聳え立つ死の気配

 小柄な黒髪の少女アインツは、セントシュタインの宿屋の従業員だ。
 宿王の娘であるリッカちゃんよりも年下で、幼女の分類に見る者が見れば分けられてしまう程に童顔で体も小さい。碧の瞳は大きく顔を形作る一つ一つが整っていて、大きくなれば美人になるに違いないと思う。リッカちゃんの話では大地震の際にウォルロに大怪我してやって来たそうで、何処かの商隊に属する人間かと思った。しかし、どんな規模でも魔物に襲撃された跡を見逃す俺ではないし、アインツが流れ着く前にウォルロ地方を出入りした俺が商隊と擦れ違った記憶もない。
 だが俺がこの子を変だと思うのは彼女の常識だ。
 この歳で一人旅なんて有り得ないが彼女には既に旅の知識や心構えがある。護身用の剣だが太刀筋も身のこなしも確かな武道の型をもっていて、彼女自身の身なら大抵の魔物から護る事が出来る技量がある。故にリッカちゃんが頼めば見知らぬ地だろうが躊躇いなく出掛けてしまうらしかった。
 素直を通り越して疑わない旅に向かない性格だが、彼女は危機感知能力が凄まじい。まるで空の上に目があるかのように遠くの魔物を察知し、人の心を読むように僅かな悪意も嗅ぎ取ってしまう。俺はルディアノで丸腰のアインツを独りで逃がそうとしたが、それはその能力があれば丸腰でもエラフィタに逃げ帰れると思ったからだ。
 そんな凄い才能をもった子供だったが、やはり常識がないのだろうと俺は思うのだ。
 アインツは深々とフード付きのマントを被った長身の男と並んで歩いている。俺よりも頭一つは大きい獣人だ。獣人は最も数が多いリカント族を始め、人間族とは敵対関係にある種族で魔物と認識されている。獣人は基本的に人間よりも遥かに身体能力が高く、アインツの隣に並ぶ豹頭の帯に差した刀は名刀だ。相当の武術の使い手だと匂いで分かる。
 俺がピリピリしているのを感じたのか、アインツは足を止めて振り返る。
「ケネスさんはギュメイさんの事、まだ信用出来ないんですか?」
「当たり前だ。獣人って生き物は基本信用しちゃいけねぇって親に教わらなかったのか?」
 俺がびしっと油断も出来なくて本来の役目が果たせない煙管で指すと、ギュメイと名乗った獣人の男も足を止めて振り返った。如何にも戦いに慣れた風貌で、体毛は埃に塗れた様に薄汚れ脂っ気がない。獣臭さが鼻を突く。厚手のマントの下は不思議な模様を織り込んだ布を重ね着たような装束であり、顔さえ隠していれば人間とそう変わらない。
 温和なアインツにしては珍しく『そんな事言わないで下さい!』と、語気を強めて俺を注意する。
「ケネスさんが後ろからピリピリして歩いてると、ギュメイさんも気が気じゃないんですよ。ケネスさんとギュメイさんは同じ気持ちなんです。うっかり大怪我したらどうするんですか? ホイミしか私は使えませんよ!」
 そう言う問題なのか? アインツの言葉に思わず大きな溜息が漏れる。
 武術の心得がある者の背後に、敵意をもった存在が立つという事は何を意味するか。アインツの指摘は正しい。俺だったら確実に攻撃している背後の敵意を、豹頭は我慢して耐えアインツの信頼に応えているということだ。俺が思わず豹頭を見ると、奴も俺を見ていたのか視線がかち合い互いに視線を逸らす。
 間に立っているアインツだけが、呆れた様に唇を尖らせ歩き出す。
 取り残される形になった豹頭と俺は思わず互いを睨みつけ、相手の瞳には僅かな動揺があるのを見た。獣人の常識を想像すれば人間を見れば殺し、女であれば犯す事を当然とする。人間であるアインツが信頼している事を驚いているのだろうが、そんな事を思うのは獣人であるならかなり変わり者だ。
