箱船に乗って

 地上に代わって雲が眼下に広がり、太陽や月を横に見るほどの天空。頭上に広がる濃紺色の空に、溢れんばかりの星と、オーロラのカーテンが翻る。この世界の頂きと思われる場所に、一本の大樹がある。大樹を、儂等は世界樹と呼んだ。大樹が根をはる大地は豊かな森を育み、湧き出ずる泉は大地の端から流れ落ちていく。それらは雲になり、雨となって大地を潤し世界を巡っていく。儂がこの世界に生を受けてから、何千年と変わらぬ世界。これからも、使命を達するまで変わることのない世界である筈だった。
「長老。お体に障りますよ」
 背後からの労りの声は、そのまま柔らかなブランケットになって肩に掛かった。世界樹の根元は風が強い。若き天使であっても長居をする場所ではなかったからだ。儂が杖を頼りに振り返れば、この世界の全てを記載する司書天使であるラフェットがそこにいた。
 ラフェットは昼と夜の合間に現れる美しい菫色の髪を風に流し、星々の光を曙のような艶に変えていく。この天使界の奥にある大図書館では浮き上がる程に白い肌は、この夜に接吻しそうな空の下では光ってさえ見えた。純白の羽がやつれて見えるのは、彼女が日々祈りの祭壇に赴いているからであろう。
「ありがとう、ラフェット。じゃが、今日は星が騒いでおっての、とても中でゆっくりなどしておられぬ」
 星が。儂の言葉にラフェットが天を仰いだ。天を覆い尽くすほどに広がった世界樹の枝や葉の合間から輝く星に、変わりはないであろう。星の騒めきを耳に出来る者は天使でも多くはない。天に近き天使界でも気のせいと取れる囁き、地上に降り立てばとても聞こえるものではない。
 騒めきは大きな変化の兆し。最近ようやく落ち着いてきた声が、数日前から大きくなってきた。もはや、世界樹の木の葉が擦れる音をも凌駕する程になれば、今度はどんな厄災が起こるのか不安で仕方がなくなる。
 儂の不安を感じ取ったのじゃろう。表情が曇ったラフェットの手を、儂はそっと握った。互いに氷のように冷え切っておる。
「まるで、エルギオスが行方不明になった時のようだと、お主なら察しておるのじゃろう」
 天使界の大図書館には、天使が神から使命を授かった頃からの歴史が記されている。ラフェットは今代の加筆の担い手であり、この天使界の誰よりも地上に歴史に精通している。
 大天使エルギオス。天使界では『エルギオスの悲劇』と知られる、天使界に帰って来なかった天使である。
 なぜ、天使界に帰って来れなかったのか。ここまで理解している天使は片手で数えるほどしかいないし、愛弟子であったイザヤールでさえ理由に辿り着けなかった。その何故に天使達がたどり着けなかったのか。それは、天使達を原因から遠ざける策が、功を奏したからじゃった。
「恨むかね? エルギオスを犠牲にした儂を。地上に落ちた皆を見殺しにする儂を」
 エルギオスが帰って来なかった理由を、儂は知っておった。
 地上は戦乱の只中であった。いくつかの国が滅び、いくつもの国と民が一つの帝国に脅かされていた。帝国は地上の全てに野火のように戦乱を広め、混乱の合間に最悪の選択がいくつか選ばれた。ある国は自国を守る為に他国を差し出し、数多くの村が選択の結果滅んだ。この時、守護天使は避難を命じて天使界に留まらせた為、地上には天使はいなかった。だが、居たとしてもなんら結果は変わらない。
 儂の命に逆らえたのは、大天使エルギオスだけじゃった。
 エルギオスは戦火に巻き込まれた。冒険の書を管理する妖精に、彼がどうなったのか問いかけた時、妖精はこう答えた。『エルギオスの本は閲覧する事はできませぬ。あまりにも邪悪で、触れるだけで呪われてしまう』と。司書であるラフェットは、エルギオスの本がどんな有様になっているか儂よりも知っているだろう。
 ラフェットは小さく首を横に振った。
「誰が、長老を責められましょう」
 エルギオスの悲劇の犠牲者は、エルギオス唯一人だった。
