サンディ

 お日様に干してた布団はフカフカのもふもふ、空気を入れ替えた室内は涼し気なくらいです。リッカが今まで丹念に清掃していたお陰で、私の不慣れな掃除でも部屋には塵一つないです。お客様の衣類は洗濯して、この前教えてもらった通りに奇麗に畳む事が出来ました。メモ帳の白い面には筆跡もなく、その横に上品にペンが添え置かれています。ちゃんと書ける事も確かめ済みで、筆記用具一式は木製の簡素な細長いトレイに並べておかれています。カーテンも奇麗に畳むように纏められていて、奇麗な面をこちらに見せています。
 ランプオイルは満タン。室内に備え付けてある水差しとコップは清潔。シーツに皺無し。それらを指差しで確認して、むうと唇を引き結びます。
 …こんなものでしょうか。
 今はご利用のお客様がおられないので、私は窓から身を乗り出しました。入口横の日向でほわほわとした蒲公英の綿毛のような髪が、柔らかい風に揺れています。安楽椅子に身を委ねるリッカのお祖父様に、私は声を掛けました。
「お掃除が終わったので、見て頂いても良いですか?」
「おぉ、終わったのかね。良いぞ良いぞ」
 気持ち良さそうに微睡んでいたおじい様に声を掛けると、彼は年相応に寄った皺をくしゃくしゃにして微笑みます。人の良さそうな優し気な顔つきで、私は彼の顔が好きです。
 おじい様は背筋は曲がっていますが、あまり杖に頼らない軽快な足取りで掃除し終わった部屋に入り一つ一つじっくりと確認しています。間違えても優しく丁寧に教えてくださるのですが、やっぱり完璧に出来てない時の落胆は悔しいのです。高鳴る胸を押さえて結果を待ってしまう懐かしさに、お師匠様の下で重ねた修行の日々を思い出します。
「いかがでしょう?」
 おじい様の確認が終わって居室から出て来るのを見計らい、私は声を掛けます。私の問いに、おじい様はうむと仰々しく頷いてみせました。
「上出来じゃよ。アインツ、お主は筋が良いの」
 ありがとうございます。そう頭を下げれば、客室のドアノブに掛けてある『掃除中』という表札を取って、『リッカを誘ってお茶でもして休みなさい』と村長さんのお宅へ向かわれました。その背に深々とお辞儀をして見送ると、私はいそいそと動き出します。
 私はウォルロ村唯一の宿屋で、見習いとして働いています。
 村の一戸建てと大差ない大きさの宿屋ですから、客室は二階に二部屋しかありません。少し離れた所に、長期宿泊を目的としたお客様用の離れが二棟建っています。一階には宿の受付をするカウンターと食堂を兼ねたエントランス、調理場、風呂場がある程度。お世辞にも立派とは言い切れぬ規模ではありますが、小さいからこそ隅々まで心遣いが行き渡っています。手作りの温かみのある調度品、宿を飾る花は毎日リッカが活けています。心地よい空間。お風呂が頂ける宿屋は贅沢でしょう。食事は朝に収穫した野菜に、山羊のミルクや魚に肉と何もかもがウォルロ産。美味しい素材にリッカの腕前が加われば、ほっぺが落ちてしまいそうな美味しさです。
 以前はこっそり摘み食いしていましたが、こうしてテーブルに座って堂々と頂けて最高です!
 お腹がぐぅと鳴ってしまいます。そうです。お茶を頂いて良いって言われました。お茶の準備をして、リッカと休憩しましょう!