 俺は豹頭をもう一度睨みつけると、握りしめた拳を見せつけて言う。
「アインツの期待に応えなかったぶっ殺すぞ、豹頭」
「約束を違える程に零落れてはいない」
 俺が歩き出すと豹頭も隣に並んで歩き出す。背後を歩かないのは俺への配慮なのだろうが、そんな態度一つ一つが俺の知る獣人らしくない。アインツは豹頭がこうだから、獣人は皆常識ある存在だとは思わないだろうと思うのが不思議だ。アインツにとって、この豹頭はギュメイという名の個人なのだ。
 理想だ。だが俺は豹頭を肩を並べて歩いている。無茶苦茶だ。 
 青い空にこれから冬の時期を迎えるベクセリア地方特有の紅葉が広がっている。収穫を目前とした実りの重みに、畑の作物は青空に頭を垂れ時に風にサラサラと揺れる。集落ではそれらの収穫の準備が行われているようで、村人達が動いている様子が遠くに黒く見える。ベクセリアへの道は石畳を敷き詰めて舗装されていて、時折ベクセリアからやって来る行商の馬車に道を譲る。
 休憩を何度かして太陽が傾き始めた頃、なだらかな地平の彼方にベクセリアの町の影が見え始めた。その時、俺は確かに豹頭が感嘆の声を上げたのを聞いた。
「あれがベクセリアですか?」
 俺がそうだと答えると、アインツは再び前を見て歩き出した。
 ベクセリアはセントシュタインから北東に位置する冷涼な気候の地方の都市だ。かつては城だったのだろう重厚な基礎の上に立てられた建物で、建物は密集し上へ上へと伸びて行く為にシルエットは城と見紛うようだ。その地方の織物や敷物は大変質が良く、グビアナの布と時折比較される程である。今回アインツは宿のカーペットやカーテン等のリネン全般を買い付けにやって来たのだった。
 見上げるような礎の上には、守護天使の像が来訪者を見下ろす様に立っている。糸を紡ぎ布を身に纏った像と、巨大な盾をもった騎士の像だ。アインツは見た事もない不思議な仕草で守護天使の像に頭を下げると、ぴたりと町を前で立ち止まった。セントシュタインとは違った雰囲気で雑然とした町だから戸惑っているかと思ったら、そうではないようだ。
 アインツに並べば、門番らしき男が鋭い目つきで俺達を見ていたのに気が付く。絶望し嫌悪に満ちた視線に、アインツが固まったのだと分かった。
「この町から去れ」
 その声は思った以上に嗄れていて、まるで洞窟を通り抜ける隙間風の様な虚無感を感じさせた。良く見れば門番らしき男は、頬が痩けて目の下に黒々と隈が張り付いている。以前はそれなりに恰幅も良かったのか、服が余っていて鎧も体に密着していない。息はただ立っているだけなのに肩でしている。
「この町はもうじき死ぬ」
 俺は思わず守護天使の像を見上げた。星が瞬き出した薄暗い空の下で、天使の像は相変わらず微笑んでいた。

 ■ □ ■ □

 夕刻迫る時刻に追い返され、幼い子供とこの地方で野宿するわけにはいかない。アインツに背後から睨まれながら町に入り込んだ俺達だったが、入る前に心配して身構えていた事柄が全て無用の心配だった。町の表には殆ど人がいなかった。まだ夕暮れに近い時間だというのに、遊びから帰る子供と擦れ違う事もない。狭い階段が多く隙間無くぴたりと寄り添った家々からは明かりが漏れているが、住人の談笑や人影は殆ど見えない。
「どうしてこんな事になってしまっているんでしょう?」
