野を越え、山を越え

 私がいるのはセントシュタインから遥か北、大陸の北端にある『滅びの森』と呼ばれる地域の中心部です。
 周囲は重く息苦しい瘴気が黒い霧の様です。眼下に広がる毒の沼の不純物も混ざった空気が、上空の水蒸気と混ざり黒い雲としてこの地域を覆っていました。マフラーに染み込ませた毒消し草を煮詰めた中和剤の力でここに立っていますが、目の前には人の住む場所とは到底思えない世界が広がっています。乾燥し死んでしまった土地に染み込む事すら許されない腐った水。腐敗した沈んだ何かのガスが、時々ぼこりと音を立てて吹き出てきます。目も痛くなるような悪臭が立ちこめていましたが、ガスは重く滑る水の様に漂っています。
 さらに目を凝らせば、黒い瘴気の底には巨大な廃墟が広がっています。セントシュタインにも負けぬ広大な敷地に、石を積み上げ急な傾斜を付けた屋根が軒を連ねています。王城らしき巨大な建物の城壁がまるで親鳥が雛を護る様に城下町を囲み、守りに主点を置いた砦のような造りである事を窺わせます。人がこの地を棄てて随分と年月が経ち毒の沼と瘴気を含んだ雨に晒されていても、町自体が備えていた堅牢さが廃墟として留まらせているのを感じさせるのです。
『うあーーーー!マジ無理!チョー無理!!!!』
 マフラーの中からサンディが悲鳴を上げて喚いております。この地に立ち入ってから連日連夜こんな調子で、こんな小さい体で良く大丈夫だなと感心してしまいます。本人曰く、妖精の淡い光は天使の光輪と似た力があるのか、悪しき力や災いを遠ざけるようなのです。それでも私の抗瘴気対策のマフラーの中にいるのは、彼女の気持ち的な問題なのでしょう。
『どうして!? どうしてこうなったの!? アインツ!!』
 最後は喧嘩腰。サンディは私の耳に噛み付くような勢いで迫り捲し立てるのでした。私は少し遠ざかりながら、周囲にケネスさんがいないのを確認して囁きました。
「落ち着いて下さい。サンディ」
『なんでアタシが落ち着かなきゃいけないの!』
 発狂したような叫び声を上げて、サンディはヒステリックに髪の毛を掻き回しました。いつもなら整えたネイルアートに添えたラインストーンが髪に引っかかると言って丁寧に髪を扱うのに、周囲の環境にいかに追いつめられているのかが伝わってきます。
「セントシュタインの宿屋で待ってくれていて良かったんですよ?」
 なにせ、サンディはセントシュタインの宿屋の厨房から撮み食いするようになっています。私が居なければ…はもう昔の話なのです。
『こんな事になるなんて誰も思わないっつーの!』
 そう、最初はエラフィタに材木を買いに行くという話だったのです。
 今までの経緯を振り返るとして、最初に浮かぶのはセントシュタインの宿の酷さです。改めて建物を見させてもらえば手入れが行き届いていない為の劣化が酷く、埃が積もっているとかならまだしも湿気で床板が腐っていたり家具が変色し染み付いていいたり酷い物でした。何十と部屋がある立派な宿でしたが、使える家具を集めお客様に泊まって頂ける部屋になったのは十に満たない状態です。泊まれる状態の部屋でさえ、部屋のクロスを張り替えたり床を張り替えたりする必要があるのです。
 カーテンや調度品はセントシュタインで手に入りますが、木材はどうにもならないものです。
 先立つ物はなんとやらで、経費を捻出する為にもお客様にご利用して頂く事は最優先事項です。リッカが宿の中の事を主に担っていたので、私が集客というものをする事になったんですがこれが想像以上に大変でした。唯一宿王に認められ世界一の宿とされても、その時期からかなりの時間が経っており知名度は無いも同じです。応じてその気になったとしても、宿を見た瞬間に断るなんて人だって一人や二人じゃなかったのです。
 その頃からサンディは呆れと疑問を私に投げつけてきました。
『アインツ、これマジヤバいって! 本気でコレ宿屋の仕事じゃないんですケド!』
 うぅ…。サンディの体がマフラーから落ちない様に気を遣いながら目の前の光景を見ると、とても肯定出来るものではありません。
