王宮のオーボエ

 世界で最も美しい国と称されたルディアノ。豊かな森に包まれ、清流が国土の隅々まで行き渡り、人々は先祖代々育てた花で身を飾り薬を作り生活の一部とした国。錬金術が盛んで多くの賢者を輩出し、騎士団は妻や恋人や母から送られた花を胸に守護者となる、輝かしい栄光に包まれた国だった。王族の花から『薔薇の国』と呼ばれた私の故郷。
 今は見る影もない。私は滅びの森と呼ばれた、人も寄り付かぬ地を見下ろす。
 鬱蒼とした森は全てを日陰に隠し、花も小川の煌めきも暗闇の中で殺してしまった。降り続ける雨と頭上を覆う暗雲に、木造の家は腐り、石はカビと苔に崩れていく。
 故郷を脅かす魔女を討伐できず長らく帰れなかった故郷は、滅んでいた。その時、私はかの時代に世界を征服せんと悪虐の限りを尽くしたガナン帝国の侵攻で、滅ぼされたのだろうと思った。しかし、見るも無惨な滅びに目を凝らすと、戦いの影は全くない。城の塔が崩れたのは魔法でも砲撃でもなく、劣化による崩落だった。敵兵が攻めてきたら封鎖するべき城門は開け放たれたままで、帝国の進撃を受けた形跡が何も残っていなかった。
 まるで天災によって滅んだようだが、地震によって家が尽く崩れた様子も、国を呑み込むような土石流も、洪水によって浸水した跡も何もない。
 我が故郷が滅んだ理由を求めて闇夜を彷徨い歩き、昇天できずに留まる魂を見つけては訊ねたが誰一人答えられる者はいなかった。さらに、どれだけ探してもルディアノの民の魂を見つけることができなかった。陛下も妃殿下も、勇猛果敢な騎士団の仲間達、溢れんばかりに活気付いた城下の住民と、当時屈指の人口を誇った王国の民が消えてしまったように、この世界のどこにもいない。
"メリア姫…貴女はもうこの世に居られないのか?"
 私は手を掲げて小手に打ち付ける雨の音を聞く。鎧の隙間から雨粒が入り込み、骨を伝い、足元からぼどぼどと止め度もなく流れ出す雨。
 長い長い雨は大地から溢れ、いずれ鬱蒼とした森の木々の根すら腐らせて、このルディアノの全てを無に返してしまうのだろう。闇を抜け魔女を打ち倒して帰るべき故郷を失い、寄る辺なく彷徨い続けることが苦痛だった。何も考えず、煩うこともなく、皆の元に逝きたい。
 死を意識した私は、最後に残った未練が鮮明に浮かんだ。美しい姫の笑顔。レオコーンと慕わしく呼んでくれる、鈴のように可憐な声。あぁ、私の忠誠と人生を捧げる唯一の姫。もう一度、もう一度だけそのお顔が見たかった。笑顔を私に向けて頂きたかった。
 門の上から見下ろす守護天使の像に、私は祈った。花々を胸に飾った騎士に姫を守って欲しいと、花々を抱えた賢人に姫を幸せにして差し上げて欲しいと、それぞれに祈った。私の魂が対価に必要なら喜んで差し上げよう。だから、どうか、我が最愛の姫にご加護を…。
「その願いは黒騎士様にしか叶えられません」
 守護天使の像の間に大きな鳥のような影が降り立った。翼を畳んで小さくなった影は、両脇の守護天使の像に深々と頭を下げ、最後に私に会釈した。その姿に見覚えがあった。
「メリア様が見つかりました」
 そう微笑んだ顔は黒い皮膚に蝕まれ、雨に濡れそぼった漆黒の髪の間から捩じくれた角を生やす。翼は竜のような形で、黒い表皮の上に伝う雨水が夜空のように美しかった。赤い瞳が私を見下ろし笑みを形作る。
 悪魔だ。悪魔がメリア姫が見つかったと言う。
