荒れ狂う力は自身にすら牙を向く - 前編 -

 
 切り出した岩を積み上げたオルセコ王国の天井は、恵まれた体格のオーガ族の王国とあって高く、吊るされた篝火が地面に薄く積もった砂利をキラキラと煌めかせる。外側は窓一つない崖のような鉄壁さを誇るが、中央の闘技場側は柱のみの解放感でキツイ日差しが隅々まで行き渡った。緩やかなカーブを描く広々とした通路を進めば、闘技場の周囲を一周するように商店が軒を連ねる。馬車がそのまま入り込み、快活な民が一斉に荷卸する様は港町の活気に似た気持ちの良い雰囲気があった。
 僕を追いかけていた将軍を思わせる屈強な体格の影の合間を、影がぶんぶんと手を振る。僕も応じて手を上げる間に、人波をワルツを踊るように軽やかにすり抜けて目の前だ。
「はぁーい。レナートちゃんも陳情書は片付いたのかしら?」
 うん。頷いた僕に、剣を握る節くれだった手が食べ物を差し出した。
「依頼主さんの感謝のお気持ち。温かいうちに頂いちゃいなさい」
 歯応えのあるパンは焼きたてでまだ柔らかく、スライスした肉がたっぷり挟まれている。肉はやや脂っ気の少ない赤身だが一緒に挟まれている薄切りの森のバターと呼ばれる果物と、果実のソースの甘酸っぱさが絶妙に絡んで口いっぱいに広がった。セーニャなら半分でお腹いっぱいになってしまう大きさで、武術が盛んなオーガ族ならではのサイズだろう。
 僕がもぐもぐとサンドイッチを口に運んでいる間に、真横に腰を下ろした相手の香水が鼻先を撫でた。ワックスできっちりと整えた髪を撫で付け、凛々しい顔立ちが花のように綻ぶ。ふわりと胴を包むのは、白黒の縦縞に白いポンポンがついた道化のような服。体にぴったりと添う燕脂色の袖やグレーのズボンから浮き上がる、しなやかな四肢。身長はオーガ族の男性より少し低いけれど、鍛え抜かれた胸筋が道化の服を否応なく押し上げていた。腰に穿くのは使い込まれた片手剣。奇抜な格好と侮るオーガ族もいたらしいが、半日も掛からず実力を示した仲間のシルビアだ。
 シルビアは既にお礼の食事を振る舞われた後だったらしく、手に持った包みはセーニャの手土産らしい。僕が食べている間に、陳情書の顛末を面白おかしく語ってくれた。
「ギルガラン王子の尻尾があっちこっちの商品薙ぎ倒して行ったって、市場はドランド平原の鬼人国が攻めてきたような大騒ぎ! あっちの肉は落ちて砂だらけ、こっちの野菜は木箱に挟まれぺっちゃんこ、背負った斧が引っかかって売り物の布は引き裂かれちゃって、酒樽はひっくり返って段差に酒の滝が出来てさ、挙げ句の果てには割れた卵で床が酷い有様だったわ!」
 王国に提出される陳述書のほぼ全ては、ギルガラン王子に関する内容だ。
 やれ、ギルガラン王子に乱暴されて怪我をした。それ、王子が棚に尻尾を引っ掛けて商品がダメになった。僕の手元にある剣も、大枚叩いて購入した新品を王子に真っ二つにされた代物だ。
 弟君のグリエ王子の執務机の上には、芸術品のように積み上げられた陳情書が天井にまで届いている。この国では紙は貴重品で、石に文字を刻みつけたり、色のついた脆い色石を擦り付けて文字を書く。最初にグリエ様の部屋に訪れた時、僕らは部屋の真ん中に巨大な柱が立てられていると思ったくらいだ。兄の尻拭いをするグリエ王子の手伝いとして、僕達は王国を駆け回っていた。
「肝心の王子様は『急ぎの用だ。許せ』って言い捨てて、どこかに行ってしまったそうよ」
 手についたソースを舐めている横で、シルビアは顰めっ面の冷えた声真似をする。それを聞いたオルセコの民が『ギルガラン様そっくりだぜ!』と囃し立てて通り過ぎていった。
 武術が盛んなオーガ族の王子だ。膂力が高く、尻尾の一振りは鞭くらいの攻撃力があるかもしれない。実際に商品棚に尻尾を引っ掛ける事も、転びそうなのを助けたつもりで腕を取ったら力が入りすぎて怪我になってしまう事も、体が大きく力が強いオーガ族ならではの日常だ。
 でもねぇ。シルビアが頬に手を添えて、明後日の方向を見て嘆息する。
