おかめさんのアレフレッドさん+アレフ 傭兵アレフのローレシア滞在記


■ ミトラ教の追撃者 ■

 あー、地下牢ってこんなにも快適だったんだな。正直、城の客間よりも全然涼しくて、水場が近いからかひんやりして調子が良い。ふかふかの布団で寝るのはたまにだから良いのであって、普段はこのような石畳の方が野営と変わらない感じで身体が休まった。
 しっかし、アレフレッドの奴、本気で殴りやがった。久々に気絶したぜ。
 まぁ、仕方がない。妻に刃を当ててる者に手加減など、俺だって出来ん。
 俺は瘤になった後頭部を柔らかい髪の上から撫でながら、受け身無しで倒れた事で全身を貫いて残る痛みにやれやれと溜息をついた。地下牢に放り込んだのだから荷物も全て没収されたかと思ったが、荷物も剣も鎧も全て手元に置かれていた。しかも鉄格子は施錠されておらず、御飯もまかない飯なんだろうが全然美味しい上に暖かい物が頂ける。
 俺は湧き水なのだろう地下水を汲み上げて、すり潰した薬草を溶かし布に浸して簡易的な湿布を作り後頭部に載っけた。ローレシアの地図を眺めていると、地図にぽつぽつと湿布から垂れた水が落ちる。
 昨日は最悪の日だった。
 俺は重い重い溜息を吐いた。頭の痛さは殴られた痛みと、最悪だった昨日の事と、最悪の状況の今からこれから何を最善として選ぶべきか難題だ。
 昨日俺を捕らえようとする兵士に、俺が遅れをとる事は先ず有り得ない。何故なら、兵士は一対一で訓練するが、俺は一対多という条件で魔物と渡り合う傭兵だ。連携が取り難い細道や建物の高低差を利用し、俺は町中を逃げ回った。逃げる経路にも兵士が配置され、策士の手腕は大したものだと思ったが、数で圧して屈する俺じゃない。ローレシア城下を逃げ回る事は、大して大変な事ではなかった。
 一番問題だったのは、城下が混乱した事で仕事が難しくなった事だ。
 目星をつけていた場所、密航者を斡旋する業者や密輸商人が常連にいる酒場、やや治安の悪い後ろ暗い者も利用出来る格安の宿、それらもこの騒ぎで動いてしまった事だろう。
 あぁ、即座に城壁の外まで逃げて森にでも潜んでいれば良かった。
 後悔先に立たず。俺は痛い頭を腕で支えながら、再び息を吐いた。
 ふと、地下牢の雰囲気がざわつく。兵士達が緊張を露にし、上にあるだろう見張りの詰め所が騒がしくなる。誰が来るのか、察しをつけるまでもなかった。きぃと音を立てて鉄格子が開いた。
 顔を上げると、そこにはローレシア国王が立っている。左腕の包帯はとれ、豪奢な身なりはアレフレッドらしいピンと伸びた背筋に良く似合っている。冴え冴えとした美しい目に、親し気な感情は無い。半歩後ろにはアレフレッドの妻ローラが控えていた。やや暗めの色彩のドレスなのは、先日殉死した家族を慮っての事だろう。心配そうに下がった眉、伏せられた瞳は金色の睫毛で覆われている。
「アレフ、君とはきちんと話をしなくてはいけない」
「どーぞ、お好きなように」
 アレフレッドの硬い声に、俺は投げ遣りに答えた。精神を逆なでしようと不真面目に答えたが、アレフレッドは動じない。
「君は何故、俺を襲った襲撃者に接触しようとしている? 君の言う『急ぎの仕事』とは何なんだ?」
 やはり俺が襲撃者に接触しようとしているのは、把握しているのか。大したものである。
 俺が襲撃者の仲間と疑われる。それも、アレフレッドを狙う最大の好条件を前に、城を出てしまった事で否定出来る筈だ。
 だが、妃は俺を捕まえて牢屋に放り込む事を選んだ。疑わしき芽は摘み取るに限る。
 それでもアレフレッドに付けられる護衛としては、現時点で俺は打ってつけの人材だろう。兵士達よりも強く、経験も豊富、アレフレッドの友人で気心も知れている。しかし、疑わしき者を護衛として扱う事は出来ぬ。妥当な判断だ。捕縛して徹底的に洗い出し、疑いを払拭して護衛に据えたいと思っているのかもしれん。