 台所の棚を開けると、よく整理された沢山のお茶が揃っています。紅茶、緑茶、ハーブ、珈琲、色んな種類の葉や豆は最上級とは言えないけれど、ウォルロの水は万病に効く程の上質な水。水が素晴らしければお茶の味は凄く良くなる事は最近学んだ事でした。
 薬缶に入れたお湯が沸く頃、ふわりと頬をそよ風と香水の香りが撫でます。直ぐ横を向けば色黒く焼いた肌に嵌るキラキラと光る瞳が、カップの中身に熱心な視線を投げます。髪に飾る赤みがかったピンクのコサージュには香水を含ませていて、それが香っているのだと教えてくれたその子は手の平サイズの妖精さん。緩く波打つ金髪と黄色いヒラヒラの服が、彼女の透ける羽によく似合います。
 名前はサンディ。最近知り合った人には見えない妖精さんです。
『ティータイムなの、アインツ? それじゃあ、アタシは紅茶にたっぷりミルク入れてね』
「お砂糖は一杯半でしたね」
 そうそう、とサンディが頷きます。彼女のカップにジャムとクリームを乗せたビスケットを数枚添えて、窓辺に置いてカーテンで隠しておくのです。そしてレースの美しい白いクロスの上に、私達用のカップや紅茶、砂糖やミルクを用意し、ジャムとクリームを取り分けた皿に銀色のスプーンを乗せます。
 少しサンディに謝って窓を開けると、今日の夕飯の食材を畑から収穫しているリッカを見つけます。リッカは黒くすら見える紺色の髪を肩口で揃え、オレンジ色のバンダナが日差しの中で眩しく輝いています。お客様が居ないので籠の中は、おじい様と私とリッカの分と慎ましやかな量です。顔を上げたのを見計らって、私はリッカに声を掛けます。
「リッカ。お茶にしませんか?」
「ありがとう! 今行くね!」
 リッカが眩しいまでの笑顔で応えると、紅茶が蒸れる頃合いぴったりに手を洗って席に着かれました。
 お茶を一口飲んで美味しい!と微笑むリッカは私の命の恩人なのです。
 守護天使の像の下の川辺で、大量に水を飲んで目を回していた私を助けて下さったのです。それ以降、彼女の家に下宿させてくれる代わりに、一家が運営する宿のお手伝いをしているのです。一人っ子のリッカは妹が出来たようだと喜んでいましたし、おじい様もリッカを助ける私に好印象を持ってくれているようです。
 リッカはホッと一息つくと、しげしげと私の顔を見ました。
「どうかしました?」
 私が首を傾げて問うと、リッカはううん…と首を振りました。
「ねぇ、アインツ。あたし昨日お爺ちゃんに、セントシュタインに行きなさいって言われたの」
 窓辺ではぼりぼりと音を立てて、サンディがビスケットを噛み砕いています。
 リッカは今、人生の選択と言える大きな決断を迫られていました。セントシュタインという大きな都市の宿から、働きに来ないかと誘いの手紙が届いていたのです。その手紙はリッカのお父様であるリベルト様へ向けられたもの。リベルト様はもう御存命ではなく、手紙の差出人であるルイーダという名の人物もそれを知らぬかのように手紙の中身は綴られているそうです。
 お父様が亡くなられ丁重な断りの手紙を書くのを止めたのは、おじい様だったそうです。
 おじい様のお気持ちも分かります。宿屋は隅々にまでリッカの心遣いが行き渡っています。清潔で料理はおいしいのは勿論、この地に来た人々の望みを叶えようと寄り添ってくれる。人々が再びこの宿へ来たいと思わせる魅力に溢れています。小さい村の片隅で、その才能を腐らせるべきではないと思ったのでしょう。
 私が思い巡らしている間に、リッカは重そうな口を開きます。
「あたしは良く覚えてないんだけど、昔は凄く病弱だったんだ。お父さんは自分が宿王の資格も捨てて、病弱な娘の為にここに引っ越したんだって」
 リッカが鼻を啜るものだから、私はハンカチを取り出して彼女に差し出しました。ごめんと消え入りそうな声で受け取ると、下に向けた顔にハンカチを圧し当てる。
「『今のお前ならお父さんに負けない。宿王になる資格がある』って、お爺ちゃんは言うの。あたし、宿王なんて無理だし行きたく無い。でも、お爺ちゃんの期待を裏切るのも嫌だし、お父さんの夢を受け継げって言われると断れなくって…」
 リッカは手紙を受け取ったその日から、随分と胸の中に溜めていたのですね。
 宿王とは世界中の宿屋が目指す遥かな高みであり、名誉の象徴であるそうです。見知らぬ都会へ行くのは不安がいっぱいで、宿王の娘という期待と重圧を背負わせるにはその肩は小さすぎるのです。父親が夢を捨てて娘を選んだのも、リッカにはショックだったのでしょう。でも、リッカは優しい子。それらを全部飲み込んで、無理をしてでも周囲の期待に応えようとするのが、私は心配です。
