星空へ

 地上より遥か上空に浮かんだ、天使の暮らす浮遊大陸を私達天使は天使界と呼びます。しっかりした岩の礎の上に、白亜の神殿である天使達の住処があり、最上層に世界樹を中心とした大森林が広がるのです。豊かな森は空中の水分を集めて水源とし、小川となって天使達の住処に流れ込みます。そして礎より零れ落ち地上に降り注ぐのですが、その雫が稀に地上に届く時、虹が掛かりその年の豊作を約束する恵みとなるのです。
 世界樹は大森林の中で、一つ抜きん出た大きさです。
 天使界の天使が全員手を繋いでようやく囲めるほどの太い幹を擁し、今まで生まれた全ての天使の数よりも多い葉を茂らせています。その葉は爽やかな香りがして、天使界の風に溶けて周囲を清浄な空気で包み込みます。紅葉しませんが、時折落葉してその下から新しい葉が芽吹く。私は生まれてこの方、青々と気持ちよさそうに天使界の風に吹かれる大樹しか知りません。
 踝ほどの芝生を踏み分け、私は世界樹の足元に歩み寄りました。
 星のオーラを捧げる際には必ず駆け寄ってくる、世界樹の世話を担当する天使の姿が見えません。世界樹の世話役は、落葉した葉を回収する仕事をしているのです。世界樹の葉から滴れた滴で漬けることで、全ての傷を癒すとされる霊薬が出来るのです。しかし万が一、葉が風に吹き流され地上に落ちてしまうと、死者が蘇る薬になってしまうのです。地上に平和をもたらす、大事なお仕事です。
 アインツ! また、お勤めを疎かにして、こんなにも星のオーラを…!
 師匠よりもキツく叱ってくる世話役の声が、脳天を貫きました。だって、羽が小さいから地上から天使界に上がってくるの、大変なんですもの。ちょっと涙目です。
 おかえりと私を迎える声。よくやったと労う声。頑張ったなと賞賛の声が聞こえる。鮮明に天使達の声が聞こえてきます。しかし、声ばかりなのです。
 ふかふかのクッションで敷き詰められた、オムイ様お気に入りの椅子の上には誰の姿もありません。地上の人々のことが余さず記された大書庫に常に常駐している司書も、司書長を任されたラフェット様もおられません。常に誰かしら祈りを捧げている、エルギオス様の帰還を願う礼拝堂も花々が美しく咲いているばかりです。帰ってきた守護天使達が自慢話に花を咲かせる談話室も、カデスの牢獄から救い出した方々が横たわっているだろう治療室にも誰もいないのです。無人の天使界を抜けてたどり着いた世界樹の袂。私は見回して小さく息を吐きました。
 堕天使と呼ばれる悪魔のような見た目のままでしたので、見られて怯えられるのは嫌でした。しかし、誰もいないとは思わなかったのです。
 気配はあるのに、皆はどこに行ったのでしょう?
「ようこそ、アインツ」
 まるで春風に包まれたような暖かくて柔らかい声に名前を呼ばれて、私の顔は完全に熟した林檎になってしまったでしょう。凄く偉い貴族様にも、王様にだって丁寧に案内できるつもりだったのに、完全に木彫りの人形みたいにカチコチです。
 声は光となって、世界樹の木の根にゆったりと腰を落としました。
 私にふんわりと笑みを浮かべるのは、この世のものではない美しい女性でした。真っ白い砂が敷き詰められた川底を流れる空き通った水の流れのように瑞々しい肌。風に星屑を纏わせたような、黄金の髪は柔らかくうねり、世界樹の葉と花で出来た冠を戴く。花の花弁で作られたような、甘く香る唇。宝石のように深く複雑に輝く瞳。白いミルクのような絹は真珠のような光沢を宿し、女性の体に柔らかく皺を刻みました。
 女性は私を見て笑みを深めます。その顔に広がった親愛の色に、私は顔から火が出そうです。
「私は女神セレシア。世界樹の中で微睡む中で、貴女の頑張りを見守っていました」
 女神様!
