運命に導かれ

 ガナン帝国はかつて世界を征服しようと、悪いことをいっぱいしてきたらしい。悪いことの内容は、そりゃあ聞いてりゃ胸糞悪くなる内容が目白押し。とてもじゃないがアインツには聞かせらんねぇな。
 元々人間だった帝国の連中は、今では獣人の姿で蘇った。
 そう、蘇ったんだとよ。骨一つ残らない凄まじい魔力に焼かれて死んだのに、次に目が覚めたら臭いわ蚤だらけの毛むくじゃらになっちまうんだから最悪だよな。それもアインツには聞かせらんねぇ。アインツはあの羊みたいに捩じくれた角も、背から生えた羽も肌を蝕む黒くて硬い鱗みたいなのも凄く怖がっている。自分が自分じゃない何かになっちまうって、頭がイカれたって誰も責めやしない。
 エルギオスという天使の命令で、獣人共は世界征服の続きをしている。いや、世界を我が物にしたいのは帝国の王であるガナサダイで、エルギオスは世界そのものをぶっ壊せと言っているらしい。命令の拘束力の強さは天使の方が強いらしい。
 そこまで話を聞いていた俺は、煙管を咥えて肺いっぱいに煙を吸い込んだ。
 目の前には、とても人が生きていけるような環境とは思えない光景が広がっている。毒々しい岩山に、ガナン帝国の残骸が取り込まれているようだ。岩山と瓦礫を繋ぐのは脈打つ肉片のようなもの。蒸せ返るほどの強烈な悪臭が脈打つ血管から噴き出して、紫色の霧になって漂っている。そして頭上から凄まじい殺気から、ここの主人は俺の存在を既に把握しているのだと察する。
「種の存続のために命を捧げるような昆虫でさえ、所属した集合体が崩壊する場合を想定して生き延びることを優先する個体もいます」
 学者のような淡々とした声色で言う鳥頭は、ドミールで俺達を散々追いかけ回してくれたガナンの将軍だった。ゲルニックと名乗った鳥頭は、耳の辺りから翼が顎髭のように顎を覆っている。人間の体の上に梟そのものが乗ったような顔つきで、ホウホウと笑う。その服装も身のこなしも、豹頭や豚頭といった武人と違って魔法使いのものだ。
 鳥頭は『取引をしませんか?』と俺に持ちかけた。
 ガナン帝国に手引きする代わりに、皇帝を殺して欲しいと言ってきたのだ。
「帝国って言っても一枚岩じゃないってか」
 鳥頭は甘ったるい口調で、仕える帝国を見下すように言う。豹頭や豚頭にある規律高さの根底にあるだろう忠誠心を、一切感じなかった。忠誠心の低さを補って余りある、将軍の地位につくだけの力があるのだろうと油断できない相手だ。
「私は帝国に遠方から招かれて雇われた一介の術師。帝国と運命を共にする気など、更々ありませんから」
 ローブの裾から覗く手は、鋭い爪を持っているが人間のものに酷似している。ホゥホゥと囀る嘴の下を撫でる手は、なんとも人間臭い仕草だ。
「私はエルギオスの呪縛から解き放たれたいのですよ。貴方はエルギオスと同等かそれ以上の天使と、力を共有している。その為かゴレオンはエルギオスの手で再生されませんでしたからね」
「意味わかんねぇよ」
 言い捨てはしたが、本心だろう。
 天使。俺はその言葉を口の中で転がす。守護天使の像がある人の住処には、像に名が刻まれた天使様が守ってくださっている。死んだ時には天使様が迎えにきて星空に導かれるのは、この世界の誰もが持っている基本的な信仰だ。根無草の俺だって天使様は信じているさ。
 その天使様が世界を滅ぼす? 天使様ってのは、人間を守ってくださるんじゃないのか?
