決戦の時

 弟子のアインツは気恥ずかしそうに視線を泳がせ、もじもじと所在なさげに手元を動かした。そして背から生えた竜のような翼を掻き寄せ、顔を隠してしまう。隠れた顔は私のよく知るアインツの姿とは程遠く、耳の上あたりに捩じくれた角が生え、牙は唇から覗き、黒曜石のような光沢のある硬質な皮膚が弟子本来の白く柔らかい肌を侵食している。
 天使達ならば唾棄するように堕天使と嫌悪を隠さない、悍ましき姿だ。天使の神聖さはそこにはなく、地を這い闇に隠れる悪魔と何ら変わりはない。
 その姿によく似た天使を私は知っている。
 我が師、エルギオス様。偉大なる上級天使で、地上で行方不明となった悲劇の当事者だ。弟子の私も含めて多くの天使が地上に降り、師匠の守護地であるナザム村を中心に世界中を捜索したが見つけることは叶わなかった。守護地である村は、戦火によって全滅していた。その後、地上は戦火が激しくなった為に一時捜索を中断するよう、長老のオムイ様より命令が降る。
 地上で巻き起こった戦争は激しく、人間の住処を守護する多くの守護天使が守護地を離れざる得ない状況に陥る。その間の地上の様子は天使達も詳細を知れず、戦争が終わった頃には地上の様相は激変し、師匠捜索の糸口は悉く逸してしまった。
 私も守護地を任され弟子を取ったが、師匠を想わない日はなかった。
『神の御心は計り知れない。しかし、私は人間を信じたい』
 そんな師匠の言葉を、ウォルロの純朴な人々の生活を見ていても理解できなかった。我ら天使は地上において敵が存在しない。人間は天使の姿を視認できず、魔物は飛び立てば簡単に逃げることができる。もし空を飛ぶ魔物に追われたとしても、天使界まで追うことは出来ない。
 私は人間が師匠を貶めたと思っている。あれほど真っ直ぐ輝かしい顔で、人間の良心を信じていた師匠だ。そんな師匠が天使界にも戻らず消息を断つだなんて、信じた人間に絶望したのだと確信すらしていた。師匠の守護地であるナザム村が戦争で焼き払われていなければ、私がその村の者達を痛めつけて師匠のことを聞き出しただろう。
 しかし、それは叶わなかった。
 招いた弟子は師匠と同じくらいに、人間を信じていたからだ。人間を疑え信じてはならないと説いても、妙に頑固な弟子は聞き入れなかった。
 なぜ。私は沈痛な想いで弟子の小さく痛ましい背を見る。人間を信じ、慈愛をもって接していた天使達に、どうしてこのような真似をするのだろう? 天使の輪を失い神聖性を喪失して異形に成り果てようと、苦しみ生きていかねばならない。神を呪ってしまいそうだった。
 蹴躓いたアインツが蹴躓を咄嗟に支える。小さい体は軽く、転びそうになった体を脇に抱えた。
「翼を外しなさい。何度転びそうになったと思っている」
 弟子は頭を抱えるようにして、小さな手で角を隠そうとする。しかし、角は成体の羊と同じくらい立派で、とてもアインツの手で隠れる大きさではなかった。真っ赤な双眸は涙目だ。
「お、お師匠様に、こんな姿…。は、恥ずかしいです…」
 弟子は驚くほどに変わってしまった。こんな脆い子供を最前線に引き摺り出すことは、師匠として不甲斐ないとしか言いようがない。しかし、アインツに頼らねばならぬ事情がある。
 アインツは師であるエルギオス様と同格の天使なのだ。
 天使の上下関係は絶対。天使の格がどのように決まるかは定かではないが、エルギオス様と同格の天使は恐らく天使界にも存在しないだろう。私はエルギオス様の命令を跳ね除けることができなかった。
 しかし、アインツは違う。我が弟子は、私に下されたエルギオス様の命令を無効にしたのだ。故に私はアインツに女神の果実を預け、天使界に送り届けさせる事ができた。これからエルギオス様と対決する時、アインツがいなければ進言することすらできないだろう。