 私は躊躇いもなく膝をつき、首を垂れました。女神様は立ち上がり、わざわざ草をふみわけて私の傍に膝をつきました。私の肩を抱き、顔を上げるよう囁かれると逆らうことはできません。
「よく、父の憎悪の心を止めてくれました。ありがとう」
 なんと、勿体無いお言葉でしょう! 恐縮する私を、セレシア様が隣に座らせようとします。こんな醜い悪魔を横に置こうだなんて!と距離を置こうとする私の翼を、セレシア様の細い指先が摘むのです。力が強いわけではないのに、逃げられない。
「父は完璧な世界を作ろうとし、実際に素晴らしい世界ができました」
 そう、昔を懐かしむようにセレシア様は語り始めました。
 バランスが崩れて滅んだ世界。聖と邪が終わらぬ戦いを繰り広げる世界。邪悪が支配した恐ろしい世界。多くの世界が存在する中で、グランゼニスは創造神としてより良い世界を作ろうとしました。そうして作り上げた世界は本当に素晴らしいものだったのです。
「豊かさに包まれ飢えることなく、穏やかな気候に苦しめられるものはいない。生きとし生けるものの全てが穏やかで、永遠の平和が約束された世界が作られたのです」
 しかし、そんな平和が永遠に続くのでしょうか? 私の疑問を肯定するように、セレシア様のお顔が曇りました。
 人間はこの世界をより良くしようと、叡智を育て、世界へ還元する為に作ったのです。しかし人間は自分達の欲望のために叡智を乱用し始めた。そう、父には見えたのでしょう。
「父が人間に憎悪を抱いた瞬間、世界に負の感情が創造されてしまいました」
 溢れた憎悪は生み出した生命を汚し、地上は殺戮と混沌に塗れてしまいました。創造神は己の感情を大地の竜に飲み込ませましたが、穏やかな大地の竜ですら神の怒りと憎しみに呑まれてしまったのです。
 光が注ぐ場所も闇が満ちる場所も憎悪は蔓延り、聖なる心も叡智も止める術を持ちませんでした。止まらぬ父の憎悪に立ち向かえるのは、もはや娘しかいませんでした。
「私の必死の懇願は、時間稼ぎが精々でした。父は自ら負の感情を切り離し、聖なる心でもって竜を生み出した故に、心が砕け存在すら難しくなってしまいました」
 すみません。なんだか、申し訳なくなって謝ることしかできません。私達天使が不甲斐ないから、星のオーラ集めは捗らず女神様の目覚めも遅くなったとしか思えません。
 セレシア様はそんな私の頭をそっと撫でました。
「父が最後の望みをかけて生み出したのは、可能性です」
 可能性。私がオウム返しに言った言葉に、セレシア様が頷きました。
「私を目覚めさせ、負の感情の暴走を止める。完璧な世界にそのような存在はいませんでした。なので不安定で、不確定で、そして成長や希望を生み出せる可能性を創造したのです」
 ふわりと世界樹の周りを巡るように、星のような光が浮かび上がる。とても懐かしい気配。強くなる声。私はその光一粒一粒が、天使界に暮らす天使達なのだと分かったのです。
 私のすぐ傍を漂う光から漂う光から、優しさを感じる。誰なのでしょう? 天使の輪と羽を失って星のオーラを見ることができなくなった私には、声は聞こえても姿を見極めることはできませんでした。
 さようなら。星々が歌う。さようなら。
「可能性の竜は、これより星空の守人として天へ還ります」
 あぁ、そうだ。天使は、空へ還るのだ。それが天使の目的で、多くの天使がそう望んでいたのを知っています。皆、地上へ降りるのは人間から星のオーラを回収するためであって、早く天に還りたいと願っていました。
「アインツ、貴女も還れますよ」
 私は後退りました。言いようのない不安に、体が震える。
「私は、こんな姿で、天使ではありません…!酷い、化け物みたいな姿…。それでも、地上で、いっ、いっしょに居たい人がいるんです!」
 シーツを被った状態で再会したとは言え、感極まって翼が出てしまいました。その後泣き疲れてしまいまったので、シーツの下の状態がどんなものか見られてしまったかもしれません。ケネスさんは見せてないって言ってますけど、角が生えたり、手がゴツゴツしてたりは触っただけでわかってしまう物です。
 怖い。
 リッカに拒絶される様子を想像するだけで、震えが止まりません。セレシア様の優しいお誘いに、私は頷きたい首をどうにか堪えたのです。涙が溢れて溢れて雨粒みたいに落ちて行きます。
「リッカが、リッカが帰りを、ま、待っていてくれてるんです! ケネスさんが、連れて行って、く、くれるんです!」
 星々はリッカが私の無事を信じて、宿で待っていると教えてくれるんです。毎晩毎晩夜空を見上げて、『どんな姿でも、帰ってきていいからね。大丈夫だよ』って言ってくれるんです。
 大丈夫。何度も言ってきた言葉でした。でも、言われてみると、全然大丈夫じゃない。今も、全てが解決し平和になっていくはずなのに、私は堕天使の姿のまま。このまま還れるなら、還ったほうが幸せだって分かっています。それなのに、何が大丈夫なのか、よく、わからない。
 あぁ、大丈夫って全然大丈夫じゃない。
 こんなにもリッカに会いたいのに、こんなにも地上で生きて行きたいのに、私は全然大丈夫じゃない。
 セレシア様の細く柔らかい腕が私の肩を抱き、そっと胸元に引き寄せられます。暖かくて、穏やかな鼓動が等間隔に染み込んでくるのです。励ますようにぽんぽんと背を叩かれ、腕の力が抜けた為に身を離す。
 セレシア様は慈愛に溢れた笑みが、黄金の光に変わって行きます。光は太陽のように眩く輝き、星々が渦を巻くように輝きを中心に集まっていく。ゆっくり天へ登っていく黄金は、名残惜しそうに言いました。
「さようなら。アインツ。地上に残ることを決めた、唯一の星空の守人よ…」
 そして小さい光が、太陽から零れ落ちる。
 その光は、私の手の上で黄金の果実になったのでした。
「凄い星だな」
 ケネスさんの声に、はっと顔を上げました。
 セントシュタインのリッカの宿の前で、私とケネスさんは星々が天に還っていく様を見上げていました。星吹雪と呼ぶような、美しく目まぐるしい星々の動きに、家から人々が次々と飛び出して見上げています。目に焼き付けるように、隣で見る愛しい人と大事な一時を分かち合うように、人々は特別な思いで星吹雪の夜を見上げています。
 ケネスさんは私の手元に視線を落とすと、煙管から口を離して言いました。
「黄金の果実か。頑張ったご褒美か」
 言われてびっくり。本当に私の手に女神の果実が乗っています。ご褒美? 食べろってことですか? でも、食べて大丈夫なんでしょうか?