 だがガナン帝国の地下で見た悪魔のような男がエルギオスであるならば、人間を滅ぼすだろう。あの赤く光る目に籠った殺意は、手当たり次第に引っつかんで地獄の業火に投げ入れそうな狂気的なものを感じていた。
 ガナンはかつてそのエルギオスという天使から力を抜き取って、兵士に注いだ。天使の力を注がれた兵士は恐るべき力を手に入れて、周辺諸国を瞬く間に蹂躙していったそうだ。そんな恐ろしい歴史が俺達の時代に残らなかったのは、ガナン帝国がエルギオスの暴走であっさり自滅してしまったかららしい。なんとも間抜けでお粗末な結末なのやら。
 そのまま終わってくれりゃあよかったのに、エルギオスは生きている。注がれた者はエルギオスの呪縛に囚われ続け、従い続けなくちゃならんのだとさ。
 エルギオスって奴は相当ガナンの連中が気に入らないのだろう。さらに、同じ種族だからと人間も目の敵にしている。ガナン帝国を止めたとしても脅威が消え去るとは思えなかったが、エルギオスって天使が人間の敵として立ちはだかるなら駒は減らしておくに限る。それが狡賢そうな鳥頭の提案を受け入れた俺の思惑だった。
「皇帝は豹頭が守っているんだったな?」
 帝国の地下からアインツを抱えて命辛々逃げ出してきたが、あの悪魔とデカすぎる皇帝からよく逃げ切ったものだ。あの人間離れしたトロルのような巨体を殺そうと本気で考えている俺も、相当に馬鹿なことをしようとしていると自覚はある。
 その皇帝の前には俺に刀を向ける豹頭がいるわけだ。
 今までは敵ではなかったから肩を並べちゃいたが、今回は敵対する。あの正確無比で強力な刀と切り結ばなきゃならないとか、死にに行くようなもんだろうな。ルディアノで護身用の剣をへし折られた予習を生かして、今回はちゃんと良い剣を2本揃えてきた。帝国の武器庫で失敬してきたプラチナ鉱石で出来ているだろう上物だ。まともに受けても折られやしないだろう。
 それでも、勝ちは望み薄だ。相打ちに持ち込めるかも怪しい。
「えぇ。ギュメイがいれば帝国の守りは安泰です」
 ゲルニックはホゥホゥと笑う。
 他人事のように笑う声は、俺を捨て駒として使う気満々を隠そうともしない。勿論『承知の上で誘いに乗ったのだろう?』と嘲笑うような意味も含んでいる。奴は道案内以上のことはしない。俺と豹頭をぶつけて、皇帝を殺して、帝国から逃げ出そうって魂胆なんだろう。
 だが逃げ出す俺達の背を地の底から見上げていた、赤い二つの光を思い出す。
 あれが、本気で逃してくれると思ってんだろうか?
 もしかしたら、鳥頭の行動も見越して泳がせて楽しんでいるのかもしれない。その仮説はすんなりと俺を納得させてくれた。頭上の殺意がエルギオスであるならば、人間達の潰し合いを特等席でご覧遊ばせるわけだ。そりゃあ楽しいだろうな。
 人工物の比率が増してきた。今までは岩に飲み込まれた残骸だったが、明らかに煉瓦で積まれた城壁があり、変な肉片や血管が至る所にへばり付いてはいるが屋根や窓も健在だ。岩影を伝って隠れながら進んでいたが、帝国の旗が掲げられた大門の手前は身が隠せないほどに開けている。旗がバタバタと強風に煽られて、耳を叩く。
 さて、どうするか。俺が煙管をポーチにしまいながら、侵入できそうな場所を目で探している時だった。
 ふと、風が吹く。
 凄まじい血生臭さが背後から溢れた。
 俺は振り返らずに前へ全力で駆けた。殺気のない風が頸を撫でていき、全身が粟立つ。十分に間合いを開け広場の真ん中で身を翻して、剣を一振り抜き放つ。
 豹頭の足元に鳥頭が転がっていた。胸の辺りを守るための金属製の鎧は切り裂かれ、真っ白い羽毛と紫のローブが血を吸ってどんどん色が変わっていく。鳥頭の眉間から刀を引き抜いた豹頭は、仲間を殺めたような感傷を一つも顔に浮かべず俺を見た。
