渦巻く欲望

 あぁ、早く殺さなくては。
 私の気持ちは焦る一方でした。
 牢獄で多くの人の命が散るのを見てきましたが、それらはこの果てない苦しいから解き放たれる安堵の笑みを浮かべて亡くなるのでした。濃い黒い霧となって満たされた毒の沼の瘴気が身体を蝕み、日の登る事のない厚く垂れ込めた雲に陰鬱になる気持ち、希望を尽く折る仕打ちの数々、絶望の余り死に希望を見出してしまう事は胸が張り裂ける程に辛い事でした。でも、死に顔が穏やかである事だけが幸いだったのです。
 ケネスさんはやや暴力的でしたけど、それを弱者に向ける事はありませんでした。処刑台を壊した回数は数知れず、兵士に重傷を負わせた回数ももう数えたりしません。でも、ケネスさんがいれば、人々に襲いかかる不条理は少しはマシなものだったのです。
 あぁ、だけれど。
 瞼を閉じれば浮かぶのは、弱々しい天使の輪の光。繭に絡み取られた天使達の羽すら揺らす事の出来ない呼吸、力を奪われ破壊の限りに費やされて行く事を、悪夢のように突きつけられる苦しみ。繭を引き千切った時、私は自分でも経験した事のない怒りを感じたのです。それはきっと囚われた天使達を見たからではないのです。
 積もり積もった怒りは、まるで火山の噴火のようでした。一度火口が見えてしまえば、そこから溶岩は絶え間なく熱気で空を炙り、少しの衝撃で山を揺らし破壊をまき散らす。私はガナン帝国に居るガナサダイへの殺意を抑える事はしませんでしたが、帝国に居座る欲深き人間達にも強い怒りと殺意を持ってしまったのです。
 私は強く身を抑える。
 身を清め清潔な服を与えられた私は、久々に鏡の前に立って言葉を失ったのです。
 私の頭から、羊の角のようなものが生えていたのです。取ろうとしたら凄く痛くて出来ませんでした。手を洗う事も許されなかった汚れ切った身体は、黒々とした染みのように染まっていました。どんなに洗っても落ちない。傷になった所が治癒しても、その染みは一切落ちなかったのです。角は大きく、染みは広がり、背中は何かが生えてきそうな気配がします。
 怖い。怖いんです。
 もうセントシュタインのリッカ達が居る宿屋に、戻る事も許されないのかもしれない。あの人々の幸せがある空間に、私は居てはいけない。どうしてなんでしょう。私は元々、天使なんです。天使が人々のいる大地で生活なんて出来る訳がないんです。リッカの宿屋が私の居場所になるなんて、有り得ない話なのです。私は…私達天使は、人々の感謝の心を世界樹に捧げて女神の果実を生み出し、天に還らなくてはならない定めじゃないですか。私達はそれを望み、そうなる為に生きて来たんじゃないですか。なのに。なのに。どうして人の世界に帰れない事が怖いんです? 自分の身体の異変を見ると、リッカの悲鳴が、皆の拒絶が、身体を切り裂いて私の全てが壊れる程の恐怖になって襲いかかるのです。
「ケネスさん…」
 ガナサダイを殺す事も出来ない。
 ガナサダイ以外の存在への殺意も抑えられない。
 身体は異形の形になるばかり。
 不安と恐怖で狂ってしまいそう。
 私はいつの間にか涙で歪んだ視界の中で、置いて来てしまった赤い髪を探したんです。
「私、オカシイですよね? 変ですよね? どうしたら良いんです? わたし、どうしちゃったんですか?」
 あぁ、ケネスさん。煙管を片手に私に言って下さいよ。『お前は質問ばっかりだ』そして答えを下さい。貴方ならなんて答えてくれるんでしょう?
 『…な…い』
 私は顔を上げました。声が聞こえが気がして、耳を澄まします。
 『こ……へ…なさ…』
 それは声ではありませんでした。肌に当たる風のように、自然で聞き逃してしまうような囁き。その言葉は男性が紡いでいて、天使のような天使ではないような、とても強い力を持っている者が発しているのだと分かりました。声はずっと下から響いて来るようでした。
 この帝国の城は不思議な事に、真ん中を下から上へ大きな大きな穴が貫いているのです。直径はサンマロウの帆船が丸々入ってしまいそうな大きさで、深さは底が見えません。時折瓦礫が崩れて闇に吸い込まれて行くのですが、地面に激突するような派手な音は一切聞こえないのです。私は穴の傍に歩み寄り、闇を覗き込みました。
 『来なさい』
 言葉がはっきりと聞こえました。
 吹き上がる風は瘴気が満ちて吐き気がする程でしたが、ガスで温められず冷えきった空気は多少マシに感じました。
 私はごくりと息を呑み、その穴に飛び込みました!
