その心に兆した悪魔の呪い - 前編 -
ララリア! 逝かないでくれ、ララリア!
ゾルトグリン様の悲痛な声が、今も記憶にこびり付いている。
肉体から解放され種族神ガズバラン様と共に永遠に巨悪と戦う戦列へ旅立つのは、オーガ族の誉れなんだよ。そんな魂を必死に肉体に留めようと妻の手に縋りつく大国の王の姿は、信頼できる一握りの者達にしか見せられなかったね。
床に臥したララリア様は、寄り添う小さな新雪の髪を愛おしく撫でていた。薄氷の瞳はうっすらと涙が潤んでいたが、しっかりと口元を引き結び、母の死を見届けようとする未来の王の姿が頼もしいなって思ったのを覚えてる。まだ幼い弟君は母の死を理解していないのか、兄に手を繋がれて重そうな瞼を上げ下げしている。その姿を眩しそうに見ていたララリア様は、アタイに視線を向けた。
『ムニュ。私の家族をお願いね』
オーグリード大陸の数多の王国や部族間の闘争で敗北したならば、長の首一つで丸く収まるなんて事はない。一人でも戦士が生き残れば敵討ちで国が傾ぐと言われ、皆殺しが常識だったんだ。ゾルトグリン様に敗れ死ぬはずだったアタイとゲルトの一族を、ララリア様は救ってくれた。その瞬間からアタイの命は生きる事を許してくれたゾルトグリン様、命を救ってくださったララリア様、そして二人のお子様の為に捧げると誓ったんだ。
小さく頷いたアタイに、血の気を失った顔がほっと息を吐いて安堵が広がった。
『私の可愛い子供達。よくお顔を見せて…』
アタイは王子様達に会釈をして場所を代わり、王子様達は弾けるように母に駆け寄った。乾燥した細い指を、命が溢れる小さい手が力一杯握りしめる。あぁ。死の匂いがする吐息がヒビ割れた白い唇から漏れて、まだ熱い若き吐息と混ざり合う。
ララリア様がゾルトグリン様に何かを囁き、目に宿った光が固く強張る。小さく目を見開きゆっくりと閉じられた目尻から、流れ星が朝焼け前の白い空のような肌の上を滑っていく。
王は声にならぬ悲鳴をあげ、まだ温もりの残る体を折れんばかりに抱きしめた。オルセコ闘技城の隅々にまで響き渡った王の慟哭に、国民は王妃ララリアが身罷られた事を知ったんだ。
ゾルトグリン様の悲しみは殊更に深かった。まるで魂を分けた半身を失ったように老け込んだ姿に、後を追うんじゃないかって思うのはアタイだけじゃないだろう。オルセコ屈指の戦士達は、アタイの厳命なんかなくても片時も目を離さなかった。
ララリア様に先立たれた事で、ゾルトグリン様は己の命が有限である事を強く意識しておいでだった。ドランドの肥沃な大地と潤沢な清き水を息子達に与えてやりたい一心で、ご自身のご健康を損なう事も厭わない。ララリア様にご家族を託された身として、寝食を整えることは国政よりも難しかったかもしれない。
『寝る間を惜しみ軍略を巡らそうと、あの鬼岩城のなんと堅固な事か…。子らの世代に、戦争を継がせる事だけは何としても避けたいのに』
お休みください。立派な体躯をがらんとしてしまった寝所に押し込みながら、寝酒に付き合う日々が続いていた。
『ギルガランは我の理想を体現した、芯のある強きオーガとなった』
程よく酒が入って語られるお言葉は、ララリア様を失ってから常に同じ。
『長くは生きられないと言われたグリエの慈しむ心根、優しい眼差しはララリアによく似ている』
決して息子達に向けて伝える事はない愛情を、王は語る。
ギルガラン様が強く逞しい、まさにオルセコの戦士達を束ねるに相応しい才能を表している事を上機嫌に褒め称える。己の身長と並ぶのはいつだ、初陣を飾るべき相手は誰となるであろうか。ララリア様のような優しい娘か、それとも同じ戦場を肩を並べて駆け巡る雄々しい娘を娶るのか。孫の話にまで話題が及べば、厳しい王の顔ではなくでれでれと溶けた祖父の顔になっているんだから、墓まで持っていかなきゃならない話題が雪だるま式に増えてしまうんだよ。