「これは守秘義務が求められてる仕事でな、国王様にだって漏らす訳にはいかねぇのよ」
 残念だが、仕事が優先だ。アレフレッドの護衛を引き受ける訳にはいかないし、仕事の内容は内密を求められている。俺が情報を漏らせば、友人の立場が悪くなる。手紙を出すのでさえ危険な行為だ。
 俺もアレフレッドも一歩も譲ろうとしない、張りつめたまま凍り付いた空気。地下牢の湧き水が流れる音が、冷え冷えとした空気の中で遠くまで音を響かせた。
 そんな空気を打ち破ったのは、アレフレッドの妻ローラだった。
「アレフ様、私は貴方にアレフレッド様の身辺を護衛して頂きたいと希望しています。先日の襲撃者は、再びアレフレッド様を狙う事でしょう。貴方の力が必要なのです」
「…再び?」
 俺は思わず口走りってしまった。思わずしまったと表情に出そうになった感情を、慌てて飲み下し平静を装う。俺が根が自分でも馬鹿馬鹿しい程にお人好しであると知っているこの夫婦には、次の襲撃の情報に心配するお人好しにでも見えてくれればいいのだが。
 俺の内心を知ってか知らずか、ローラは胸中を吐きだすように切々と訴えた。
「襲撃者はアレフレッド様を『主神の名を汚す、呪われし者の末裔』と言い、殺意を滲ませました。襲撃者が再びアレフレッド様のお命を狙おうとするのは想像に容易いと思いませんか?」
 驚いた。俺が駆けつける前に、そんな重要な情報が披露されていたなんてな。
 やはり、あの男は無作為に人を殺めている訳ではなかったのだ。今まで全く脈絡も関連性もなかった殺人だが、俺達が見えていないだけで何らかの目的があるのだろう。
「アレフ」
 考え込んでいた俺の顔を覗き込む様に、アレフレッドが俺を見た。
「君は何を知っているんだ?」
 俺はアレフレッドの瞳をちらりと見遣り、目を逸らす。
 アレフレッドの護衛をしていれば、あの男に再び遭遇出来る可能性は魅力的な確率だ。無闇にローレシア領内に潜伏している可能性を模索して引っ掻き回した失態を考えれば、とても効率的なやり方に違いない。待ち伏せになれば十二分に準備も整えられるし、共闘となれば1人でも大抵の魔物を撃退するアレフレッドの実力も戦力に数えられる。
 だが、ここは、ルビス宗派の国だ。
 友人だからといって、全てを明らかにして良いのだろうか。ローレシア内部の人間に少しでも疾しい考えを持つ者がいれば、俺が明かそうとする情報は1つの宗派を揺するには十分すぎるネタだ。俺に声を掛けた友人は、とにかく立場が重要だが崖っぷちを歩かされるような危うさを持つ男である。俺の失態で立場が危なくなるのは本意じゃない。
 …やはり、信用が出来ん。
 何も語らず、襲撃のタイミングであの男を横から殴りつけた方が…
「アレフレッド様」
 唐突にローラの声が割り入った。
「アレフ様は心身共に疲労しているんですわ。アレフレッド様の御力で、癒して差し上げましょう。上から下、あそこまで…」
 アレフレッドの瞳にきらりと光が走った。俺はこの輝き知ってる。凄く嫌な予感と、的中する未来しか見えない。
 しかも、この発言をするという事は奥様は制止しないと宣言していると同じだ。それは不味い。いや、ちょっと、本気で、まって…!
「そうだった! アレフはここ数日間寝たきりで、溜まってるんだよな! 男としてはそれはとても辛い事だ! すまない、アレフ。俺とした事がそんな事にすら気が付けないなんて! さあ、ローラ、下がっていて」
「本気で待て、アレフレッド! わかった、話すから! 俺の知ってる事全部、白状するからやめろぉおおおお!」
「遠慮するなよ。俺と君の仲じゃないか!」
 何が俺と君の仲だ! ふっざけんな!