「さぁ、メリア様の元に参りましょう」
 以前の私なら、悪魔を甘言ごと切り捨てただろう。しかし、私は疲れ切っていた。悪魔の誘惑であろうと、魂を奪う罠であったとしても、切望したメリア姫の情報を知りたくてたまらなかった。舞い降りてきたボロ布を被ったようなそれが差し出した手を、私は取った。
 ぐるんと世界が回る。足を着けていた地の感覚が失せ、天も地もなく虚空に放り出される。光が容赦無く視覚を刺してきて激しく痛み、奔流のような魔力にもみくちゃにされる。腕の骨が折れ、肋骨が砕けて鎧の中で弾ける。足の骨が外れて光の彼方へ流されていく。私の体がバラバラになるような、一つに丸め込まれていくような感覚が、突如落下の衝撃と共に終わった。
 大丈夫か? そう男の声が傍から響いた。
「おいおい。めちゃくちゃルーラ酔いしてんじゃんか、可哀想に」
 『俺は初めてのルーラで吐いたから、お前は大したもんだ』と慰めてくれる。
 古代に存在したと言う移動呪文がなぜ出てくるのだろうと思いながら、男の手が兜や小手を外して骨を撫でていく。撫でた場所から気付草の匂いが立ち上ると、気分が随分と楽になった。先ほど感じた折れた骨も砕けた骨も失われた骨もない。鎧も剣も何一つ体から離れてはいないと、ようやく己の状態を認識できた。
「ごめんなさい。人間ってあまり空飛ばないですもんね」
 私を覗き込んだ悪魔が申し訳なさそうに頭を下げると、ぱたぱたと気付草の匂いがする手を男が振る。顔の上でやり取りされる言葉は、青空の清々しさもあってなんとも長閑だ。
「いやいや、フツーに空飛ばねぇよ」
 人間が空を飛ぶ。現実可能とするならば、キメラの翼がそうだろう。だが、キメラが雷に打たれたことで風切り羽が変化する特殊な工程から、余程のことでなければ使えない高価な品だ。かく言う私もキメラの翼は見たことがあるが、使ったことはない。
 二人の頭の間を通って起き上がる。そうして正面から見た顔は、やはり見覚えのあるものだった。赤い髪の男の一流と言える剣術を鮮明に覚えている。なまくらの護身用の剣と、同行者の娘のために生きて戻ろうとしたのが災いして敗北はしたが、ガナンであれほどの力量はギュメイ将軍くらいだろう。顔に違和感がある。瞳だ。赤と碧が移ろう不思議な色。その碧は彼が逃そうとした娘と同じ色だった。娘の甲高い声が男をケネスと呼んでいたのを思い出す。
 そして並ぶように私を見る悪魔は、ケネスの連れだった娘だ。陽の光の下で異様さが更に際立って見えたが、見た目が人成らざる異形さであっても雰囲気は穏やかだった。なぜ、このような幼気な娘が悪魔のような悍ましい姿に成り果てているのか、分からなかった。
"ルディアノで出会った旅人だな?"
 男が少し目を見開くと、煙管を咥えてにやりと笑った。
「覚えてたのか。俺はケネス。お前を連れてきたのはアインツだ」
 ケネスに紹介されて小さく頭を下げる娘は、いそいそと目深にふっくらとした帽子を被り外套で羽を隠し始めた。人の目はないが人の生活圏だろう空気を感じ、娘に倣って私も兜を被り直す。
"レオコーンだ"
 この姿で名乗ったのは初めてかもしれない。気恥ずかしさに熱を帯びた気がした。二度目の邂逅に彼らの反応が怯えや驚きを含まないのも嬉しかった。心を浮き立つのが堪えられないが、ここに招かれた本来の目的を切り出した。
"メリア姫が見つかったと聞いたが、どちらにおられるのだ?"
