戦車の轍に伏した屍 - 後編 -
僕は短い息をどうにか継いで、水の中を進むようにもがいていた。
ゾンガロンのねぐらへ繋がるとされる岬への氷穴は、吹き込む海水によって岩が満遍なく凍りつき、潮が結晶化して世界に二つとない美しい光景だった。僕の身長より大きな正方形の結晶が複雑に組み合わさって、氷穴の中に迷い込んだ僅かな光を真昼の陽光さながらに増幅させる。輝きの奥に潜む夜よりも濃厚な闇が、今にも膝が折れそうな視界の中でぐらぐらと揺すられていた。うっかり触れてしまったら美しい光景が壊れてしまうと思うくらい、身体が燃えるように熱い。
潮風に撫で上げられ海に飛び込んだような濃厚な磯の匂いの洞穴だが、時折顔を顰めたくなるほどの血の匂いがする。先発隊によって露払いされた魔物達が、まだ生暖かいのだろう。
ずるりと、足首があらぬ方向へ曲がった。
滑る血溜まりに足を取られたと気がついた時には、体は横転して空中にある。氷の粒が空気中に漂う静寂の中で、僕の体が氷筍に突き刺さる角度で倒れていくのを冷静に見る。
あ。声が漏れたのは死を認識したからじゃない。
腕を強引に引っ張られ、胸から空気が押し出された。そのまま肩をがっしりと掴まれ、紫の衣が包む硬い胸に頬が押しつけられた。どっどっと早鐘を打つ心臓は、僕のものか相手のものか。
「グリエ様。少しだけ休みましょう」
魅力的な提案に頷きそうになった頭を押し付け、僕はレナートさんの胸に手を当てる。思いっきり押して体を離そうとしたけれど、がっしりと掴まれてびくともしない。
ぽんぽんと大きな掌が背を叩いた。
「駄目よ。足元が覚束ないじゃない」
セーニャ。シルビアさんに声を掛けられ、セーニャさんが傍に歩み寄る。僕の胸の上に手を添え、讃美歌のような神々しい声でリホイミを唱える。新緑の光が僕を包み込むと、あんなに苦しく閊えていた息がすっと通り抜けるようになる。
自然治癒力を高めるだけのリホイミは、筋肉痛のような外傷に至らない小さな損傷や疲労に効果がある。僕のように体力が元々少ない者にホイミを施せば、たちまち寝込んでしまうほどに体力を消耗させられてしまうだろう。
自分の体が想像以上に消耗していたのを悟って、僕は美しい紫水晶の瞳を見て礼を言う。セーニャさんの柔らかく嬉しさを滲ませた笑みが、僕の焦燥を溶かしてくれた。
「まだ戦いの音は聞こえていないから、大丈夫ですよ」
「ゾンガロンを待ち構えてるか、仕掛ける機を窺って慎重になってるか。どっちかしらね?」
誰かが落としたのだろう毛皮の外套を敷き、押されるように座らされる。見上げる二人が話す内容が雑談に変わっていき、暖かくて甘いお茶を渡され、味が濃縮された干し魚を解した物を食んでいると高鳴る鼓動が落ち着いてくる。
「グリエ様はお兄様が大好きなんですね」
そんな言葉に横を向けば、セーニャさんの優しい横顔がある。
彼女には姉が居ると聞いている。そんなセーニャさんの姉という存在に、誰もが辛い過去に触れるように悲しい顔をした。恐らくは存命している人物ではないのだろう。この魔物が闊歩する世界を旅するならば、死に別れは珍しい事ではない。
セーニャさんは『妹』だから、ギルガランの『弟』である僕に親近感を持っているようだった。僕は申し訳なく思いながら、親近感を振り払うように首を振った。
「僕は『好き』とは違うんです」
好きか、嫌いか。二択で問うならば、嫌いと即答するだろう。
ギルガランがいなければ。今は忘れた頃に、酷い時は息をするように、数を合わせれば星の数に匹敵する回数は考えたに違いない。父ゾルトグリンから受け継いだオーガでも類稀な肉体は、巨大な魔物に引けを取らぬ剛力と、風をも追い抜く俊足を持ち、全てを引き離す持久力を持っている。戦う才能はオルセコ最強であった父でさえ舌を巻き、幼くしてオルセコの未来は明るいと讃えられた。整った目鼻立ちは女性の美的感覚的に物足りなくはあったが、母譲りの顔立ちを父は愛していた。肉親の贔屓目を抜いても、オーガが求める全てを手に入れた種族神に最も近い男だろう。