 最近はリッカのサービスの質の高さに、新しい常連が得られ安定した運営の中で改築資金が捻出出来る見通しが出てきました。そこで、この地域では最も頑丈で香り高いエラフィタの木材を購入しようという話になったのです。知識の無い私の為に、低賃金で雇われてやるとケネスさんが同行して下さいました。そこまでは、何の問題も無かったのです。
 両手に握った護身用の剣を持って見回すと、少し高い場所に居る私目指してケネスさんが坂道を上ってきます。不揃いの赤毛が白く霞む程、黙々と毒消しの効果があると言っている毒消し草を煙草代わりにして煙管に入れて吹かしています。コートの下には帷子のように服の下に着込む鎧の鉄の色が、瘴気で黒く見えました。赤銅色の瞳と視線が合うと、へらりと笑いました。
「いやぁ、噂には聞いていたがそれ以上に酷いな。少し休めたか?」
「はい。御陰様で…」
 薄ら笑いを貼付けながら周囲の探索から戻り私の横に並ぶと、サンディは険しい顔でさっと隠れてしまいます。彼女曰く、ケネスさんが狙いでも付けているかのような精密さで煙を吐き出して来るかららしいです。
 そしてケネスさんは朽ちかけた廃墟を指差しながら言いました。
「やっぱりここがルディアノらしい。ここから先は黒騎士と鉢合わせって事も無くは無い」
 そして『どうする?』と言いたげに首を傾げます。その様子に私は深々と頷きました。
「ここまで来て引き返したりしません」
 がんばります。そう言うとケネスさんは笑って一回煙管の中身を地面に空け、赤く燻る灰をブーツの底で踏み消しました。素早く新しい煙草を詰めて火を入れると、煙を吸って吐き出します。自分はマフラーの繊維越しというのもあって多少は外気を浄化していると思いますが、彼は毒消し草の煙を吸っているからと言っても外気を直に吸っています。本当に大丈夫なのか心配になるのですが、この地に踏み入れて5日目なら問題ないのかもしれません。
「じゃ、行くか」
 ケネスさんはそう言って先を歩き出し、私もそれに続きます。
『え? えっ、マジで入るの!? ちょっとマジヤバいって、ハンパないって止めようよ〜!!』
 進むケネスさんを追いかける私の耳元にだけ、悲痛なサンディの声が響いていくのでした。帰りたいなら帰って下さいよ…。
 黒騎士らしき人型の足跡を追っているだけとは言えそうに無いケネスさんの動きでしたので、微妙に足跡を追うように誘導しつつ奥へ進みます。城へ続く階段は崩れ落ちていて、壁には大きな扉だけが張り付いています。時折この廃墟を家にしている魔物達を退けながら、私達は足跡を追って地下に到達したのでした。
「足跡が消えちまったが、ここらからそろそろ城の真下に潜り込めるんじゃないかな?」
 ケネスさんが絡み付いてきたドラキーを殴り飛ばして退けると、私にランプを持たせました。私がランプオイルを調節して、ランプの硝子部分を開けるとケネスさんは煙管に付ける火種で火を灯します。真っ暗だった地下階が淡く光に照らされると、上の廃墟よりも風や瘴気による劣化が少ない建物の内部が広がっています。城として相応しい柱や壁に施された彫刻や、床に敷かれた色褪せながらも朽ちていない絨毯、床に転がる椅子は年代を感じる豪華な造りです。その中で、私は壁一面に広がる壁画を光で照らしました。
 思わず感嘆の声が漏れます。
 馬に股がり剣を天に向ける雄々しい騎士。馬も甲冑も剣も全て黒ですが、鎧に施された装飾の色彩は鮮やかな赤や青や黄色。黒は故意に用いられているとしたら、私達が追っている黒騎士に似ているとしか言い様がありません。サンディが飛び上がり光が届き難い黒い騎士の壁画の顔を覗き込んで、うっとりと手を組みました。きっと美形なのでしょう。
「少し疑問に思ったんですが…」
 私達は少し昔にセントシュタインを脅かした黒騎士を追っていました。
 セントシュタインで黒騎士騒動があってからというもの、領地内では黒騎士の捜索と討伐が頻繁に行われています。多くの腕利きの賞金稼ぎが国王の提示した賞金目当てに黒騎士に挑み、そして敗れている事はセントシュタイン城下町で最も盛んに話題に上る事です。黒騎士はセントシュタインに現れた後、北のシュタイン湖やエラフィタにも姿が見られる様になりました。私達がエラフィタに訪れた時には、エラフィタは賞金稼ぎが観光客と同じくらい訪れていました。