上機嫌で酔い潰れて眠れる日もあれば、鬱々とした日だってある。
『グリエは我が行いを許すと言い、王族の一人として立派に国を支えるまでになった』
実はグリエ様は一時期養子に出されている。
頑強な子に恵まれるオーガ族だが、稀に生まれる虚弱な子供の一人がグリエ様だった。産まれて一年の間に、小さい棺桶をいくつ拵えたろう。ララリア様がガズバラン様に祈り、ゾルトグリン様はランドンの頂上に登って願掛けまでした。一歳を迎え命は儚くなる心配はなくなったけれど、それでも、病気がちな体に力がつく事はなかった。
弱き者はオーガ族にとって恥。
ララリア様の懇願で死を免れたが、口堅い縁者の元へ預けられ一生戻ってこない筈だった。
ゾルトグリン様は戻ってきたグリエ様の聡明さに、強い感動と後悔を抱えていた。目の前の人を慈しむ眼差しと、困った人々に向き合うグリエ様の真摯な態度にララリア様を重ねていたと思う。今の戦乱の時代でなければ、王として求められる全てをグリエ様は備えていたんだ。
本当にグリエ様はできたお方だよ。親から捨てられたって恨んだって良いってのに、家族を甲斐甲斐しく支えてさぁ。慈悲深いエルフの種族神様が、自分の子をオーガ族の娘の腹に間違って入れちまったんじゃないかねぇ。
かつてのアタイは、ゾルトグリン様に強く進言した。
グリエ様をアタイの後継者として育て上げ、ギルガラン様と手を携えれば、オルセコは更なる繁栄が約束されるだろう…と。その言葉は主君の心中を代弁していた。
どれだけ度の強い酒を煽ろうと、その一言を言う時は酔いを一欠片も見せなかった。強い決意を秘めた瞳で、射抜くようにアタイを見て言うんだ。
『我は息子らに、平和を遺したい』
「馬鹿な父親だ」
冷えた声色に、弾かれるように意識が今に向く。
オルセコの歴史が詰め込まれた書庫は、ドランドの鬼人達が攻め込んだとて、ここまで酷くはしないだろうって有様だよ。石を薄く切り出し、オルセコ創建の過去まで遡れる石板は床に無造作に放り出されて積み重なってる。貴重な巻物という巻物は引き摺り出されて、広げられて捻れて折れて、酷いものは足跡なんか付いちゃったりしてる。
今日の宮廷記録は『ギルガラン王子が書庫を荒らしまくって、復旧の目処は立たず』って書かなきゃならないだろうね。
違う違う。
『ギルガラン王子がラーの鏡で悪鬼を暴く。その正体は先王ゾルトグリン様』だ。
信じたくはなかったけど、ゾルトグリン様が行方不明になった頃とゾンガロンが出現した時期はとても近い。不仲な王国同士を嗾け、防衛の穴を点き、国王の考えを読んで有利に事を運ぶ鮮やかな戦略。残虐非道で狡猾な獣って割り切ってたけれど、オーグリードの王国事情に精通したゾルトグリン様の知識を基礎にしているなら納得だ。
その事実は、今のところこの書庫にいる三人しか知らない。
そんな荒れ果てた書庫のど真ん中で、ギルガラン様は先王の手記を手にしていた。行方不明になる間際までの先王の御心が記された内容で、アタイも何か手がかりがないかって何度も拝見したものだ。
手記は難攻不落の仇敵の手堅さに、歯軋りする王の姿がありありと思い浮かぶ内容が綴られていた。息子達への愛と、平和を遺したくとも遺せぬ焦燥感。それらが結びついた文字が、王直筆の最後の言葉として羊皮紙の上に残されている。
『雄峰ランドンの山頂に眠る戦神が、人智を超えた力を与えてくれる』
大臣として王の政務を補佐し続けてきたからこそ、見慣れた王の文字。力強く美しい筆跡で書かれたランドンの文字が、行方不明直後に大規模捜索を行う決め手となった。
しかし、行き先は雄峰ランドン。