 私に抱えられ丸く縮こまる弟子に、ふわりと魂が寄り添った。人間の女性の魂はアインツの頬に手を添え、労わるように撫でる。目深に被ったフードから覗く顔は、魂として長い間放浪していた為に人間としての感情を失っていた。それでも、アインツの顔をそろりそろりと撫でていく顔に、僅かに苦痛が滲む。
『ごめんなさい。天使様。私の我が儘に付き合わせてしまって…』
 魂の言葉にアインツは頭を撫でる手を取る。覗き込んだ魂の瞳には光がなかった。
「ラテーナさんが謝る必要は無いです。私もエルギオス様を助けたいと思っていますから」
 私の腕からするりと抜けて地面に降り立つと、アインツはラテーナの魂の手を引いて歩き出す。アインツは見た目こそ悪魔になってしまったが、人を守護する天使としての性分が失われたわけではない。
 エルギオス様をお救いしたら、なんとしても元の姿に戻る方法を探そう。
 私は甲斐甲斐しく付き添う弟子を見る。
 地上は、人間は危険だ。アインツは良縁に恵まれ人間に苦しめられたことはないと言うが、変わり果てた姿に説得力はない。天使は天使界で暮らすのが最も良いのだ。星のオーラを世界樹に捧げ、女神の果実は実った。天使は使命を果たし、天に還る。このままではアインツ一人が地上に取り残されてしまう結末を、師匠としてなんとしても回避させてやりたい。
 私は深呼吸を一つして、周囲を見渡した。
 まるで生き物の内臓のように不気味極まりない場所だ。肉片のようなものが取り込んでいたのが、地上に近ければエルギオス様が囚われていたガナン帝国城であったが、上層に近づくごとに神殿のようなものに変わっている。無残に折れた白亜の柱も、ひび割れて波打つ大理石の床も、脈打つものから噴き出した汚物に塗れている。木々は枯れ、花も黒く粉々になって見る影もない。殺意が瘴気となって吹き荒れる空間は、天使の輪の守りがなければ瞬く間に命を奪うだろう。黒くぬかるんだ毒の沼が溜まり、毒によって変質した土は死んでいる。生暖かい空気が肺を満たすと、吐き気を伴う不快感があった。
 エルギオス様は世界をこのように変えるつもりなのだ。
 まさに悪魔の所業と言える光景に、あれほど偉大で清らかな天使であった師を憂う。
「エルギオス様は、どうしてこんなに苦しんでおられるんですか?」
 弟子は手を繋いで傍を歩く魂に問いかける。
「私達人間が、彼を裏切ってしまったからです」
 罪悪感に苛まれた声色は、そう言葉を紡いでから語り始めた。
 私は故郷であるナザムの村の水辺で、翼の生えた美しい男性が行き倒れているのを見つけたのが全ての始まりでした。美しく整った顔立ちに、本物の黄金のように美しく風のようにも水のようにも例えられる髪が指先をすり抜けていくのを感じて、この方は人ならざるもの、天使様であると直ぐにわかりました。私は天使様を家にお連れして介抱したのです。
 小さな村は魔物の被害と隣り合わせでしたが、実りに恵まれ死人は出ず、良い守護天使様の守護の元に存在していると誰もが信じておりました。守護天使の像に刻まれたエルギオスと同じ名を持つ天使様を、村人達は日頃の感謝を捧げるように持て成しました。
 ささやかな宴をし、収穫の喜びを分かち合い、新しい命の誕生を共に祝福する。
 あぁ、あの日々が永遠に続くことを、私よりもエルギオスが望んでいたに違いありません。本当にエルギオスが喜んで笑ってくれると、私の心は満たされてこの上もなく幸せになれたものです。
 ラテーナと呼ばれた女性の魂は、表情を失ったかと思っていたが嬉しそうに微笑んだ。
「エルギオス様をお慕いしているのですね」
 アインツが喜びを分かち合うように頷いた。
 知り合い。そう、もう知り合いと表現するような疎遠だった存在の名を告げて、ラテーナは私の元にやってきた。エルギオス様に会いにいくのなら、私も連れて行ってほしいと魂は言う。
 そういえば、この娘がエルギオス様との再会を熱望する理由を知らなかった。この娘の魂は私がエルギオス様に挑むのを知るや否や、ずっと後ろをついて回ったからだ。何度か引き離そうと試みたが、気がつけば少し後ろで私を見ている。