「アタシだって羽根飾りを背負ってる時は、周囲に気を使うわ。そうでなくても、武器を携帯する戦士は己の獲物と周囲の距離を常に把握するもの。ちょっと粗暴なだけか、傲慢なくらいの自信家か、どちらなのかしらね?」
 足を止め、相手に目を合わせ、謝罪を述べれば、情の深いオーガ族は大抵許してくれる。
 陳情書が書かれるに至ったのは、偏にギルガラン王子の誠意が足りないのが原因だった。
「シルビア。この剣、ちょっと見てくれない?」
 僕は膝の上に丸めていた紫のコートを緩めて刀身を見えるようにすると、剥き出しの折れた剣を差し出した。新品と交換して手元にやってきた、哀れな折れた剣。
 シルビアは柄を持ったり刀身を持ち上げてみたりして、断面が鏡のような剣を為つ眇めつ眺める。尖った唇を解くと、ぽつりと呟いた。
「ちょっと軸が歪んでるわね。全力で打ち合ったら、突然折れちゃうかしら」
 やっぱり。僕も同意見だと頷けば、シルビアは折れた剣を光に翳した。
 打ち直せば使える程度に鋼の質は良く、手入れもしっかりと行き届いている。訴えた若い闘士の言葉通りであれば妥当な金額で、売った商人は良心的だが伝説の武器商人のように武器を扱い整備する程の知識や経験が少ない。実際に剣を振るう者でなければ気がつけない、微細だが致命的な欠陥。
 うっ! うっ! うおーーーーんっ! 耳の奥で買ったばかりの剣を折られた、悲しみの声が木霊する。僕が指摘すると、新品の剣を抱えて己の未熟さを大声で叫んでいたっけ。
「これはギルガラン王子が『もっとマシな武器を買え』って真っ二つにした剣なんだ」
 へぇ。磨かれた刀身に映った瞳が、感心して細められる。
「これを一目で見抜いたとしたら、ギルガラン王子はなかなかの慧眼の持ち主ね」
 先代の王が亡くなり、次期国王として振る舞うギルガラン王子の行動は確かに目に余る。
 それでもギルガラン王子は、ただ乱暴で不器用な人ではない。
 王子はこの剣の致命的な欠陥を見抜き、戦いの場で突如折れて持ち主が死んでは欲しくなかったのだろう。ただ剣をへし折り、『マシな武器を買い直せ』と財布が空になったばかりの闘士に言い放った、とても優しくない方法で指摘するのが駄目なのだ。
 …いや。やっぱり、乱暴で不器用なだけかもしれない。
「もう少しグリエ様と仲良くして欲しいね」
 ほんと、それよ。シルビアも深々と頷き、わっと沸き立った方へ顔を向けた。
 市場の一角に人集りが出来ている。活気ある挨拶と心からの感謝の声が広がると、市場の商人達は次々に売り場から離れて人集りに加わっていく。『グリエ王子。先日は助けていただき、ありがとうございます!』『グリエ様! うちの新商品味見してお行きよ!』大なめくじの速度で人集りは前進し、感謝の言葉が途切れる事はない。オルセコの民は『グリエ様は先王様のように、お優しい方だねぇ』『グリエ王子は数え切れないくらい苦情を聞いてくれて、人が良いよな!』と囁き合って方々へ散って行った。ゆっくりと人集りが解れる頃には、両手いっぱいに感謝の品を抱えたグリエ王子とセーニャが僕達の目の前で笑っていた。
 柔らかい白銀の髪の下に浮かぶ柔和な笑みは見る者に安らぎを与え、氷を彷彿とさせる色の薄い青の瞳がひたと見つめれば信頼できる真摯さが滲む。人間であれば標準的な体格がオーガ族にとって貧弱であるのが、彼の唯一の欠点だった。
「レナートさん、シルビアさん。お手伝いくださり、ありがとうございます」
 オルセコ王国のもう一人の王子、グリエ様が丁寧に頭を下げると、手からころりと林檎が落ちる。林檎をものめずらしく眺めるのは、赤い帽子を被ったヨッチと鞄を下げたクルッチ。白く丸い生き物が見えないグリエ様は、転がった林檎を拾い上げた僕に困ったように微笑んだ。
 グリエ様は両手いっぱいの感謝の品を巡回の兵士に渡し、皆の差し入れとして食べてくださいと送り出した。受け取った兵士達が満面の笑みで足速に去っていくのを見送ると、グリエ様の表情がたちまち暗く陰る。重たい、絞り出すような溜息がグリエ様から漏れる。
「王族の墓で何かあったんですか?」