 アインツが途方に暮れ心を痛めた様に言った。俺も豹頭もその問いには答えられる訳がないと思っていると、俺の肩を豹頭が突いた。豹頭が指差す方向には数人の人間の気配があり、僅かながらに嗚咽が聞こえていた。どうやら豹頭はアインツにこれ以上悲しみに満ちた場面を見せない様に、俺に上の様子を見に行けと言っているようだった。
 獣人に指図されたくねぇし、アインツと豹頭を二人っきりにさせたくはねぇんだが…。アインツにトドメ刺すような場面は見せたくねぇしなぁ…。俺は少し迷った後、舌打ちして階段を登って行った。
 階段を上り切ると、そこは教会の前に広がる広場だった。ベクセリアでは珍しく多くの木々を埋められた緑豊かな空間だったが、木の隙間の闇が濃くなった場所には真新しい墓が所狭しと並んでいる。土は掘り返されて間がなく、雨に固められた様子もなく手向けられた数々の花を優しく受け止めている。啜り泣く声は広間の隅だった。
 身成の良い女性が汚れるのも厭わずに地面に膝を付き、その肩を悔しそうに顔を顰める夫らしい男性が抱いている。埋葬された人物は住人に慕われていたのだろう。彼等の前には路肩から溢れんばかりの花が手向けられている。俺はそこで何かを焼いた焦げ臭さを嗅ぎ取った。ベクセリアには遺体を焼いて埋葬する風習がないが、病死した人間の遺体は感染を防ぐ為に遺体と共に生前の衣類も何もかもを焼く事になっている。亡くなった人間は病死したのだろう。
「貴方は旅の方ですね?」
 いつの間にか神官が俺の隣に立っていた。
「ベクセリアは不治の伝染病によって滅ぼうとしています。町の者の殆どに蔓延しつつある病ですが、先月この町を尋ねた新婚夫婦も今は病に臥せっています。訪ねる者に例外はありません。この町から去りなさい」
 それは心の底から俺に助かって欲しい嘆願の様に告げられた。神官の手は洗っても落ちない程に汚れが黒くこびり付いていた。ここで何人も看取り、何人も燃やし、何人も灰を埋めたのだろう。『これ以上…死んで欲しく無い』そう、消え入りそうに唇が声なき声で呟いた。
「それを決めるのは俺じゃないさ」
 俺の言葉に神官が驚いた様に顔を上げた。帰るかを決めるのはアインツで、そう簡単に帰る事を決めないだろう。彼女はこの町を見捨てるような事をしないだろうし、豹頭の目的も協力したいと考えているからだ。病気程度では退かないという事だ。俺は失礼したと小さく述べて階段を下りて行った。
 階段の下には豹頭とアインツが並んで待っていて、俺は手を軽く挙げて二人に合図した。
「宿屋見つけた。あっちだ」
 宿屋の看板の下のランプが灯されるのを見て、この町の影の色は僅かに残った日向を食い潰し夜に染めて行く。豹頭も簡単にフードの内側を見られなくなったと思ったのか、だいぶ警戒の色が薄れて来たようだった。路地には家の灯火が映り込んで、歩くのに困らない程度に明るい。
 先導する様に歩いていると、アインツが俺の隣に並んだ。
「ケネスさん、この町は変です」
 そりゃあ変だろうなぁ。治る見込みのない伝染病が流行ってて、普段と全く変わらない生活が営める程に人間は図太くは無い。早々に町を棄てるべきだったかもしれない。しかし、人間には財産がある。家や金、友人関係や地位や名誉、そして思い出。それを手放したく無いと思っている間に、病はあっという間に彼等に噛み付いてしまったのだ。後悔しても遅いし、絶望するのに時間は要らない。
 すると、アインツは俺の予想だにしなかった事を口にした。
「怒りに包まれています」