 本気で死ぬかと思った。
 アレフレッドの妻は、結局ズボン脱がされるまで黙って見ていやがった。この仕事が終わったら二度とローレシアの土は踏まない。
 俺は人払いがなされ、アレフレッド夫妻と俺しか居ない部屋を見回した。廊下へ意識を向けるが、取り立てて気配は感じない。外の風が樹々を揺らし木の葉が擦れる音まで鮮明に耳に届き、鳥や虫の声が五月蝿いくらいの静寂が包んでいた。俺は珈琲を一口啜り、唇を湿らせた。
「今回の依頼主は、ミトラ教で重要な地位に立たされている友人からだ」
 夫妻はミトラ教の言葉にきょとんとした表情になった。
 それもそうだろう。俺の依頼で宗教絡みなんて滅多に無い。友人も重要な地位だが宗派に極力関わらない立場を貫いている故に、そんな友人が居ても俺に仕事が振られる事はほとんど無い。だが、ゼロではない。
「ローレシアの宗派が精霊ルビスだから、お前ら夫妻は精霊ルビスを信仰しているんだろう。ミトラ教の事は知っているか」
 俺の問いにローラが頷いた。
「創造神ミトラを筆頭に、精霊ルビスもミトラに生み出された大地母神の一柱という考えで、戦いや知恵、男女それぞれの守護者など細分化された神々がそれぞれ信仰されているそうですわね。それらを全部合わせて、ミトラ教と呼ばれているんですのよね?」
 そのくらい分かっていれば十分だ。今回はミトラ教という括りの中でも様々な神が信仰されているという事が理解できないと、少し分かり難い話だからな。
「今回は、雷と戦の女神の神殿が荒らされた事が始まりだった。神殿の神官は全員惨殺され、神殿で奉られていた雷の杖が持ち去られていた」
「それが、あの襲撃者の持っていた杖という事なのですね?」
 俺は苦々しく肯定した。
「ミトラ教の擁する一柱の神具を使って殺人が行なわれている。宗教的には最悪の事態だ。ミトラ教は内密に追撃者を集めた」
 勿論、神殿に奉られていた杖は、女神が用いた本物ではない。戦いの女神が使った杖を、伝説を頼りに模したレプリカだ。しかし長年の信仰と、多くの神官達が祈りを通じて込めた力は、レプリカを限りなく本物に近いものにしていってしまった。奪った者はその杖に宿った力を悪用し、何らかの目的の為に人を殺めているのだ。
 俺はポーチの中にしまってある、焦げ付いた護符を取り出した。五芒星と複雑な祝詞が紋様のように描かれた護符は、ミトラ教の者でなくとも魔力に通じた者であるならば目の色を変える程の力が籠められいる。
「護符を与えられ、雷の杖の奪還を命じられたのは俺を含めた数名のみ。この事を知るのもミトラ教では相当上層部の一握りだけだ」
 元々戦いに身を投じる者達が信仰する女神だ。追撃者として選ばれた者達も、相当の手練が揃っていた。しかし杖を奪って行った者は神出鬼没で、俺達は奴が殺害した形跡を追うばかりだった。今回、ようやく巡って来た遭遇のチャンス。決して逃す訳にはいかない。
 最後の締めにと言いたげに、俺はアレフレッド夫妻を睨んだ。
「俺は依頼人である友人の立場を悪くしたかねぇんだ。この情報を出汁に、ミトラ教にちょっかい出すなよ?」
 俺の言葉に、目の前の夫婦は顔を見合わせ笑い出した。
「な、なんだよ」
 こちとら、かなり真面目だってのによ。
「いや、アレフが敵じゃなくて良かったなぁって、心底思ってさ」
 アレフレッドは心底安心したかのように、笑っている。その美しい碧の瞳を細め、俺に言った。
「アレフは杖を取り戻すついでに、俺の護衛をしてくれるんだろう?」
「お前は上等な餌だ。きちんと奴を誘き出せ」
「そんな、ひどい」
 おいおい、国王様よ。俺が護衛に加わっただけで、もう大丈夫って空気で良いのかよ。雷の杖だけでも厄介だってのに、強奪した奴は一筋縄では行かない奴なんだぞ?