 だが、今回は多くの天使が地上に落ちた。巨大な光が天使界の真横を貫き、衝撃波が世界樹と世界樹が根付いた強固な礎を急流に揉まれる木の葉のように揺らした。屋外に居た殆どの天使が揺れに足元を掬われ、衝撃波に吹き飛ばされて落下した。屋内に居て吹き飛ばされなかったとしても、身体中を打ち付け無事と言える者はいなかっただろう。
 儂が地上に降りてはならぬ事を命じる前に、落ちた仲間を助けに多くの天使が地上に降りていった。わかっている。仲間を救いたいという気持ちは痛いほどに理解している。しかも地上は不気味な静けさを保っている。何故、助けに行ってはいけないのか、疑問の声が上がっているのも耳に届いていた。
 だが、誰も戻って来ない。魔物に遅れを取るはずのない歴戦の強者、守護天使として経験豊富な者、素早さに秀でた者、様々な者が地上に落ちたというのに、誰一人未だに戻って来ない。異常なのだ。地上では何かが起きている。今、新たに捜索に天使を向かわせて、戻ってくる保証は何処にもない。
 どうすれば良いのか。選択せねばならぬ時が迫っている。
 エルギオスの悲劇が起きた時は、原因となった帝国が一夜にして滅んだからであった。まさに晴天の霹靂というべき出来事だった。何故かは知らぬが、帝国が滅んだ事で、地上は瞬く間に平穏を取り戻した。だから直ぐ様、天使としての使命を再開することができた。
 だが、今回は違う。多くの天使が地上に落ちてから随分と時が経ったが、誰一人戻って来ない。偵察に誰かを地上に送るにも、見た目は大きな騒乱が見えないことが罠に思えた。儂の判断で犠牲者を増やさぬ事は容易い。だが、星のオーラを集める責務を放棄する事はあってはならない。いずれ、地上に天使を向かわせ人々の感謝の心を集めねばならぬのだ。
 神よ。儂は祈る。祈って何かが動く訳ではないのだが、天使を創り賜うた存在が手を差し伸べてくれるのではないのかという期待がある。女神の果実が実り、天の箱舟がやってきたあの日、我ら天使は神の国へ還るはずだったのだ。あの日の続きが祈ることで起きないか、手前勝手な妄想であれ縋ってしまうのだ。
 落ちて行方知れずになった天使を探したい、そんな者の願いを手折り。
 戻って来ない天使を探しに行って、自分も帰れないかも知れぬ不安を肯定する。
 そして、目の前から居なくなってしまった者達を諦めて、天へ還ることを願う。
 そんな弱い儂を、誰もが責めずにいる。
 情けなかった。この苦しい心の臓を抉り出し事切れてしまえばどれだけ楽であろうかと、世界樹を見上げて想像する内容は日に日に濃くなっていく。深く粘りつくような停滞感は、己の胸を掻っ捌かずとも自らを窒息させるほどの現実感を得始めている。
 すまない。ラフェット。
 そう、乾いた喉から言葉が紡がれようとした時、耳に吹き付ける強風の合間に不思議な音が滑り込んだ。
 儂は見上げた。昼も夜もなく濃紺色の濃い空に浮かんだ星々は、瞬いては光を放っている。世界樹の葉が風にざわざわと音を立て、足元の草花が風に摘まれ引っ張られていく様は何も変わらない。石畳の上に転がる小石一つ、不動のままにそこにいる。ラフェットも儂の前で不思議そうに目を瞬いた。
 くる。
 星が言う。
 来るよ。
 瞬きが言葉となって降り注ぐ。まるで光の雨粒のように、世界樹の葉の上を転がり、地面の草花に触れて土に染み込む。言葉を聞いた者達が、喜びを表した。来る。来る。緑は日差しを受けたような鮮やかな色に染まり、水を吸い込んだかのように瑞々しく葉先までぴんと立つ。
 音が、爆発した。
 それは汽笛の音。星屑は音によって、鯨の潮吹きのようにあらゆる色を黄金に変えていった。世界樹の周りを旋回するように突如現れた天の箱舟は、確かにあの日、女神の果実が世界樹に実った喜ばしき日に訪れたものと寸分違いない姿だった。満月の滑らかな光を黄金に流し込んだような、見事なる飾り細工。この世の全ての色を白の上に漂わせる壁面。オーロラで出来たであろう窓。車輪が掻く空間は七色に移ろう透明な欠片が散って、彗星の尾のような奇跡を空に刻んでいる。
「オムイ様…!あれは!」
 ぎゅっと衣を掴んでくる手を、儂も強く握っておった。眼が大きく開かれて、瞬きも忘れて乾いていく。