 俺は思わずアインツを見て、豹頭を見た。同じ言葉を聞いた豹頭も俺の言いたい事が理解できたのだろう。周囲の気配を探る様子を見せても、それもアインツに悟られない短さで済ませてしまう。獣人が人間の町に入り込むのだから、俺が尋ねる必要もないくらいに警戒しているのに改めて探るとは真面目な奴だ。
「私達に敵意を向けている気配はない。あれば気が付く」
「だよなぁ」
 俺も豹頭に敵意が少しでも向けられているとしたら察知したが、当の本人が感じていないのなら無いと同じだろう。武術の心得がある豹頭の事は全く心配していないが、豹頭を行動を共にしているだけで俺達も巻き込まれるという事は十分に有り得るのだ。アインツは豹頭を庇おうとするだろうから、余計に気を遣う。
 俺達の返答に住人の敵意と受け取ったのを理解したのか、アインツは不貞腐れたかの様に頬を膨らませて唸った。
「うぅ…違うんです。我々に向けている感情とは少し違っていて…。怒りだけかと言われると憎しみや恨みも混ざっているのですが、一番強い怒りが空気の様に満ちているんです」
「怒りって空気に満ちるものなのか?」
 俺は言って鼻をひくつかせてはみたが、嗅ぎ取ったのは早くに出来上がった夕食の匂いくらいだ。それでも鼻から吸い込んだ空気はとても冷たく、俺は肺の中から冷えきってしまう。日差しは完全に落ちて、セントシュタインの領土内では最も寒い気候の通り冷え込みが凄まじい。
「とりあえず宿を取ろう」
 豹頭が言うと、俺も同意して頷いた。
「この状態で部屋が余ってないという事はないだろう。アインツが個室、俺達は不本意だが同室。文句を言うなら野宿させるからな」
 俺の言葉に今度は豹頭が頷いた。こればかりは豹頭に選択肢はないがな。
 宿屋も歩きながらのんびり話していたのもあって、目の前という所まで来ていた。こんな時期でも商売根性は折れない程度に元気なのだろう。ランプは奇麗に磨かれ、宿屋の名前を焼き入れた看板を色鮮やかに照らしている。扉を開けて中に入れば、中からは暖炉にベクセリア地方の木材を薪にして焼べているのか独特の香りと暖かさで満ちている。床はベクセリア特産のカーペットであり、深紅の中に様々な幾何学的な模様が配置されている。宿としては決して広く無い造りだが、家庭的でさりげない調度品や家具の木目の美しさが際立っている。
 俺達が入って来た事に女将が驚いた様にカウンターの奥の椅子から立ち上がったが、直ぐさま商売人としての顔になって出迎えた。宿屋の従業員であるアインツが恙無く手続きを済まして行くのだろうと待っていると、なんだか時間が掛かっている。顔を向ければ、女将はカウンターから出て来てアインツと話し込んでいる。
「女の子で独りで個室は危ないわ。今晩だけならおばさんの家に泊まりなさいな」
「そ、そんな事ないです。だ、大丈夫ですから…」
 どうやら丁寧で真摯、幼いながらに健気に旅をしているアインツに女将が同情してしまっているようだ。同行者は大人の男二人で武道を嗜んでいて、その間にこんな幼い女の子が挟まれているのでは色々大変な事があるのだろうと勘ぐるのだろう。下手したら人攫いかなにかに思われて、人助けという思い込みの入った大きなお節介でセントシュタインに強制送還されてしまう。
「アインツ、びしっと言え。びしっと」
 俺はアインツの頭をぽんぽんと触れると、アインツは『はい』と生真面目に頷く。
「いい加減で怖そうに見えますけど、良い人ですから安心して下さい!」
 …………。
 ちょっとイラッと来たので、煙管に煙草を摘めて大きく煙を吸って吐き出した。豹頭のせいで吸えなかった分、美味い。女将の目線は痛いがアインツの必死の説得が続いているので気にはならない。