 俺は少し軽くなった溜息を吐いて、戦略を巡らせ始めた。


■ 主神の代行者 ■

 主なる神の神殿で神託を授かり、旅に出てどれくらい経ったであろうか?
 天を巡る太陽も月も、流れ去る雲も、目の前に広がる大海原も、もう新しい感動を覚える事も無い程に見て来た。主神を侮辱するもの、主神が定める教えに従わぬものを殺した。そうせよと、主なる神が言うからだ。
 ただし、殺すばかりでは留まれぬ。私は多くの人々の住処を、蜜を集める蝶のように渡り歩いた。
 神託を一日たりとも忘れた事は無い。しかし、私は永い永い放浪の末に、その神託を成し遂げる事が難しいと思うようになった。神殿を出た時に比べ明らかに衰えた身体は、病気がちになり、疲労の回復は遅く、簡単に主神に反するものを殺められなくなった。
 このままでは私は神託を成し遂げる事は出来なくなる。主なる神は私を必要としなくなるだろう。
 主なる神の為に生きて来た私は、その存在意義が失われる事を酷く怖れた。
 そんな時、私は1つの神殿の前を通った。異教の戦の女神の神殿だと僧兵が向かい入れるのに従い、私は神殿の中に入った。神殿は華美さは無く無骨な限りで、たった1つ杖が祭壇の上に立てかけられていた。コウモリの翼を持つ裸体の女が刻まれた杖は妖しい魅力に満ち、長年力を蓄えた膨大な魔力を感じるに至った。
 これだ。
 私はその杖を手に取った。
 異教の力であっても、その杖から迸る力は神殿の中の生命を瞬く間に奪った。久々に主なる神の愉悦の波動を感じられる。私は主神に必要される人間に、再び舞い戻る事が出来たのだと感じた。
 私は神託を成し遂げる旅を続ける。
 異教の追手は崇高なる主神の目的も理解できず、私の前に立ちはだかる事もできないでいた。杖の中に宿っていた異教の神の力も、大いなる主神の前にはただの力であり属性でしかなかった。
 そして、永い永い放浪の末、私はついに見つけたのだ。
 ローレシアという小国の王の腕を掴んだ時、私はあまりの主神の力の大きさに意識すら失いそうになった。
 こやつだ。こいつだ。この者だ。
 殺すべき。消えるべき。在ってはならぬもの。
 主神の言葉が駆け巡り、私を介して主神が目の前の王を殺さんと力を注ぎ込む。身体が爆発する程に、身体が主神の力で満たされて行く。
 王の攻撃を避け、距離をとった私は改めて王を見た。
 金色の短髪、銀のサークレット、碧色の瞳、私はしかと胸に刻み込み、永い永い年月探し求めた存在を前に恍惚な思いを吐いた。
 見つけた。
 それは私と主なる神の言葉。
 私は、私達は、ついに見つけたのだ。
 大いなる主なる神の名を汚す、呪われし者の末裔を。
 そして私の旅はついに終わりの時を迎えようとしている。神託を全うし、私は主なる神の神殿へ戻る事が出来る。あの大いなる力の膝元で祈りを捧げる日々に、再び戻るときが来るのだ。
 その時に向かって、ゆっくりと歩を進める。王は兵の命を散らす事を避けているのか、見渡す限り誰1人居ない。その尊大な偽善に、虫酸が走る。例え今私に殺されなかったとしても、呪われしいまわ悪しき者を王と讃える国の民を主なる神がお許しになる訳が無い。この世界に顕然せし暁には真っ先に滅ぼされるであろう。
 人一人居ない城を抜け、中庭を通り過ぎ、厩の横を歩き、私は城の外れまでやって来た。少し開けた場所は兵士の修錬場や馬術の訓練に用いられるのだろう、踏み固められ開けた空間が広がった。
