酒場のポルカ

 セントシュタインはこの世界最大の王国とされている。歴史としてはグビアナに勝らなくとも劣らぬ長い歴史を誇っている。一般の民家でさえ古い歴史を感じる佇まいで、この王城と城下町全てが歴史的遺産のようだ。
 その王国が初めて賊に踏み込まれたのはつい先日の事。何でも凄腕の黒騎士が城内の兵士を退けて大太刀回りしたらしく、危うく姫が攫われる寸前だったとか。兵士がへっぽこなのか騎士が強過ぎたのかは知らないので追求はしないが、結局国王は外に向けて黒騎士を打倒出来る人間を集い始めた。住民の姿はあまり多くは見かけないが、旅人で特に武装している人間が目立っているように見える。
 大通りがそんなに賑わってるんだから、俺が根城にしてる安宿が部屋いっぱいになっちまってるなんて心配しちゃうもんじゃない。だが、現実どうだろう。一階のフロント兼酒場は見慣れた常連だけが呑んだくれているし、酒場と宿の女将であるルイーダや宿の従業員は非常に眠たげというか気怠気だ。なぁに一つ変わっちゃいない。
「超稼ぎ時に閑古鳥が鳴き響いてるなんて悲しいじゃねーの、女将さん」
「うっさいわねぇ」
 ルイーダは二日酔いでも残っているかのような酷い顔で、カウンターから臥せった顔を持ち上げて俺を見上げている。かつては羨望の眼差しを浴びる美女で美人冒険家と名高かったそうだが、今では見る影が無い。青い長髪は艶がなく、肌も年齢だけじゃなく酒や不眠が原因で化粧もノリが悪いのだろう。俺が見る度に圧化粧でケバくなっている気がする。顔を支える指先は、かさかさでやせ細っている。
 俺が仕事に行く前、彼女の瞳には僅かな希望の光が灯っていた。それとなく古株の従業員に訪ねれば、エレベーターの整備士兼案内役のアルベルゴは『ルイーダが前の宿の経営者に手紙を出した』と答えた。
 俺はこの宿屋がセントシュタインで最もボロくて、客も来ない何時潰れても可笑しく無い時から利用している。確かにボロい。確かに汚い。客が来ない以上、続ける事が赤字を出す苦しい経営だと分かっている。従業員に希望も覇気も無く怠惰な時間を過ごしているのが、常連であっても客である俺にすら見えている。いっそのこと、潰れてしまえば良いじゃないかと言った時は骨が折れても可笑しく無い一撃を見舞われた。
 この宿はこの世界で最も優れた宿として、唯一認められた宿だと聞いた。
 ルイーダはこの宿を潰さないようにするので必死なのだ。なぜもっと早く『宿王』と呼ばれた前経営者に助けを求めなかったのか知らないが、きっと前経営者の事情を知っているルイーダの意地でもあったのだろう。ついに意地で続けて来ても無理になって手紙を書き、俺はついにルイーダが白旗を上げたのだと知った。
「返事が来ないのよ」
 ルイーダは死んだような目で俺を見て言った。
「そりゃ、峠の道がこの前の地震で崖が崩れたから、手紙だって遅れてるだろうよ。…そんな怖い顔で睨むな」
 ひび割れそうな乾燥した唇に塗った潤いの無い口紅が暗闇の中で黒く見える。わなわなと震える唇の奥の口腔内の闇と相まって、彼女の辛さが滲んでいる。彼女の瞳が俺を非難するように鋭く睨んでいる。俺が仕事でウォルロ村に行った事を知っているから、はぐらかす事が出来ない。
「お前が手紙を出した相手がリベルトという男なら、その男は数年前に死んじまったらしい」
 俺はルイーダから顔を背け、煙管に火を入れる。無言で泣かれるのが一番辛いが、彼女はそれとなく覚悟は決めているようだった。ウォルロ村は辺境の村で手紙等の流通経路は非常に限られる。手紙が届いて、返事が書かれて、その返事が返って来るまでもっと遅くなる事だって十分に考えられる。それでも…、それでもルイーダは手紙が彼女の手元に戻って来ない理由が、彼女の希望になるような内容ではないと心の何処かで分かっていたんだろう。
 俺が僅かに視線をカウンターの隅に走らせれば、アルベルゴが小さく頷いた。