『しかし、平和な日々は長く続きません。村にガナン帝国がナザムの村にやってきたのです』
 おそらく、エルギオス様は天使の輪を失った時に、守護天使としての力も失ったのだろう。エルギオス様の加護で守られていた村は、その加護を失ったことで厄災を退ける事ができなくなったのだ。
 魂は身を震わせて、帝国の非道の限りを並び立てる。
 帝国に襲われた近隣の村の有様は、酷いという一言では圧倒的に足りない物でした。たわわに実った実りを根こそぎに奪い、家に押し入られ金属製の物は全て持って行かれてしまいました。抵抗する可能性があると男達が次々と槍で串刺しにされて殺され村の周囲に並べられ、子供達は復讐を誓う子供は帝国に仇なす種になると生きたままに火に投げ込まれました。女達は犯され、帝国で兵士となるべき子供を生まされる為に連れて行かれたそうです。村は焼き払われ、帝国が侵略した跡は少し前に人が住んでいたとはとても思えない廃墟が広がっているのです。
 村人達は震え上がりました。
 まさに破滅が踏み込んできたようなものです。
 そんな中で、エルギオス様が言ったのです。『私が皆さんを守ります』剣を引き抜き、兵士達と戦うことを誓ったエルギオス様の姿に村人達は心から感謝しました。早速、数人の狩人が女子供を逃す為に、森の奥へと入って行きました。
 残った男達もそれぞれの家に武器を取りに散って行きました。
 しかし、私は聞いてしまったのです。
 村に忍び込んだ村の密偵が『翼のある男を差し出すなら、この村を見逃してやろう』と、村長に持ちかけたのです。村長はその要求を飲んでしまった。天使様を差し出し、自分達が助かろうとしたのです。
 なんて愚かなことを…!私は憤慨しました。
 こんな愚かな人達であると知っても、エルギオスは命懸けで村人達を守ろうとするでしょう。そんな素晴らしい天使様であると私は知っていました。だから、私は森の奥へ逃げようとする狩人を追うのに、途中までついてきて欲しいと森の奥へエルギオスを連れ出しました。食事に混ぜていたラリホー草が効いて眠ったエルギオスを、森の中に隠そうとしたのです。
 しかし、村長の取り巻きが私達の後をつけているのに気がつけず、私達は駆けつけた帝国軍に見つかってしまいました。目覚めたエルギオスが拘束されているのに気がつくと、その瞳は見たこともないほどの憎悪に燃え上がったのです。
『エルギオスはこの時、人間を激しく憎むようになったのです。私が、いけないんです』
 アインツの手を振り解き、ラテーナは両手で顔を覆った。慟哭に震える背を、アインツは甲斐甲斐しく摩った。
「大丈夫です。大丈夫ですよ、ラテーナさん」
 随分と長い間後悔に打ち震えていた魂が落ち着く頃合いを見計らい、アインツは魂を優しく抱きしめた。穏やかな声が魂へ向かって語りかける。
「我らが神は貴女に多くの縁を授けてくださった。こうして魂である貴女が私達と巡り会えたのも、エルギオス様を救う為の必然であるのです。大丈夫。共にエルギオス様を助けましょう」
 ありがとう、ありがとうございます。天使様。そう胸に顔を埋めて何度も言うラテーナに、アインツは気恥ずかしそうに顔を上げて私を見た。その控えめな笑みに、私はアインツと我らが師だったエルギオス様が重なって見える。
 天使とは人を守る存在。
 星のオーラを捧げ、世界樹に眠るものを呼び覚ます為に生み出された。
 使命を構築する言葉は、天使の誰もが知っていた。しかし、人から姿が見えないと実践できた天使が何人いただろう? エルギオス様が身を挺して守ろうとした過去が、アインツがこうして魂を慰める様が、胸の奥から争い難い衝動となって込み上げる。これが天使としての格なのだと、本能的に理解した。
「さぁ、行きましょう」
 アインツがラテーナを促して進み始める。
 もう、凄まじい威圧感は目の前にあるほどに強く感じていた。