 その真ん中で私に背を向けて立つ後ろ姿が在る。
 私の中を通して主神がざわめくのが分かった。あの者が呪われし者の末裔である事は、主神が教えて下さり疑い様が無い。私は身体の中から沸き上がる殺意に、身を焦がしそうになる。
 主なる神の気配が一瞬揺らぎ、神の御力で身体能力が上がった目は脇の繁みから突き出して来る白刃を捕らえた。杖を掲げ咄嗟に刃を逸らせば、繁みの中から異教の追手が現れる。
「この距離を防ぐのか…!」
 異教の追手は月明かりで銅の様に明るい茶色い瞳を見開いた。しかし、次の瞬間、目を眇め次々と杖を振るう動作を封じる攻撃を繰り広げる。
 忌々しい異教の追手め。
 私が異教の追手に攻撃の手段を封じられていると、呪われし者の末裔も攻撃に加わる。主神の加護や御力を与えられても、身体に刃が当たり、痛みは遠のけられていても身体の動きが鈍くなる。
「アレフレッド!お前は攻撃に加わって来るな!触られるだけで、重傷負っちまうんだろうが!」
 異教の追手が叫び、私が隙を見て伸ばそうとした腕を剣を持っていない手で弾く。
 そう、掴むだけで。
 掴むだけで主神の力は呪われし者の末裔に死を与えるだろうに。
 この私と呪われし者の末裔の間に、立ち塞がる追手が邪魔だ。異教の神の加護を受けているらしいこの男は、主神の力が効き難かった。なぜ主なる神の力が呪われし者の末裔にはこれ程の効力を示し、異教の徒には効き難いのか矮小なる私には理解し得ぬ。だが、この異教の徒を退けなければ呪われし者に触れる事すら叶わぬだろう。
 私はいつの間にか自分の血で重くなったローブを翻し、大きく後ろに下がった。
 呪われし者の末裔と、異教の追手が私を注意深く見ている。
「大いなる主なる神よ。貴方の神託を成し遂げる我に祝福を与えたまえ」
 喉仏が月明かりに浮かび上がる程仰け反り、頭から落ちたフードの下を冷えた夜風が触れて行く。私は杖の下方を捧げ持ち、己の頭上に掲げた。異教の追手が私に切り込んで来たが、主なる神の力で変質した異教の神の力が雷となって阻む。
 私は主神に祈り、杖を飲み込んだ…!
「飲んだ!?」
 追手は驚きの声を上げ私を見上げたが、もう、遅い。
 両手が空き、主なる神の力を秘めた私の手は、異教の追手の両肩を掴んだ。主なる神が異教の神の力を繰り、男の身体を電流が貫いた!
「アレフ!」
 呪われし者の末裔が声を上げる目の前で、追手は地面に倒れ伏す。
「これで、邪魔者は居なくなった」
 私は感慨深い気持ちで、呪われし者の末裔を見た。この者を殺す為に、私は旅をして来た。主なる神の汚名を雪ぐ、神に仕える身としてなんと名誉な事だろう。私は両手をゆったりと前へ突き出し、王と呼ばれし男に向かってゆっくりと歩きだした。
 末裔にとって追手は親しき者だったのだろう。碧は新緑のように萌え、怒りにざわざわと目紛しく色彩を変える。表情は冷静さを欠き、先程までの余裕は拭い去ったかのように消えていた。 
 私は唇が笑みの形になるのを、抑える事が出来なかった。心の中に広がる愉悦は、私が追い求めた者が追いつめられる様を見て、主神もさぞやお喜びになっているだろうと満足感となって身体を満たして行く。異教の神の力は使わない。私は今、主なる神と1つになっているのだ…!