 他に酒場の中でまったりしている奴らは泥酔していない限り居心地悪そうだ。貴重品預かりを担当しているレナという娘も、世話にならないから良く分からないが少し辛そうに伝票を繰っている。俺も仕方が無いので一回席を外す事に決めた。煙草を買い足して来るとか、仕事を見つけるとか色々しなくてはならない事があるのだ。
 俺は今まで気にした事も無かった床板の軋みを煩く感じながら、出口に向かう。外は太陽が一番高い時間帯で、出入り口付近が非常に眩しい。そんな光の向こうで、女の子達らしい若い声が聞こえて来た。
「ここ…でしょうか。リコスさんのお話では間違いはないようですが」
 ひそひそと扉の前で話している声が聞こえる。入り口に手を掛けて外を窺えば、旅装束の女の子二人が宿と互いの顔を見合わせながら相談している。まぁ、気持ちは分かる。こんなボロい宿に女の子が二人旅で泊まろうだなんて、ちょっとどころの度胸では出来ない。というか俺ですらお勧めしない。俺は一瞬親切心から別の宿を紹介しようと声を掛けようとして思い出す。
 女の子の一人は青い髪を肩に掛からない程度に切り揃え、青を貴重とした動きやすそうなワンピースとレギンスを着ている。肩から掛けたバッグは膨らんでいるが衣類が多いのか、深く服に皺を刻んではいない。彼女はウォルロ村の宿屋の主、リッカちゃんだ。数日間だけ世話になったが、その明るい笑顔や真面目に働く姿を忘れる程俺も鈍くは無い。ただ、彼女が仕事の時に着ていた赤いバンダナや白いエプロンが無いので気が付くのに遅くなったのだ。
 そしてリッカちゃんの横にいる女の子は、リッカちゃんよりも更に背が低くて幼い印象がある。黒髪で紺碧と言える深い青とも緑とも言える色の瞳、肌の色は白くも焼けてもいない。ひらひらとした革のような補強代わりの飾りが肩当ての様に肩から背中を覆い、その下に水色っぽい外套が広がる。こちらは完全に旅人と言った感じで、腰には護身用の剣が見えていて服も旅人の丈夫な服だ。少女の手元には地図があり、幼く見えるようだがリッカちゃんの先導役を行っているようだった。
「おぅ、リッカちゃん」
 俺が扉に体重を預けて声を掛けると、リッカちゃんだけじゃなく一緒にいた子まで俺を見て驚いた。
「ケネス様…!」
「セントシュタインに買い出しかい?」
 まさか客以外の時でも様付けで呼ばれるとは思わなかった。リッカちゃん筋金入りだねぇ。俺がへにゃりと笑ってみせれば、そのまま何事も無い様に宿から出て彼女等の前に立つ。黒髪のリッカちゃんの連れが怖じ気づいた様に僅かに引いたが、俺の身長はそんなに高く無いとはいえ頭一つ以上の差があるのでは仕方が無いかもしれない。
「とはいえ、ここにチェックインするのは個人的にお勧めしないなぁ」
 俺はそう言って背を向けた宿を振り返らずに指差した。宿屋は三階建ての堅牢な煉瓦とベランダを持ち合わせた、宿屋としては豪華で貴族が泊まるにも申し分ない規模を備えている。セントシュタインでは珍しいエレベーターという機械仕掛けが備わっているのも、特別を意識させるには十分過ぎるだろう。セントシュタインは過去の建築方式が一般家庭にも残っているが、この宿屋も過去に建てた建物がそのまま残っている魅力がある。それでも、それを差し引いても人を遠ざけてしまうのは、この宿全体に漂う雰囲気である。カラコタ橋周辺に流れるようなヤバい匂いと、手入れが行き届いていないのが端々から滲んで清潔なイメージが損なわれいる。
 俺がそんな事を思っていると、リッカちゃんが決意を固めたような表情で俺に言った。
「いえ、私達はこの宿に雇ってもらう為に来たのです」
 そこの言葉に、俺は合点がいってしまって逆に絶句してしまった。リベルトという男がルイーダが手紙を出した相手だという推測はあっても、確証はなかった。しかし、ウォルロ村の宿は数日間の滞在とはいえ世界中を旅してきた合間に利用した様々な宿屋と比べても、トップクラスのおもてなしと真心が溢れた文句無しの宿だった。宿王リベルトの宿だと言われたら、なんとなく納得すらしてしまう。