 背後にあった木々から覗けば、堀と城壁の間に広がる林らしい場所だ。遊歩道が回廊のように大きな建物を回り込み、多くの人々が散歩なのか行き交う姿が見える。堀の向こうは外壁で見張の兵士は外を見ており、こちらを見ても兜を目深に被ってしまえば髑髏は見えはしないだろう。
 アインツが『ここはセントシュタインです』と説明されれば、記憶と目の前の風景が合致していく。同盟国の使者として、この国を何度訪れたことだろう。見習いの従者として、一人の騎士として、ルディアノの黒き薔薇と称された騎士団長として、人生の節々に訪れた思い入れのある地だった。歴史を感じる石造りの家の重厚な壁に刻まれた魔法による焼け跡、遠巻きでも見える石畳に刻まれた武器を満載した重量のある馬車が往来したことによる轍の跡も懐かしい。絢爛豪華さを誇る王城の尖塔は一つも欠けず、人々の穏やかな営みは変わらない。
 ルディアノの同盟国は、ガナンの手を逃れることができたのだろう。素直に喜ばしかった。
「レオコーン様はセントシュタインの姫君、フィオーネ様をご存知ですか?」
 知っている。フィオーネ姫の姿を見た時、メリア姫がセントシュタインに嫁いだことを雷に打たれたかのように理解した。メリア姫の生写しと言えるほどに良く似ておられる。子孫であれば容姿が似ることはあるだろうが、何気ないふとした仕草に息が詰まるほどに重なって見えた。
「実は俺達がお前を探していたのは、フィオーネ姫のご依頼だったんだ」
 そうケネスは順序を追って説明し始めた。
 彼らはセントシュタインの城下の宿に勤めており、珍しい品を調達しては提供する手腕を買われてフィオーネ姫から依頼をされていたらしい。丁度遠方に買い付けに行った時期に依頼されてしまって遅れはしたが、こうして私を探し出し連れてくることが出来た訳だ。
 しかしどんなに似ていても、子孫であってもフィオーネ姫はメリア姫ではない。どう二人が繋がるのか。首を傾げる私にアインツが言う。
「メリア姫の魂がフィオーネ姫に、宿っておられるようなのです。厳密に言うとフィオーネ姫が身につけている、メリア姫の遺品に魂が留まっていたようです」
"なんと!"
 私は勢い余ってアインツの福代かな手を握った。
"フィオーネ姫からその品を拝借できれば、メリア姫に会えるのか!"
 アインツは頷いて肯定し、賑わう城の周囲を見遣った。
「本日はフィオーネ様より重大発表があるとのことで、城が解放されるのです。手紙で日取りを調整する前に、一目見ていただければと思います」
 私ははっとする。目覚め、魔女を打ち倒し、ひたすらに闇の中を彷徨った日々。切望したメリア姫との再会を取り持ってくれた存在に、未だ礼一つ言っていないではないか! 私は木の根元に生えていた黄色く小さい花を摘み、膝を付いて深々と首を垂れた。
"ルディアノの黒薔薇を与えられし騎士、レオコーン。貴女に感謝と花を捧げる栄誉をお与えください"
 アインツはぱっと頬を赤らめると『ありがとうございます!』と笑った。どこにでもいるような年相応の可愛らしい女の子の笑みで、嬉しそうに黄色い花を受け取る。野に咲く名も知られぬような花だったが、暗い色に覆われつつある娘の中で月のように輝いていた。

 トランペットが吹き鳴らされ、正門が大きく開け放たれた。
 城下の住民達が吸い込まれるように入っていき、通された中庭は人々で埋め尽くされた。誰もがフィオーネ姫の重大発表が、婚姻の発表なのではないかと言う期待で輝くような笑みを浮かべている。人々は隣に居合わせた者と、姫が誰と結婚されるかを賑やかに予想しあっている。しかし、中には浮かない顔でバルコニーを見上げている者がいた。
 最後尾の壁際から見上げていたアインツも、怪訝な様子で眉を顰めた。
「なんでしょう? 棺…でしょうか?」
 バルコニーの壁に巨大な棺が立て掛けられている。その大きさは人の背丈を超え、漆黒と金の塗装が所々剥げ落ちた相当に古めかしいものだった。しかも棺の形をしたそれは、魔法陣の描かれた護符が張り巡らされ鎖で雁字搦めにされいる。祝いの発表の場には、これ以上相応しくない不吉な雰囲気を撒き散らしていた。