「客か?」
 二人の攻防に気を取られている内に、奥から女将の旦那らしき男が出て来た。女将に比べ顔色が悪く、呼吸に僅かに喘鳴が混じっている。
「夕刻に到着したんだが、この季節に野宿は嫌でね。無理を言って入れさせてもらったんだ。治らない病気が流行ってるとは聞いている」
 男は俺の返答に小さく頷いたのを見て、どうやら俺が何も知らないで町に滞在している人間ではない事をご理解頂けたようだった。だが、与えられた情報もほぼ間違いないと言っていい。感染病は厄介だ。一時間でも一緒に居れば感染する事だってある。一晩居て病気になるのは覚悟すべきである。
 男はカウンターの奥の壁に備え付けられた棚から鍵を取り出した。部屋の鍵は一つだ。
「この宿には病気に感染した新婚夫婦がいるので、この階の部屋には入らないでいただきたい。この一つ上の階の端の部屋は病気が流行ってから誰も使っていないので、その部屋を使うと良いでしょう。お部屋だけ貸します。夕食や朝食は付けません。なるべく町の人間に関わらずに、明日の朝にはここを立たれて下さい。外出もお控えなさい」
 なるほど、接触を限りなく少なくして感染を防ぐのは無難な判断だろう。
 鍵を受け取り簡潔に礼を述べると、アインツと豹頭を引き連れて部屋に向かった。基本的に多くの家がくっ付く事で保温性を保つ造りにあるベクセリアなので、一つの家の上に別の家が乗っているのは良くある事だ。今のように現在の階からいくつ上かいくつ下かと説明する。階段を上がり部屋番号を見ながら突き当たりを目指せば、目的の部屋が直ぐに見つかった。
 扉を閉めて中に入れば、俺は大きく息を吐いて言った。
「とりあえず、腰を下ろそう」
 俺の言葉にアインツはベッドに、豹頭は備え付けのテーブルとセットになった椅子に腰掛けた。俺は部屋のランプを付け、小型の薪ストーブに煙草の火を移す。安定した火が灯り燃え出したのを確認して、窓の真横に背中を預ける。町が静まり返っている様子が眼下に広がっている。ここに来る前に通った酒場は、営業の為の明かりを灯している様子はなかった。
 アインツはベッドの高さの問題で足をぶらつかせながら、豹頭に話しかけていた。
「これじゃあ、ギュメイさんの目的達成するのは大変そうですね。この町の町長さんが管理している遺跡の鍵なんて、本当に貸してもらえるんでしょうか?」
 考え込む様に黙り込んだ豹頭に、アインツはさらに言った。
「黙って持ち出したり、破って立ち入る選択肢は駄目です」
 思わず吹き出す。アインツは本当に良い子というか、理想が過ぎて融通が利かな過ぎる。俺なんかさっきまで豹頭の事を聞かれたら狩猟の民カルバド出身で、狩りの時の動物の毛皮着用してるんですって答えて誤摩化すつもり満々だったのに…。
 豹頭に釘を刺したアインツは、俺に向き直っていた。
「ケネスさん。病気が酷い人に会う事って出来ますか?」
 ほら来た。俺が思った通り、アインツはこの町の病気をどうにかしたいと思っている。俺は半目になってアインツを見た。
「会ったら病気に感染するぞ」
「私は大丈夫です」
 どんな確信なんだよ。俺は思わず笑ってしまう。
 こうなったアインツを納得させて引き止めるのは難しい。梃子でも動かないのだから宿屋の主や女将に交渉すれば良いのだろうが、アインツは誰かに迷惑をかける事を理解していてこの手段を選んでいるのだろう。俺は荷物の中からロープを取り出すと、ベッドの足に解けない様に結わき付ける。