 昼過ぎに緊急の伝書で使われる剣鷹が舞い降り、足に装着した筒に収まった貴重な紙に書かれた内容を見たグリエ様は弾かれるように王国を出ていった。同伴をセーニャに頼む際、オルセコ王国の歴代の王と親族が葬られた墓所へ行くと言っていた筈だ。
 白銀の髪の下の瞳が、険しく眇められている。
「…兄のギルガランが、父の墓を荒らしたようなんです」
 驚いてセーニャへ視線を向ければ、ふんわりと広がるロングスカートの上に重ねられた手を握り込み、深い空色の瞳が肯定するように伏せられた。
 墓に先王の遺体はないそうだが、この魔物が跋扈する世界では遺体が散失する事は珍しい事ではない。しかし、先王の所縁の品が副葬品として墓に埋葬されており、ギルガラン王子はそれを掘り起こして持ち出したと言うのだ。時刻的に市場の騒動でギルガラン王子が言った『急ぎの用』とは、墓荒らしだったようだ。
 ちょっと待って。シルビアが声を上げた。
「さっき、ギルガラン王子を見かけたわよ。お父様のお墓を暴いたってのに、普段通りってちょっと不謹慎過ぎじゃないかしら?」
 死者を悼む気持ちを当然オーガ族も持ち合わせている。遺体がなくとも墓を暴く事が、亡くなった先人への敬意をどれ程欠いているかはグリエ様の険しい顔で一目瞭然だ。
 ふぅ。息を吐くと、険しい顔を努めて穏やかにしようと口角がぎこちなく上がる。
「皆さんが民の声に真摯に向き合ってくださったお陰で、陳情はほぼ取り下げられました。暫く王国に滞在するのに困らぬ報酬を、後日お支払い致します。今日はゆっくり休んでください」
 グリエさま。踵を返したグリエに縋るように、セーニャが声を掛ける。
「ギルガラン王子の説得に向かわれるのですか?」
 白銀の後頭部が小さく頷いて揺れると、グリエ様は小走りで通路の闇に消えていった。日中、闘技場の舞台は解放され多くの闘士が稽古に勤しんでいる。ギルガラン王子も黙々と素振りをしているのか、闘技場の方から ぶおん ぶおん と風圧が生み出す一際大きな音が響いている。
 僕達はこの国に偶然立ち寄った部外者だ。例え墓を暴いて副葬品を持ち出す事を快く思っていなくても、ギルガラン王子を非難する立場にはない。
 さらに陳情書が物語る通り、オルセコの民はギルガラン王子に面と向かって非難出来る者がいない。唯一の血縁者だからと諌める発言をしようとするグリエ様は、オーガ族としては確かに非力かもしれないが、オルセコの民で最も勇敢な青年だった。
 僕達がグリエ様を心配して闘技場を見下ろすベランダに出ると、ぶおん ぶおん とグローリアックスを金色の軌跡を描いて軽々と素振りするギルガラン王子に向かって、グリエ様が切々と訴えている姿が見えた。努めて冷静に淡々と訴えるグリエ様の声は、振り抜く風圧に完全に潰されている。
 ギルガラン王子が王の墓を暴いて副葬品を持ち出した事は、闘技場を見下ろす民の耳には届いていない。しかし、舞台上に居合わせた闘士達には聴こえているようで、一様に驚いた顔で修練の手を止めていた。
 ようやく素振りを止めて巨大な斧が舞台に突き立てられた頃には、オルセコの全ての民が二人の王子を見守っていた。
 グリエ様を見下ろしたギルガラン王子は、首に手を当て首を回す。ギルガラン王子はオーガ族でも一際体格に恵まれていて、弟のグリエ様と並べば親と幼子くらいの差があった。さも面倒そうに、気だるそうに、グリエ様を見下ろした態度に兄弟の情があるとは思えない。兄の態度に怯まずに訴える弟がすっと手を広げた。
「言葉が無くば想いが伝わらず、知らぬは不安を生みます。民は兄さんの声を聞きたがっているのです」
「黙っていろ、グリエ。今は俺が王だ」
 ギルガラン王子の鋭い視線が、見下ろす視線を睥睨した。
「オルセコの民は王の所有物だ。黙って俺に従っていれば良い」
 ざわりと民が響めき、反感の感情が膨れ上がるのが目に見えるようだった。
 確かにオーガ族は力を尊ぶ。隣国のドランド王国と長らく戦争状態のオルセコ王国で、非力で優しいグリエ様が王座に着く事はないだろう。一騎当千の武人であるギルガラン王子が王位に着き、彼の指揮の元に敵を打倒する事がオルセコにとって必要な未来であるのは明白だった。