 両掌で包み込んでも余る大きさの果実を、半分に割ろうとすると、黄金の果実は音もなく真っ二つになりました。まるで完熟した果実のように甘い良い香りがして、中には果汁が滴り落ちそうな中身がみっちりと詰まっています。
 うっとりするような甘くて美味しそうな匂いに、一人じゃもったいない気がします。
「ケネスさん、半分どうぞ」
「いらん。そういう御分不相応な物は、後々面倒だって分かってるから」
 にべもなく断られて、ケネスさんは煙草をぷかぷかとふかします。私の全力の両手と、ケネスさんの片手で押し付け合う果実は、互いの力に押されても崩れる気配もありません。柔らかそうな果実の形なのに、只者じゃないです!
「じゃあ、葉っぱついてる方あげます」
 ケネスさんがぴくりと体を強ばらせました。無類の草好きが、果実から生えてる葉っぱに興味がないわけないでしょう! しばらく、あーとかこーとか唸っていましたが結局葉っぱ付きの果実を受け取って、葉っぱを早速毟って煙管の中に突っ込んじゃいました。
 その横で私も半分の果実を頬張ります。
 とっても甘くて、口の中一杯に美味しいが広がります。噛もうとする前に口の中で蕩けてしまって、ねっとりとした甘みが喉を滑り降り胃に落ちていく。お腹の中から甘い匂いが立ち上って、体全体を駆け巡っていくようです。
「美味しい!」
 ケネスさんはそんな私を横目に見て、黄金の果実に視線を落としました。しばらく無言で眺めていましたが、好奇心には勝てなかったようです。ケネスさんも半分こにした果実を口にし、あまりの美味しさに驚いたように目を見開きました。
 ケネスさんが見開いた目をこちらに向けて、さらに驚いた顔をします。
「アインツ! 姿が戻ってるぞ!」
 え!手のひらは久々にピカピカで、頭もゴツゴツしてないです。ずっと背中に大荷物を背負ったような、翼の重みもありません! 姿が見たいけれど、鏡も姿が写せるような水も近くにありません。
「アインツ!」
 リッカの声が聞こえて、宿から飛び出してきたリッカの腕に私は瞬く間に収まってしまいました。嬉し泣くリッカの声を聞きながら、私の視線は上向き星吹雪を映していました。
 もう、大丈夫だ。
 信頼できる大好きな人の声。一人前だとウォルロを任された時と、同じ言葉と声。その声を聞いて、私は体から余計な力が抜けていくのを感じました。大丈夫は、大丈夫だから大丈夫なんじゃない。大事な人の、信じている人の言葉だから、大丈夫になるんだ。
 私は拳で涙を拭うと、はっきりしたリッカの顔を見ました。まっすぐな瞳は疑いも恐怖もない。にっこりと浮かべた笑みは、私を安心させようとしているんだってわかりました。私を想ってくれるリッカに、喜びが込み上げてくる。
 私は力一杯リッカの体を抱きしめて言いました。
「リッカ! 私、お宿の手伝いずっとできます! 明日も明日も、ずーっと明日も頑張ります!」
「そこは『ただいま』で良いの!」
 リッカも負けじと力を込めてきて、お互い苦しくなって笑ってしまいました。
 星吹雪は大地の人々を余さず見つめ、天高く昇って行きました。地上の全てを見渡すことができるほど遠くの場所へ、全ての天使が還ってしまいました。
 一人残ることを決めた私は、ちっとも寂しくありません。こうしてリッカのぬくもりを感じているだけで、受け入れてくれる宿の人達に囲まれて、ケネスさんがどこまでも一緒にいてくれる。私が怯え憂いていたことは、全部大丈夫でした。
 私は天に向かって、にこりと笑いました。
 アインツは、地上で生きて行きます。
 星空の守人の皆様、地上の民をいつまでも見守っていてください。

 世界より翼ある天からの遣いは
 使命を果たし、去って行きました
 しかし、人々は見守られているのを知っています
 人々は視線の先を見上げ、親しみを込めて呼びます
 星空の守人、と

 The End.