「思えば、不思議な巡り合わせだった」
 そう、ぽつりと呟かれる。
「しかし、敵対することは最初から定められていた。私は皇帝ガナサダイ様に誓った忠誠を貫くのみ。天使からどんな力を与えられ、命令に従えと命じられても二君に仕える気はない」
 豹頭がゆっくりと刀を構える。あの洞窟で師匠と呼んだ男が握っていた業物だ。
「交わす言葉は必要ない。刃を交えれば全てが伝わる」
 瞬きひとつの間に間合いが詰められ、豹頭が眼前に迫る。俺は豹頭が薙ぎ払った一刀を紙一重で避け、切り返しを流れるような突きをどうにか避ける。一つで判断を間違えれば致命傷を叩き込まれる猛攻に、俺は冷や汗が噴き出る。
 勝てる相手じゃない。
 捨て身で挑めば相打ちを狙える相手でもない。
 一対一。この状況での実力の差は、勝利に直結する。
 もう、戦いを始めた瞬間に、俺の負けは決定したようなものだった。
 俺は歯を食いしばった。だからって、ただ殺されてしまっては意味がない。せめて、回復不能な一撃を叩き込んで、この後戦うだろうアインツや人間達に有利にしてやらなきゃならねぇ。
 今まで俺が並んで見ていた豹頭は、本気ではなかったと熟思わされる。まるで嵐の中に放り込まれたように、縦横無尽に剣戟が走る。攻めを捨てて回避に徹すれば攻撃は当たらなかったが、それは針に開いた糸通しの穴のように小さい隙間でしかない。敢えてその隙間を作ってくれているのかと思ったが、鬼神のような殺意が真っ向から否定してくれる。
 豹頭がいれば帝国が安泰、と言った鳥頭の気持ちがよくわかる。
 攻撃しようとすれば敵に隙はない。この豹頭はとんでもない場数と戦線を潜っている。この豹頭がいつも命のやりとりをして、敵の命を薙ぎ払っていたのをひり付くような剣戟から理解する。
 背後に豹頭が殺した者達の亡骸が積み重なってる気がした。貴様も俺達の仲間になるのだと、亡者達が笑って待っている。
 まぁ、だが、まだ死んじゃいねぇし。
 俺は唇をどうにか持ち上げる。そういう顔するだけで、なんだかんだ余裕が出るもんだ。
 確かに怒涛の攻撃を避け続けることは、俺自身も疲れるしずっと出来ることじゃない。それでも、奴の剣筋を見る分には十分だ。獣人そのものの人離れした強靭さに、豹が持つしなやかな素早さが加わっている。一撃は軽く振っているように見えて、剛腕の大剣を受けるほどに重い。やはり一撃を受ければ、致命傷は免れない。
 相手の行動を阻害する急所に叩き込む。その隙を見つけ出せれば、一撃くらいは…。
 豹頭がすっと踏み込んできた。俺の足の間に相手の足が差し込まれるほどに近接され、俺は思わず飛び退ろうとする。両手に持った豹頭の刀が下から振り上げられ、俺は胴体を切り裂かれないために剣で受けざる得ない。全てが俺にとって最善で、それを豹頭に選択させられる。
 受け流せると思った。その刃が、俺の剣に触れるまでは。
「…!」
 刃が剣を軽々と押し上げる。流そうとする動きを封じ込め、まるで水を柄杓で掬い上げるように俺の刃が腹に当たる。このままでは腹を切り裂かれる。俺は咄嗟に開いた片手で刃を押さえ、豹頭の刀を受け止めた。飛び退った際に浮いた片足で踏ん張りが効かない。体が、浮く。
 振り上げた刀を頭上に振り上げ、豹頭の会心の一刀が俺の肩から胸を割った!
 凄まじい痛みに意識が吹っ飛びそうになった。開いた口から悲鳴が出て、次の瞬間血に変わる。肺が切り裂かれて、心臓から流れ込んだ大量の血が口から溢れてくる。
 まずい。こんな早くに殺されちまうのか?
 せめて、目玉一個でも潰してやらねぇと…!