 わかっている。ラフェット。あれは…あれは…
「天の箱舟…!」
 天の箱舟は天使界の上部に広がる根の端に、着水する白鳥のように止まった。蒸気が吐き出される音がゆっくりと消えていくと、風や木の葉が擦れる音が一気に押し寄せてくる。その音を弾くように、強く、息苦しいほどの自身の心の臓が鼓動を繰り返す。
 がこんと、音を一つ立て、扉らしき場所が開いた。発光するかのような眩い箱舟に、ぽっかりと黒い穴が開く。その黒い空間にゆらりと白いものが浮かんだ。それは黒から現れ、世界樹の根付く大地に降り立った。すると白い影は大地に伏せるように屈むと、再び箱舟の中の闇に引き返していく。
 ラフェットが体を硬くしたのが、触れた部分からわかった。彼女は弾かれるように駆け出す。
「ラフェット! どうしたのじゃ!」
 若き天使の翼は瞬く間に大地の箱舟の傍に向かっていく。そうして彼女の叫んだ言葉が、今はここに居ない天使の名であることに気がついた。
 生まれてこのかた、この体。ラフェットのように軽々と宙を舞う事もできず、地上を行く人のように重く鈍い。しかし、天から降り注ぐ光が語る。おかえり。おかえり。よく、帰ってきた。この箱舟に乗る者達を歓迎する声は、まるで待ちに待った祝福のように先を儂の前に示す。
 箱舟の白い影は、儂が傍に辿り着く頃には三度往復した。そして天の箱舟は光の粒になって、まるで存在しないかのように霧散していった。だが、消えた天の箱舟の事など、構ってはいられぬ事態があったのだ。
 大地に横たわるのは三人の天使達。天の箱舟に気がついて集まってきた者達は、次々と帰ってきた者達の名を呼んで駆け寄った。大地に落ちてしまった者、または咄嗟に落ちた者を救おうと地上に降りて行った天使の内の三人じゃった。
 だが、その容体は命に別状はなくとも深刻であることは間違いなかった。天使の輪の光は弱く、翼は艶を失いボロボロになっている。顔色は青ざめ、息をしているのか分からぬ。今すぐにでも世界樹の葉を伝いし雫にて癒してやらねばならぬほどに、憔悴しきっておる。
「三人を連れて、今直ぐに治療を始めよ!」
 集まった天使達は儂の言葉に弾かれたように動き出した。治療を施すために三人は連れて行かれた。
 数人の屈強な天使が、武器を片手に力弱き天使を下がらせた。儂とラフェット前に立ち、箱舟が残した残滓の中で佇む白い影を油断なく見つめる。白い影は白い布を頭からすっぽりと被った、小柄な何かだった。布は幾重にも重ねられていて、布の中身が誰なのかは一切わからない。ただ布の隙間から、まだ幼さを感じさせるほどの細い足首と足が見え隠れする。
 不思議な気配だった。人ではない。だが、天使でもない。魔物でもない。不思議な、しかし抗いがたい気配がした。
「貴様は何者だ!」
「返答次第では、容赦はせぬ!」
 荒事が得意な天使が各々に武器を抜きはなち、白い影に向けた。白い影は向けられた切っ先に動じず、体を覆う布の下から大人でも一抱えあろう布の包みを取り出した。それを差し出すように捧げ持ち、一歩前へ出る。
「動くな! それ以上、寄れば切る!」
 白い影は、さらに一歩踏みだした。忠告を無視したと判断した天使が、威嚇のつもりか長剣を一閃した。それは小柄な何かが外套のように着こなす布には届かなかったが、捧げ持った包みを切り裂いた。
 白は一瞬にして黄金に変わった。布の中から転がり落ちたのは、黄金に輝く果実達だった。あの日、世界樹がたわわに実らせ、地上に落ちて行った女神の果実だった。天使達が驚き、口々に女神の果実だと口走った。
「もう、行くのかね? アインツ」
 天使達の驚く間に、空に駆け込もうとした白に儂は行った。女神の果実に驚いていた天使達も、儂の言葉に衝撃を受けたようであった。『アインツ?』『確か、イザヤールの弟子の…』そんな囁きを掻き分け、儂は地と空の境の際まで進んだ。白い布は、手を伸ばせば触れられる所にまだ止まっていた。
「私はここにいる資格が、ありませんので」
