妖精の泪

 祝福の言葉が花吹雪と共にサンディの元に降り注ぐ。
 最高級の絹に美しいレースを幾重にも重ね、そこに数千にもなりそうな小粒の金剛石が散りばめられたウエディングドレス。胸元を飾るネックレスの宝石は花嫁の円な瞳よりも大きくて、神の御前の前で交わされた指輪は国一つ買える希少で豪華な一品だ。世界で一番のお姫様。あたしは願いを叶えたサンディを、誰よりも、心から祝福した。
「妖精さん!」
 サンディはにっこりと私を見上げて笑う。
 この大国の僻地に広がる大森林の奥に息を顰めるように存在した、小さな小さな村。そこにサンディは生まれた。村娘の金髪は艶もなく藁のようで、焦茶色の瞳は平凡な色。同年代の子供の中でも一番小さく、手足は木の枝のように細い。でも小さい時しか持ち得ない子供らしい可愛さに溢れていた。無邪気に笑い、子供らしい残酷さが美しい。子供達を引き連れて遊び、年下の赤子の面倒を見る気量良し。手の掛からない子かと思いきや、可愛らしい我が儘は大人達を笑顔にさせた。そんなサンディが、村人の誰からも愛されたのは当然だった。
 ねぇ、妖精さん。私、お姫様になりたいの。
 子供らしい将来の夢だ。返事もできないあたしだったけれど、サンディの夢を応援した。サンディはお姫様のような美しさはないけど、夢くらい見ても良い可愛らしい子だったから。
 そんな夢を掲げた女の子は、様々な試練を超えて本当に王子様と結ばれた。手にした真っ赤な薔薇を束ねたブーケを、天高く放り上げる。赤い花弁が散って彼女に降り注ぐと、笑みがこぼれ落ちる。
「私、お姫様になったよ!」
 あたしはサンディの右巻きの旋毛の上から、完璧な女の子の人生を眺めていた。あたしが何なのか良くわからないけど、サンディはあたしのことを『妖精さん』と呼んでいた。サンディ以外には誰にも見えないけど、村の狩人の猟犬は気がついていたっけ。あたしは暑さも寒さも空腹も痛みも感じないし、誰からも触れられないし、動くこともできなかった。ただ、サンディの人生を眺めているだけの存在。それを悲しいとか寂しいと思ったことは一度もない。気がついた時からそうだったし、サンディの人生は波瀾万丈で退屈とは無縁だったからだ。
 それに、サンディはあたしに話しかけてくれる。彼女の秘密も成長も、夫になる王子様よりも育ての親の両親よりも近くにいるあたしの特権だった。
 サンディは完璧な女の子だ。こうして夢を叶えた彼女に、出来ないことなど何もない。
 村の祭りでも口にできないお肉や食事、宝石のようなお菓子やデザート。水に果実を絞った濁った飲み物じゃなくて、希少な氷を浮かべ透き通ってキラキラと輝いている。華やかなドレスは毎日違って、王子様は毎日新しいアクセサリーをプレゼントする。花を浮かべた湯船に浸かりながら、侍女達はサンディの長い髪に丁寧に香油を染み込ませる。まるで雲のような真っ白で柔らかい、それでいて暖かい寝床で寝る。
 優雅で贅沢な生活が約束されたお姫様の日々を、自分のことのように楽しむ。あたしはサンディとずっと一緒だったからこそ、彼女の幸せも楽しみも自分のことのように感じていた。
 人払いをして眠る前の少しの間が、あたしとサンディの時間だった。
「ねぇ、妖精さん。王子様が私に新しい名前をくださったのよ」
 枕を抱きかかえ、サンディは幸せそうに笑う。サンディの喜びの声は聞く者の心に伝わって満たし、悲しみの声は涙を誘う。裏表のないサンディの声に励まされ、偉大な国王陛下に萎縮していた王子様は自信に満ち溢れて変わったと誰もが言う。名君の世継ぎが良い治世を後の世にまで伝えてくださるだろうと、誰もが口を揃えて言っていた。