 積み上がった瓦礫と肉片の山の頂上に出た。ガナン帝国の領土であった土地は見渡す限り、暗雲のような瘴気の下に沈んでいる。その山の上に浮かんだ巨大な魔力の塊は、まるで卵のようだった。この世界の様々な色彩を練り上げたような漆黒は、紫電が走るごとに本来の極彩色を一瞬だけ覗かせる。それらが何色も何色も表面に現れ重なると、純白にはならず言いようもない不快な色彩になって再び黒の中に沈む。卵と形容するのはその魔力の中に、漆黒の龍が眠っているからだ。いや、それだけではない。龍に抱かれるように、暗く沈んだ何かが膝を抱えて眠っている。
 その巨大さを例えるなら太陽のようなそれの下にいた人影が、振り返った。紫電に照らされるとその人影は白っぽく浮き上がり、腹の底から込み上げる嫌悪感など知らぬように笑う。まるで親しい友人にでも再会したかのように、女は言った。
「あら、いらっしゃい」
「ヴィータさん!」
 アインツが驚いたように声を上げた。
「ここは危ないですよ。早く離れた方が良いと思います」
 弟子の見当外れな言葉に、思わず溜息が溢れる。普通の人間がこのような場所にいるならば、濃厚な瘴気に瀕死の状態であろう。例え意識が保たれていたとしても、このような害意と敵意を振り撒く魔力に当てられて昏倒するか、恐怖に震えているに違いない。
「もう、流石、天使ちゃんは良い子ねぇ。私好みの姿になって、可愛らしいわぁ」
 魂の状態で死ぬ直前の盲目の状態のままのラテーナは、ヴィータと呼ばれた女を前に震えている。縋りつかれているアインツは、魔力の塊を恐れているのだろうと解釈しているのだろう。
「それはそうと、見てよ。天使ちゃん。このエルギオスの素晴らしい姿を…!」
 女はそう言って魔力の塊を示すように、大きく腕を広げた。
「人間に対して強い憎悪と絶望を抱いて堕天使になってしまった彼ならば、この世界の人間を滅ぼし尽くす事ができるわ!」
 言葉が正しければ滅ぼされる側であると言うのに、女は陶酔しているように言う。
 だが、ガナンの地下で出会った時もそうだが、この女は人間離れしている。天使が見えないはずなのに私を視認し、私すら知らぬ天使の理を知っているかのように語ってみせる。
「本当はアルマトラで達成できると思ったんだけれど、天使ちゃんの横にいるお嬢ちゃんに絆されちゃったの。残念だったけれど、こうしてセレシアの秘蔵っ子を堕とすのも楽しかったわ」
 女は広げた手を胸元に引き寄せ、己の体を抱き締めた。紫電に照らされた歓喜に震える体。顔は狂気に彩られたように、満面の笑みが広がっていた。
「あぁ、創造神グランゼニスが長年望んだ、人間の根絶。ようやく果たせるのよ!」
「創造神が、お望みになった…?」
 アインツが呆然としたように問いかけた。
「そうよ、天使ちゃん。グランゼニスは人間を生み出したけれど、人間は醜くて世界に害しか齎さなかったの。失敗作だったから滅ぼしたかったのよ」
 女の声はヒステリックで脳を貫くように甲高かったが、不思議とその内容に肯定してしまう説得力があった。私はやはり心のどこかで人間を快く思っていないのだと、己の醜さを見る。
「それを、娘のセレシアが阻んだの。人間にだって、良い所があるってね!」
 愉快そうに仰け反って一頻り笑った女は、笑い声に引き攣った声で続きを話す。
「それを証明してみせるって、自らに世界樹となる呪いをかけて、人間の善意で解けるようにしたの。グランゼニスはもう、カンカン! 可愛い一人娘を助ける為に、天使を生み出したのよ」
 星のオーラを捧げ世界樹に眠るものを呼び覚ます、天使の使命。父が我が子を救う慈愛に満ちた話であるのに、女の小馬鹿にしたような響きが全てを嘲り笑う。そう、実際に女は全てをくだらないと思っているのだ。女神セレシアの人間への庇護も、娘の呪いを解こうとする父の労力も、天使達の献身も全てを否定してみせる。
 なんなのだ。この女は、一体、何の権利があって断言できるのだ?
