ゴルゴタはしゃれこうべの場所 - 前編 -
メギストリスの都は人間よりも大きなオーガ族の規格で統一されているらしく、長身な自分が頭を打つけたりはしない。階段を二段飛ばしで登っているのに、違和感がないのが不思議に感じる。廊下には外から避難した鉢植えで足の踏み場に困るくらい。自分を案内するプクリポ族のコンシェルジュは、営業スマイルの下に不安を拭いきれていない。
窓からアストルティアで屈指の混雑で評判の王国入り口の広場が見渡せるが、片手で数える程度の閑散具合。壁には本日の討伐モンスター依頼と報酬金額、そして夥しい依頼書が表示されているが、それを見ている冒険者の姿はない。おしゃれな冒険者達が練り歩き、燦々と降り注ぐ日差しに丹精込めて育てた大輪の花が溢れ、プクリポ達が楽しく踊る。そんな前評判を聞いていたメギストリス城下は、死者の都のようであった。
原因は火山灰のように降り注ぐ魔瘴。
メギストリスより南には魔界と繋がっているのではと、まことしやかに囁かれる底なしの大穴が大地を穿っているらしい。ドルワーム王国よりウルベア大魔神討伐の朗報が世界を駆け巡って間もなく、そこから夥しい魔瘴が噴き出してプクランドに降り注いでいるそうだ。
まだ繭の存在は確認できていないが、大陸を滅ぼす厄災が発生している状況から繭の発生は確定とされている。
生命を脅かす濃度の魔瘴が降り注ぐプクランド大陸は一時閉鎖が決定し、大地の箱舟はガタラとジュレットで折り返し。底なしの大穴に近いメギストリスの民は、魔瘴の影響が低いオルフェアへ退避している。その為、王国入り口脇の好立地の宿屋は、がらんと静まり返っていた。
こんこん。コンシェルジュが扉を叩き、中から男性の声が応じる。
「失礼致します。ファラス様がお見えになりました」
扉の向こうから動く気配がして、こちらに向かってくる足音はプクリポ族よりも間があり重い。がちゃりと気持ち低い取手が動くと扉が開いた。
明るい茶色の髪を緩く三つ編みにし、寛いだ服装の人間族の若者が現れる。垂れ目ぎみの緑の瞳がコンシェルジュに向けられ礼を言う声は、優男の見た目に合った甘く低い声。引き締まった細身の体が起こされて、大きな獣の牙の無骨な装飾が胸を叩く。
「シンイから話は聞いてる。どうぞ」
通された部屋は普通の一人部屋。プクリポ族らしい明るい配色の壁紙や絨毯だが、全てが人間の大きさで統一されている。椅子の背もたれには使い込まれたコートが掛けられ、座面には荷物と帽子が乗っている。背を向けた首筋に鮮やかな緑が見えて目を凝らせば、エメラルドに輝く鱗が張り付いている。
後ろ手で扉を閉めると、自分はクロウズ殿に頭を下げた。
「自分の記憶について診てくださると聞いています。どうか、よろしくお願いします」
時渡りの影響である記憶の混乱を是正したいと願った自分に、叡智の冠を戴く賢者殿が紹介したのがクロウズ殿だ。記憶に関する術を扱えるという竜族の若者なら、自分の記憶が取り戻せるかもしれない、と賢者殿の孫殿も賛同した。
しかし、クロウズ殿は薬師でも僧侶でもない。記憶の修復で術を使った事はなく、精神に深く入り込むリスクは当然発生する。更なる記憶の損壊、変質した記憶の混濁、性格に影響を及ぼす可能性もあると孫殿に詳細な説明を受けた。
それでも、一刻も早く記憶を取り戻したかった。
グレンで遭遇した黒衣の剣士。彼の存在をメレアーデ嬢から聞いても、しっくりと腑に落ちぬ。命に代えても守ると使命感に燃えていたという自分を、どうしても他人事のように感じてしまうもどかしさ。記憶を取り戻せば全てが改善するとは思ってはおらぬ。しかし、記憶を取り戻す事で、少なくとも今の自分の有り様からは抜け出せると思っていた。
「時間が経てば戻るってんなら、そのまま自然に任せるのが一番安全だろうに…」
まぁいい。クロウズ殿は頭を掻いていた手をふらりと振った。
「早速始めよう」
楽な格好でベッドへ横たわるよう指示され、自分は靴を脱ぎ寝床へ上がる。クロウズ殿がベッド脇に椅子を引っ張って座ると、自分の額の上に手を置いた。ひやりと冷たい手を心地良く感じていると、黄金色の瞳が自分を見下ろしていた。