「新しい私の名前は、サンドネラ。素敵だと思わない?」
 本当に素敵な名前ね。サンディは村娘らしい親しみやすさがあるけれど、サンドネラは王族らしい豪華さがある。完璧なサンディに相応しい名前だと思った。それを伝える手段がないけれど、サンドネラは一切気にしない。
 指先に施した美しい爪先が目に入る。赤く塗った爪の上に星のように砕いた宝石が散りばめられた、アクセサリーのような指先が贅沢の極みだと思う。水仕事なんか必要ない手は色白くしっとりと柔らかそうで、傷ひとつなく良い香りのする肢体が、口元にしどけなく指を添えると大人の色気が漂った。
 王子様は皆にサンディと気安く呼ばれるのが、お気に召さないらしい。だから新しい名前を授けて、サンディと本当の名で呼ぶのは王子様だけにしたいそうだ。とっくに知っていることだったけれど、王子様の愛情深さを噛み締めるようにサンドネラは語って聞かせる。
 サンドネラは新しい名前がよほど気に入ったのか、上機嫌に枕を抱きしめた腕の力を強めた。上目遣いに見るサンドネラの瞳が妖しい艶に濡れる。
「妖精さん、サンディの名前あげようか? 元々、貴女の物だったし」
 何を言っているんだろう?
 可哀想な妖精さん。
 一番古い記憶が女の子の声で囁いてくる。
 焦茶色の瞳は真っ直ぐあたしを見ていた。なんだか魂が鷲掴みにされるような、苦しいような恐ろしいような感覚があったけれど、逃げることも言い返すことも怯えることもできなかった。ただ湧き上がった初めての感情に、戸惑うだけ。あたしをあたしと自覚した最初の記憶は嵐のように乱暴で、それに耐えている間にサンドネラは王子様を迎え入れていた。
 王子様が王様になりサンドネラがお妃様になっても、輝かしい生活は変わらない。
 お城の床は鏡のように磨き抜かれ、サンドネラが歩く場所は足音を吸い込むほど柔らかい絨毯が敷かれている。サンドネラのお気に入りの日用品は美しく、飽きたと放り投げれば今までよりも素晴らしいものが代わりとして用意された。美味しい食べ物は尽きることはなく、宝石のようなお菓子は常にサンドネラの傍に置かれた。耳に触れるのは心地よい演奏。寒い日は暖炉の火が絶えることはなく、暑い日は氷菓子が望めば目の前に現れる。誰もが笑顔でサンドネラに尽くした環境で、お妃様は快適に暮らしていた。
 何かよく分からないことを命令していたけれど、命令を受けた兵が粛々と下がっていく。サンドネラが『気になる?』と尋ねてきた事があったけれど、『妖精さんが気にすることはないわ』とそれっきり。サンドネラが言うことを、あたしはすんなりと受け入れた。
 それが当たり前だと思っていた。
 だって、あたしはサンドネラの真後ろから、彼女の人生を見るしかできないんだもの。
 それは突然やってきた。
 荒々しい足音を響かせ、それはサンドネラの部屋の扉を強引に蹴り開けたのだ。吹き込んだ悪臭にサンドネラが顔を顰める。頭から足先まで赤ワインを引っ被ったようでポタポタと赤を滴らせた男は、恐ろしい顔で抜き身の剣を引っ提げてサンドネラに大股で歩み寄った。侵入者を打ち倒そうと切り掛かった者は、敵の手に握られた剣に切り裂かれた。いや、切れ味の失った剣はサンドネラを守ろうとした兵に食い込み、骨を押し出して血を撒き散らしながら二つに分断する。あまりにも恐ろしい光景に、あたしは目を閉ざす方法を知らないのだと知った。悲鳴を上げて昏倒した侍女が羨ましい。
「無礼者! 妾を王妃サンドネラと知っての狼藉か!」
