンを揺るがした。
詰め込まれた憎悪の悍ましさはランドンの頂上に届かんばかりに響き、殺害した全てのオーガの絶望が跳ね返ってきた今を威嚇するように終わりなく続く。誰もが一瞬でも怯む絶望の波。ゾンガロンには、それで十分だったでしょう。
「ガライ!」
ガルードさんが警告した時には既に遅い。ゾンガロンの鋭い爪は、僕の首を切り裂こうと振り下ろされているところでした。ひ弱な僕には、この凶刃を避ける術も防ぐ術もありません。
しかし、避ける事も防ぐ事も僕には必要ありませんでした。
『マスターガライ ニ 脅威接近。殺害許可ナシ。二度目ノ 警告射撃ヲ 実行スル』
ピピッ。耳の後ろから、生き物では発することもできぬ声が告げた直後。天から降り注いだ光が、ゾンガロンの腕を撫でた。水が蒸発するような音を認識できたのは、至近距離にいた僕だけでしょう。僕に振り下ろそうとしたゾンガロンの腕は綺麗さっぱり消失し、肩口が素晴らしい名刀で切断されたような綺麗な面を晒す。
ぎょろりと目が断面に向く。断面からじわりと血が溢れ、決壊したように血が迸るのと、ゾンガロンの絶叫が響いたのは同時でした。のたうち回るゾンガロンの断面から迸る鮮血が、遠慮なく掛かってきます。
「僕の友人は大変優秀です。貴方に一度警告射撃をしたことを、一千年ちょっと程度で忘れたりはしません」
お礼に一曲弾いて差し上げないとですね。僕は友人の好きな曲を考えながら、血の気を失って行く悪鬼を覗き込む。
「なぜ、貴方は生きていると思いますか?」
僕の首に手を伸ばし縊り殺そうともできたゾンガロンですが、憎悪に濡れた瞳が瞬きひとつのうちに困惑に塗り替えられ、眼球が下を向く。グ、グゥ…。ゾンガロンの食いしばった口から うめき声が漏れ、残った腕が割れた腹筋をさする。
ぼこん! まるで音が響くように腹が膨れ上がった。
がっちりと閉じられていた口が開き、苦しみの声がぼたぼたと滴る唾液と共にこぼれ落ちる。立ち上がり首をあらんかぎりに下げて見下ろした腹は、ぼこぼこと膨らんでは萎み、右へ左と動いている。
「誰だ!」
ゾンガロンが己の腹を殴打した。誰だ! 出てこい! そう叫びながら、ゾンガロンは爪を立てて己の腹を引き裂き始めた。一振りで真紅の筋肉組織が切り裂かれて弾け、二振りで内臓が白い液体を零しながら漏れ出る。己の腹に腕を突っ込み引き摺り出した腸が、ゾンガロンの足元でとぐろを巻いた。背に手をやれば翼を引き千切り、翼に連動した筋肉が持っていかれた奥で白い背骨が晒される。激痛から叫ぶ口とは裏腹に、ゾンガロンは己の中身を自分で掻き出して行くのだ。
居合わせた戦士達の唖然とした視線の中、僕はその正体を告げる。
「貴方は腹の中の生き物に、生かされていたのですよ」
胸を激しく掻きむしって肋骨を引き抜いていたゾンガロンの動きが、ぴたりと止んだ。
あ。あ。身体が天へ吊り上げられるように直立したと思うと、のけぞった口から噴水のように血が迸った。胸が内側から食い破られ、脈打つ心臓を咥えた命が顔をのぞかせる。
アハハ…。
笑い声を楽しげに漏らし、脈打つ心臓が噛み潰される。
それが、オーグリード大陸を壊滅にまで追い詰めた悪鬼の最後でした。
僕は頬にこびり付いた肉片を払いながら後ずさる。
それは丸い鉄の塊に大きな黄金色の宝玉が嵌まっている、ももんじゃに大きも形も似たものでした。鎧百足のような蛇腹が折り畳まれ体を覆い、小さな爪が筋肉をやすやすと引き裂き、宝玉の裏側にある口が息絶えたゾンガロンを貪っている。ぼりぼりがつがつ。肉も骨も関係なく、見た事もない魔物は笑い声を漏らしながら食べ進めるのです。
これが、繭と関係ある異形獣。
僕はガルードさんの傍まで下がりながら、目を離さず観察する。
瞬きひとつする間に、異形獣の体が大きくなっていく。おそらく、ゾンガロンの中で生きるために小さく縮小していた体が、宿主が死んだ事で悠々と伸ばされているのでしょう。その構造は機械系の魔物に見られる合理的な構造をしていますが、外装は鉱物ではなく甲殻で、バランスは竜、生物を食らっているのなら内部は生物でありましょう。複数の魔物の特徴を有する存在はありますが、それらは基本的に類似する系統であるとされます。獣系の魔物に植物系の組織は同居できても、生きている組織を死霊系の魔物は有する事はできない。
僕は乾いた喉を生唾が通るのを自覚しました。多くの魔物を見てきた直感が、潤った喉を瞬く間に灼く。
この生き物は自然に生まれた者ではない。何者かに造られた、世界の理の外の存在。
全身が粟立ち、この生き物を殺さなければと理性ががなり立てる。