 人々が棺に気づき不安が伝播するよりも早く、高らかにトランペットが響き渡り王族がバルコニーに現れた。王として遜色ない威厳を放つ現セントシュタイン王と、美しい王妃とフィオーネ姫が連れ添って人々に手を振っておられる。王と王妃は棺に驚いた反応をし、背後に据え置かれた異様な存在を気にしている所を見るに棺の存在を知らなかったのだろう。
「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます」
 フィオーネ姫が女神のような美しい声で人々に語りかける。陽光に照らされ亜麻色の髪が黄金のように燦然と煌めき、白磁のような肌と桜色に色づく口元が微笑む様にメリア姫を重ねざる得ない。不思議なことにメリア姫と同じ形で髪が結われ、ドレスの形も気のせいと言えぬほどに同じだ。ドレスの胸元や髪に花を飾るのはルディアノの伝統。しかしセントシュタインに伝わったにしては、王妃すら花で飾ってはいない。
「皆様に、ぜひお伝えしなくてはならないことがあります」
 バルコニーから集まった人々を見下ろして、フィオーネ姫が背後に視線をやった。それに釣られて、人々も王も王妃も視線が姫の背後へ向かう。棺の存在に気がついていた者は不安を隠さず、ようやく気がついた者は『あれは何だ』と騒めく。
 すっと姫がたおやかに棺を示す。
「この棺には魔神が封じられています」
 魔神? 漣のように人々の間を、疑問が駆けていく。
 私もアインツとケネスに顔を向けたが、二人とも要領を得ない様子で首を振った。誰も姫の突然の言葉を理解できないまま、国王が姫に詰め寄った。
「フィオーネ! 何の真似だ! 一体、何を言っているんだ!」
「セントシュタイン国王。無知は罪であることを、貴方は知るべきです!」
 この場の全ての人間の疑問を代弁した王の問いを、フィオーネ姫は一蹴した。その言葉の激しさに王はたじろぎ、囁かれていた不安や疑問の声がぴたりと止む。
 姫は人々の沈黙の中で優雅に王から視線を移し、慈悲深い声で語りかけた。
「数百年も昔、この世界はガナン帝国という恐ろしき国に侵略され蹂躙されていました。セントシュタインも例外ではなく、王国は帝国の脅威に抵抗しながらも怯える日々を過ごしていたのです」
 民が互いに顔を見合わせる。
 あの当時のガナンの脅威は、生き死にを賭ける程であった。かの帝国は全てを略奪し殺戮し、通った全ての文化や歴史を破壊して荒野にするような連中だ。同じ言葉を話しているのに、全く言葉が通じない。かの帝国と接触して生き延びる方法はただ一つ。徹底抗戦だけであり、帝国は相手が潰えるまで徹底的に攻撃し続けた。
 だからこそ、不思議だった。目覚めたこの時代の姿は、ガノンの敗戦を意味しており全てが焦土とならなかった平和を喜ぶことは簡単だった。だが、ルディアノが滅んだ理由を追い求めれば求めるほど、誰も戦争があったことすら知らないのだ。当時を生きた魂は当然覚えてはいたが、どう戦争が終結したのか、あのガノン帝国のその後すら誰も知らなかったのだ。
 あれほどまでに恐ろしい帝国を、どうして忘れ去れようか。
「そんな日々の中で、当時の王は捧げた生贄を対価に、願いを叶える魔神と契約をしたのです。このセントシュタインをガナンの脅威から守って欲しい…と」
 フィオーネ姫の言葉に、少なからぬ驚きを感じた。
 なにせ我がルディアノの騎士団とセントシュタインの兵団が力を合わせ、帝国を倒そうと同盟を組んだのだ。私達騎士団は力を合わせれば帝国を倒せると信じていたし、セントシュタインも打倒帝国と高い士気を保っていた。
 王が兵士を信じず、魔神に縋るなどとは俄かには信じられなかった。
「そして王が対価に差し出した生贄、それは」
 姫が悲嘆に瞑目する。ぐっと握り込んだ手を胸に押し当て、大きく息を吸って前を見た。
「セントシュタインの同盟国、ルディアノ全ての国民だったのです!」
 衝撃が走った。
 洪水のような動揺とざわめきの中で、私の驚きが木の葉のように揉まれていく。帝国によって滅ぼされたなら、魔物によって、天変地異で、ありとあらゆる滅亡の理由を考えていた。そのどれかであろうと思い、そのどれかであったなら納得できると、答えを探し求めた。
 セントシュタインがルディアノを滅ぼした。
 そんなことがあって良いのか?