隣接する海峡や海が原因で絶えず雪が降り、踏み込めば分厚い雪雲か猛吹雪によって白く塗りつぶされた視界に方向感覚を失い、断崖への滑落か、雪崩による窒息か、それとも凍死を死神に選ばされる極限の地。極寒の寒さに適応した魔物達ですら、住処の洞穴から出てこない猛吹雪に凍死する者は後を絶たない。この山を迂回する海路がわざわざ作られた、天然の壁。
オーガ族でも一際恵まれた肉体を持つゾルトグリン様でさえ、遭難したとしても不思議ではない。滑落したり雪崩に巻き込まれれば、遺体を見つける事は至難の業だ。だから先王のご遺体を確認できぬまま、死亡を確定し国葬を行ったんだ。
『息子らに平和を与えられる力をくれるなら、神でも悪魔でも関係ない』
その言葉の後に続く真っ白い頁を一瞥し、ギルガラン様は興味を失ったように手記をテーブルの上に放り投げた。鼻で笑い、軽蔑の眼差しを手記に向ける。
「これでは、ゾンガロンになるべくしてなったと言わざる得ない」
乱暴に放り投げられた手記は、開いた表紙に押されて頁が斜めに折れている。『雑に扱うんじゃねぇ!』って叱責一つ飛ばしたいくらいだわ。
手記を丁寧に拾い上げたのは、グリエ様だった。
ギルガラン。不貞腐れたような兄弟を諌めるように、静かに声が掛けられる。
「父とて王である前に人です。苦しみも愛情も、人並みにあって当然です」
「この俺を諭そうとは、いつからそんなに偉くなった?」
ぴくりと、眉を跳ね上げ不快を露わにしたギルガラン様に対して、グリエ様は努めて冷静にお話しされる。
「諭している訳ではありません。行方不明当初は種族神へ願掛けに行ったと思っていましたが、戦神を騙る悪魔に付け入る隙を与えてしまったのでしょう。だからこそ父を討ち、責任を果たすべきというギルガランの意志を僕は強く支持します」
オーガ族にとって、己の力でもって道を切り開く姿勢は至上の美徳だ。種族神のご加護を願う事はあれど、それは己を鼓舞する験担ぎ程度の意味か、己の実力を種族神に見届けさせ死後の活躍の場を優遇してもらう願いのどちらかだ。
オーガ族の信念に反した他人の力に縋る行為が、『神でも悪魔でも関係ない』という言葉から伺える。ギルガラン様が父であっても軽蔑の言葉を吐き捨てるのに、アタイだってある程度理解は示せる。
確かに先王は息子に厳しく接するだけで、愛情表現の素振りすらなかったはずだ。二人の王子が先王の愛情に困惑するのも当然だろう。
でもさ、アタイは王の苦悩を直に見てきた。
言葉にしなくちゃ伝わらないし、知らないんだからしょうがないけど、ちょっと言い方酷くない? ちったあグリエ様を見習って、形だけでも御心を汲んだって罰当たんないと思うんだけどね。
「平和を焦る必要がどこにある。この俺が王になれば、如何なる敵も問題ではない」
腕を組んで不遜な態度での断言を、グリエ様は真っ向から否定した。
「現在のゾンガロンの脅威を思えば、素直に肯定できないよ。ギルガラン」
ちっ。鋭い舌打ちが、静かな書庫に響く。
ゾンガロンの脅威がオルセコに及べば、多くの民が鬼人となり王国が瞬く間に瓦解するだろう。ゾンガロンを打ち倒すと揺るがぬ決意を掲げるギルガラン様を含め、オーガの誰もが鬼人になる可能性を秘めているんだから。
ムニュ大臣。グリエ様の薄氷の瞳が、薄暗い書庫で青い炎のように煌めいた。
「父が会いに向かった、ランドンの戦神とはどういう存在なのですか?」
アタイは胸の膨らみの上から腕を組んで、緩く首を振った。さらりさらりと細い直毛が、頬に触れては離れる。
「ゲルトの部族も良くは知らないんだ」
オーグリード北部からランドン山脈へ踏み込む玄関口が、ゲルト海峡の上に掛かる大石橋。気の遠くなる程の年月によって風化し、天然の石の橋となった場所に集落を構えていたのがアタイ達の部族だ。