 俺のする事の意味を理解すれば、アインツは幼い無邪気な子供の様に満面な笑顔を向ける。俺からロープを手渡されれば、窓を開け放ち折角暖まり出した室内に夜の空気が流れ込む。小さい身軽な体が小猿の様に窓の桟に乗れば、下を手早く確認しロープを投げ下ろして外に身を投げ出した。外に出て気が付いたのだろう。アインツは少し降りてから再び登って窓から顔だけちょっと覗かせた。
「ありがとうケネスさん!」
 返事をする間もなくアインツの頭は窓から消えて、するするとロープを下りて行く音が聞こえる。それすらも聞こえなくなって、俺は窓を閉めてロープの分開いた隙間風は荷物で塞いだ。
 振り返ると豹頭が感心を通り越して呆れた様に窓を見ていた。それもそうだ。ロープで建物の高さで言えば二階から降りるなど、女でしかも幼い子供が躊躇いもなく出来るとは思わない。俺達二人が旅を共にしているからという憶測で豹頭も口には出さなかったのだろうが、俺でさえ驚いてはいるのだ。
「随分と大胆な女子だな」
 俺は苦笑いだけ浮かべて場を濁すと、少し真面目な顔になって豹頭に体を向けた。豹頭も俺が真面目になったのを感じ取って、少し緊張した雰囲気を醸す。
「アインツの言った町を包む怒りをどう思う?」
「真に受けているのか?」
 豹頭は驚いた様に返した。俺は頭を掻き回して再度豹頭を見遣る。
「他人の感情を読み取ったり、アインツが何気なく言う勘は鋭い。俺もアインツじゃない奴が言ったら真に受けなかったが、問題はそこじゃない。もし、アインツが言った様に怒りが町を包み込んでいるとして、それが示す可能性は何かという話をしてるんだ」
 豹頭がなるほどと頷いた。やはり、こいつは慣れている。会って間も無い俺の憶測に耳を傾け、状況を打開する気になっている。上に立つ者や指揮する者の感性に似ているのだろう。腕も相当に立つのだから一目置かれているのは推測出来るが、ここまで出来た奴だと思うとやり易さよりも不気味に感じてしまう。
「俺は呪いを疑ってる。呪いならどんな薬草も呪文も利かない。シャナクなら利くかもしれんが病気を前提に考えている人間が考えつくとは思えないし、この町全体に及ぼす呪いなら解呪しても再び呪われる。この伝染率の高さも回復率の低さも、呪いなら説明がつく」
 呪いだとしたら呪術師をぶっ飛ばして呪いを中断させれば良い。ただし、これだけ大規模で長期に渡っているという事は中心人物はいるだろうが、独りではないだろう。中心人物だろう奴は、これほど町の人間に怒りを覚えているなら町の人間に心当たりがある筈だ。中心人物を調べていけば、呪術を行っている場所や相手の戦力の規模が恐らく把握出来る筈…。
「一つ心当たりがある」
 ぼそりと豹頭が言った。
「ベクセリアがまだ王国であった昔に、パンデルムという病魔が猛威を振るった事があったのだ。伝承でしか知り得ないが、流行していた不治の病がパンデルムが封印された直後に完治した。奴が封印した王を恨み怒りを感じているなら、アインツの言う怒りの感情に符合する」
 ………。
 おいおいおい、凄い有力な情報じゃないか? むしろ地元トークかよ!? ってくらいだ。俺は思わず前のめりになる。
「じゃあ、そのパンモデルって奴の封印が解けてベクセリアに呪いを吹っ掛けているって事か!?」
 パンデルムだ、と小さく修正すると豹頭は言葉を続けた。先程の言葉よりももっと懐疑的な口調で…ではあるが。
「ここより北西の山の最も堅牢な地盤には洞穴があり、その奥に歴代国王が眠っている遺跡があるのだ。ベクセリアの王は己が討伐した魔物の死骸や災いに関係した物を、封印する為に共に遺跡に葬られる。だが、遺跡の封印は堅牢だ。地盤は堅く掘り貫く事は不可能。立ち入る方法はこの町の長が護っている鍵だけだ。パンデルムの封印を解く事が誰が出来ようか」