ぐらりと体が傾ぐ感覚に体を強張らせ、自分は思わず足を踏み変える。そう、踏み替えた。寝ていた筈なのに、今の自分は立っているのだ。驚いて視線を巡らせれば、そこはメギストリスの宿屋の一室ではない。
大きな水面が水平線まで広がり、水の上で白い花が花弁を大きく広げている。雲一つない星空を写し込んだ湖面を眺める男の背に心臓が跳ねる。男は白い毛皮を首に巻き、さらに真っ白い外套を羽織っている。腰に穿いた剣は使い込まれ、茶色い直毛を肩口でばっさりと切った髪型、険しい強面にすら感じる横顔。その装いの色こそ違え、黒衣の剣士が立っている。
ここは? 思わず呟いた問いに、横から一歩進み出たクロウズ殿が肩を竦める。
「お前の深層心理。とっ散らかって思い出せない記憶を整理して、再現しているんだ」
見渡せば二階建ての大きな屋敷には、明るい灯りが灯っている。白い漆喰には花を咲かせた蔦が這い、大樹の枝から下がったブランコが微かに揺れる。煉瓦敷きの遊歩道は丁寧に掃き清められ、青々とした植木や花々に、使用人達が屋敷の主人に心を込めて尽くしているのを感じた。
黒衣の剣士が振り返ると、唇の端を持ち上げる。驚く程に印象が柔らかくなり、自分はぽかんと口を開けてしまった。
『リンジャハルを襲った流行り病の被害の恐ろしさを、知らんとは言わせんぞ。復興した同盟国を祝うのに、王族が出向く事が最大の賛辞となるのくらい分かるだろう』
記憶を失う前の自分が書いた手記には、リンジャハルの厄災の一部始終が書かれていた。流行り病を克服し、祭典が開かれ、そして滅亡する。口振りではこれから祭典が行われ、男はリンジャハルへ向かうのだろう。
そうだ。しくりと胸に湧き上がる感情を、自分は呻くように口にする。
「自分はこの方が旅立つのに、不満を感じていた」
メレアーデ嬢の話では黒衣の剣士はパドレという、彼女の父の弟君にあたる。父が王を務めていた事を鑑みれば、男の言葉は全て正論だ。どこに不満に思う事がある?
不満を持て余す自分の感情を察しているのか、男は困ったように微笑む。
『ドミネウス兄上は病床に臥した父上の代理という重責に、些か気難しくなっているだけだ。心根は優しい兄上に、他意などあるはずがない』
兄。その言葉に形のない不安が、巨躯の男性の姿に変わる。
第一王子ドミネウス。自分は彼に対して不信感があった。長年長子として国王の補佐をされていた偉丈夫は、次期国王として何ら遜色のない手腕を発揮していた。長子であるのもあって、多くの民が王位継承を疑いもしないだろう。
それでも不安は晴れない。それはパドレという男性が主であり自分が従者であるならば、主に降りかかる火の粉に警戒するという意味では正しい感覚だ。主自身が無条件で信頼しているなら、代わり警戒すべき。そう考えている記憶喪失前の自分は、随分と忠実な男だったようだ。
それに。パドレは朗らかに笑った。
『海洋都市リンジャハルの長を務めるのは、我が友リンジャーラだ』
口を開け、目を細め、心が弾むのを堪えられない笑顔。その顔が黒衣の剣士の印象を眩く塗りつぶす。そうだ。この顔こそがこの方の本当の顔だと、胸にすとんと落ちる。
自分はかつてこの方に仕えていた。その記憶は、今はない。
それでも。今の自分はこの方に惹かれている、そんな自覚に胸が一つ高鳴った。
『軍務続きの俺に『友と旧交を温めて来い』という、兄上なりの優しさなのだ』
きぃ。蝶番が軋む音が小さく鳴り、屋内の明かりが暗くなった地面に広がる。黄金色の灯りを黒く切り取りしずしずと進み出たのは、赤子を抱いた婦人。王子の妻らしい上品さだが、亜麻色の髪を結い、緑のシンプルなロングドレス姿で、赤子の世話を自らしているのだと伺える。
あなた。婦人は昔を懐かしむように笑みを浮かべ、夫に話しかける。
『リンジャーラ様に宜しくお伝え下さい』
あぁ。婦人の願いにパドレは頷く。寒くも暑くもなく緩く微風が撫でる外気だが、パドレは外套を外して婦人の肩に掛けた。
『隣国とはいえ、子を産んだばかりの身で遠出はさせられん。落ち着いたら親子三人で訪れよう』