オーガの民は天を突くランドンへ挑む挑戦者を歓迎し、支援する伝統を守っていた。山を登る者に獣の毛皮で作ったマフラーを渡し、登頂を願って馳走を振る舞う。そうなりゃ、山を登る理由を嫌でも聞かされるもんさ。腕試しや興味本位を足したくらい、神様から力を賜るって目的の登山者が居た。そんな神様の話、部族にゃ伝わってないから、族長を引き継いだアタイは妹と顔を見合わせて首を傾げたっけね。
「確かにゾルトグリン様の手記に載ってる話は、オーグリード全土に伝わってる。でも、噂以上の意味はないね」
十年に一人程度は、頂上を踏破して戻ってきたって奴がいた。本当に天辺まで行ったかは確かめようがないけど、山頂まで行って生きて帰ってきたって自信で光り輝いていられちゃあ信じるしかないだろ。
そういった奴らは、故郷で武勲を立てたり、新しく王国を建てたりしたもんさ。
でも、それは登頂者自身の力だ。神掛かった、オーガ成らざる力を使ったとは聞かない。過酷な環境を乗り越えた者が自信を得て、戦神の加護を得たような力を発揮した。それが角と尻尾をつけて、神様が力を授けるって噂に変わっちまったんじゃないかって思うんだよね。
だから、神から力を賜る為に山に挑んだゾルトグリン様と、悪鬼ゾンガロンが結びつくことがなかったんだ。
真剣に耳を傾けるグリエ様と、聞いてるのかわからない態度のギルガラン様にアタイの知ってる限りを話す。でも、全てを話す前にギルガラン様が言葉をぶった斬った。
「グリエ。お前の懸念に何の意味はない」
苛立ちを逃すように指先で叩いていた腕を解き、ギルガラン様はグリエ様に向き直って睨め付けた。眉間に皺を刻み、腹の底から放たれた怒号がグリエ様の顔に吹き掛かる!
「王が何たるかもわからず、背負うものがない第二王子は引っ込んでいろ!」
ぶつん!
アタイの中に何かが音を立ててキレた。気がついた時にゃあ、アタイはグリエ様を背に庇うように飛び出して、ギルガラン様の顔を真っ向から睨み返してやったよ!
「アンタ! グリエ様を舐めやがって、いい加減にしなよ!」
グリエ様が穏やかで優しいからって、付け上がりやがって! そんなに力が強い奴が偉いのかよ! アタイはゾルトグリン様の力に屈したけど、その力が偉いから忠誠を誓ったんじゃない! アタイはララリア様の優しい御心に、命を捧げても良いくらいに惚れちまったんだよ!
あぁ! 言いたい! 言っちまいたい!
アンタが背負うものがないだ、何も意味がないだとか、下に見てる痩せっぽちの男の子が一体何者なのか。乱暴者で国政の『こ』の字も知らない、ただ書類にサインするだけの男を支える為にどれだけ頑張ってるか。命を救われたって理由で忠誠を誓ったアタイはともかく、血が繋がってるって理由だけで普通はそこまでやりゃしないよ。ギルガラン様の暴君っぷりに逃げ出したって、グリエ様を非難出来る奴はいないだろうね。オルセコが一つの国として纏まってる現状は、ギルガラン様の力だけじゃなくグリエ様の影響も大きいんだ。
そりゃあゾルトグリン様にもララリア様にも、グリエ様にだって、アタイは墓までこの事実を持ってくって誓っちまったよ? でもさ、血を分けた兄弟が、こんな仕打ちを甘んじなきゃならないなんて間違ってる!
ちくりと腕に痛みが走る。グリエ様の細い指が、アタイの腕に食い込んでいた。
お願い。ムニュ。ララリア様の声がうなじを這ったのが、今の囁かれたように蘇る。グリエ様を遠方の血縁者の元へ送るとゾルトグリン様が決めた時、食って掛かろうとしたアタイを止めた涙まみれの母。その細い指と、普段なら考えられない力と、無言の懇願に、どうしてこの母子はこんなに似ているんだって悲しくなってくる。
アタイは喉まで競り上がった言葉を、ゴクンと飲み込まなきゃならなかった。それでも一言くらいは言い返してやらないと、アタイの矜持が許さないね!