 そうだ。
 怒れ。主に貴様の心の揺らぎを曝け出し、無様な様を披露するが良い。それが貴様が出来る主神への唯一の慰めになる。
 焦ろ。貴様が追いつめられる事が、主神が煩わされた日々を意義のあるものに変える事が出来る。
 私は主の喜びを更に引き出そうと、呪われし者と戯れ出した。その刃を甲で弾き、蹴りを態々腹で受け止め微動だにしない。呪われし者の末裔の体力が徐々に削られて行く様を、覆らぬ状況に焦れ絶望を感じて行くだろう様を、この者に死を与える瞬間が刻々と迫る事を、私と私に心を向けて下さる主の意識が同調する。
 さぁ
『さぁ』
 死ぬが良い
『死ぬが良い』
 私が浮かべた満面の笑みを見てか、呪われし末裔がにやりと笑みを浮かべる。ついに気でも狂ったか。
 次の瞬間、身体ががくりと傾ぐ。伸ばそうとした腕が消えていて、驚く間もなく末裔の剣が残った腕に深々と差し込まれ身体に鈍い衝撃が走る。
「腕くらい切り落とせ。お前の剣の方が高いんだろう?」
 声は真後ろから。
「折角、君の意識が戻るまで持ち堪えたんだ。褒めてくれたって良いだろう?」
 声は目の前から。
 何故だ。何故。主神の力と異教の神の力は、ありとあらゆる生命の命を薙ぎ払って来た筈。耐えられるなんて、ありえ
 脇腹を貫かれ、横に刃が薙ぎ払われる。熱い物が腹から流れ出る。杖が無い。追手の声が遠くに聞こえる。
 足の腱を切り裂かれ、膝が砕ける。本当にこいつは人間なのか?呪われし者の末裔の声が響く。
 私は、主神の代行者。神託に従う者。
 だが、私の身体が急速に冷えて行くのを感じていた。主が遠ざかる。
 お待ち下され、私は、まだ


■ ローレシア王の親友 ■

 襲撃者を撃退した翌日、ミトラ教の使者がやってきた。
 一人は騎士、一人は司教らしき僧侶、彼等を率いてやって来たのが薄紫のローブの大柄な男性だった。男は緊張する二人を差し置いて、屈託無い笑みを浮かべてアレフに親し気に話掛けた。
「流石アレフさん。他の人だったら即死だったでしょうから、貴方を推薦した甲斐がありました」
「即死しなかったら良かったですねーってか? ふざけるな! 全く報酬に見合わねぇ仕事だったぞ!」
 雷と戦の女神の護符を男の額に叩き付けながら、アレフは怒鳴る。額に護符を押し付けられながら、楽しそうに男は笑う。一頻り戯れあった後、まるで子供の首根っこを捕まえる様にアレフは長身の男を俺と妻に紹介した。
「これが、俺の依頼人。ミトラの左母指の末裔にして、神話の時代以来の本物らしい」
 なにが本物なのだろう? 俺はミトラ教には疎いからイマイチ分からない。
 男は聖職者には似つかわしくない笑みで、俺と妻にそれぞれ左手を差し出し握手を求めた。無骨な大きな手であるのに、強くも弱くもない絶妙な加減は好感を抱く。
「しかし珍しいな。お前のその格好」
 アレフの言葉に、俺達の視線は男の格好に注目する。男は一目見ても宗教的には最も重要な立場に在るだろう、王でさえ膝を折るような高貴な身なりだった。紫の癖毛に紫の瞳、冒険者のような褐色の肌に、ローブから筋肉質な腕のラインが浮かび上がる。額にはムーンストーンをあしらったサークレット、ローブは多くの銀の円盤を連ねた装飾で落ち着かせている。
 『僕だってしたくないですよ』と、言わなくても分かる態度で男は愚痴る。
「ミトラの外の出来事に関わるかもしれないと、神官達が神経質になってるんですよね」
 はぁ。そう特大の溜息を零して、男は円盤を奏で俺達に会釈した。顔を上げると人懐っこい青年の印象はそこにはなく、風のない湖面のような静けさがあった。
「では、早速拝見させて頂きます」
 俺の先導に続いて、アレフ、ミトラの使者三人が地下牢に入った。ローラは安全を考えて、控えの間に待たせている。