 体を緊張させ、体深くまで切り込んだ刃を筋肉で止める。握りを変えて柄の底を豹頭に向けると、目に向かって突く。剣を体から引き抜かれた反動で目に当たらなかったが、瞼を強く殴打した。瞬く間に腫れ上がって、豹頭の片目が使えなくなる。
 脱力感で体が重い。痛みで体が燃えた剣を飲まされたように引き攣る。膝を折ってしまったら、もう立ち上がれない。切り裂かれた左肩が重くずり落ちて、地面に引き摺り込もうとする。だめだ。まだ、俺は、死んじゃいねぇだろ。
 息を何度も吸って吐いて、歯を食いしばっていたら、妙なことに気がついた。
 豹頭が追撃してこない。
 確かに、もう間も無く死んでしまうような致命傷だ。とどめの一撃で楽にしてやろうという優しさを、豹頭が俺にしてやる義理はない。
 霞んだ視界を目を擦って鮮明にすると、豹頭はだらりと両手を下げて俺を眺めていた。
「死なぬか」
 豹頭はぽつりと言った。
「貴様の天使は貴様に不死の力を与えているようだ」
 死なない? 俺が? 視線をそろりと下せば、びっくりする俺の顔が映る血溜まりの上に立っていた。これが全部俺が流した血だとしたら生きちゃいない。切り裂かれた心臓が脈打っている。血が失われて青白い手から、剣が滑り落ちた。剣が血溜まりに落ちて飛沫を上げるのが見えて、俺が後ずさってびちゃびちゃと血を跳ね散らかす足音が聞こえる。
 確かに、変だ。でも、何が変なのか、よくわからない。
「驚くか。貴様は天使に力を注がれていたのに、気がつかなかったのか」
 アギロが何か変わったかと聞いてきた。豚頭が、天使の力がどうのこうのって言っていた。鳥頭の言葉も良く分からないからって、ろくに聞いちゃいなかった。確かに目の色は変な気がしたが、俺は何ひとつ変わっちゃいない。見た目も変わらないし、力が強くなったりなんかしていない。
 何も、変わってない。それなのに、現実は俺を否定する。
 こうして、立っている。血の気が引いて、流れる血はなくって体がからっぽだってのに、心臓だけが動いてる。歯が噛み合わないくらい悪寒で震えてるってのに、魂が体から離れることはない。
 どうして、こんなことになってるんだ? 疑問が湧いて湧いて、何も考えられない。答えも、仮定も、掴めない。次々と突きつけられる現実と、今にも死にそうな倦怠感にまともに考えることができない。
 そんな俺に豹頭が静かに言った。
「天使の力を拒絶しろ。今なら、貴様は人として死ねるだろう」
 その声は同情を含んでいた。可哀想な奴だと哀れまれて、楽に死ねるように祈ってくれている。その声に頷きさえすれば俺は何もかもを手放して、あんなに焦がれた一生寝てるような時間を手にできる。
 天使って誰だったんだろう? ただ、そんな疑問が浮かぶ。
 俺も信じていた天使様。街や村で石像があって、人々を見守ってくれて、旅人にもちょっと幸運を授けてくれる天使様。俺はそんな信仰が嫌いじゃなかった。オバケが苦手だから、天使様だってこじつければ我慢できる都合のいい存在だった。
 でも、いるんだろう? 近くに。誰だったんだ?
 いつもは一人旅だってのに、ここ最近は隣に子供がいた。小さい子供みたいな背丈で、まぁるい形のいい頭で、黒髪で碧の瞳がぱっちりした頑固な女の子。最近は悪魔みたいな見た目になって、痛々しくて可哀想だった。世話になってる宿の従業員のその子の手伝いで、俺はその子と世界を巡る。なんだが、楽しそうに人々を見ていた姿ばっかり思い出す。
 年相応の可愛らしい顔で、人々の営みを嬉しそうに眺めていた視線は俺に向く。
『ありがとうございます』
 小さな手が俺の手と繋がれている。俺の指先を握るその手は簡単に振り解けそうで、振り解いたら二度と繋ぐことができないと思った。今は小さい福与かな手が作った輪に俺の指先引っかかっている。
 しっかり者の子供だった。しっかりし過ぎて誰かに頼らなくても、大人に混じって働いていた。ルイーダに頼ったりしているリッカちゃんの方が、よっぽど子供らしく見えたもんだ。
『ケネスさんと出会えて、私は幸せでした』
 なんで、過去形なんだよ。
 手が開かれる。俺の指先が解放される。
 俺はありったけの力を込めて腕を上げた。まるで何かに押しつぶされているかのように重い腕が、その場に止まるので精一杯だ。
 睨みつけた子供は、俺が最後に見た悪魔になりかけみたいな醜いものじゃなかった。黒髪は純白に輝いて虹色の艶を宿し、頭の上には彗星が輪を描いて回っている。背から広がった子供にちょうど良い小ぶりな翼は、星を集めてできている。天使。俺が想像したものよりも、牢獄で見た死にかけた輪と翼がある者よりも、息を呑むほどに綺麗で力強くて暖かい。
