祈りの詩

 教会が宵の鐘を鳴らす音が、セントシュタインの街に響き渡る。商店は扉に閉店のプレートを掛けて戸締りの音を最後に静まり返り、酒場が煌々と明かりをつけて賑わうようになる。人々は家路を急足で行き、あれだけ賑やかだった大通りは閑散としていく。
 今日が終わろうとしている。
 今日も帰ってこなかったと、寂しさが込み上げてくる。
 二人が出かけて直ぐの頃から、流れ始めた不穏な噂は日に日に大きくなっていく。
 獣人の動きが活発になった。
 獣人は鎧を着た兵士を難なく切り裂く鋭い爪を、馬を追い抜く素早さを、待ち伏せして殺す賢さを持っている。魔物よりも恐ろしい脅威だけれど、獣人は森の奥に暮らし、人間の住処には滅多に近づかない。人間が森の奥に迷い込んだりしなければ、襲ってこない存在のはずだった。
 そんな獣人が森を出て、村や旅人を襲うらしい。しかも、王国の軍隊のように鎧を纏い、隊列を組んで略奪する。そんな獣人達は自らを『ガナン帝国兵』と名乗るそうだ。
 不穏な噂を注意深く見守っていたルイーダさんの読み通り、商人達も運搬の際の護衛を増やした為に仕入れの金額が上がった。酒の値上がりは痛いが、日々の食材は近隣でまだ平穏なウォルロ村から仕入れていて宿の運営の影響はまだない。
 不安がないと言えば、嘘にはなる。
 常連のケネス様は腕の立つ冒険者で、宿で暴力沙汰になるような諍いをよく止めてくれた。酒に酔ったお客様を組み敷き、武器を抜き放って相手を殺さんばかりの喧嘩の間に入って止めてくれる。ケネス様がいれば宿は守ってもらえると思っていたんだ。
 でも、帰ってこない。
 もう、帰ってこないんだ。
 泣きたくなってくる。でも『ドミールで名高い『竜の火酒』を仕入れたい』とアインツとケネス様に持ちかけたルイーダさんは、もっと罪悪感に駆られているはずだ。皆を不安にさせないように気丈に振る舞っているけれど、一人になると辛そうに項垂れている。
 二人が旅立って半年後、アインツが買い付けた荷物だけが届いた。
 ドミールから遥々荷物を届けてくれた商人が、悲壮な顔で事の次第を語ってくれた。それは、二人が行方不明になってしまったと言う驚くべき顛末だった。
 赤く沸騰する溶岩が川のように流れ、地が震え山が崩れる恐ろしい険しい火山地帯の最奥は、人々にとっては遠き御伽噺のような場所。そんなドミールの里を獣人の軍隊が襲ったのだ。獣人達は黒い巨大な竜まで使役し、空の英雄を殺害した。
 空の英雄と黒い龍の激しい争いに巻き込まれ、アインツが里から落ちたこと。ケネス様もアインツを追って里を降って行ったのを、何人もの自警団員が目撃している。獣人の軍隊は撤退していったが、二人は戻って来なかった。捕虜にして連れて行かれたとしたら、生きてはおるまいと商人は辛そうに言った。
 すまないね。そう、悪くもないのに謝罪した商人の言葉を聞いてから、私はぼんやりと日々を過ごしている。宿のスタッフも突然のことに心ここに在らず。お客様への心配りがなっていないと、おじいちゃんに叱られてしまいそうだけれど、どうしても二人の生活が色濃く残る宿の様々な場所に二人の影を見てしまう。
 宿の入り口に吊るしたランプに火を入れる。すっかり空は暗くなり、星が瞬きだした。
 ウォルロ村に比べれば少なすぎる星ではあるが、アインツは毎晩星々に手を組んで長々と祈っていた。私達は守護天使様にお祈りするのに、アインツは星々に祈りを捧げるの。
『アインツ、何を祈っているの?』
 質問したのは冬で、寒さに言葉を紡いだ息が白くなる。私の問いに手を解いて向き直ったアインツは、丸い頬を寒さに赤くして笑う。
『今日あった事を、星々に報告しているのです』
 言い終えるのが早いか、少し違いますねと否定する。
『青空や曇り空で見えなくとも、星はそこにあり、地上の全てを見守っておられるのです。報告というより、私の言葉を聞いていただいて、私の気持ちを整えているだけです』
 不思議な信仰だと思った。私達が守護天使様に向けてする祈りや報告を、アインツは星々にする。そんな信仰をする地域の旅人は、まだ宿に訪れたことはなかった。アインツの故郷はどんな所なのだろうと、彼女が星に祈りを捧げる後ろ姿を見ながら思っていた。
『アインツは守護天使様をどう思っているの?』
 彼女は『尊敬しております』と真面目な顔で言った。
『守護天使だけでなく、天使は星空の守り人なのです。星々の声を聞き、神の心を世に体現する使命を帯びた存在です。かの方々が居られて、我々は日々の営みを享受できるのですから』