いや。僕は頭振る。
生まれた生命を否定する権限など、僕がどうして持ち合わせていましょうか。
魔物が世界に溢れた時、異端であり排斥すべき存在だったに違いない。神話において、魔物は大いなるミトラが望んで生み出した存在ではなかった。魔物は強すぎる光の影の部分と、小さな悲劇が重なって生まれた存在と伝わっています。気の遠くなる歳月の間に世界は魔物を受け入れ、魔物達の中には人と歩む考えの者とて珍しくない。
この生き物を脅威として拒絶し、殺める事は簡単だ。
しかし、生まれたばかりの無垢な命を奪う権限は誰にもない。
アハハ。クスクス。もはや大きな塊はなくなり、小さな肉片と大きな血溜まりだけになったゾンガロンから異形獣が顔を上げた。その大きさは平均的なリザードマンと変わらず、キラーパンサーの子供でさえあどけないというのに、すでに殺傷能力を備えた鋭い爪や攻撃的な体の特徴を備えている。肉片と返り血を存分に浴びた体が、まるで子犬のように跳ねて、手を広げてこちらを見る。
『アソボウ…! ボク ト アソボウ!』
どの魔物の言語にも属さぬ、訛りのない完璧な人語。金切り声が却って子供のあどけなさを強調したのです。
僕の隣に立っていたガルードさんが一歩前に進み出て、拳と手のひらを打ち合わせた。軽快な音をひとつ響かせ、不敵な笑みが満面に広がったのです。
「アァ、イイトモ! ヒーローハ 子供ノ 願イヲ 断ワッタリシナイ!」
足を踏み切ればキラーパンサーのトップスピードに瞬く間に至り、爪は名刀の切れ味を誇り、振り下ろす腕の強さは既にギガンテス並み。戯れ合いを理解していない子供の動きは躊躇いなく、遠慮がない。大地に爪が振り下ろされれば堅牢なグレンの岩肌がパンケーキにフォークを差し入れるように突き刺さり、尾を振り下ろせば大きな亀裂が走り砕けた破片が舞い上がる。
「ヤルジャ ナイカ! ソンジョ ソコラ ノ 魔物ヨリ 強イゾ!」
生半可な力量では瞬く間に肉塊にさせられそうな相手に、実力も経験も豊富なガルードさんは優位に立ち振る舞う。実際に生まれたばかりの異形獣は、相手を見れば飛びつき、動くものに爪を振り下ろす、生まれたばかりの生き物のような素直さを見せていました。
『タノシイ! タノシイ!』
キャッキャッ! まるで金属を擦ったような生き物の発する音ではない声。しかし、その声には確かに楽しさに弾んでいて、無邪気に遊んでいる様子に嘘はない。
アストルティアを滅ぼす為に生み出されただろう命。
しかし、その真性が邪悪とは限らない。
僕はグレンの戦士達へ視線を向け、目的の物を持った若者の下へ駆け寄る。グレンの考古学者の提案でオーガの神話を再現するという作戦を立てていた為か、この場には本来あるかどうかも分からない戦いのドラムがあったのです。大木をくり抜いた飴色の胴に、オーガ族の紋章が赤く染め抜かれた皮が魔物の骨でピンと張られている。
駆け寄ってきた僕に怪訝な顔をした若者の反応など無視して、僕はドラムを掴んだ。
「お借りします!」
ぐるんと若者に背を向け、ガルードさんと異形獣が戯れる姿を正面に見据えるようにドラムを据えて立つ。しっかりと足の裏を大地に着け、軽く膝を曲げる。腹の底まで冷え切った空気を吸い込み、腹の中で己の熱と混ぜる。
聖と魔。命とはそんな小さな基準で左右される存在ではない。
生と死、喜びも悲しみも、時間の流れ、選択ひとつひとつが、輝かしい奇跡。魂が宿る全てに、冒険の書が与えられる全てに、平等に降り注がれ、享受する権利がある!
オーガの種族神ガズバランよ! 神話が偽りでないなら、目の前の命に未来を与えてみせろ…!
決意と願いを込め、手を幕に叩きつけた!
どぉん! どっしりとした重厚な音が吹雪の音を跳ね除け、衝撃波となって広がっていく。さらに数回ドラムの具合を見る為に叩いた後、僕ははっきりと拍子を刻み始める。オーガ族はその耳に馴染んだ拍子に、驚きの表情を浮かべて互いの顔を見合わせる。
これは現代に『戦の舞』として伝わった、ドランドの鬼人達の舞。
ゾンガロンによって鬼人となったドランドの民は、オーガ族が獲得した知能や文化を削ぎ落とし原始の状態に戻りました。そんな彼らだからこそ、魂に刻まれたオーガ族誕生の神秘を表現することができたのです。ドランドの民が鬼人と成らねば、『戦の舞』は現代に広まる事はなかったでしょう。
彼らの悲劇は無駄ではなかった。
オーグリードに流れた血は無駄ではなかった。
全ての命が報われるように、全ての魂が救われるように、僕は残らず伝えて魅せよう!