 私達がエラフィタに訪れた数日前、私達が接触しようとしていた樵が黒騎士に遭遇したそうです。樵は恐怖のあまりに森林には黒騎士騒動が収まらなければ、立ち入らないの一点張りを繰り返す様になってしまいました。どんなにお願いして材木の調達を依頼しても、黒騎士が恐ろしかったのか頑として首を縦には振ってくれませんでした。
 その時、黒騎士は樵に質問を投げかけたそうです。それはルディアノという地が何処にあるか…。
 私達は樵の不安を取り除いて仕事をしてもらう為にも、黒騎士を追う事になりました。エラフィタの童歌にあったルディアノという名を聞く事が出来なければ、一生ここに辿り着く事は出来なかったでしょう。
「こんな大きな国の事が、人々の記憶に一切無いというのはどうしてなのでしょう?」
 ランプを翳して広がる光の中に納まった王宮の名残。国民的な英雄だったのだろう黒い騎士。人々の記憶にいくらでも残っていそうな伝説と栄華と繁栄が、なぜ一欠片も残っていないのでしょう。例え誰も近づけない滅んだ森の奥地にあるとはいえ、この廃墟の規模を考えれば住んでいただろう人間は数百に及んだ筈です。まるで、この国の人間が一人残らず殺されてしまったかのようです。でも、その虐殺の歴史すらない。
 おかしい。遥か昔の事だとしても、なにも無いなんて…。
「事情があるんだろ」
 ケネスさんはそう言い捨てて再び歩き出しました。
 階段を登ると地上へ出て、目的の城らしき建物に入り込めたようでした。再び石壁は風に晒されて脆くなり、床は水が掃けずに溜まり腐ってしまい、崩れてしまって外が望める大穴の向こうには速い速度で流れる厚い雲が見えました。魔物をやり過ごしながら進むうち、私達は思わず足を止めたのです。
『ちょっと、アインツ…』
 只ならぬ圧倒的な気配が魔物達を退けているのでしょう。びりびりと空気に伝わる感情は恐らく怒り。無音故にその激しさに不気味さが加わり、私は思わず汗が噴き出します。不安そうに齧り付くサンディを見遣り、私は口だけ大丈夫と動かして剣を持ち直しました。
"コソコソと動き回っているのはお前達か…?"
『…ひっ!!』
 サンディが小さく悲鳴を上げてキツくマフラーを握りしめました。
 そんな必死な反応と逆に、ケネスさんは薄ら笑いを浮かべながら広間に続くのだろう大きな扉を蹴り開けました。錆び付き重たい扉が蹴り開けられ、蝶番が外れ倒れた音が軋んだ音の消えぬうちに響きます。天井から長い年月の間降り積もった誇りがさらさらと落ちて、床に砂埃を拡げていきました。
 その砂埃を踏み散らかし、ケネスさんは不敵に笑ったのです。
「ちょっと観光だ。怪しい者じゃないさ」
 ケネスさんの後ろから覗き込めば、そこには黒い甲冑に身を包んだ騎士が立っています。古風な型の甲冑には黒に映える金の装飾がふんだんに用いられ華美に感じられます。あの壁画に描かれたのが目の前の騎士だとしたら、その立場は将軍のようなルディアノの守護の象徴であったのでしょう。彼は馬上で使うような長い柄と突きに重点を置かれた槍を抱え、玉座の前に立ちはだかる様に立っている。
"貴殿等はルディアノが滅んだか、知っているか?"
 その問いかけは私の想像以上に思慮深い響きを持っていました。恐らくセントシュタインでの反応や、樵の様に尋ねた問いの答えを重ねる内に感じた疑問だったのでしょう。このルディアノという城が一国の王の住まいだとしたら、恐らくセントシュタインと同じ規模であったでしょう。黒騎士は誰かに問えば必ずこの国の反応が返って来ると思っていた。しかし、誰もルディアノという国の名前すら知らず、辿り着いたルディアノという国を見て疑問が確信に変わってしまった。
 そうなれば問う内容は『何故滅んだか』。
「さぁね。この国がルディアノと呼ばれていたのも初耳だ」
 ケネスさんは拍子抜けする程のんびりと答えました。
"そんな筈が無い…!"