「女神の果実は実り、セレシアの呪いはもうすぐ解ける。人間はようやく用済みになるの!」
「そんなの、駄目です!」
 アインツが力を込めて叫んだ。力んだ拍子に翼が広がり、魔力が迸る。
「人々は生きています。思い悩み苦しみ、時には過ちだって犯してしまいます。それでも、罪を贖い、他者に感謝し、協力する事ができます。喜びを分かち合い、感動できるんです!」
「流石、エルギオスの後継者としてセレシアが見込んだ天使ちゃん。セレシアと同じ事言うわね」
 女はしなやかで長い指で、アインツの顎を掬い上げる。二人の赤い瞳が激しくぶつかり合った。
「でも、天使ちゃんが悪魔ちゃんになった理由は、大事な人間のせいじゃない。かわいそうに。悪魔ちゃんになっちゃって、天使では感じないような感情で何もかもぐちゃぐちゃで苦しいでしょう? 貴女も堕ちておいでなさいな。エルギオスと一緒に楽にしてあげるわ」
 アインツは女の手を払った。激しい怒りで爆ぜる魔力の中で、弟子は聞いたことのない大声で叫んだ。
「この姿でも、ひどい気持ちでも、私を受け入れてくれるのは人間です! 私の誰かは貴女でも、天使でも、神様でもない! 一人の、人間なんです!」
 アインツの悲痛な声に、私は胸を突かれた。
 この悪魔の様相のアインツの隣にいたのは、キサゴナ遺跡で出会った人間の男だった。どういう縁か知らないが、男はアインツと共に行動していたのだろう。天使の輪と翼を失い人間にしか見えない姿であっても、悪魔と成り果てた姿であっても、男は変わらずそこにいる。
 しかし、私はどうだ。悪魔の姿であるアインツを哀れに思い、元の姿に戻そうとしている。それは今のアインツの姿を否定していることに他ならない。
 私はアインツの師ではあるが、アインツの一番の理解者ではないのだ。
「ムキになっちゃって可愛いわね。でも、結果は変わらないわ。セレシアの力、グランゼニスの力、双方を兼ね備えたエルギオスを止めることは、誰にもできない」
 頭上の魔力の塊に、激しい音を立ててヒビが入っていく。ヒビの隙間から濃厚な魔力が溢れて、突風は全てを薙ぎ払うように吹き荒れ、炎は何もかもを焼き払うように燃え上がり、雷が大地を打ち据える。
「おはよう。エルギオス。素敵な一日の始まりよ」
 微笑んだ女は、翼もないのにふわりと浮かび上がっていった。
 それを顎を上げて見送るような余裕はどこにもなかった。戦いが、始まるのだ。
 私はアインツの前に躍り出て、迸る力を遮る。弟子が『お師匠様!』と私を心配する声が聞こえてくるが、それに応じられる余裕はない。天使の力を全力で解き放って防御したとはいえ、体全身が打ち据えられたように痺れる。これほどの力、何度も防ぐことは叶わない。
 龍がのたうちまわり、小さく縮こまっていく。いや、龍がエルギオス様に吸収されているのだ。
 闇の中で開いた赤い双眸は光ってすらいた。邪悪に滑る真紅に、ねちゃりと笑みの形に開いた口の中を唾液が糸を引く。翼には目の形の模様が浮かび、角が生え、あの美しい金髪は全て失われ全身は緑に変じている。身震いした。聖なる天使が堕天し、悪魔と成り果てた姿の悍ましさに震えが止まらない。すっと伸びる手が喉元にかかり、くびり殺される未来が見える。
「お師匠様! ラテーナさんを守ってください!」
 弟子の声が閃光のように私の中に割って入った。ハッと顔を上げると、弟子は連れていた人間の魂を私に押し付ける。
「エルギオス様を救えるのは、ラテーナさんだけです!」