そう婦人の胸に抱かれた赤子の顔を覗き込む。黒衣の剣士の印象はどこへやら、赤子の可愛らしさにどろどろに溶けた愛想の一人の父親がそこにいる。
『疫病の混乱の余波か、かの国の民が失踪していると聞きます』
『それが真実であるなら、友と俺で解決した朗報を携えて帰ってくるさ。土産に名物のカニをたっぷり持ち帰ってやろう』
楽しみだろう? まだ、この子は蟹は食べれませんわ。そう仲睦まじく話す夫婦の合間で、赤子がぐずり始める。大声で泣き始めたお包を婦人から受け取ったパドレは、甲斐甲斐しく腕に抱き体を揺すってあやすのだ。それでも顔を真っ赤にして泣き止まない赤子に、嬉しそうに笑うのだ。
『俺とマローネの子は、なんと元気なことか! 帰ってきたら沢山遊んでやろう!』
胸が痛む。この後、失踪事件の真相にたどり着いたパドレは、行方不明になってしまうのだ。無事の帰りを誰より願っていたマローネ婦人は、どんなに胸を痛めたか。父の顔を知らずに育つ我が子を、どんなに不憫に思ったか。
泣きじゃくる赤子をあやすパドレは、子煩悩な父親そのものだった。
「本当にこの男が黒衣の剣士で、アストルティアを滅ぼそうとしてるのか?」
信じられないな。クロウズ殿が自分の心情を代弁した。
妻を、子を、これほど愛し、周囲の疑念など跳ね返して兄を信頼する男。そんな男がアストルティアを滅亡させようなどと、どうして思い至る? パドレという男を知る誰もが行き着く疑問だった。
何か吹き込まれたんじゃないのか? クロウズ殿は腕を組みながら親子を見る。
「こういう愛情深い奴は『妻と赤子をだれそれが殺したぞ』って信じ込ませれば、裏切られたって反動で手がつけられなくなる。心操術が無くたって嘘を真実にできる」
その『だれそれ』の部分は兄だったのか。黒衣の剣士がドミネウスを殺害した辻褄があう。
心操術の使い手は、自分の知識を総動員して全ての可能性を考えているようだった。親子を見ているようで、その緑の瞳は己の知識の奥底へ向けられている。
「でも行動が突飛だよな。復讐までは本人の意思だろうが、自暴自棄になったってアストルティアを滅亡させるって普通はならないだろ。第三者が吹き込んで誘導するには限界がある」
大きく深呼吸して、クロウズ殿は重い口を開く。
「アストルティアの滅亡を望む者が、この男を支配し操っているんじゃないか?」
その疑問は自分の中で驚くほどしっくりと馴染んだ。
そして湧き上がるのは、この方を救いたいと言う気持ち。
正気を取り戻した時、この方は己を殺したい程の後悔に塗れるだろう。まだ死が確定していない妻子を殺したと、実の兄に濡れ衣を着せた上に殺めてしまったのだから。現代の様々な場所で混乱を振り撒き、自責の念に苛まれる。これ以上罪を重ねては欲しくなかった。
それは記憶を失う前の自分の忠誠心ではなく、今の妻と子を愛する一人の父親に対して抱く想いであった。
「その支配から、どうやってこの方を解き放てば良い?」
自分の問いに、険しい顔が『危険だ』と鋭く言う。
「まず、男自身がアストルティアの滅亡を望んでる。拒絶する思考に無理やり侵入して、俺も男も魂が傷つく可能性が高い。滅亡を望む意志がどれだけ食い込んでるかも、不透明だしな…」
それでも。自分はクロウズ殿に膝を折り、最敬礼で頭を垂れる。
「クロウズ殿。どうか協力して欲しい」
返答を待たずして、突如湧きあがった咽せ返る血の匂いに目を剥く。
視線を上げると鎧を着た兵士らしき男達の亡骸が転がっていた。二人とも鋭いもので深々と切り裂かれた失血死って死に様で、大量の血溜まりに青白い肌が映える。そしてその兵士以上に大量の異形獣の残骸。鋭い断面で切り裂かれた異形獣達を見下ろし、返り血を浴びた自分がそうしたのだとわかる。
「お前が思い出せない記憶部分だ」
血まみれの白い煉瓦敷の遊歩道の脇を、青々とした芝生や戦いでへし折れた木が転がる。清らかな水を湛えた池の周囲には可憐な白い花が咲き乱れる日当たりの良い一等地は、夫婦が仲睦まじく暮らしただろう屋敷ではない。両開きの木製の扉は、異形獣の爪痕だろう巨大な傷跡で扉としての意義を失っていた。ふかふかの深紅の絨毯が導線に敷かれ、ステンドグラスの光が大理石の床を七色に染める。