「ギルガラン様の力はこの戦乱の世を生きていくには必要不可欠だけれど、グリエ様の優しさにはそれに並ぶ価値があるんだよ!」
アタイが啖呵を切ると、ギルガラン様の顔が明らかに歪んだ。激痛を堪えるように、目がきつく眇められ、眉間の皺がぎゅっとよって端正な鼻筋にいくつも線が走る。引き結んだ真一文字の唇の下で、顎が濃い影を落とした。殺されてもおかしくない強烈な圧に、どっと冷や汗が噴き出す。
ムニュ大臣。グリエ様の声が背を撫でるように掛けられる。
「ギルガランの言う通りです。王を継ぐ意思も資格も無い、それどころかゾンガロンに立ち向かう力すら無い以上、これ以上関わる事はできません」
グリエ様の新雪の髪が横に並ぶと、丁寧にギルガラン様に向けて下げられた。
「出過ぎた真似をして申し訳ありません」
謝罪で上がらぬ頭を、ギルガラン様は苦々しく見つめていた。なかなか上がらない頭に業を煮やして、荒々しく踵を返す。
「雄峰ランドンの山頂に眠る戦神。恐らく、そいつが元凶だ」
それはギルガラン様がラーの鏡でゾンガロンの正体がゾルトグリン様であると判明した時に、誰もが思ったことだろうね。グリエ様がアタイ再確認したのも、判明した真実を知った上で噂の中に気が付かなかった発見があるかもしれないという微かな期待にすぎない。
「俺は戦神とやらに会いに出立する。邪魔立てはするな」
結局行くんじゃないか。
アタイは廊下の闇に呑まれる、腰までのマントに赤々と縫い付けられたオルセコの国章を見送った。『そんなもの関係ない、殺せば終わりだ』って宣ってた傲慢な若造も、ただ力押しのみで勝てない相手にようやく遭遇したってところだろう。
ギルガラン様が書庫を後にして、耳が痛くなる程の本来の静寂が戻ってくる。グリエ様がゆっくりと手を動かして片付け始めるのに習い、アタイも現実に向き合い始めた。踏まれて折れた物。雑に扱われて欠けた物。元に戻せるのかってくらい絡んだ物。破けちゃった巻物を見た時は気が遠くなっちゃったよ。貴重な文献を一つ一つ回収しながら、アタイは死んじまった先人達にどの面下げて会えば良いんだか考えちまうよ。
ムニュ大臣。修繕が必要なものと、そのまま棚に戻せるものとを仕分けていたグリエ様から声が掛かる。作業の手を止めるでもなく、アタイを見るでもなく、世間話をするような声だった。
「ドランドの鬼人達は、どうなりました?」
宣戦布告をしたドランド王国。かの王国から飛び出してきた鬼人の大群は、迎え撃つべく待ち構えていたオルセコ軍を突破していった。そのままオルセコに向かうとされた鬼人達だったが、その進路はオルセコに向かう事はない。
アタイ達が知る鬼人とは違う行動に疑問を抱いたグリエ様が、ドランドの鬼人の追跡を命じたんだ。追跡を命じた兵士達は、今日の昼頃に帰還して報告を受けている。
「ランドン山脈へ入ってしまって、それ以上は追えなかったそうです」
雄峰ランドンの南側の裾野を形成するランドンフットは、広大な雪原地帯だ。追跡を命じた兵士達は雪の中を行軍する装備もないのに、良く頑張って追いかけてくれたと思う。それでも、ランドンの登山口の向こうに行った背を追いかけるのは自殺行為だ。グリエ様も任務遂行を果たせなかった兵士の判断を肯定してくれた。
手を止めたグリエ様は、細い顎に指を這わす。
「オルセコや生き残ったオーガ族の追撃から逃れる為とはいえ、ランドンを越える判断ができるものなのでしょうか?」
海峡に暮らすアタイ達ゲルトの部族も、その北に広がるグレン肥沃に暮らしていた数多くの王国もゾンガロンに滅ぼされた。滅んだ王国の生き残り達が鬼人が徘徊するその土地を捨てた為、ゾンガロンの脅威が去らぬ限りオーガ族の干渉が無い地になるだろう。
この過酷な山とオーガ族が捨てた地の合間。ドランドの鬼人達にとっての桃源郷を、獣の知性しかない彼らが選べるのか?