同じ両親から生まれれば、比べられてしまうものだ。
血縁者でもない赤の他人が比べるなら、まだ我慢できただろう。
だが、僕とギルガランを比べたのは他でもない父だった。幼くとも頑強で健康なギルガランが王に相応しいとは思っていたが、僕が遠い親戚に預けられると決まれば否が応でも突きつけられる。母は僕と共にオルセコを離れると父に直訴したそうだが、母を溺愛する父はそれを許さなかった。
母とギルガランは必要で、僕は要らない。
父の決定は、僕の心にべったりと絶望と憎悪を塗りたくった。
母が死に、僕の知識と聡明さに利用価値を見出した父の都合でオルセコに戻された時、どれだけ腑が煮え繰り返った事だろう。ギルガランの弟は病弱でオーガの出来損ないと、オルセコの国民から揶揄われる日々。父は価値がなければ再び捨てるだけだろうと思えば、僕は石に齧り付いてでも耐え忍び価値を示さなくてはならなかった。
我儘で自由なギルガランが、羨ましくてたまらなかった。
健康で強いギルガランが、憎くてたまらなかった。
同じ父、同じ母の元に産まれておきながら、この差は一体なんなんだろう? こんな惨めな想いをするのなら、産まれて間も無く死にたかったとガズバラン様を恨みもした。
戦士達に囲まれ、己の弱さを突きつけられる日々。僕を見下ろし、嘲笑を浴びせる者達。全てを知っても表沙汰に出来ず、悔しげに目を伏せ顔を背ける者。優しさを利用する強かな弱者達。価値しか求めぬ王。全てが恵まれ順風満帆な兄弟。
憎かった。
何も出来ない僕も含めて、全てが。
そんな真っ暗な日々を、ギルガランが蹴散らした。
僕を弱いと揶揄う戦士達を降参するまで殴り倒し、僕を笑う者を睨んで黙らせる。僕と相手の間に立ちはだかる、オルセコの紋章を縫い付けた真紅の外套から浮かび上がる肩甲骨の大きなこと!
「誰かを守る事を躊躇わぬギルガランに、僕は王の器を見ました」
オーガ族にとって必要のない僕に、ギルガランは言ったんだ。
『お前の思慮深さは俺にはないものだ』
差し出された手は、初めて出会った時とは比べようもなく大きくなっていた。
『俺にしか出来ない事があるように、お前にしか出来ないことがある』
なんて、眩い言葉なんだろう。
真っ黒い感情に、火を投げ込まれたようだった。
「僕はギルガランを、立派な王に育てると決めたのです」
ふふっ。セーニャさんの笑い声が小さく漏れた。休憩が終わるのだろう。立ち上がった新緑のスカートから浮き上がるように、人間族のほっそりとした白い手が差し出された。
「そんな大変な事、好きじゃなきゃ出来ないですよ」
手をとって立ち上がったとほぼ同時に、戦いが始まったとわかる衝撃が氷穴を揺らした。きゃっ。小さい悲鳴と共にぐらついたセーニャさんの小さい肩を支えるように掴み、頭を守るように後頭部に手を回して抱き寄せる。ぎしぎしと軋む氷の柱を睨んでいると、ゆっくりと不穏な空気は去り嵐の前の静けさと潮騒が寄せては返す。
ありがとうございます。もぞりと動いたセーニャさんに微笑み返して、ゆっくりと体を離す。オーガとして貧弱であっても、人間族の女性の華奢さに比べれば十分立派な体躯だ。彼女を危機から守り、安心させる事ができたなら嬉しい事だと心が温かくなる。
「始まったみたいね。行きましょう」
激しさを増す戦いの気配は、一秒が一年に感じるもどかしさを生んだ。あまりにも長い道。あまりにも遠いギルガランの背。
僕は胸元に仕舞ったギルガランの手紙が、くしゃりと音を立てたのを感じていた。俺は王の器ではなかったなどと、殊勝な事を書いた手紙。あの粗暴さとは裏腹に美しい文字で、僕ならどれほど良い国が作れただろうとか書いてあるんだ。オルセコを任すだなんて、自信しか口から出ないからって手紙で書くなんて明日はもこもこ獣の猛吹雪だ。
ギルガランの大馬鹿野郎! 僕は胸を掴んで手紙をぐしゃぐしゃにした。
僕は、君を絶対に死なせたりしない!