 不思議だった。アインツの声が誇らしく弾むのが、見上げる眼差しに憧れが込められているのが、守護天使様を形作っていく。私はアインツの向こうに暖かく私達を見守る眼差しを見る。
 アインツ。私は手を伸ばそうとする。
 ねぇ、貴方は大地震の時、ウォルロ村に大怪我して運ばれた旅人なのよね? 私達と同じ時間に生きて同じ場所で暮らす人なのよね? そう問いたくて口を開いたことが、今までも何度もあった。それでも、結局は閉ざしてしまう。
 アインツは優しい。私の傍に寄り添って、宿を一緒に支えてくれる。問うたら、きっと縛ってしまう。『私はリッカとずっと一緒ですよ』と言って欲しいけれど、無理矢理言わせてしまいそうで怖かった。
 私は星を見上げて手を組んだ。アインツとケネス様の無事を星に祈る。
 どうか、アインツとケネス様が無事に帰ってきますように。心から二人の無事を祈る。酷い目に遭っていたら助けて欲しい。苦しい思いをしていたら手を差し伸べて欲しい。生きて帰ってきて欲しい。不思議だった。誰が助けてくれるんだろう? 誰が手を差し伸べてくれるんだろう? 帰ってこれない状況を誰が変えてくれるんだろう? それでも想わずにはいられない。誰か、誰かアインツを守ってください…って。
 石畳に響く足音が立ち止まった。歩み寄ってきた気配は通り過ぎることはなく、そこに佇んでいる。その人の気配で私は、宿の入り口に突っ立って星に祈っていることに気がついた。
 慌てて顔を上げ、手を前に組んで、『いらっしゃいませ』と声を掛けるつもりだった。
 私は傍に立ったその人を見上げて、目が飛び出す程に目を見開いた。赤い髪は少し伸びていてボサボサと縺れ、無精髭がだらし無く伸び放題だ。服は出かける前と全く違ったが、誰かが着古した感じのする布の服と外套。二振りの細身の剣が腰に下がっている。火の入った煙管は見慣れた物で、それをゆっくりと口元に運ぶと旨そうに喫煙していた。私を見下ろす瞳は、赤と碧。
 じわっと滲んだ視界でも、誰か分かる。
 ケネス様だ。
 私はつんのめるように、ケネス様の後ろを覗き込む。誰もいない。石畳と大通りへ続く誰もいない道だけ。私よりも少しだけ背の低い、小柄で幼い、でもしっかりした少女はそこにいない。どうして? アインツはどうしていないんですか? 口の中が干上がって、言葉が出ない。
「心配をかけたな」
 私の頭に大きな手が触れた。私の不安を思いやるように、ぽんぽんと軽く触れてくる。見上げると、ケネス様がふと見せる優しい眼差しがそこにあった。
 懐から取り出し差し出された真っ白い封筒には、差出人も宛先も何も書かれていなかった。それでもアインツが私に宛てたものなのだと、私は失礼ながらもその場で開けた。
『リッカ様へ』
 そう書き出された文字は、アインツの見慣れた文字だった。少しだけ丸くて、少しだけ癖がある。それでもバランスが良くて見易い文字が、真っ白い便箋いっぱいにあった。
 それだけで、生きているとわかって涙ぐんでしまう。
『荷物は宿へ届きましたでしょうか? 買い付けた荷物を宿に届けるまで契約を交わしたので、無事に届いていると思います。繁忙期にも関わらず戻ることが叶わず、リッカやルイーダさん、宿の皆様にご迷惑をかけてしまいました。申し訳ございません。』
 なんでそんな書き出しなの? 私はアインツが今どうしているのか知りたいのに。
『ドミールの騒動の後、私は故郷の恩人に再会することができました。大切な荷物を預かり、故郷に急ぎ届けなくてはならず、手紙を出すことも遅くなってしまいました。』
 本当に? 疑問が掠める。
 アインツは嘘を言うなんて事を考えることもしない子だから、嘘はここにはない。それでも、手紙を書く暇すら無かったのだろうか?
 商品を届けてくれたドミールの商人が言った、獣人達に連れ去られた可能性が脳裏を過ぎる。ケネス様も見た目は身綺麗になっているが、服が全て変わっている。獣人に連れ去られ、酷くて辛い環境にいたんだろうという不安が現実味を増した。
『大変勝手なことだとは分かっていますが、職を辞する事をお許しください。荷物は全て処分していただいて構いません。皆様のご多幸と、宿の益々の繁栄を祈っております。』
 どうして。愕然とする。
 どうして二度と戻ってこないなんて事を言うの? 故郷に帰って戻るのが遅くなったとしても、ケネス様と同じようにどうしてここに戻ってこないの? ねぇ、荷物くらい取りに来てよ。ここは、一緒に働いてきた宿は、私は、こんな手紙一枚で別れる程度だったの? そんなことを、アインツは望んでいるの?