 下から上に次々と突き抜ける空気と、視界を駆け抜ける世界。城の瓦礫はあっと言う間に過ぎ去り、洞窟の不思議な苔と水の臭い、傍らを澄んだ滝が流れ、生い茂る草木に身体を叩かれながら只管に落ちて行く。あぁ、この先は湖なのか、それとも堅い地面なんだろうか、そう思った瞬間でした。闇の中に淡い金色の星が見えたんです。
 瞬く間に星は大きくなり、それが人の頭だとおもった時には
「に、逃げて下さい!」
 叫んで目を閉じた瞬間、ふわりと力に包まれたのです。それはとても優しい力。落下の勢いがまるで羽ばたいた時の浮力のようじ感じた次の瞬間には、誰かが私を受け留めて下さいました。
 誰だかも確認せず、私は受け止めて下さった腕から逃げるように転がり落ちたのです。
「ご、ごめんなさい! 軽率な事をして、とんだお手数を…!」
 なんて恥ずかしい、後先考えない行動だったんでしょう!転がり落ちた先は水で、あっという間にびっしょりです!私は顔から火が出る思いでした。ぶんぶんと手を振って、ぺこぺこと頭を下げる私に、気配は気分を害した様子も無くそこに佇んでいます。
 恐る恐る目を開けると、先ず飛び込んで来たのは薄らと笑みの形を作る唇の形でした。そして優しく細められた赤い瞳、さらさらと落ちる星と見違えた淡い金髪は足下にまで伸びていました。何重にも絡まって巨大な大蛇のような鎖の上に、その人は腰をかけていました。くすくすと笑う彼の背後に、何かが揺れますがよく見えません。
 余りの驚きに目を丸くしている私に、その人は優しい声で言いました。
「はじめまして、アインツ。私の名はエルギオスだ」
 エルギオス。
 その名を知らぬ天使は恐らく居ないでしょう。エルギオスの悲劇、その悲劇の名前を冠する事になった偉大なる上級天使の名前なのです。大天使のローブの鮮やかな青の似合う金色の髪、整った美しい容姿。言動は慈愛に満ち、その対象は人にまで及んだと聞きます。しかし、人間の世界は戦争のただ中。エルギオス様は守護天使の任務を全うする傍ら、その争いに巻き込まれ行方知れずになったのです。
 その悲劇を教訓に、守護天使の任務を与えられる天使の長期の地上の滞在は認められなくなりました。
 未だに天使界へ帰還されない上級天使、エルギオス様。その悲劇を刻み込んだ石碑には花が絶えず、いつしか落ちた種が花畑を作りました。お師匠様が、ラフェット様が、オムイ様が、エルギオス様を無事を信じる天使達が祈る姿を見ない日はありません。
 エルギオスと名乗った天使が目の前に居る。
 この地上で最も欲望と絶望に塗れた、地獄の底のような場所に囚われている。何故と疑問すら浮かばず、ぽかんと私はエルギオスと名乗った天使を見上げたのです。
「エルギオス…さま?」
「弟子のイザヤールから聞いている、優秀な天使だと…」
 青白い骨のような腕がじゃらりと鎖の裾を引いて私の頭に手を置く。愛おし気に細められた赤い瞳が、優しい口元と良く似合う。
 私は思わず顔が熱くなるのです。だって、お師匠様が私の事を『優秀』と言って下さった事が、今まであったでしょうか? あの方が褒めるなんて、ケネスさんが煙草をやめる事と同じくらい稀な事なんです。でも、でも、お師匠様のお師匠様に嘘なんてきっと言う訳が無いのです。
「ふむ。君は確かに強い力を持つ天使だ」
 エルギオス様の喜びに満ちた賞賛に、身体が熱くなる。身体を浸した水が沸騰し、湯気を上げる。
「アインツ、天使とは何かね?」
「天使とは人々を助け、守る存在です」
 私の解答に、お師匠様そっくりの生真面目な顔で頷くのです。
「模範的な解答だ。では、今の我々は何だね? 頭部から角を生やし、翼はドラゴンのようだろ?」
 そう鎖の大蛇が動き出す。小さいものなら犬を繋ぎ止める程に細く、太いものなら私の胴回りと変わらない太さの鎖が、まるで生き物のように動き出したのです。立ち上がったエルギオス様は、己の身体を私に見せるように両腕を広げたのです。四肢は痩せ衰え、肋骨は浮き彫りになり、手は骨に薄皮を貼付けたよう。それなのに爪は鋭い剣のように長く尖り、角は禍々しい漆黒に滑り金髪の隙間から生えている。肌は青白く、鎖に傷ついた四肢から溢れた血液はまるで竜の鱗のように身体を覆っている。エルギオス様の背後から広がった翼は、私の知っている純白の大鳥のようなものでは無かった。翼は殆どが抜け落ち、骨格と膜が覆うその様は竜のようだった。