元々明るかった氷穴が、真っ白に溶けた。凍てついた風が芯まで冷えよと歓迎の抱擁をし、ざざん、ざばん、と岸壁に叩きつける波の音が大手を振って出迎える。
氷穴を抜けた! 外の光に目が慣れていけば、そこは巨大な戦場の最後尾でした。
怪我を負った者が運ばれて回復呪文や応急処置が施され、積み上げた物資の向こうでは矢を番えた戦士達が弓を引き絞っている。母の治療でオルセコに滞在していた事のあるゴルガーレンさんが、怪我人から顔を上げて『グリエ様!』と驚いた声を上げた。
レナートさんが短くセーニャさんへ目配せすれば、セーニャさんは竪琴を爪弾き美しい讃美歌を歌い出す。その声に織り交ぜた回復呪文の祝詞が、ベホマラーとなって戦士達に降り注いだ。
戦士達が驚いている間に、人波をステップで掻き分けるのはシルビアさん。あら、ごめんなさい。なんてウインクをしながら割った道を、レナートさんと僕が続く。
「グリエ様! これ以上先は行っちゃ駄目だ!」
静止する為に飛び出したムニュ大臣に、レナートさんが迫る。ちらりと振り返った翠の瞳が、僕に先へ進めと言っていた。
ありがとう!
言うべき言葉が、全て駆け出す為の呼吸に使われて言葉を紡ぐ事ができない。
心臓が脈打ち、全身を打ち付ける程に強く血液を送り出す。鼓動の音は轟音の炎のようで、口を開ければ炎が噴き出すように体が燃えたぎっている。
鬼人になって首と胴体が離れた遺体を飛び越え、どうにか下がる戦士達とすれ違い、岬の先端へ走る。潮風を切り裂いて、ギルガランの戦斧の音が響くんだ。
ゾンガロンの不快な笑い声が、風下に木霊した。
「追い詰められたスライムは竜をも噛む! ようやく我が獲物に相応しくなったな!」
白い空に白い太陽。迫り来る潮騒と、鼻から脳裏に抜ける強烈な磯の香り。
夢に何度も見た光景だった。
蜂蜜のように重い空気の中でもがきながら進む僕の前で、ギルガランが殺されてしまう夢。その夢を見始めた頃は当然の報いと眺めていた僕だったが、今は違う。
僕の命を燃やして溢れる炎が、過ぎる絶望を燃やす。
僕と同じ新雪の髪の下に輝く瞳が、僕らの国の紋章を背負う背中が、どっしりと踏み締めた両足が、彼が生きているのを告げる。爪と斧が火花を散らして弾かれ、距離を取った両者の間に光が爆ぜる。
我が身に降り注いだ光は鬼人となる死の光か、太陽神の祝福が反射した無害な光か。真っ白い世界で誰もが思わず、身を硬らせる。ただ一人 光から最も遠い邪神の加護を受けた者だけが、好奇とばかりに爪を振り上げた。
間に合え。僕は駆ける。
奪うな! 僕は叫ぶ。
その子は、僕の王様だ!