 手紙を持つ手が震える先で、踵を返す足元が見えた。
「ケネス様。どちらへ向かわれるんですか?」
 本当に、貴方は何処へ行くんですか?
 ルイーダさんも皆、心配しているんですよ。顔を見せずに、何処へ行くんです? 身勝手だ。貴方もアインツも。体が震えるほどの怒りの感情に身を任せ、私は乱れた赤い髪が覆う後頭部を睨みつける。
「貴方が誰にも会わずに、今からどこへ行くのか。当ててみせましょうか?」
 この宿は貴方にとって家のような場所だと、ルイーダさんは言っていた。安い宿に泊まり続ける程度に仕事をして、喫煙して、のんびりと時間を過ごしていた。滞在履歴は常連の中で最も長いだろう。今では宿のスタッフの一員のように、頼まれごとを引き受けてくれる。面倒ごとは嫌いだと言いながらも、私達が争い事に巻き込まれそうな時は守ってくれて、どれほど心強かったかご存知無いのでしょうね。
 私達は宿と客という関係では、もう、ない。それなのに、その関係で終わらそうとしている。
 いま、ここで行かせたら二度と帰ってこない。そんな予感があった。
「アインツの所に戻るんでしょう?」
 ケネス様がゆっくりと振り返った。いつもの気怠げな顔で、煙管を離した口から煙を溜息と混ぜて吐き出す。
「なんで、そう思うんだ?」
「こんな心細い、全てを捨てる宣言のような手紙を書いたアインツを、貴方は独りにはしない」
 楽しそうに仕事をしていたアインツ。嬉しそうに皆とご飯を食べていたアインツ。ケネス様も賄いの食卓に引っ張ってきて、大きくなる宿の賑わいに喜びを感じていた日々。故郷よりも大事な場所だなんて自惚れは言わない。でも、この宿は、アインツにとって幸せな時間を過ごした場所だと私は確信を持って言う。私は、お客様も、スタッフも全てを幸せにしたいって思うから。
 これから、この宿に居られない事情が生まれるのは覚悟していた。
 だからって、この宿で過ごした縁すら捨ててしまうのは理解できない。こんな別れ方、とても納得できない。
 私の視線をまっすぐ見つめ返した赤と碧の瞳が、ゆっくりと閉じられる。煙管の煙を深々と吸い込んで、風下へ顔を向けて煙を吐いた。
「リッカちゃんは、聡いな」
「お願いです。アインツに、会わせて下さい」
 ケネス様は何も言わず歩きだした。翻る外套が闇に溶けてしまわぬ前に、私は宿の中に少し出かけてくると声を掛けランプを手に追いかける。セントシュタインの外へ続く大門を背に、どんどん入り組んだ市街地の奥へ進んでいく。人々の営みが漏れる明かりが徐々に少なくなり、人気を失い鬱蒼と草木の茂る廃屋が増えていく。
 大きな木下に座り込んでいた白い影が、こちらに気がついて さっと隠れた。
 アインツだ。すぐに分かった。
 白い影は頭から白い布を被っていたから。その背格好は、隠れる時に見えた身のこなしは、見慣れたアインツのものとぴたりと重なった。駆け寄ろうとした私に、木の影から覗く白い影がアインツの声で言う。
「ケネスさん。どうして、連れてきたんですか?」
 批難するような声をケネス様に向けると、続いた声は私に向けられていた。
「リッカ。お願いです。それ以上、近づかないでください」
 大丈夫と自信満々でしっかりしたアインツの声とは思えない、か細く震える声。どんな辛い目に遭ってきたのか想像するだけで胸が締め付けられる。白い影は言葉を続けた。
「私は貴女に今の姿を見られるのが怖いんです。貴女に拒絶されるのが、悲鳴をあげて怯えられるのが、私のことをアインツではないと否定されるのが、死ぬことより怖いのです」
「アインツ…」
 幸せな関係が壊れる恐怖。アインツが私達の縁を切ってでも守りたかったものは、私が想像するよりもずっと切実だった。
 ゆっくりと近づいて見えた白い影の全貌の輪郭は、驚くほどに歪だった。アインツの形のいい丸い頭が浮かび上がるはずの頭部は、二つほど歪な瘤が両脇にできている。背中にも妙な膨らみがあった。人ではない何か。アインツの日向のような匂いからは想像もつかない、生臭い匂いが鼻を突く。布から出て懇願するように組まれた手は、どす黒く変色していた。
「お願いです。ちか、近づかないで。見ない、で。おねがい。お願いですから…」
 アインツはじりじりと後ずさる。その背に木がぶつかり、逃げ場を失い震えている。