「アインツ! お前はどうするつもりだ!」
 弟子は天使の時よりも、ひと回りは大きくなった悪魔の翼を広げる。その翼は漆黒ではあったが光を反射して無数の光沢が膜の上に踊る。まるで新月の星空のような翼だった。飛び立とうとする弟子は、私を見て凛々しい顔を微笑ませた。
「使命を果たします!」
 使命。どう言う意味だ。問おうとした言葉を遮るように、アインツは楽しげに声を上げた。
「お師匠様はご存知じゃないですか! 大丈夫です!」
 先ほどの女を追いかけて飛び立つアインツを視線で追ったが、現実は無慈悲に引き戻す。私は目の前で暴れ狂う魔力の塊と悪魔の姿を見据え、傍にいる魂を庇うように立つ。
「エルギオスのところに連れて行ってください」
 ラテーナと名乗った魂は真っ直ぐにエルギオス様を見つめていた。そこにはエルギオス様の姿を恐れる気持ちも、嫌悪を抱く感情も欠片も存在しない。この娘にはエルギオス様はあるがままに映り、救いたいと言う気持ちが前へ前へと駆り立てていくのがわかった。
 胸が熱くなる。天使である私にとって、人間は庇護の対象でしかなかった。
 しかし、庇護など必要ない。人間はこれほどに強く、愚かなほどにまっすぐなのだ。
「私は誓ったのです。何十年、何百年掛ろうと、あの人の元に必ず辿り着くと…!」
 ラテーナ声に叱咤され、私は彼女の魂を抱えて翼を広げた。
 天使の光の力を膨らませ、目の前の憎悪と絶望の嵐に飛び込んでいく! 縦横無尽に駆け抜けるありとあらゆる苦痛。心を折るほどの絶望が胸に叩きつけてくる。まるでエルギオス様の苦しみもがく様が暴風となり、喉が裂けるほどの悲鳴が力となって襲いかかってくる。
 これほどまでの苦しみの中で孤独に耐えていた。弟子であったのに情けなく思った。アインツという弟子をとったというのに、とても褒められた師匠ではなかったのに、エルギオス様の弟子として不甲斐ないと己に怒りを覚える。
 エルギオス様の拒絶を、アインツの励ましが後押しする。
 もうすぐだ。濃厚な瘴気の渦を突き進み、闇の中により濃い影が見える。赤い双眸がこちらを向いた。ぞくりと背筋を冷たいものが走り抜け、翼が思うように動かなくなる。天使の格が私を押さえつけ、死が下されるのを待つ姿勢になる。
 大丈夫。弟子の口癖が、心を熱くする。
 それでも、その一瞬の停滞は致命的なものだった。鋭く突き出された腕は早く、尖った爪は容赦無く体に沈み込んでくる。一瞬の事であるはずなのに、私の体は既に何撃も受けていた。天使の力が腕によってこじ開けられた穴からこぼれ落ち、体が崩れ落ちていく。脱力した私は、取りこぼしたラテーナの魂へ手を伸ばした。
 エルギオス様を救って欲しい私の願いが、一瞬繋がった指先からラテーナに流れ込み彼女の背に純白に輝く翼を生んだ! 触れたはずの指先が崩れる中、私はラテーナに向かって叫んだ。
「行け!」
 翼が羽ばたいて流星のように闇を駆ける。
 照らし出されたエルギオス様は、その真紅の瞳を驚きに見開いて私を見ていた。あぁ、貴方をお救いしたかった。地上で消息を絶ったあの日から、多くが変わった。私は貴方に話したい事がこれほどにたくさんあるのかと驚いたんです。弟子を招いて、その弟子が何とも不思議で、どうしたら良いか教えて欲しかった。貴方なら『イザヤールなら何の問題もない』と言いそうでしたが、それでも、聞いて欲しかった。
 師匠。私は、貴方が誇れるような弟子でしたでしょうか?