僕はギルガランの前へ躍り出る。背中に感じたギルガランのさらりとした服に、彼が無傷であるのを感じる。間に合った。僕は間に合ったんだ。
そう思った瞬間、胸を衝撃が貫く。僕の体は見えない壁に吹き飛ばされたように、背後のギルガランの腹に当たり、衝撃が抜け切らない体を逞しい腕が抱き止める。
グリエ! 聞いたことのない驚きに掠れたギルガランの声に被さるように、ゾンガロンの高笑いが降り注ぐ。雨粒のように降る涎の向こうで、悍ましい笑みを満面に浮かべた悪鬼の顔がある。瞳は三日月のように細められ、笑みを浮かべた口からは滑る長い舌が見え隠れする。
「ギルガラン! グリエが倒れたぞ! さぁ、どうす…」
両手を叩きはしゃぐ子供のようなゾンガロンの顔が、凍りついた。
炎が燃えている。この脆弱な体を燃やして、腕が、足が、体が軽くなるのが分かる。
僕は燃える手で胸を貫いたゾンガロンの腕を握ると、細い指が分厚い筋肉の束にめり込んだ。力を込めれば腕は胸からずるりと擦れる感覚を残しながら、悪鬼の腕が抜けた。
体の奥から血生臭い液体が込み上げたが、軽く咳き込むと赤い粉が出ただけだった。
「悪鬼が唆す前から、僕らは同族同士で殺し合っていた」
戦い、殺し合い、奪い合う。
オーガ族にとって相手となる国を滅ぼし、大きくなる国は最強の象徴だった。強者の言葉は絶対で、父はまさにオーグリードに君臨する王だったろう。
しかし、最強の王と自惚れても、食卓に乗る豪勢な食事は王が作った者ではない。王よりも弱いオーガ族が丹精込めて育てた野菜や、一流の狩人が仕留めた肉が献上され、料理の腕の良い者が多彩な調味料や絶妙な火加減で料理を作り上げる。僕らが雨風を凌ぐこの建物は、遥か過去に大勢の弱者によって作られ、今も修繕を欠かせば快適な生活など簡単に瓦解する。
多くの弱者に支えられ、強者と胸を張る父。
その存在を否定することはしない。幼い僕にもドランドと対立して敗北すれば、オルセコの民が皆殺しになる事は十分に承知していた。父はいざという時、オルセコを背負い民を守る責務がある。
それでも、ずっと考えていた。
どうしてオーガ族は、殺し合いを続けているのか?
ギルガラン。僕はその問いを、背後に立っているだろう兄弟へ投げかける。
「この共闘は、悪鬼という共通の敵が存在するから出来るんだ。ゾンガロンが討たれれば、再びオーガ族同士の戦いが始まる」
ゾンガロンを討つ為に集まった、有志達による討伐隊。
宿敵として互いに睨み合っていた国、滅ぼした国と滅ぼされた国、滅ぼそうと画策していた国と返り討ちにしてやろうと身構えていた国、互いに殺し合っていた国々の垣根を超え一つになったオーガ達。それは、いままでの歴史を思えば奇跡だった。
しかし、その理由はただ一つ。
脅威ゾンガロンへの復讐。
彼らは今まで同族へ向けていた殺意を、ただゾンガロンへ向けているだけなのだ。
ゾンガロンが討たれれば、復興の合間は短い平和がオーグリードに齎されるだろう。ここに集った戦士達はそれぞれに故郷へ帰り、生き残った者達で寄り添い、小さな集落から始まって、子供が産まれて規模が大きくなっていく。復興し軌道に乗るまでの間は、ただ生きていく事で全てが忙殺されていくに違いない。
近隣の集落同士で小さな諍いが起こるだろう。その時、彼らは話し合いで落とし所を見つけ、諍いを鎮める事が出来るのか? 冷静に事態を見つめ、打開策を導き出す事が出来るのか?