「追跡した兵士から妙な報告があったんだ」
アタイはグリエ様の熟考を中断したのを確認して、言葉を続けた。
「鬼人達の中に、黒猫を連れた人間がいるんだってさ」
人間? 予想外の言葉にグリエ様の大きな瞳が、殊更大きく見開かれた。
悪鬼に蹂躙されている現在において、オーグリード大陸を訪れる他種族はおらず、定住した他種族も故郷に逃れるなどして両手の指の数居るかどうか。アタイはオルセコに滞在する三人の人間に真っ先に尋ね、黒猫を連れた人間を知らないと返されている。
そして、報告にはまだ続きがある。
「その人間は鬼人達と普通に話して、鬼人達もその人間相手だと普通なんだって。襲ったり殺したりしないで、太鼓に合わせて踊ったり楽しそうにしてたんだって」
報告を終えた兵士達は、その妙に癖になる太鼓と踊りを詳細に覚えていた。アタイも実際に見させてもらったけど、胸の奥が熱くなって体が疼くような不思議なリズムと踊りだ。
それから半日程度しかまだ経っていないってのに、あちこちから太鼓の音と楽しそうに踊ってる声が聞こえて流行の速さを実感してる。まぁ、国が平和そうで何よりなんだけどさ。
そんな事より、驚きなのは獣程度の知性の鬼人と意思疎通してるって事だ。
「獣に成り果てたはずの者達が、その理性を保っている…」
小さくか細いオーガの若者が、何一つ見逃すまいと薄氷の瞳を燃やして真実へ目を凝らしている。討伐から逃れる為、空白地帯を目指す判断力。鬼人と意思疎通出来る人間。太鼓と踊りという文化的行動。ゾンガロンの脅威に滅亡にまで追い込まれている今、その奇異な状況は、決して見逃してはならない希望への手掛かりに思えていた。
僕は。グリエ様は噛んで含めるように言葉を紡いだ。
「オーガ族誕生にまつわる神話に関わる、ガズバラン様の御印を探しています」
アタイは小さく頷いた。
オーガ族の神話の最初の言葉は、かつてのオーガ族は魔族と変わらぬ粗暴な怪物であったと伝えられている。ガズバラン様はそんな怪物に御印を授けられ、ガズバランの子として生きる事を選んだ現在のアタイ達へ繋がっている。
グリエ様はオーガ族を鬼人に変えるゾンガロンの力が、御印を授かる前の状態に回帰させるものだと推測していた。ガズバラン様の御印があれば、失った心を取り戻す事ができるかもしれない。
それは、なんの根拠もない希望だ。神話に語られたガズバラン様の御印が現在にあるかも分からない。そんな事をギルガラン様に打ち明けたとして、まともに取り合ってはくれないだろう。だからグリエ様はお一人で、国務の間に細々と探しておられたんだ。
「その人間。ガズバラン様の御印と、何か関係があるのかもしれません」
『ムニュ大臣。オルセコをお願いします』言うのももどかしく、グリエ様が立ち上がる。オルセコに留まらず大陸全土のオーガ族の命運を背負う気概が、この細い体から猛火となって迸っていた。
あぁ、ララリア。アタイは恩人であり親友であった美しい娘を想う。
オーグリードで最も強き王は、その優しさに惚れ込み唯一の妃とした。敗れ死ぬはずだった運命を、その優しさで幾度も変えて多くの力をオルセコにもたらした。そして、その優しさは子供の一人へ確実に受け継がれ、オーグリードの命運を変えようと立ち上がろうとしている。
「僕は北へ行きます」
兄弟がそれぞれに旅立つ。
滅びゆくオーガ族を救う為に。