 そんな五つ星の隠れた優秀な宿の経営者が、なぜ自分の城を捨てて来たのか。リッカちゃんの祖父が存命らしいし、宿王であったリベルトを知るなら救いを求めた手紙を無視は出来ないだろう。優秀な孫が亡くなったリベルトに決して負けない実力者として成長しているなら、若者の未来の為に挑戦して欲しいという気持ちがあるに違いない。
 それでも、本人の意思があったからこそだろうが。
「お客様をお引き止めして申し訳ございませんでした。私共はこれにて失礼致します」
 そう言うが早いか、リッカちゃんは深々と頭を下げる。黒髪が慌てて俺に頭を下げた所で、その黒髪を引っ張って宿屋の中に勇ましく入って行った。
 俺は見送りながら思う。ルイーダの心は折れている。あの絶望からどうやって引き上げて宿を再生するつもりなのだろう…と。贔屓にしていた安宿が仕えなくなるのは残念だが、俺は経営を助けてやれる程の財力も人間関係も無い。ただ、煙草を買いに行くのが精一杯だと、煙管の煙を吸って空に吐き出したのだった。

 □ ■ □ ■

 夕方に煙草を買って宿屋に戻れば、その様は一変していた。この世界には呪文が存在しているが、一体どんな呪文を使えばこうなるんだろうかと驚きに表に出て確認する程である。切れかかっていたランプの硝子は奇麗に磨き抜かれ、ランプの光源として用いられる蝋燭も新しい物が入れ替えられている。酒場のテーブルは脚まで奇麗に磨かれてつやつやに光っていて、それはカウンターや棚に至るまで塵一つない状態にされている。どこから引っ張り出されたのか可愛らしい一輪挿しの花瓶には、この時期にセントシュタインで咲き誇る黄色い花が添えられている。
 全体的には俺が昼間に来た宿屋と変わりがない。
 だが、客が目につくだろう必要最低限が、あの俺が泊まったウォルロ村の宿と変わりないレベルにまで引き上げられていた。
 俺が思わず出入り口で立ち尽くしていれば、俺の横にリッカちゃんと一緒にいた黒髪の女の子が早く感じさせないながらも素早く歩み寄って来た。白いブラウスに黒いキャスケットと手にはシルバートレイを下げたウェイター姿の彼女は、やはりウォルロ村の宿のサービスとして模範的な一礼をした。優雅で洗練された一礼は、少女の幼さを封じ込める。
「お帰りなさいませ、ケネス様」
 そこで失礼の無い様に、しかし入念に見られる。リッカちゃんはこの時、俺の服が汚れていれば洗濯を申し出て入浴の有無を尋ね、手荷物を持っていれば受け取って居室に運び込むのだ。彼女もリッカちゃんと同じ教育を施されているのだろう。
 一瞬の間があって、彼女はにこりと笑った。幼さの残る顔立ちの通り、美形というより愛嬌がある顔に好感を感じる。
「もし宜しかったら夕食の準備が整いますので、夕食を召し上がりますか?」
「え…? あぁ、そうだな」
 ぎこちなく答えれば、碧の瞳を細めて笑う。
「失礼致しました。私、今日お客様のご案内を勤めさせて頂く、アインツと申す者です。御用の際は何なりと申し付け下さい」
 『では、お席にどうぞ』とご案内だ。酒場の常連共も今までの怠さ加減が、ウォルロ流の洗練された接待に叩き落とされた様だ。没落貴族といった風情の妙齢の女性は、体に身につけた貴金属を洗浄され手袋やスカーフといった小物が奇麗にアイロン掛けされてしまっている。いつも呑んだくれていた戦士はといえば、うっすら埃を被っていた鎧を外されて洗浄されたのか、まるでミラーアーマーを着ているようだ。カウンター横に控えるアルベルゴの髪に塗った整髪料が光り、貴重品預かりを行っているレナはいつもの澄まし顔だが背筋が伸びている。
 そして、案内された席にはルイーダが先に座っていた。
「おいおい、どうなってるんだよ」
 ルイーダは相変わらず覇気が無い様子だったが、それでも入浴して来たのか仄かに香る柔らかい花の香りが漂っている。爪は奇麗に磨かれてマニキュアが塗られていて、メイクがされていない顔は元々美女で通っていただろう面影を火照った頬が健康的に魅せる。髪の毛は奇麗に梳き解され、髪の毛を纏める髪紐には可愛らしい白いリボンが起用されている。
「あの子達があたしの顔を見て疲れてるって言うのよ。そしたら給料は要らないからここで一日働かせろって…」