 黒騎士の気迫にケネスさんの前髪が強風に煽られる様に吹き上がり、私は思わず剣を取り落として腰を抜かし尻餅を付いてしまいました。サンディは声すら失って震え上がるのが、押し付けられた背中越しに伝わってきます。熟練の戦士の気迫は、戦い慣れしていない自分には衝撃が強過ぎます。ケネスさんではなく自分に向けられていたら、きっと失神してしまった事でしょう…!
 必死に歯を噛み締めるものの、まるで極寒の地に放り出された様に歯が噛み合ず口の中で細かい音を立てています。
"ルディアノが忘れ去られるなど有り得ん! 私が命を懸けて護ると誓ったメリア姫が居る王国が、滅びるなんてあっていい筈が無い…!!"
 悲痛な声を前にケネスさんは相変わらずの薄ら笑いのまま騎士の前に立ちました。いつの間にか私が取り落とした剣をケネスさんは長身の騎士に向け、その刀身は恐らく黒騎士の顔を映している事でしょう。ケネスさんは何の感情をも含まぬ声で言いました。
「そう信じたいなら、それで良いんじゃねぇの?」
 次の瞬間、黒騎士が吠えた。先程よりももっと悲痛で、怒り狂っているように。
 びりびりと衝撃波のように放たれる殺気よりも早く、黒騎士は踏み込んで瞬く間にケネスさんに肉薄して来たのです。私が声を上げるよりも早くケネスさんは反応し、迫る槍の穂先を避けて間合いを取ります。地面に積もった埃を巻き上げて飛び退った勢いを殺し、今まで素手や棒っきれで対応していた彼は静かに剣を構えます。正眼ではなく、私も見た事の無い構えに黒騎士は敵意を立ち上らせて低い声で言いました。
"やはり貴様はガナンの者か!"
 黒騎士は重い鎧など意思の介さぬ勢いで飛び上がり、槍を床に突き刺す勢いでケネスさんに迫ります。しかしケネスさんは軌道を完全に見切って逃げに徹しているのが窺えます。黒騎士の攻撃を避けながら、ケネスさんは苦笑して首を傾げます。
「ガナンなんて聞いた事ないな」
 黒騎士の攻撃は執拗さと激しさを増し、ケネスさんはその刀身で受け流し時に弾き返してみせます。その攻防の激しさは私が今までで見た戦いの中で最も激しく、魔物との攻防とは違った達人達の切り結びには立ち入る隙もありません。私はどうやって援助して行けば良いのか分からず、事の成り行きを見守るしかなかったのです。
 いえ、恥ずかしながらどうすれば良いのか分からないのです。
「アインツ、逃げちゃって良いよ」
 その言葉にハッと顔を上げると、ケネスさんの煙管が目の前に迫ってきました。受け止め、皮の手袋越しに微かに熱を感じる煙管は彼の煙臭い香りを放っています。
「ケネスさん!?」
「ちょっとこの剣で押切るのは難しそうでな」
 へらっと笑う横にあった刀身は、頑丈な騎士の槍に幾つも既に刃こぼれしていました。それを見ていた僅かな隙に、ケネスさんは私の額をトンと押しました。軽い力だったのに私の体は大きく姿勢を崩し、背後にあった崩れ大きく陥没した空間に落ちて行きます。視界が暗い中で何度も回転し、埃が口や目の中に入っても吐き出す暇もない程に体が壁なのか床なのか瓦礫かなにかに叩き付けられる。只管に重力に体が引かれている。痛い。痛いけど、体が止まってくれない。
 ずっと続くかと思っていた落下が、大きな衝撃についに終わった。自分の体に訪れた静止だったけれど、それでも体中は痛いし最後の衝撃に息が出来ないくらい苦しいのです。魔物が住んでいる廃墟ですから、私は埃が入って痛い目をどうにか開けて、打ち付けてとても痛い体を肘をついて起こします。幸い、魔物の気配も姿も無いようです。
 大きくようやく息が吐き出せると、目の前に明るい暖色系の光が走り込んできました。光の中でサンディが私に体当たりしそうな勢いで覗き込んできました。
『アインツ、大丈夫!? …ってか、ボロボロじゃない!!』
「サンディ…よかった…。マフラーに絡んでないか…心配…でした」
 私が笑ってみせると、サンディは泣きそうな顔をどうにか怒ったような顔にしようとして歪になりながら私に強く言いました。