 メリア姫は知っていたのか? 知っていて故郷を滅ぼした王国に嫁ぎ、その王国のために生きねばならぬとしたら、そんなメリア姫の不幸があって良いのか?
「フィオーネ! 良い加減にするのだ! どこにそんな証拠が…!」
 国王が声を荒げ姫を下がらせようとしたが、姫は重厚な本で王の顔を横様に叩いた。衝撃に王はよろめき、姫が持った本がバラバラと壊れて頁が舞う。人々の上に降り注いだ頁の断片は黒く塗りつぶされて、中身が読むことのできない。
「己が国可愛さに同盟国を差し出すなど、王国として恥ずべき行為! そして己が罪を隠そうと、同盟国とそこに生きた命を闇に葬ったことは許されることではありません! 私達は先祖が犯した罪を償わなければならないのです!」
 フィオーネ姫が棺を覆う魔法陣の護符を引き剥がそうとすると、護符は脆く粉々に砕けて風に舞い上がる。姫の右手が棺に伸ばされると、手元から光が迸る。
 光を放っていたのは指輪だ。魔物の討伐で初めて武勲を立てて凱旋した時、メリア姫に花冠を授けられた返礼に贈った指輪だ。赤いルビーの上に薔薇の形の透彫を被せた、姫に送るには恥ずかしいくらい質素な指輪。婚姻が決まった時も嬉しそうに身につけていて、もっと上質な指輪を贈ろうと心に誓ったことを思い出す。
 メリア姫の遺品。
 私が贈った指輪を肌身離さず持ち、メリア姫は一生を終えたのだ。
「魔神よ! セントシュタインの民の命と引き換えに、ルディアノを甦らせるのです!」
 棺から黄金の光が迸ると、ぴしりぴしりと音が耳を掠めていく。次の瞬間、大きな音を立てて棺を縛っていた鎖が弾け飛び、棺の蓋が砕け散った。中から溢れた黒い霧を切り裂くように、黄金の手が棺の淵に掛けられる。人としては異様に大きく、長く尖った爪まで芸術品の一部のようなまるで絢爛豪華な黄金細工のような手。
 大きな笑い声を上げながら、仰け反って笑う異形が煙の中から現れる。全てが金色の魔神は、愉快そうに歪めた口元から黄金の長い舌をちらつかせてフィオーネ姫に迫った。
『同じことを繰り返す人間の、何と愚かなこと…!』
 黄金の爪で姫の顎を持ち上げると、魔神は姫を睨め付けた。
『だが、断る!』
「なぜ…!」
 予想だにしない反応だったのだろう。確かに見合った対価を払えば願いを叶えてくれる魔神であるならば、セントシュタインの国民全員は相当の価値がある。断る理由などないと思ったのだろう。
 魔神は愕然とした様子の姫を見て、楽しげに笑う。
『我と契約した当時のセントシュタイン王は、恐れをなして我をこの棺に封印した。その行為、子孫が許されると思うたか? 貴様が差し出したセントシュタインの民の命で、長き眠りに失われた力の糧としようぞ!』
 なるほど。それが棺の中に封印されていた理由か!
 このままではフィオーネ姫の身が危うい。私は逃げ出そうとする人々の波に逆らい、声を張り上げた。魔神を正面に見据え、剣を高々と掲げる。
"魔神よ! 俺を見よ! 俺はルディアノの黒薔薇の騎士レオコーン! 貴様が食い残した、ルディアノの民だ!"
 黄金の双眸がこちらを向き、面白いものを見たかのように歪む。
"例えセントシュタインの王が願ったとは言え、ルディアノに手を下したのは貴様に他らなぬ! 我が故郷の民の無念、我が剣に賭けて果たさん!"
『魔神が契約の内容を、一部であれ履行できない事実は同族に末代まで笑われる汚点。ようこそ、レオコーン。我が汚点を消し去らんと、我が前に魂を差し出しにやってくる心意気は誠に立派なり。その意志に報いるために、この国よりも先に貴様を喰ろうてやろう…!』
 魔神がバルコニーの床を踏みしだき、高々と舞い上がった。逃げ惑う人々の開けた空間に着地すると、全身が黄金の姿の異形さを邪悪さで身の毛がよだつ思いだ。私は傍に立つケネスとアインツに声をかけた。
"力を貸してくれぬか?"