「それでは民の心は離れてしまうよ」
 グリエ様の言葉は至極尤もだ。その言葉に、うっすらと涙を浮かべたセーニャが呻く。
「たった二人の兄弟なのに、どうしてギルガラン様はグリエ様の手を取ってくださらないのでしょう?」
 『口は悪いけれど、国を守ろうと必死なんです。どうか大目に見てやってくださいね』と笑っていたグリエ様の気持ちを、セーニャは自分の事のように感じていたようだ。セーニャのお姉さんは素直じゃない所があったから、似ていなくもないかもしれない。
 二人の王子が手を携え、互いに補いながら王国を運営する。理想だが、それが出来たならオルセコ王国は間違いなく繁栄の未来が約束されるだろう。しかし、ギルガラン王子はグリエ様の言葉を聞き入れない。力が強い故に支配しかできない兄は、優しさで人々を纏める弟を煩わしく思っているのかもしれない。
 ギルガラン王子の目元がぐっと険しくなった瞬間、警鐘が鳴り響いた。
「鬼人だ! 鬼人が現れたぞ!」
 セーニャが両手杖を構えて、僕達の前に躍り出る。入り口を警備していた兵士を薙ぎ倒した黒い影に向かって、一息でひと抱えもある火球を生み出し熱風を撒き散らしながら解き放つ。
 黒い影は火球を突き破りながら突撃して来たの影は、真っ黒い皮膚をしたオーガだ。焼け爛れた顔に爛々と双眸が光り、口からはだらしなく唾液が垂れ流されて顎を伝っている。筋肉は二回りほど膨れ上がり、筋肉隆々なオーガ族というよりも、シールドオーガのような屈強な魔物に近い姿に成り果てていた。
 オーグリード大陸では正気を失い、獣のように凶暴化したオーガ族を鬼人と呼んでいた。
 鬼人となるものは、昔から一定数存在はした。
 しかし近年ではゾンガロンという危険な存在が、集落や王国を襲って多くのオーガ族を何らかの力で鬼人化させていた。鬼人化した集団は野火のように周辺諸国に侵略し、制圧した地域の民を老若男女問わず皆殺しにするという。
「いらっしゃい、鬼人ちゃん! アタシがアナタを受け止めてあげるわ!」
 どこかに立てかけてあった大盾を失敬したシルビアが、突撃する鬼人に立ちはだかる。腰を低く落とし、足を前後に開き、大盾を鬼人に向ける。鬼人は大きく両手を振り上げ、大盾を掴むように突進した。がぁん! 大岩を破るような大きな衝突音が、オルセコを突き抜けた。
 シルビアらしからぬ野太い声を漏らしながら、堪える足が大きく後ろへ押し出される。それでも、盾は弾き飛ばされず、シルビアの足は折れる事はない。シルビアに受け止められた鬼人の動きは、明らかに鈍くなった。
 シルビアの脇から飛び出した僕は、渾身の力を込めて鬼人の背に大剣を落とした。ばきりと背骨が折れる音が響き、万歳するような姿勢で胸から床に叩きつけられる。背に食い込んだ刃は肺や心臓を潰し、鬼人の体の下から赤い血がどくどくと流れ出ていた。
 鬼人の頭が上がり、口がぽっかりと開く。
『召しませ! ゾンガロン様!』
 そう叫んだ鬼人の首に斧が振り落とされ、黒い首が宙を舞った。ぎょっとして視線を上げれば、先程まで闘技場の舞台の上に立っていたギルガラン王子が立っている。重量のある斧を担いで、瞬く間に3階相当はあるだろう正門まで上がって来たのだ。人間よりも優っているオーガ族の力を突きつけられ、驚きと悔しさがない混ぜになった気持ちが胸いっぱいに広がる。
「異邦人に討ち取られた分際で、宣戦布告とは舐めた真似をしてくれる」
 ギルガラン王子は鬼人の死骸の腹を蹴って仰向けにする。上半身裸だが、下半身はベルトと毛皮を巻き付けている。ベルトに刻まれた紋章を眺め『ドランドか』と呟くと、鋭く斧を振って鬼人の血を飛ばす。
「グリエ」
 駆けつけて息が上がっている弟に、兄は背を向けた。
「俺が戻るまで、ここを任せる」
 兄さん、一人では…。喘ぐようなグリエ様を、ギルガラン王子は振り返ったりしない。
 斧を担ぎ一人戦地へ向かう背は、あっという間に外の光に呑まれてしまった。