 エルギオス様は私を指差して言ったのです。
「我々は悪魔だよ、アインツ。悪魔は人々を殺し、殺める存在だ」
 思わず目眩がして後ずさる。
「わ、私は確かにガナサダイを憎いと思います。だって、何の罪も咎めの無い人達を苦しめ死に追いやり、世界を混乱に導こうとしているのです。彼は生かすべきではありません。でも…」
 何を弁明しているんでしょう。
 誰かを殺したいと思った時点で、私が守護天使と名乗れる資格が何処にあるんでしょう。守護天使は人を守り、魔物を退ける存在なのです。守るべき人を殺したいなんて、自分自身が己を否定していると同じなのです。私の内心を見透かすように、エルギオス様は微笑みました。
「そうだね。君は特定の人間を殺めたいと願い堕天使になった。まだ天使の本質を失い、悪魔になる程ではないのだろう」
「天使は人を護る者。私が天使を名乗る事はもう…」
「君は多くの人を守る為に、一つの犠牲が必要と考えている。君は恐らく私が知る限り、最高の天使だろう」
 エルギオス様は断言しました。それは、私が想像もつかない経験から来るのだろう、力強い断言でした。
「私は君を打ち倒し、この世界の全ての人間を殺す」
 なんで…。口だけがそう動いたのです。
「君ならば出来るだろう。人を守る為に、このエルギオスに逆らい打倒する事が出来る唯一の天使が君だ」
 私は驚いて声を失いました。
 エルギオス様は天使界の歴史で最高と謳われた上級天使であるとされました。オムイ様やお師匠様を始めとした様々な上級天使でさえ、逆らう事の出来ない。そんな天使に、守護天使を師匠から引き継いだばかりの私が逆らうなんて事が出来るんですか?
 否定は頭をもたげる。
 でも。
 エルギオス様の宣言を実行させてはいけない。
 こんな凄い天使が、出来るって言ったんです。大丈夫。私はきっと、大丈夫なんです。
「一つ、お伺いしても宜しいですか?」
 私は慈悲深い視線を向けて来るエルギオス様を、真っ直ぐ見つめ返したのです。
「なぜ、そこまで人を憎むようになったのです? 師匠のイザヤール様からは、人に対して慈愛を持って接する天使の鑑であったと聞いています」
 エルギオス様は笑いました。それは先程までの暖かさなど欠片もない、冷たく歪んだ口元から漏れる乾いた笑いだったのです。
「説明は不毛極まり無い。時間の無駄だ」
 突如頭上が騒がしくなる。
 呪文が炸裂する音が洞窟を反響し、我が物顔で揺さぶり尽くす。瓦礫が降り注ぎ、巨大な岩が落下して砕け派手な水飛沫が上がる。いや、それは岩じゃないです。
「アインツ!」
 岩だと思った大柄な人影から距離置いて、私の横に飛び退いて来たのはケネスさんでした。煤だらけの身体、焦げ臭い煙を纏わり付かせ、服が焦げてます! 全く、火の始末だけはしっかりして下さいって言ってるじゃないですか!
 でも! 嬉しい! 私はケネスさんの気持ちも考えずに抱きつきました。
「ケネスさん!」
「彼が君の武器だよ。君が力を注ぎ込んで生まれた、天使の力を持つ人間だ」
 エルギオス様の声に、ケネスさんが面倒そうに目を細める。その瞳の色は、ケネスさん本来の赤と私の碧に揺らめいている。
「そして互いの利害が一致し、私の最高傑作となったガナサダイだ」
「かかって来るが良い、ネズミ共よ…!帝国ガナンの皇帝が威光、その身に刻んでくれようぞ…!」
 その巨体に私は全身が泡立つ思いがしました。どんなに不意を突いても打倒出来なかった手合いでしたが、ケネスさんがいるならきっと勝てる。私が殺意に神経を尖らせたその時でした。ケネスさんはそんな私の髪をそっと撫でてくれました。角に手が当たっても、ケネスさんが驚きに強張る事もありません。
 見上げれば、にやりと不敵な笑みを浮かべたケネスさんが、嬉しそうに言ったのです。
「無事で良かった」
 巻き込んでしまった申し訳なさよりも、こんな強大な敵と戦わねばならない恐怖よりも、ただ、ケネスさんがいつも通り頭を撫でて私の無事を喜んでくれたのが嬉しかったのです。私を支配していた恐怖と狂気が、彼の行動一つで溶けてしまったのが分かりました。
 これから始まる戦いが、私達を殺さんとする暴力の応酬である事は分かっています。生き残れるかも分からない。でも、言うべき言葉はただ一つ。
「ケネスさん、ありがとう」
 今までの全ての中で、一番嬉しい瞬間だから私は笑った。