 ルイーダが溜息を付いた様に呟く。
「なんなのかしら、あの子達」
 そっとピンクのマニキュアが塗られた手が、ルイーダ自身の顔を覆う。俺達が話していると感じたのか、アインツと名乗っていた女の子がそっと『食前酒です』と囁いて、俺とルイーダの前にグラスを置いて度の強く無い酒が注ぐ。物音を立てぬよう、美しい所作で食器が並べられテーブルが整って行く。
「リベルトは死んでしまったというのに、あの子達の動作はリベルトそのものよ。いいえ、それ以上。ベッドメイクも、ルームクリーニングも完璧だし、まさか…まさかお客の身の回りの世話までやくだなんて。小さいけどキメ細やかな心配り、それはリベルトだからこそ出来た宿屋のサービスの神髄だったわ」
 ルイーダがそう言っている間に、テーブルの上は賑わいを見せて来た。セントシュタインの市場で仕入れて来たのだろう、新鮮な野菜のサラダ。焼きたてのパンが多めに用意されたバスケット。硝子に分けられた黄金色の蜂蜜。冷たい水が呑めるよう氷が入ったポットが、塩や胡椒のように当たり前にテーブルに用意されている。台車に乗ったワンホールのケーキが、客の前で切り分けられ目の前でベリーのトッピングとソースが添えられて配られる。
 酒場に三つ用意されたテーブルの残り一つには、アルベルゴとレナが座っていた。
 アインツちゃん……言い難いな。彼女が整えたテーブルだが、誰もテーブルの上の食事には手を付けない。何故なら、メインディッシュが置かれるだろうスペースが空いているのだ。
「皆様、恐れながら御注視下さい」
 カウンターの前にリッカちゃんが立っている。ウォルロ村で仕事をしていた様に、白いエプロンを身につけ赤いバンダナは外して手に持っている。彼女は凛とした様子で俺達客人を見回した。
「この度は私の拙いサービスでありますが、お客様にお喜びいただく為にご用意させて頂きました。今回ご用意した夕食のメインディッシュは、私の父が良く作ってくれた私的に思い出深い一品でございます。この歴史ある宿に一日でも働かせて頂いた身でありますので、私も私の中で最も大切な歴史で応じたいと思って提供させて頂きます」
 そして、アインツが台車にメインディッシュを乗せてテーブルを回る。お客一人一人に料理名を説明し、丁寧に、だが決して苛立たない上品な時間が流れる。
「デミグラスソースの煮込みハンバーグにございます。容器が熱くなっておりますので、ご注意下さい」
 とても良い香りが鼻腔をくすぐった。器は木製の板に乗って目の前に置かれているが、その熱気は香りと同じく俺の顔を撫で上げる。豊かな香りの中に複雑に紛れ込んだ香辛料の香りが腹を盛大に鳴らしてくれるわ、暖色系の野菜とソースの中にアクセントの様にホワイトソースとハーブが添えられて目に訴える。誰かが思わず食器を取った音が響いた。しかし食べるには至らない。
 皆、分かっているのだ。
 俺達がいるのは、昼までのセントシュタイン最低の宿ではない。
 アインツが配り終えた時、全員がリッカちゃんを注視した。
「では、皆様、夕食をご堪能下さい」
 ここは既に宿王の宿になっていた。
 心から喜んでいるだろうルイーダが拭った掌が濡れている事は、俺と横目でルイーダを見ていたアルベルゴだけが知っている。
「ルイーダ、何に乾杯する?」
 俺の声にルイーダは笑顔でグラスを持ち上げた。その顔は満面に希望という光に輝いている。
「分からないわ。でも、今は祝杯を挙げたい以外何も思いつかないのよ」
 高々と挙げたグラスが、盛大に音を立てて重なり合い光の下で飛沫を輝かせた。誰もが弾ける様に笑い、談笑しながら美味しい飯を食う。常連同士の連帯感でか、戦士が無骨な手に楽器を握ればルイーダが手拍子を取る。アルベルゴが常連の女の手を取れば、女は元は旅芸人だったんじゃないかというステップで踊り出す。俺達が彩る酒場の光景を、アインツと並んでリッカちゃんが嬉しそうに見ていた。
 今日という偉大なる宿王の帰還を、宿と客は楽し気な歓声で迎えたのだった。