 地下牢には、襲撃者の亡骸というべきか、襲撃者だったものというべきか、襲撃者かもしれないなにかが封印されていた。俺とアレフが撃退した襲撃者は、致命傷を負い、死んでもおかしくない失血をしながらまだ息があった。まだ肌として存在している場所は冷たい程に低温だが内部の方は生暖かく、切り裂かれ剥き出しになった肉には血が通っているのが見て取れた。瞳は虚ろであるが、息はある。身体の内部に雷の杖らしき柄が見えたが、深く肉に絡まれ取り出す事は出来なかった。
 俺は早々に燃やすべきと思ったが、それを止めたのはアレフだった。
 彼がいうには、雷は火に属するらしい。
 雷と戦の女神の力を乗っ取っているなら、力を増強するような事をすると復活してしまうのではないかと諌めた。その為にミトラ教において、火の力を打ち消す水に近い場所に襲撃者を閉じ込める事にした。場所は地下水が沸き出す地下牢だ。
 人の形をとどめているが、どうみても死体にしか見えない。しかし、死んではいないという、生理的には理解し難い存在に、ミトラの司教らしき男が嘔吐いた。腐臭に似た匂いは、騎士も顔をしかめる程だ。
 一人だけ表情を変えなかった男は、襲撃者だったものの傍らに立ちじっと見る。俺とアレフは剣を抜き放って、彼の両脇に付いた。
 時間的には一瞥ほど短くはないが、それ程長く眺めている訳ではない。夕暮れと朝焼けの合間に生まれる神秘的な菫色の瞳を瞬かせ、小さく頷いて牢屋を出た。司教と騎士に迎えられ、男は哀れみの表情を浮かべ言葉を紡いだ。
「先ず申し上げるのは、雷と戦の女神は諦めておりませんね。彼女は諦める事を認めない方ですし、ここまで良いようにされて大人しく引き下がったりするのは御免と仰るでしょう。そしてこの主神の使者さんですが、彼は彼が信仰する神の力の残滓と、雷の杖に宿った女神の力で辛うじて仮死状態を保っています」
 俺は驚いた。ただ見ただけで、何故そこまで分かるのだろう。
 城に仕える魔力に長けた魔法使いですら、そこまでは分からなかった。一瞬疑いの眼差しで見てしまったが、彼の自信に満ちた瞳や、アレフやミトラ教の使者達の信頼し切った様子に疑いは霧散する。恐らく、彼は真実を見る力に長けている人物なのだろう。それがアレフの言った『本物』という意味に違いない。
「主神さんの力が彼から完全に抜け切れば、彼はただの人間としての死を迎えます。女神が待ちに待ったと燃やして杖が勝手に出て来るでしょう。しかし、主神さんという方が彼に一度でも力を与えれば、女神の力を支配した脅威として復活する事でしょう」
「『抜け切る』のは、どのくらいの年月が必要ですか?」
 騎士が訊ねると、男は首を傾げる。
「明日かもしれないし、数百年先の未来かもしれません。彼は随分と信仰心が厚かったようなので、残滓の量も凄そうですよ」
 男は一拍間を置いて、やや自信なさげに言う。
「もしくは主神とやらの力を打ち砕く何かがあれば、彼を強引に人として殺す事も出来るかもしれません」
「ミトラの御力で出来るのですか?」
 司教の言葉に、男は視線を鋭くした。まるで世界中の人間を殺した者の懺悔のように、男は言葉を苦し気に吐き出した。
「貴方はミトラが何者であるかを分かっていない。大いなる父が動く事、それは世界の崩壊に等しき事態に限られるのです」
 慌てて畏まる司祭を横目に、ミトラ教の騎士が心得顔で頷いた。
「女神が諦めないのであるならば、この者はミトラ教で引き受けましょう。これ以上、無辜の民が傷ついてはなりません」
「待って下さい」
 その場の全員が驚いた様子で俺を見た。
 彼等が襲撃者を引き取るのを止めたのが、ローレシア王であり被害者である俺だからだ。俺は彼ら全員の視線と驚きを受け止めて、言葉を続けた。
「その者は、このままローレシアに拘留しておく事は出来ませんか?」
「ローレシア王、貴方だけでなく貴方の子孫にも危険が及ぶかもしれない存在なのですよ。危険は己の身から離すべきと考えても、誰も貴方を非難したりはしません。むしろ、雷と戦の女神はミトラ教の一柱。ミトラ教が引き受けて然るべき存在です」