 ハンカチは何度も、リッカの臥せられた顔に当てられているようでした。
「ごめんね、アインツ。きっとお迎えが来て帰っちゃうのに、こんな事…言ったりしちゃって。旅立てなくなっちゃうよね。気にしないで…あたし、大丈夫だから」
 リッカは強くハンカチを押し当てて、漏れそうになる嗚咽を飲み込もうと努力しだしたのです。そんなリッカの不安に震える背中を、私は摩ります。
 窓辺を見遣れば、サンディは苦々しい顔つきで最後のビスケットを口に頬張ったのです。その様子を雰囲気台無しと言いたげに見ていれば、サンディはぺろりと手に付いたジャムを見せびらかすように舐めたのでした。

 暗くなった空に散りばめられた星と、山の裾野に乗った月。それを映し出す水面は絶えず滝の波紋に長い弧を描いて星と月の光を引き延ばしていました。清らかな水の飛沫が生み出す涼しい風を感じながら、私は手を組んで星々に祈ります。星々に感謝を捧げて祈ることは、私の天使界からの習慣でした。
「星空の守人の皆様。今日も良き一日を、ありがとうございます」
 勿論ウォルロ村の皆さんと、守護天使様への礼拝は欠かしません。ですが、こそばゆいものです。命を助けられ時、守護天使様と同じ名前だと御老人方に騒がれましたが当人なのですから。
 私は組んだ手を解いて、空を見上げました。
「旅立てなくなっちゃう…ですか」
 リッカの言葉が胸にしこりのように残っています。
 天使の輪も羽も失った私は、幼い人間の迷い子です。リッカのお祖父様には『じいと呼んで良いんじゃよ』と新しい孫のように可愛がっていただき、村人の皆さんにはご家族が迎えにくるまで居て良いと言われます。村の子供達は余所者めと睨んできますが、大人達は宿の手伝いが出来て偉いねって頭を撫でてくださいます。
 私はこの村の守護天使なんです。
 羽も天使の輪も失って、星のオーラも見えなくなってしまいましたが、守護天使の像には変わらず私の名前が刻まれ続けています。村人達が恙無く健やかに生きるのを見守る事。災いから守る事。私は任された守護地の守護天使として職務を、変わらず続けていました。星のオーラは集められませんが、消えて無くなるものではないので大丈夫でしょう。
 でも、私は守護天使ではないんでしょうね。私は不安が詰まった胸を両手で押さえました。
 守護天使でない私は、ここに居てはいけないんでしょうか?
 星空を鱗粉を振り撒きながら、小さい者が横切っていく。淡い桃色の輝きが、甘い香りとなって降り注いで溶けていきました。両手を後ろに組んでいたサンディは、くるりと振り返って私の鼻を小さい指で弾きました。なんて痛いんでしょう!
『なーんか、人間の気持ちって良くわかんない。宿王の娘なんて、輝かしい称号じゃん! チャンスを掴まないなんてマジあり得ない。リッカの悩み聞くのは良いけど、黙って聞いてるなんて壁にだって出来るんですケド!』
「私は壁じゃないです!」
 オバケの次は壁です! 散々です!
 怒った私の顔に、ぴっとサンディの人指し指が突きつけられるのです。桜の花弁のような小さい爪が付いていて、よくよく見れば奇麗なネイルアートが施されていました。
『こーんな可愛い美少女妖精が見えちゃうなんて、アインツは幸運よ。でも絶対、変。アンタ壁じゃないってんなら、結局何者なの?』
 同意しかねますね。
 ですけど、サンディには私の素性を話していないのも事実。言っても信じてもらえないと思っていますし、サンディも聞いてくる割に知りたがろうとはしません。『えーーー! ウソ! マジ? 信じらんなーい!』と騒がれるよりも、『変な奴』と疑われた方が気持ちが軽いと信じています。
 私の沈黙を気にする事無く、サンディは不遜なまでの態度で言葉を続けました。
『アインツは変な奴で良いけど、リッカの面倒なんて最後まで見れないじゃない。それなのにあんな親身に話聞いてあげちゃってイインデスカー? 無責任にテキトーにお返事してリッカの将来後押ししちゃったら、アインツってばサイテーなんですケド』
 サンディ、思った以上に面倒見の良い子ですね。
 感動を噛み締める私に、サンディが『なによ?』と視線を向けて来ます。
「私は自分の事は自分でしますし、自分の出来る範囲でリッカを手助けできるならそうします。サンディはサンディの心配をした方が良いんじゃないですか?」
『…うっ』
 サンディが痛い所を突かれた様に身を堅くします。