『アンタはホイミ使えたでしょ! 今スグ使う! アタシの心配なんてしてる暇ないでしょーが!!』
 あぁ、そうです。ホイミを唱えて傷口を塞がないといけないのですが、体中痛くて何処がどう怪我しているか全く分からないのです。とりあえず体全体に掛けると、痛みはあまり退かないですが体自体は大分楽になった気がします。膝を立て重なった瓦礫に手を掛けてどうにか立ち上がると、そこは崩れかけたバルコニーに続く廊下でした。
 サンディが私のマフラーに取り付いて、私を見上げました。
『急いで逃げよう、アインツ! きっと、あの男はどーにか逃げるって!』
 サンディの言葉にケネスさんの顔と、僅かな攻防でボロボロに欠けた自分の護身用の剣。サンディがそのままマフラーを引っ張るものですから、私も首が絞まるのが嫌でよろよろと付いて行きます。意外な程に明るい外に、私は思わず立ち止まり見上げたのです。
 淀んだ空気を流す様に、マントが広がる程の風が吹いています。その為にこの地方を包んでいる霧のような瘴気が晴れ、黒い大地が遠くまで見渡せます。滅びの森を覆っていた厚い雲がいつの間にか僅かに切れていて、満月は無いのに満月に負けない光を放つ星がありました。私は目を擦って星を見上げました。あんな強い光を放つ星など、ウォルロに滞在して幾度となく見上げた夜空には無かったのです。
 私の見つめる先で星が瞬いている。
 これ以上も無い輝きは、まるで叱咤し勇気づけているようです。星が喋る訳ないんですけど、私はそう感じられたのです。
『何してんの! アインツ!』
 サンディがマフラーを引っ張っても付いて来ないものだから、怒った様に言いました。
 彼女の顔を見ると、彼女は私が生きていく事を望んでいてその為に逃げようと言っているのが分かるのです。確かにあの黒騎士はとんでもなく強くて、ケネスさんも弱い武器では倒せないというのだから当然私が太刀打ち出来ない事は分かっています。だから逃がしてくれたのです。私みたいな足手まといが居なければ、隙を付いて逃げ仰せるかもしれない。サンディはそう思っているから、私に逃げろと言うのです。
 でも、エラフィタまで逃げ帰れたとしたら、待ってたらケネスさんは帰って来るのでしょうか?
 黒騎士は理性ある存在ですから無用な殺生はしないかもしれません。でも本当に殺さない保証なんてあるのか、私にはわかりません。もし、ここでケネスさんが殺されてしまったら、きっと、私は後悔します。一生、後悔しちゃいます。
 黒騎士を追いかけようと言ったのは、私なんです。
 私はサンディをしっかりと見つめて言いました。
「やっぱり、逃げるのは良く無いです」
『はぁっ!?』
 私は自分の体に再びホイミを掛けると、体を地面に縫い付けようとする倦怠感を気力と早歩きで退けます。上の階に戻る為の階段を探す為に廃墟の中を突き進む中でも、ケネスさんと黒騎士の戦う剣戟や物音が反響して耳に届くのです。サンディが私に追いつくと、大きな声で『逃げよう!』と言う声に私は自分でも吃驚する程大声で答えました。
「私は後悔するの嫌です。ここで死んじゃってリッカやルイーダさん達を凄く心配させても、サンディが怒っても、やっぱり後悔するのは嫌です。だから、戻るんです!」
『なにソレ! 後悔ってオイシイの!?』
「滅茶苦茶不味いです!」
 脆くなった階段を見つければ上から響く音は更に大きくなります。どんなに自分の粗い息遣いが煩く響いても、やはり金属が打ち合わさる音が不安をかき立てて心臓の音と頭痛が体の痛みを飲み込んでしまいます。早く、早く、もっと早くと気持ちだけが急いてしまいます。足が何度も取られ落ちそうになる階段をどうにか越えて、先程の階に着くと剣戟の音は壁を揺さぶる程に大きく響いていました。
 走り出してすぐ、今まで聞いた事の無い大きな音が響きました。歯を食いしばって音のする方へ向かうと、そこには床に伏せるケネスさんの姿が見えました。
「ケネスさん!」