そうだ。自分は小さな白亜の建物を見上げて呻いた。
「ここで自分はあの婦人と赤子を守って…」
居ても立ってもいられず、自分は扉を蹴り開ける勢いで建物に飛び込んだ。二段飛ばしで緩やかな弧を描く階段を登り、大輪の花を飾った花瓶や空に巨大な浮島が浮かぶ幻想的な絵が流線形になって背後に流れていく。体が覚えていたのか無我夢中で駆け込んだ室内で、赤子を抱いた婦人が振り返った。
青紫の瞳は我が子を守る強い意志に燃えていて、真一文字に引き結んだ唇が恐ろしい状況を理解している。遠くから硝子が割れるような甲高い音が、建物が壊れる重い地響きが、誰かの断末魔の悲鳴が聞こえてくる。異形獣が押し寄せてくるなら、この状況は絶望的に思えた。
自分はマローネ婦人の前に膝を折る。
かの方が愛した妻と赤子を、命を賭けて守りたいという想いで体が燃えるようだった。
ファラス。婦人の声に顔を上げた自分の鼻面に、ずいっと真っ白いおくるみが突きつけられる。甘いミルクの香りにぱちぱちと瞬く目を、婦人の決意に揺るがぬ視線が射抜いた。
『貴方がこの子を抱えなさい』
は? 疑問と呆気が綯い交ぜになった吐息を零し、いいえと慌てて首を振る。
自分が二人を守るなら、婦人が赤子を抱いていくのが一番だ。自分は二刀流の使い手。その片手が赤子で塞がるということは、戦力が半減以下に落ちることを意味する。異形獣を突っ切って母子を逃すつもりなら、赤子を抱えるという選択肢は決して取ることはできない。
しかし、母が子を抱えろと言った命令は、もっと切実なものだとも分かっていた。
婦人は若く五体満足だが、冒険者ではないのは明らかだ。早く駆ける事も、魔物を打ち倒す強力な呪文も使えないだろうし、武術の心得もないだろう。婦人は自分が脱出の足手纏いになると理解している。だから自分が子を抱え脱出に専念すれば、我が子だけでも逃げ果せる可能性が増すと考えている。下手をすれば魔物に囲まれた時、囮になる覚悟まで決めているだろう。
考え直すよう視線に込めた想いを、赤子を抱き直した婦人は緩く首を振って否定する。
『先日、成長したこの子に会いました』
突然の告白に驚く自分達を後目に、婦人は赤子のぷっくりとした頬を愛おしげに撫でた。
『パドレに似て勇敢で、とても優しい子に育っていました。親譲か時渡りの才能にも恵まれているのでしょう。どんなに齢を重ね姿が変わっても、この子を見誤る事はありません』
然もありなん。母として惜しみない愛情を注ぐ眼差しに、自分は深々と同意した。
しかし。婦人は悲しげに目を細めた。
『私を母と認識してはいなかった…』
黒衣の剣士が持っている時渡りの能力。その能力を赤子が受け継いでいると確信しているからこそ、婦人が赤子を抱きながら、赤子が成長した姿を見た事に疑問も混乱もない。しかし、成長した我が子の反応で、婦人は己の未来を察してしまったのだ。
それでも赤子が生き延びる未来が確かにある。
日の出直前の青紫の瞳が燃える様が、我が子の為に全てを捧げる決意を物語っていた。
『この先、何があっても、この子の命を第一に考えるのです』
承知した。自分は婦人の命令に応じ、赤子を受け取るべく手を伸ばした。
婦人は赤子の顔を瞬きすらせずに見つめていた。戦慄く唇がそっと我が子の名を呼び、額を合わせて抱きしめ深々と赤子から立ち上る香りごと息を吸い込む。赤子を託せば、もう二度と触れる事は叶わない。例え、この子の未来で再会が約束されていようとも、婦人にとっては永遠の別れとなる。自分は婦人と赤子の別れを、静かに見守っていた。
長い時間に思えたが、深呼吸一回にも満たぬ短い時間。
婦人は腕を緩め、自分へ顔を向けた。唇を真一文字に引き結び、眉尻を雄々しく上げた強き母の面差し。赤子を自分へ差し出す震える腕。