 そして子供が身を引き裂かれる思いで、俺の指先を手放した。それがすごく悲しいと、俺と子供の気持ちが反響する。
「掴め!」
 俺の大声に子供の足がぴょんと地面から離れて、髪がぴょこんと跳ねる。
「お前やリッカちゃんみたいに、誰かのために頑張るばっかりで自分のこと顧みねぇんじゃ、割合わねぇだろ! 俺がお前達の為に頑張ってやる!」
『どうして、そんなことを言うんですか?』
 なんて変な質問だ。だが、今ならなんとなく分かる。
 天使の力を拒絶すれば人として死ねると、豹頭が言った。ガナン帝国がエルギオスから力を奪って注ぎ込んだ人間だった兵士達は、お世辞にも幸せではなかったのだろう。豹頭達が人としての人格や理性を保っているならば、異形に変わっていく様に苦しみ、侵略の先で大いに良心が傷ついていったに違いない。発狂して自ら命を断てれば良いが、死んだ命を蘇らせることができるならその地獄はエルギオスがいる限り無限に続く。人として死ぬことが楽だと思える地獄があると、豹頭は思っているし俺もそう思う。
 今、俺がこの子に伸ばしている手を取ったら、もう後戻りはできないのだ。
「お前と一緒に宿屋に戻るって、俺はリッカちゃんに約束した。お前は元の姿に戻らなきゃ帰れねぇって言うなら、戻る方法だって探さなきゃなんねぇだろ? ここで、死ぬわけにはいかない」
 俺は子供に笑いかけた。歯を食いしばって頭に手を置き、涙をいっぱいに溜めた瞳を覗き込む。
「アインツ。お前、一人じゃ帰らないじゃんか。だから、一緒に帰ってやる」
 ルディアノでアインツ一人を帰そうとしたとき、あいつは戻ってきやがった。悪魔の姿っぽくなったら、リッカちゃんに会えないって泣きべそ面だ。故郷に大事な荷物を届けにいったら、もう二度と故郷には戻れないと呟いていた。大丈夫だって言っても、全然大丈夫じゃない。
 それを放って置けるほど、俺もアインツに冷たくできないんだろうな。
 見た目通りの小さい子供だった。
 天使様っつったって、俺にとってはアインツという手のかかる子供だ。
 アインツが俺の腰に勢いよく抱きついた。勢い余って縺れるように倒れ込むと、腹の上で大声で泣いて涙と鼻水でぐしょぐしょにしてくれる。腰に回った腕が、ぐっと力を込めた。
『ケネスさんが、私の誰かであることが幸せです』
 アインツの体が光って、その光に視界の全てが塗り替えられていく。手も足も溶けて、真っ白い光に何も見えなくなる。既に力が注ぎ込まれていたからか、眩しくて見えなくなる以外何も変化を感じなかった。
 痛覚が一瞬にして脳髄を貫いてきて、俺はうめいた。左胸は大きく切り裂かれて、左腕は相変わらずだらりと力なく下がっている。血はもう流れていなかったが、体に砂を詰め込まれたかのように重い。死なないとしても、とても勝てるとは思えない状況だ。
「天使の力を受け入れたか…」
 愚かしいことを…。豹頭は吐き出すように呟いた。
 豹頭にしてみれば、理解できない状況だろう。豹頭の言った『死なない』は、腕を斬り飛ばしたり死ぬほど血を流しても死なないという意味だ。体を切り刻んで焼いて灰にでもしたら、俺は死ぬかもしれない。それなりに情を移しちまってる俺に、そういう手間暇を掛けるのは豹頭にとっても苦痛で面倒に違いなかった。
 まぁ、良いじゃんか。俺はそう言いながら、無事な右手で煙管を取り出して咥えた。
「俺の天使様はお前の天使様とは違って、まだまだ子供なもんでね」
 剣を引き抜き構えると、豹頭も戦う意志を認めて切り掛かってくる。
 その攻撃は先ほどと比べれば緩慢なほどだった。だが、動きが遅い分、正確に狙いをつけられていて、的確に急所を抉ってくる。腱を切り裂かれ動きはどんどん制限される中、マヒャド切りが放たれる。剣戟に重きを置くのではなく、凍結に力を振った一撃で体を粉砕するつもりなのだろう。左腕を盾にし、左腕から左胸にかけて凍りつく。
 俺はにっと笑みを深めた。
 ぶらぶらと動く度に俺を振り回していた左腕が、凍ったことで固定され格段に動きやすくなる。さらに豹頭の技量が高かった為か、凍った腕でちょっとした斬撃くらいは受け流せる。
 それでも豹頭の有利は動かない。俺の敗北は避けられない。
 豹頭の冷静な眼差しは苛立ちに揺らぐことなく、俺の敗北が訪れるまで淡々と攻撃すれば良いことが分かっている。どんなに俺がしぶとくたって、焦る必要などない。俺だって負けるだろうって分かってる。
 だがな、死ぬ前に一服くらいはしたいだろ。
 避け、受け流し、辛抱強く待ち続けた一撃は、ついにきた。
 豹頭の剣が炎を帯びる。火炎切りだ。使えると思ったぜ!