 サンドネラが鋭く言ったが、返り血と肉片をへばり付かせた男は無言で近づく。ゆっくりと振り上げた剣が血に塗れて赤く輝いたと思ったら、サンドネラの脇腹に吸い込まれていく。豪華なドレスに血が染み込む前に、切れない刃がサンドネラの腹に押し込まれる。ぐっと寄った皺が次の瞬間、男側に引かれる。サンドネラの悲鳴。噴き上がる血飛沫がキラキラと輝いて、倒れて天に引かれる髪の毛が美しく思った。
 あたしは、サンドネラがそんな風に殺される理由がわからなかった。
 ただ呆然とサンドネラが着ていたドレスが赤を吸い、その下から止め度もなく溢れて広がっていくのを見るしかできない。真っ白い顔サンドネラは、紫色の唇で微笑んだ。
「わらわは…よみがえる。いつのひか…かなら…ず」
 そしてサンドネラはあたしを見た。
「私は蘇ったよ。可哀想な妖精さん」
 その瞳はサンドネラの茶色じゃない。血のような赤。
 なんで、最初に会った時に気がつけなかったんだろう。あんなに怪しいって思ってたくせに、普通の人間に見えないのにこいつには見えていたのに、あたしのことを妖精ちゃんと言っていたのに…。
「サンド…ネラ?」
 真っ白いサラサラとした髪、色白い肌、赤い瞳。サンドネラと何ひとつ同じ特徴はない。けれど、あたしはわかる。この女はサンドネラだ。姿が違っても、あたしが見続けた完璧な女の子を見間違えることはない。
 なんだろう、よく分からない。
 サンドネラは死んでしまった。二度と動かなくなってガラス玉みたいになった茶色い瞳を、忘れたことはない。
「あんた、誰なのよ? サンドネラは死んだのよ?」
「そうね。可哀想な妖精さんの器は死んじゃったわね。ガナン帝国で世界中を滅茶苦茶にして、良い線行ったお気に入りの器だったのに」
 何を言ってるの? 本当に意味がわからない。なんで、あたしがこんな馬鹿馬鹿しいことに巻き込まれなきゃならないわけよ?
 アインツがセントシュタインに送るって荷物に隠れてたらさ、窓が割れて外に大きな魔力の塊が落っこちてきそうなのが見えたのよ。流石にやばいと思って荷物から離れて、獣人達の荷物に紛れて里から脱出したんだ。ガナンとかいう獣臭くて鼻がひん曲がっちゃいそうな国の城の物陰に隠れてたらさ、外から囚われてた人間やら裏切った兵士が攻めてきたんだって。ただでさえ汚かった城が、ボロボロのぐちゃぐちゃなんですけど! 獣臭い血の匂いが何日も洗ってない体に染み込んできて、狂っちゃいそうなのに!
 あたしが黙り込んで睨みつけていると、赤い瞳はきょとんと丸くなって瞬いた。
「あら? 可哀想な妖精ちゃんは、可愛いセレシアに器をもらったのに、相変わらず何もできないのね。私に肉体から追い出されても、ずーっと後ろにいて何処にもいけなかったものね」
 そして美しい声で歌うように言う。
 創造神は己が生み出した者を殺めようとする腕を切り落とした。嫉みを生んでしまう目を抉った。優しい顔をしてやれぬ、鬼のような形相になる頭を落とした。駆け巡り負の感情の元凶を働かせる血を抜いた。憎しみを向ける者に駆け寄る足を切断する。扇動する口を縫い付ける。感情を殺して考えることを辞めた意思を封じ込める。如何にすれば失敗作を滅ぼせるかと考えめぐらせる脳を掻き回して潰す。親しき者の理解を得られず苦しむ心を棄てる。そして膨らみに膨らんだ憎悪を、地下深くに封じることしかできなくなった。
「私は地面の奥深くに棄てられ封印された者」
 ヴィータの顔でサンドネラの笑みを浮かべる。
「私は創造神グランゼニスの憎悪。この世界の全ての人間を滅ぼすことを使命としているの」
 全てを見下している眼差しが懐かしかった。その中にあたしも含まれているのが、無性に腹立たしかった。
 そして、あたしには何もできない。
 悔しくて、ムカついて、涙が溢れた。