自分の掌に温かい赤子の温もりがじわりと触れ、続いて柔らかい最上級の布地の質感が、そしてずしりと一つの命の重みが加わった。そして自分はこんな状況でも泣き声一つ上げぬ、豪胆な赤子の顔をどうしても見たくなった。ふっくらとした赤み差す頬、尖った唇。柔らかい髪の毛は細すぎて色彩はわからず透明で、まつ毛も眉毛も肌色に細い影を落とすだけ。
母譲りの朝と夜の境の色彩が、自分の視線と結びついた。
この瞳の色を、自分は知っている。
一つ強く脈打った心臓は、赤子の瞳の色に驚いたものではなかった。硝子が割れる音が鼓膜を叩き、侵入した異形獣が建物を揺さぶる振動が床から這い上がってくる。赤子がびくりと体を硬らせ、婦人が息を呑み、自分の片手が咄嗟に剣の柄に伸びる。
おんわぁ。おんわぁ。赤子の泣き声が片耳を叩く中、地面に落ちていた自分の影が濃く刻まれる。片手に感じていた重みが、ない。
『ルアム!』
突然の婦人の大声に振り向くと、強烈な蛍光色の光に目が刺される。痛む目を凝らすと、光の中に赤子を包んだ布の塊が黒々とした影となって浮かんでいる。
そう、浮かんでいるのだ。
光の向こうで婦人が立ち上がり、赤子に向かって手を伸ばしているのが見えた。ルアム! ルアム! 婦人は狂ったように赤子の名前だろう言葉を叫び続け、赤子の泣き声と混ざり合う。
閃光が赤子の影を掻き消し、翳した手を解かす。
耐えきれず目を閉ざし顔を背けたが、瞼の裏を赤く焼いた光はあっさりと鳴りを潜めた。まだ赤く燻る瞼を恐る恐る上げれば、霞んだ視界に床に座り込む婦人の姿があるだけ。素早く視線を巡らせても床の上に赤子の姿は見えず、あれほど鼓膜を揺さぶった赤子の泣き声はぱたりと消えていた。
それでも脅威の足音が迫っている事実に変わりない。自分は婦人の前に膝を折る。
婦人の顔に驚きが張り付いていたが、絶望ではないところに赤子に危険が迫っている訳ではないと察する。ゆるゆると息を吐き、眉間に皺を寄せて目を閉じる。
『迫る危険を感じ取って時渡りの力を発揮したようだわ。痕跡を追跡すれば、あの子が渡った時代へ追いかける事が出来るでしょう』
ならば。自分は婦人を促すよう頷いた。
「自分の事は構わず、追いかけて下さい」
時渡りの力。記憶を失っていても、その力がどのようなものかを知っている。ここから脱出する選択があるのに婦人が選ばなかったのは、我が子と二人では力が及ばなかったからか、重いリスクが存在するからだろう。一人ならば安全に脱出でき、さらに赤子が向かった時代へ追いかけられるならば是非も無い。
婦人はゆるりと腕を上げる。細い指先の間から、強い眼差しが自分を見据える。
『追うのは、ファラス…貴方よ』
いけない! かつての自分なら、そう叫んでいただろう。
ここより危険な場所など存在しない。ここに留まる事は、迫り来る異形獣に殺される未来が決まってしまうのだ。もし、婦人が赤子を追って取り残された自分も例外ではない。
本当は婦人こそ我が子を追いかけて行きたいだろう。我が子を追いかけ、再び強く抱きしめたいに違いない。自分を送り出そうとするのは、自分の命を助けてやりたいという慈悲ではない。
全ては我が子を想ってのこと。
『お願い。ルアムを、守って』
切実な婦人の願いがいつまでも耳の中に残っている。一つ瞬きをすれば、花のパターンが可愛いらしい天井と、硝子細工の花が煌びやかなシャンデリアが部屋を明るく照らしている。柔らかいベッドを肘で押して上半身を起こすと、傍に座っていたクロウズ殿が徐に口を開いた。
なぁ。緑の瞳が戸惑いを隠せず泳ぐ。
「ルアムって…あの、ルアム…か?」
現代を救う為に過去へ渡る、朝と夜の境の瞳を持つ少年。赤子を追って、この時代へ送り出された自分。少年から異形獣に追われる婦人を助けたとも聞いている。
全て、少年があの赤子であると裏付けるものばかり。
なんということだ。
あの少年は自分を育ててくれた親が、本当の両親だと疑いもしていないのではないか? 世界を滅びへ導こうとしている黒衣の剣士が、実の父親だなんて夢にも思うまい。少年を守る為にと自分を未来に送り出し、産みの母は死を選んだ。
それが真実だったとして、伝えて何の意味がある?
押し黙った自分達の上に、降り注ぐ魔瘴に息を殺す民の沈黙が重くのし掛かっていた。