 左腕の氷を盾にし、火炎が迸る刀身を受け止める。盛大に火花が飛び散り、氷に炎で熱された等身が食い込んでいく。このまま氷ごと腕を切り落としてしまおうって魂胆だろう。俺もそれを待ってたんだ。
 舞った火の粉を見据え、俺は口に咥えていた煙管を引き抜いた。火の粉の一つを煙管に掬い入れると、すぐさま煙管を口の中に押し込んだ。
 大きく、胸いっぱいに空気を吸い込む。
 上段に構えた必殺の一撃。それを振り下ろそうとした豹頭の鼻面目がけて、俺は煙管を離し口を窄める。腹の底に力を込め、俺は全身を震わせるように煙を吹き付けた! この空間がひっどい匂いだったから、煙草として用意した毒消し草の匂いだけでも強烈だ。嗅ぎ慣れてなきゃぁ、鼻腔から脳天に突き抜けるような激臭が豹頭を直撃した! 真っ白く烟る煙で、黄色と黒の模様が掻き消える。
「…っ!」
 豹頭が驚きと共に鼻先を片手で覆った。
 攻撃を中断し、煙の匂いを防ぐことに行動を全て切り替える。その無防備なまでの懐に、俺は一息で踏み込んだ! 吸い込んだ獣臭さが、肺の底まで染み渡る。 
「鼻の良さが仇になったな! ギュメイ!」
 俺の剣が豹頭の胸に深々と突き刺さった。勢いに乗せて豹頭の胸に右肩をぶつけ、胸元に差し込んだ剣を少し引き抜いてそこに俺の体の全体重を乗せる! 右肩の骨が俺の体重と勢いによって砕け、俺の首の下くらいまで剣が食い込んでくる。
 豹頭の絶叫が鼓膜を貫く。
 俺の剣は豹頭の肋骨を折って進み、ついに脇腹に抜けた!
 胸から脇腹まで切り裂かれた豹頭と、左胸を大きく切り裂かれ右肩が砕けた俺が折り重なるように倒れる。力が豹頭から抜け両手が地面を叩くと、喘ぐように言った。
「み、みごと…だ」
 豹頭の敗北宣言に、俺は力を抜いて豹頭にもたれ掛かった。豹頭の獣臭い黄色い毛皮が、頬をくすぐる。ぜいぜいと肺を切り裂かれ苦しげな息の合間に、豹頭は言葉を紡ぐ。
「我が主君がガンベクセン様を暗殺なさった時から、我が主君の滅亡は決まっていた。忠なき国にやってきた天使が齎すものが破滅であり、私が共にする運命であった」
 豹頭が力を込めたので、トドメを刺されるのかと身を竦めた。しかし後ろから回された左手が、俺の胸元に一振りの刀を落とす。豹頭が師匠と呼んだ男、豹頭と、継承されただろう片刃で反った作りの不思議な長剣だ。俺がその剣を手にしたのを感じたのか、豹頭の腕から力が抜け俺の上に乗った。
「最後に、強き者と戦えた私は幸せだ」
 そうだな。勝ったとはいえる状況じゃなかった。俺が負けなかっただけ。
 俺達はただ、戦っただけなのだ。
 俺は腹筋の力で体を起こすと、徐に空を見上げた。冥府を抜けた先、最も空に近い昇天の梯子があるとされる満天の星を見上げる場所。天使様は降りてこなかったが、このまま空に昇っていけそうな良い星空だった。それから視線を下ろし、俺は刀を手に豹頭を見下ろした。
「良かったな、ギュメイ」
 にっと笑ってみせると、困ったようにギュメイが笑った。
 その笑みは狂った運命に殉じた男にしては、随分と満足そうな顔だった。