いいえ。悲しいが、答えは『いいえ』なんだ。
それが出来ていたならば、ゾンガロンに滅亡にまで追い込まれた今は存在しない。
戦って勝った者が正しいという今までのオーガ族のやり方が、調和の芽を摘み取っていく。殺されぬ為に、守る為に、互いに武器を取り殺し合うだろう。
轟々と音が溢れて止まらない。僕の言葉はギルガランにちゃんと届いているだろうか?
「僕達オーガ族が互いに手を取り合い、共に歩いていく為には、長い、気の遠くなる年月が必要なんだ」
僕は拳を振り上げ、見上げていた醜悪な頬を殴りつけた。
父の記憶や細腕が物語る通り、僕の拳は子供の戯れのような弱々しい一撃だ。悪鬼は雨粒を受けるように避ける様子もなかった。しかし、炎の拳は分厚い皮膚にめり込んで深い皺を刻み、数え切れぬ命を貪り食った牙を折り、目玉が飛び出しそうなほどに見開いた悪鬼の驚きの顔が地面に叩きつけられる。
「我が父ゾルトグリン。数多の命を屠った罪を感じるならば、オーガ族の脅威として君臨し続けるんだ。貴方は誰からも尊敬されず、誰からも愛されない。恐ろしい化け物であり続け、オーガの憎悪を一身に引き受け続ける事が貴方の贖罪となる!」
カッと見開かれた眼が一瞬で朱に変わる。全身の筋肉が瞬く間に倍以上に膨れ上がり、飛び起きざまに組んだ手が鉄槌となって僕の頭へ振り落とされる。
「食材にもなれぬ弱者が、何をほざく!」
轟音にかき消されながらも拾った父の言葉に一抹の哀しさを感じながらも、僕はゾンガロンの渾身の一撃を交差した腕で受け切った。衝撃が腕から腰、足へ抜け、踏ん張った足の裏の地面が衝撃に砕け散る。舞い上がった頑丈な岬の岩が、雪のようにゆっくりと赤い世界に舞っていた。
僕は深く息を吐く。
炎の音が喉から口へ勢いよく滑り出し、皮膚を破って炎が噴き出してくる。皮膚の上を火が舐め、体を芯に一つの巨大な篝火となって空を焦がす。
ぶるぶると震えるゾンガロンの腕が、下半身から燃える炎を小刻みに揺らす。押しきれぬと悟ったのか、組んだ手を解いて一瞬にして間合いを開ける。悪鬼は両手を地面に突き、顎が地面に触れるほどに下げられる。悪鬼の爪が地面を砕いて体を押し出し、まるで迫り来る土砂の如く眼前へ飛び出す。僕の喉元を食いちぎろうと開かれた顎には、折れて血まみれになった歯に縁取られオーガの血肉で塗り固められた闇が覗く。
燃える両手はゾンガロンの上顎と下顎を掴み、勢いを流して振り回す。崖へ放り投げると、強固な岩盤を砕きながらゾンガロンの体が沈み込んでいく。
ゾンガロンの姿が黒い炎に呑まれ、その体の輪郭が消えた。
世界が真っ暗になっているが、見渡す限りに炎が盛って眼を灼いている。
その一つ一つが生きとし生ける者が胸に抱いている炎だ。レナートさんは新緑の輝きが美しい炎を、シルビアさんは様々な色に移ろう魅力的な光を、セーニャさんは自身の炎の中に励ますように輝く光を抱えている。ムニュ大臣の優しさと激しさが混じる炎、それぞれの王国の王達の勇ましい炎。ゾンガロンの汚れ切った真っ黒い炎。そして最も美しい青い炎はギルガランだろうと思うと、僕はふと温かい気持ちに満たされる。
さぁ。さぁ。赤く輝く火の粉が、僕を急かすように舞い降りてくる。
真っ黒い炎に手を掛けると、僕は大きく息を吸った。
炎が燃える。
僕の体を燃やし尽くし、僕の魂を燃やして、世界に轟音を響かせる!