「よぅ。アインツ…逃げろって言ったじゃん」
 息をするのも辛そうなケネスさんの体はとても熱く、砕けた剣を持っていた利き手は折れてはいませんが大きく腫れ上がっています。恐らく槍で打ち据えられ、深刻な打撲を負わされたのでしょう。本人から戦う意思は失われていないのですが指先一本も動きそうにありません。急いでホイミを施しましたがケネスさんの様子は改善しません。
 ケネスさんに縋り付いていた私の背中に、足音が迫ってきました。
 ゆっくりを近づいて来る黒騎士の足音を聞きながら、私は黒騎士とケネスさんの間に立ちはだかる様に移動したのです。黒騎士が静かに鋭い槍の切っ先を私に向けました。
「私、退きません」
 私は静かに言います。
 黒騎士も私の言葉を聞いても、槍を逸らす事も突き刺そうとするつもりも無く私を見下ろしています。黒い甲冑と鎧の隙間から、白い頭蓋骨と本来目のあるべき場所に爛々と紅い輝きがあります。
「ケネスさんが貴方に傷つけられて、私、凄く怒ってます。きっと、貴方も故郷や大切な人が無惨な目に遇ってるって知って、凄く怒ってるんだと思います。私はその怒りを鎮める方法なんて、きっと無いと思ってます。ケネスさんは回復呪文で治るけど、貴方の大切な人は戻って来るのか断言出来る人なんていませんもん」
 黒騎士の紅い光が僅かに揺れているのが、私には見えました。その光は生者の瞳と同じく感情を口よりも語っていたのです。
「人の魂は未練を残したまま天に昇る事は出来ません」
 私は諭すように言いました。
「魂に寿命はありません。何十年も何百年も、魂は果たせなかった願いを叶える為に彷徨うのです」
 その願いを叶え彷徨える魂を天へ導く仕事をしていたのが天使でした。しかしどんな天使であっても、地上に留まってまで果たしたい未練に応える事は難しい事なのです。未練に応えられず、魂を喰らう魔物に出会い天に昇る事すら叶わなかった魂は想像以上に多いはずです。
「もし、メリアという女性が貴方に再会する事を望み地上に留まっているなら、その願いを叶えられるのは貴方だけです」
 メリア姫…と、黒騎士が呻く様に言いました。そして紅い光から敵意が薄れると、黒騎士は静かに槍を下げたのです。
"ルディアノの真実が闇に葬られてしまったなら、私はそれを闇から探し出さねばならない。それが皆の願い、私に与えられた使命なのだろう…"
『うわっ。いきなり悟り出しちゃったんですケド』
 見えないからって空気を読まずに水を注すサンディの羽を摘むと、ケネスさんや黒騎士に悟られない様に脇に挟んでおきます。私以外には聞こえないサンディの声を右から左に流していると、黒騎士は小さく古風な会釈をしました。
"貴殿等には迷惑を掛けたな"
「どーって事ねーよ」
 ケネスさんが痛め付けられていない腕を上げて笑う。後に引かない性格を好感と受け取ったのか、黒騎士の紅い光は楽し気に瞬いた。黒騎士が槍を高々と上げ魔力を高めると、暖かい柔らかい光が注ぎ体の痛みが遠退いて行きます。恐らくホイミ以上の上級呪文が私達の体に浸透し光が納まる頃には、黒騎士の姿は既にありませんでした。
 体の底から沸き上がる脱力感に、ケネスさんが大袈裟な声を出して床に大の字に寝っ転がってしまいます。ごろごろと床の埃に構わず転がると頬杖を突いて、怠そうに笑いました。
「なんか知らねぇけど、黒騎士騒動は一段落って奴かな?」
「そうですね」
 そのうち黒騎士の噂も廃れて誰もが忘れて行く事でしょう。樵の方もいつまでも震えていては生計が立たないと悟って、再び働いてくれると思います。
 ケネスさんに煙管を渡すと、『お、悪いな』とケネスさんが煙草と火を入れて早速煙を噴かし始めました。吐き出した煙は狙ったかの様にサンディに当たり、ケネスさんには見えない聞こえない抗議を響かせます。その様子を笑いを堪えながら見届けて、嫌な事もいっぱいあるし大変だけど良い事があればそれで良いって思います。
 先程空に一際輝いていた星は、今は静かに瞬いていました。