 その引き攣った顔の表す通り、サンディにはサンディの目的があるそうなのです。しかし、ずっと飛んで行くのはカッタルイとか、ご飯を自分で作るなんてメンドクサイとか、魔物が出たって戦えないとか、良く知らない人間の世界を探索? ナニソレオイシイノと言うのです。唯一姿が見える自分が協力してくれると、信じて疑わなかった彼女です。私が自分自身の心配したらどうだと放り出されては、流石に困るのでしょう。
 腕を組んで脂汗を浮かべながら唸るサンディを見ていると、地上の落ち着いた光がぱっと輝く。リッカの家の方角を見ると、玄関を開けた家の明かりが闇に溶けた大地に流れています。リッカらしい人影が扉を閉めて闇に溶けると、薄い月明かりにようやく慣れた目がリッカを認める事が出来ました。
 リッカは見えないサンディの真横で立ち止まると、私を見て首を傾げます。
「何してるの?」
「星を見ていたんですよ」
 笑って答えると、リッカも『素敵な星空だもんね』と空を見上げました。
 まだふっくらした頬にさらさらと青い髪が落ち、がさがさと仕事で荒れた手は丁寧に前で重ねられています。彼女がこのままこの地で生きていようと思うなら、きっとこのままの彼女で居るのでしょう。不憫だとは思いません。純粋で、無垢で、素敵な魅力に溢れているのですから。
 初めて、羨ましいと思いました。
 私はここに留まる事は出来ない。守護天使としてこの地に居続けた時でさえ、天使の使命を果たした時、天に還るものだと思っていたのです。でも、守護天使ではない私は、この地から旅立ち変わらなくてはならない。
 リッカ。声を掛けると、リッカの可愛らしい顔が私に向けられました。
「私、リッカのお手紙にあった宿屋で働こうと思っています」
「えっ!?」
 リッカが顔いっぱいに驚きを表しました。こんな子供が一人で大都会に行って宿で働こうだなんて、誰が聞いても驚くでしょう。
 セントシュタインを目指すのには、理由があります。その地の守護を担う天使様は、守護天使の像の数を超える事は出来ません。しかし守護する地の規模によって、助手として弟子を同行させることが認められているのです。セントシュタインは地上で最も大きな都。担当の守護天使様とそのお弟子様の数は、天使界で最も広いサロンを占領するほどにいらっしゃいます。私が彼らを見つければ、失った輪や羽の事を相談出来る。私がウォルロ村の守護天使として復帰する道筋が見つかるかもしれません。
「おじい様も私のベッドメイキングや室内清掃の技術は、どこの宿で働いても恥ずかしくないと言ってくださいました。お手紙からは大変な様子が伺えましたから、きっと子供でも雇ってくれるに違いありません」
 天使は基本的に、眠る事も食べる事も必要ありません。
 ですが、人に見えてしまう以上、浮浪者のようではいけません。郷に入れば郷に従え。人と共に生きて行けと、神は申されているのでしょう。
「だ、駄目だよ!」
 私の考えを遮るように、リッカの声が響きました。
「アインツ、ちっちゃいじゃない! 都に一人で行くだなんて危ないわ!」
 私は見た目が幼いだけで、リッカより年上なんですけどね。
 人を騙す怖い人がいっぱい居て、武器を持った危ない人がいっぱい居て、困っている人に手を差し伸べてくれる優しい人なんて滅多に居ない。危険な所だって村の人は皆言うのよ! そう、リッカは懇々と私に説明してくれます。
「でも、行きます。リッカとおじい様のお世話に、いつまでも甘える訳にはいきません」
 これが一番の理由でしょう。お師匠様がお見えにならない所を察するに、訪ねに来てくださる事は望み薄です。守護天使の役目を果たす為に、お二人の家に居続ける事は出来ない。なら、私は守護天使に復帰する為に行動しなくてはならないのです。
 頑なな私に、リッカが体を震わせます。わ、わ、と声が震え、次の瞬間大声が迸る。
「私もお父さんの宿に行くわ!」
 え! 泣く程に嫌がっていませんでしたか?
 驚く私の前で、燃えるような瞳のリッカが自分の胸をドンと拳で叩く。
「アインツは私の妹だもの! 安心して! 私がアインツを絶対守ってみせるわ!」
 あの、私はお姉さんです。見た目は小さいですけど、リッカよりお姉さんなんです。
 本当は行きたかったんですか? 一人で行くのが不安だったんですか? 呆然としている私を他所に、なんだかリッカの顔が輝いています。
『全く、アンタって想像以上にガンコって感じ? ま、しょうがないわね。アタシもやる事あるんですケド、アインツって危なっかしい感じだし…』
 珍しく真剣な表情で言っていたサンディは、私の顔に指を突きつけて高らかに言うのです。
『このサンディ様も一緒に行ってあげるわ!』
 首を傾げて斜めになった世界に、鼻息荒い二人の女の子を見るのです。
 一人で、大丈夫なのになぁ。