 ふと、視界が晴れる。
 ラテーナがエルギオス様の元に辿り着いたのだ。
 そしてそのさらに上空に、星のように小さく、それでも確かに輝く光が一つある。
「神よ!」
 手を広げ天を仰ぐ弟子はもう、悪魔の姿ではなかった。
 あの濡羽色の美しい黒髪は頭上に戴く彗星の輪に虹を帯びた銀に染まり、背に生えた翼は星々を束ねたように眩い。あまりの神々しさに、私は感動に打ち震えた。エルギオス様をはじめ多くの上級天使を見てきたが、まさか、あの小さな天使が、我が弟子がこの境地に至るとは思えなかった。
 女神様がお目覚めになると歓声を上げる声が、最後の竜が目覚めると歓迎する声が、地上に新たな祝福が授けられるという感慨深い声が、創造神が救われるという期待の声が、星々から雨のように声が降り注いでくる。その声は光となって、私の弟子を誇らしく思う気持ちが溶けていく。君の弟子は素晴らしいと褒め称える声が、でもちょっと厳しすぎだったかもねと諌める声が、お疲れ様と今までを労う声が聞こえてくる。
『イザヤール』
 ふと、エルギオス様声が聞こえる。重い瞼を開けると、縋り付くラテーナを片手で支える求めた姿がそこにある。美しかった金髪を、眩かった天使の輪を、大きく包み込む翼、そして私と妹を見守る優しさに満ちた瞳。
 エルギオス様の翼がそっと宙を掻くと、私の目の前にふわりと寄った。大きな手で私の手を掴むと、申し訳なさそうに眉根を寄せる。小さくすまなかったと紡ごうとして唇が引き結ばれた。
 頭上でアインツの声が大きく爆ぜた。
「人間達の感謝の心を受け取り賜え!」
 大地を覆い隠していた暗雲が、地上から放たれる凄まじい光に掻き消えた。まさに天と地が逆転したように、地上が青く清らかな光で覆われている。その光を私はよく知っていた。
「星の、オーラ…」
 人間の感謝の輝き。アインツが大地を巡り生み出したそれは、世界中に放置されていたらしい。地上の騒動で回収する天使もいなかった為に、その数は空の星々をも霞ませ匹敵するものとなっていた。
 光が天空を目指して舞い上がる。人間の感謝の光の渦に翻弄されながら、私は心の中に感謝の念が湧くのを堪える事ができなかった。ありがとう。その言葉が光となって、アインツの元へ飛んでいく。師匠からも、ラテーナからも、ありとあらゆる感謝の念が一つに束ねられていく。
「グランド・ネビュラ!」
 アインツの言葉によって解き放たれた光は、星の雲となって空の頂を飾った。いつまでも、何千何万と月日が過ぎようとあり続けるだろう、偉大なる星の集い。
「また、こんなに溜め込んでいたのか」
 私は呆れたように笑った。なんとも、弟子らしかった。