あぁ、僕は死ぬ。でも、常に傍にあった死が、想像と違ってこんなにも熱く激しいものだったなんて…!
ギルガランに伝えたい事が溢れて、どうして伝えていなかったんだと焦りすら感じる。僕は声を振り絞って叫んだ。
「ギルガラン! 民を束ねろ! ゾンガロンへの脅威に備える事で、弱者と強者が手を携える世を作るんだ! 僕らは獣ではない! ガズバラン様を種族神に戴く、誇り高きオーガだ!」
僕の炎に数えきれぬ火の粉が加わり、火炎旋風となって闇の中を大きく照らし出す。
「全てのオーガ族がガズバラン様の名の下に力を合わせれば、邪神の加護を得た獣など敵ではない!」
火の粉はゾンガロンに殺されたオーガ達の魂だった。勇敢なる若者よ、我らの復讐を成し遂げておくれ。優しい心の青年よ、どうか我らの無念を悪鬼の死を以て晴らしてください。偉大なる炎よ、邪悪を燃やしオーグリードに安寧を。ゾンガロンに殺された無念が、愛すべき故郷を奪われた屈辱が、大事な人を奪われた憎しみが、僕の心に囁く。
分かっている。
その憎悪を、その絶望を、僕はよく理解している。
でも僕は胸に灯った火は、どんな憎悪も絶望も消せぬ猛火になった。その炎が僕の最後の言葉となって、轟音と共に世界へ放たれた!
「ギルガラン! 君は良い王になる!」
黒い炎がぼこぼこと大きく膨れ上がる。不安定な炎が、萎んだと思えば突然膨らみ、先端が引き攣れる。鼻が曲がりそうな悪臭を放ち、火の粉が肌を撫でるだけで焼け爛れ腐り落ちる邪悪な炎。僕は自分の中から湧き上がる炎に導かれるように、黒い炎の中心に手を差し入れた。
やめろぉおおおおお!
命乞いとは片腹痛い! 火の粉は憤る。心臓を抉る手が止まったが、腹を裂かれて臓物をぶち撒け激痛にのたうつ己を楽しそうに眺めていただろう。小さい体を引き裂いて押し入り、嘔吐物を吐き散らしながら衝撃を与え続ける様子を笑っていたくせに。友が、親が、子が、鬼人となって殺し殺されなければならぬ状況にした元凶め。何百何万と殺しても殺したりぬ!
あぁ、ごめんなさい。僕は渦巻く憎悪に謝罪する。
貴方達に比べれば、父が受ける苦しみはほんの僅かだろう。こんな一瞬の死では、何の贖罪にならぬ事はわかっている。
それでも、僕はこれしかできない。
僕はぐっと指先に力を込め、まるで真綿を引き裂くように黒い炎を割った!
瞬間。真っ白い炎が噴き出した!
煮えたぎる鉄のように爆ぜた光が、僕の手の間から迸る。目を焼くような数え切れぬ火花が、僕の顔を掠め後方めがけて飛んでいく。
火花を待ち構えていた火の粉が混ざり合って、再会を喜ぶ声が、謝罪と許しの声が、無言の中に強い思いが、僕への感謝の声が溢れていく。火の粉と火花は僕の炎によって高々と舞い上がり、満天の星空のように闇を彩った。一瞬のような、長い年月のような、不思議な時間の流れの中で悪鬼に命を奪われた同胞達の魂がひとつひとつと消えていく。
僕は独り見送って、足元に視線を落とした。
まるで炭のように小さくなった黒い炎を、そっと抱きしめる。
父よ。
一緒に、ギルガランを見守りましょう。