『戦の舞』のリズムを刻み始めた僕に、ガルードさんは一瞬だけ視線をこちらに向ける。その横顔は楽しげに細められ、細い三日月の形の口元が耳まで裂ける。
しかし、目の前の異形獣から長く目を離す事は命取りになりかねません。
流石、戦闘に特化した個体として生まれただけあって、動きに無駄が無くなってきたのが素人目にもわかります。ガルードさんの動きをよく見て、威力と速度が増してきています。僕の叩く『戦の舞』リズムに、ガルードさんの動きが呼応するのも察したようです。戦闘センスの良さが、火種にメラを放つが如く瞬く間に吸収し体得してみせる。
最初は子供と大人のじゃれあいだったものが、ほんの少しの間に一流の戦士の戦いに進化する。二人の動きは鬼気迫る程に真剣で、まるでダンスをするかのよう。互いの動きを理解し、それ以上の動きを、それ以上の驚きを、時には要望にお応えした一撃をやりとりしている。
二人の周りは異様な熱気によって吹雪は届かず、陽炎に揺らめく円形の舞台が出来上がっていました。それらを囲むグレンの戦士達が、ドラムのリズムに手拍子を加え、歌を添え、蘇った神話の舞を踊り出す。
きゃっきゃっ! 異形獣から笑い声が弾けた。
『ズット ズット アソビタイ!』
撫でるだけで出血多量の深手を与える爪を紙一重で避け、ガルードさんは快活に了承した。
「イイトモ! オマエノ 知ラナイ 強イ奴! スゴイ景色! 楽シイ事ヲ 沢山 教エテヤル!」
その言葉に異形獣が尾を叩きつけ、軽い体が跳ねた。
『ミタイ! シリタイ! オシエテ!』
顔に当たる部分に巨大な宝玉がはまっているが、期待に目を輝かすという表現がこれほど似合うというような反応だった。鉄色の外装が心が浮き立って武者震いし、宝玉が日の出の輝きを放つ。ついに攻撃をやめて居ても立ってもいられず、その場をぐるぐると回り出した異形獣を見てガルードさんは大声で笑った。まるで業火のような低い大きな笑い声を響かせ、そわそわする異形獣のつるりとした頭を撫でた。
「最初ニ オマエノ ヒーローノ 名前ヲ 教エテヤル! オレ様ノ 名ハ ガルード ダ!」
ガルード! ガルード! 異形獣は大袈裟なまでに両手を叩き、打ち合わさった爪が歯の浮くような騒音を響かせる。そして、くりんと長い首をしならせて首を傾げる。
『ボクハ? ボクハ ナマエ アルノ?』
「オマエノ 名前ハ…」
ガルードさんが大きな手を顎に添えて、天を仰ぐように考え込みました。彼のことですし『ヒーローが名前を付けるのだから、カッコイイものが良い!』と思っているのでしょう。名付けとは魂にとって重要な儀式。真剣に考える事は大変良い事です。
ふふっ。僕は自然と笑みが溢れてしまう。きっと、神話にあった種族神ガズバランがオーガを己が子に決めた時、こんな光景だったのだろうと思ったのです。
「貴様には必要ない」
唐突な声だった。
無邪気な異形獣とも、快活で自信たっぷりなガルードさんの声でもない。なんの感情を含まない何の変哲もない男性の声が、全ての雰囲気を破壊したのです。その声を聞き、声の主を認識していた時には全てが遅かったのです。
異形獣の後ろに突然現れた黒い革鎧を纏った剣士は、すでに深々と異形獣の体に差し込んでいたのです。僕も、見守っていたグレンの戦士達も、目の前にいたガルードさんですら、その男の接近に気がつくことができなかった。
異形獣は期待を膨らませたまま、切られたことも知らずに、ゆっくりと体が傾いでいく。一つ澄んだ音を立て剣を振り抜かれると、異形獣の体から夥しい血が迸った。
「余計な感情が芽吹くとは、予定外なことばかり起こる…」
地面に激突して跳ねた拍子に二つに割れた体。パッと散った血飛沫が真っ白い雪を汚す。怒りに瞬く間に膨れ上がったガルードさんの背中に、彼の死が見えた。命を奪い目の前で痛烈な殺意を浴びせられた黒い剣士の顔には何の感情はなく、瞳は真っ黒に澱んでいる。
これが、アストルティアを滅ぼす災い。
僕は世界を滅ぼさんとする意志を、いくつか見てきたつもりだ。滅びゆく世界の絶望もを慈しんだ者。己の存在を顕示すべく支配しようとした者。愛する者と世界を天秤に掛けた者もいただろう。その理由には、大なり小なり欲が絡んでいる。
しかし、目の前の存在は違う。
憎悪。
純粋で真っ黒い憎悪が、形を得て襲いかかってくる。