 豹頭の目的である遺跡は、どうやらベクセリアの王の墓のようだ。ベクセリアの国王に討伐された、獣人達にとっては偉大なる英霊の墓参りって所だろう。ぞんざいに扱われてるのを目にしてぶち切れなきゃ良いけどな。豹頭も態々人間の町に忍び込むリスクの前に遺跡の前に行っただろうが、まぁ当然入る隙間もなかったのだろう。
 とにかく、その墓に封印されたパンモデルの状況を確認してみる価値はある。問題はどうやって町長に接触して、どこの馬の骨とも知らぬ旅人の言葉を信じてもらうか…。
「それ、すっごく興味深い話ですね。詳しく聞きたいな」
 俺の声でも豹頭の声でもない声が響き、俺達は直ぐさま身構えた。豹頭が何時でも抜刀出来るよう扉の向こうを見据えるが人の気配はしない。俺もちらりと窓の外を見遣るが、アインツの気配も誰かがロープを登って来る様子も見えない。俺達しかいない室内だったが、声は俺達の闘気を気に介さずに能天気に話し続けた。
「あぁ、怪しい者じゃないですよ。僕はルーフィン。考古学者です」
 自分から怪しい者じゃないって言う人間程、怪しいと思うけどなぁ。豹頭は僅かに俺に頭を向けて尋ねた。
「考古学者とはなんだ?」
「遺跡や文献とにらめっこして、誰も知らない昔を研究している学者さんの事だ」
 ふむ、と豹頭は極限まで集中していた意識を緩めた。まぁ、本くらいしか持てない腕の学者が、俺達に害を及ぼすとは考えられないと踏んだのだろう。魔法や呪文を仕掛けられても退路はあるし、先制できるチャンスをあっちから声を掛ける事で潰したのだから敵意はないのだろうと俺も緊張を僅かに緩める。
 すると壁に掛けられた絵がまるで、壁から押された様に動いた。額縁を歩み寄った俺がそっと持ち上げると、裏側には煉瓦一つ分の穴が開いており万年筆が生えている。目の前で万年筆が引っ込むと、向こう側で『エルザ、隣は宿屋だっけ?』という声と応じる女の声が聞こえた。
「僕も北西の遺跡に立ち入らせて貰いたいだけど、お義父さ…町長の許しが得られなくってね。君達の推測は凄く魅力的だ。あの石頭も君達の推測の説得力に遺跡の鍵を渡してくれるかもしれない」
 お義父さんって言いかけただろうお前。喉までツッコミたい事が競り上がったが、黙ってルーフィンという男に喋らせてやる。それでも俺が口を挟んでも耳など貸さなかったろう。ルーフィンは上機嫌に話し続ける。
「僕が君達を遺跡に入れるよう協力しよう。その代わり、遺跡で僕の護衛をしてほしい。君達も僕も目的達成で悪い話ではないだろう?」
 もし病魔の話が本当だったら、僕はお義父さんを見返す事ができるしな! おいおい、ルーフィンさん、壁越しだけでど呟き聞こえてるぜ。
「そうだな。その話、乗っても良いぜ」
 俺が答えると『妻を迎えに行かす』と言って、扉の向こうからルーフィンが離れたようだった。
 俺が振り返ると、豹頭はなんとも疑わし気に壁に開いた穴を見ていた。ウマい話過ぎると感じているのだろう。だが、俺達は腕が立つ。どんな大物が封じられていても、例え罠であったとしても対応して逃げ切る事は容易な筈だ。
「刀は飾りじゃないだろ?」
 俺がにやりと笑いながら言えば、豹頭は剣の柄に手を掛けて当然と言った様子で返した。
「貴殿こそ、武術の嗜みは見かけ倒しではなかろう?」
「当然」
 そう答えて手を差し出せば豹頭も手を軽く握った。肉球の感触が酷く可愛らしく感じた。