「勿論です! 行きますよ、ケネスさん!」
 アインツの声に気怠げに答えたケネスだが、その剣の冴は凄まじい。ガノンの剣術の前身はベクセリア王国のものらしく、その変則にして殺す方法に特化した剣術はまさに風の如く。俺の騎士としての鋼のように真っ直ぐな剣筋の道を開くように、魔神を翻弄する。
「封印されて飯を食う前だからか、弱いみたいで助かったぜ!」
 大きく石畳を粉砕した一撃が、私に届く寸前でアインツの盾に阻まれる。
 魔神が顎門を大きくひらけば輝く炎が襲い掛かったが、盾で防御すれば肉もない我が身には苦痛にもなり得ぬ。私はそのまま光る炎を突っ切り、魔神に肉薄した。腹に深々と剣を柄まで差し込み、盾を捨てて両手で握り込む。
『や…やめろーーーー!』
 魔神の命乞いを断末魔の悲鳴に変えながら、私は渾身の力を振り絞って剣を上に切り上げる。いや、それは私だけの力ではない。切り裂かれた傷口から、懐かしい輝きが溢れ出す。魔神に食われたルディアノの民の魂が、私の剣を押し上げ、共に魔神を切り裂こうとしているのだ…!
 魔神の顔に魔法が炸裂して砕け、私を薙ぎ倒そうとした腕を騎士団の精鋭の盾となった光が防ぎ、光が愛しき人の花で飾った精鋭達の剣となって魔神の肉体を切り刻んでいく。
 私の剣は魔神の肩まで到達し、輝く光となって振り抜いた!
 魔神の体から光が溢れる。その全てがあの日、俺が帰るべきルディアノにいた民だった。忠誠を誓った陛下。優しき王妃殿下。信頼する頼もしい騎士団の精鋭達。気難しくも共に王国を支えるために力を貸してくれた錬金術師達。故郷の日々を笑顔にしてくれた、守るべき国民達。その全てが、俺を向かい入れるようにある。
 そして。
 あぁ、俺の手はもう骨ではない。あの日、生涯貴女の為に剣を捧げると誓った時の、無骨な人間の手。王から賜った刀身に映ったのは、多くの女性が惚れると仲間に冷やかされた整っているだろう人間の顔だ。その姿で、その顔で、貴女にもう一度会えたことを心から嬉しく思う。
「レオコーンさん」
 アインツが傍に歩み寄ると、そっと黄色い花を渡してきた。私が摘んだ花。
 私は小さく頭を下げると、その花を愛しい人に捧げた。我が最愛の姫メリアは嬉しそうに、名もないような道端に咲くような小さい花を受け取ってくれた。手をとって、腰に、背中に互いの手が回る。求めた暖かさを抱きしめることのできる喜び、涙に潤んだ瞳を互いに覗き込むこと以上に言葉は要らなかった。
 光る風が私たちを包み込む。空の彼方まで舞い上がっていけるほどに、体が軽くなっているのを感じていた。天使が迎えに来ているのだろうか? 見上げると空から溢れ落ちそうなほどの、美しい星々が私達を待っている。
「お達者で…!」
 そう私達を送り出す、アインツを見た。
 悪魔のような翼は純白を通り越して無数の星をかき集めて輝く翼であり、頭上の輪は流星のように眩い。黒き汚れは全くなく、濡羽色の髪は虹を宿した銀だった。瞳は大地を覆う生命に満ちた碧。隣に立つケネスの手を掴んでいなければ、共に飛び立ってしまいそうだった。
"ありがとう。我らを導きし、天使達よ!"
 私の故郷は滅んだが、故郷の民がいる場所こそ帰る場所。私はメリア姫と共に、帰るべき場所へ帰ることができる。
 ありがとう、アインツ、ケネス。
 感謝の言葉が光となって二人に降り注ぐ。ルディアノの栄光の騎士に惜しみない賞賛として降り注ぐ、花吹雪のようだった。