 懐かしい声じゃった。そう、確かにアインツの声であった。毎回毎回、両手一杯に星のオーラを溜め込んで、皆が心配するほどに地上に留まっていたイザヤールの弟子。その穏やかな幼さの残る声色を聞くだけで、その姿形を鮮明に思い出す事ができた。
「アインツ! どうして! 彼らは貴女が助けたのでしょう? 恩人である貴女が留まれないなんて、あり得ない!」
 ラフェットの声が鋭く響いた。ラフェットはイザヤールと同じ頃に生を受けた天使だ。エルギオスの悲劇を、エルギオスの弟子あった者達の悲しみを、間近に感じていた一人だ。だからこそ、このままでは二度と戻れないのではという危惧が、誰よりも強かったのかもしれない。
「いいえ。もう、そうではないのです」
 振り返った白い布の前が大きく開いた。白い布の内側にあった闇の中から、小さく細い両手が現れる。
 儂は息を飲んだ。アインツの色白かった肌は、まるで苔生したかのように、黒に変じていた。まるで魔物でも竜や悪魔のような異質な存在が、本来のアインツが持っている白い肌を侵食していた。
「私は天使失格です。私は守護すべき人を殺したいと願ったが故に、もともと失っていた天使の輪や羽だけではなく、人としての形をも失いつつあります。この布の内側は、貴方がたが想像する以上のおぞましき姿があるのです」
 言葉が出ない。一体、どんな恐ろしい事が地上で起きているのか、想像していた映像が音を立てて崩れ落ちてく。帰ってこれた三人はただ幸運なだけだった。残りの者達は全員、もう戻っては来れないのだろうと冷静な己の声を聞いた。
「アインツよ…」
 乾いた喉を唾で潤しても、掠れた声しか出なかった。震える皺だらけの儂の手が、アインツの異形となった指先に触れた。驚くほど冷たく硬い手は、儂が触れた事で強張ったが闇に逃げることはなかった。
「それでも、儂は天使界の長としてお主に礼を言わねばならぬ。地上に落ちた仲間を助けてくれて、ありがとう。よく、生きて、戻ってきてくれた。アインツ…」
「勿体無い、お言葉です。長老様」
 アインツは小さく首を垂れた。布の膨らみは彼女の丸い頭からは想像できない異様な凹凸があった。
「地上は、じきに大きな騒乱が起きる事でしょう。天使達を見る者達に見つかったらどうなるかは、戻ってきた三人の方が私よりも詳しいはずです。とても恐ろしい目にあったはず。語るまで辛抱強く待ってあげてください」
「アインツ」
 儂はアインツの手を握った。
「本当に行くのかね?」
 光が弾けて言葉に変わる。女神の果実を食べれば、願いが叶う。アインツの姿は元に戻り、ここに留まる事ができよう。この子が自ら言った、地獄になろう地上に戻らなくても良くなるのだ。騒乱が鎮まるまでの月日など、天使たる我々には短い歳月でしかない。
 アインツもまた、星々の囁きを聞き取る事ができているのだろう。ふと、足元に視線を落とし、儂を見たようじゃった。
 長老様。アインツが強く儂の手を握り返した。
「私はこの姿になってでも、したい事がある。地上の人々を、私は守りたいのです」
 儂は繋いだ手の先に、光があるように見えた。神は天使を作った理由がなんであったのか、それを知る手立ては星の声を聞くしかない。ある星は言う。神に人の善行さを知らせる為。ある星は言う。神が世界樹に眠るものを起こす為。
 だが、理由はなんであれ、我々は人を守り、人の善行を見守らねばならない。
 天使は、いつから人間が星のオーラを生み出すだけの存在としか見なくなったのだろう?
 アインツの言葉の最後は、儂の命に唯一背く事ができた天使の声が重なっていた。
「さようなら。お達者で…!」
 アインツは手を解くと、空へ飛び出した! 雲に呑まれる刹那、白い布の下から黒い竜の翼が出てきたのを見れたのは、アインツの前にいた儂だけであっただろう。
 儂は世界樹を見上げ、神に祈った。人を慈しみ、苦しい時こそ側に寄り添う真なる天使に、どうかご加護を…と。
 そう純粋に祈っていられたのは、儂が、天使達が、何も知らなかったからである。

 三人が目覚め、悲劇が終わっていなかったことを知るのは、彼女の言う通りずっと先のことである。