 布の上から肩に触れると、アインツの肩が跳ねた。そのまま、背に手を回して、撫で気味の肩に顎を乗せる。
 いつも体温が高いアインツとは思えぬくらい、冷え切っていた。布越しに感じる背中には硬く骨張った枝のようなものが突き破るように生えていて、布を張ったような妙な突っ張りが手のひらに感じられた。アインツの頭の横に生えているものは、硬い。アインツの柔らかい肌も妙に硬かった。
 布の中には人ではない形がある。
 でも、布の中にいるのは、確かにアインツなんだ。
 私は祈るように、アインツの耳元に囁いた。
「アインツ。私は帰ってくるのを、ずっと、ずっと待ってるから。お星様に『アインツが幸せになれますように』ってお祈りするから。だから、いつか、必ず皆に元気な姿を見せに来て」
 どれくらい抱きしめていただろう。私のお腹の上に組まれていた手がそっと解けて、壊物に触れるように背中に回った。全身でアインツが泣いているのを感じる。
「リッカ。私はもう、昔のアインツじゃないんです。故郷も捨てたんです」
 そうだね。アインツは泣いたりしなかった。誰よりもしっかりして、諦めなくて、大丈夫って乗り越えてしまう。でも、私は泣いているアインツの方が、しっかり者のアインツより身近に感じて好きだと思う。
 アインツが頭を私の肩に押し付ける。吐く息の熱が胸を温めた。
「リッカが私の無事を祈ってくれていたのが、嬉しかった。星々が、教えてくれていたんです。私が今もこうして生きていこうと思えるのは、貴女のお陰なんです」
 細波のように泣き啜る声が、歯を食いしばるような嗚咽になり突然弾けた。背に回ったアインツの手が、力を込めて私を抱きしめる。白い布が盛り上がると鼻先に飛び出したのは、御伽噺の絵本で見た竜の翼のようなもの。真っ黒で星のように光がキラキラと反射するそれは、腹の底がひやりとする恐ろしさと目が離せない美しさを秘めていた。それがアインツの慟哭に反応して痙攣するように震える。
「うぅ…! 今の自分の姿が、自分の心が憎い! 今の私が私である為に、帰れないなんて! なんで! なんで、こんなことに…! リッカ、悲しいです! 辛いよぉ! 寂しさが…止まらない!」
 腹の底から絞り出すような、苦しい泣き声がアインツから放たれる。それを全身で受け止めて悲しみに貫かれても、どうにもできない無力さに涙が溢れた。この小さい体のどこに収まっていたのかと思うほどの悲しみが、寂しさが、憎しみが、喉も裂けそうな悲痛な声となっていつまでも響いていた。

 どれくらい続いただろう。もう、夜が更けてきた頃合いに、アインツは泣き疲れて眠ってしまった。私にしがみ付くように寄りかかるアインツの両脇に、ケネス様が手を差し入れた。捲れただろう白い布をきちんと包み直して、片手に抱き上げる。
 ケネス様はアインツの姿を見ているのだろうと、ぼんやりと思う。アインツが踏み込ませなかった場所に、ケネス様は立っている。悔しいけれど、私にはケネス様の代わりになれないと分かっていた。
 ケネス様の目に移ろう、本来の赤とアインツの碧。それをじっと見つめて、私は頭を下げた。
「アインツを、お願いします」
 ふっと優しく目が細められると、手を差し出してくる。暖かい手に掴まって立ち上がると、ケネス様は足元に置いていたランプを渡してくる。日向のような優しい色合いの光が、私達を闇から浮かび上がらせていた。
「アインツのことは心配するな。俺は、アインツにとっての『誰か』らしいからな」
 しっかり者のアインツはケネス様と仲が良かった。一緒に買い出しの旅に同行していたからだろうけれど、年齢も性格も性別も何もかも違うのに相性が良いのねとルイーダさんが笑っていたっけ。アインツが頼れる存在が傍にいることが、自分でないのは寂しいけれど心強かった。
「俺達の帰る場所を守っていてくれ。それは、リッカちゃんにしか出来ない」
 私は目を見開いた。『俺達の』その言葉が、ケネス様が諦めていない事を物語っている。ケネス様が勇気づけるように微笑んだ。
「アインツも、俺も、必ず帰ってくる」
 欲しかった言葉に、私はただ頷いた。胸の奥から力が湧き上がってくる。二人が帰ってくるその日まで、私は私のできる事をする。そして、最高の笑顔でお出迎えをするんだ。
 宿まで送ろう。ケネス様の差し出してくださった手は、アインツの熱と同じ感じがした。