 騎士は無謀を諌めるように俺に声を掛ける。俺は首を横に振った。
「もし、そいつが復活して俺や俺の子供達を殺しに向かうとしたら、これまでのように関係のない人々を殺しながら向かって来るでしょう。それなら、ここに居た方が良い。復活しても、俺や俺の子孫は負けたりはしない」
 アレフが呆れたように溜息を吐いた。
「その自信は何処から来るんだ」
「どうしましょう?」
 男が司祭と騎士に訊ねる。どうやらこの男、そこまで権限が無いのか権限が持てないのか、判断は完全に放棄しているようである。司祭と騎士がそれぞれ頭を付き合わせ、どうするべきかの話し合いは平行線のまま過ぎているようだ。
 そんな停滞した空気を揺るがしたのは、何気ない一言だった。
「いいじゃん。任せれば」
 それはあっけらかんとしたような深刻さが欠片も無い、アレフの声だった。
 その場の全員の視線を集めながら、傭兵は不遜な態度で彼等を睨み返した。
「アレフレッドもその子孫も負けねぇって言ってるんだ。万が一復活した時、アレフレッドやその子孫はこの主神の狂信者に人としての死を与えてやれるんだろう。未来の勝率なんぞ今から計算するな。勝利の為に行動する意思と行動こそが重要で、戦の女神は勇気ある戦士を応援して下さる。神々の意思を汲み実行する事は、ミトラ教徒の責務だろう? 違うか?」
 司祭も騎士も動揺するのが目に見えた。再び頭を付き合わして話す内容は、明らかにこちらに預ける事を前提にした事が含まれている。
 俺は開いた口が笑みになるのを堪えられない。
 この先の事は誰一人分からない。俺や子孫が負けないなんて保証はどこにもない。命を狙って来る手合いだ、危険の度合いはもうこの身に染みて理解している。
 だからこそ、ミトラ教の者達はこの襲撃者を引き取ろうとした。より安全な体勢で、万全な準備ができる場所でこの者を封じ時が来るまで待とうとした。その方が、安全で確実だった。俺だってそう思う。こんな地下牢より、ミトラ教の教会の奥深くの方が立ち入りも制限出来、呪術的な対応も手厚いに違いない。
 天秤にかければ、ミトラ教が圧倒的に有利で信頼出来た。俺に傾く訳が無い。
 それをアレフは俺への信頼だけで、傾けてしまったのだ。
 話し合いが終わった騎士と司祭の顔は明らかに違った。同情的な庇護すべき対象として見ていた印象が、肩を並べる同胞のような試すようなものに変わっている。
「では、協定を結びましょう。この者の身柄の拘束と監視は引き続きローレシアに一任し、ミトラ教は一定の間隔で訪問し状況を確認する。些細な変化が在ればミトラ教に報告、ミトラ教には対処の義務が発生します。また、ローレシア側から監視や身柄の拘束に関して放棄したい旨があった場合、ミトラ教は拒否する事無く受諾しこの者を引き取る…如何でしょう?」
 俺は微笑んだ。ミトラ教が俺と俺の子孫の事を気に掛けてくれているのが、良く分かる内容だった。余り知らない宗教ではあるが、きっと良い教えを伝えているんだろうと思う。
「えぇ、それでお願いします」
 ミトラ教の使者達は協定の締結の為に動き出し、周囲が一気に騒がしくなった。歓迎の接待も何も求めず、ミトラ教の使者達は事務的な手続きを行い足早に城門の前に立った。彼等には恐らく、総本山でこの内容を説明し納得させる仕事があるのだろう。
 その使者達の中に荷物をまとめたアレフの姿もあった。見慣れた傭兵の顔は、もう紫の高貴な衣から地味な灰色のローブに着替えている男に向いている。
「報酬、きっちり上乗せしろよ」
「はいはい。僕からも掛け合います」
 そう言いながら、彼等は歩き出す。ルーラやキメラの翼は人の住む場所では、決められた所定の場所で使用するのが国際的な定義だ。彼等は城下の外を出た郊外で呪文を唱えるつもりなのだろう。
 俺は歩み去ろうとする背中を呼び止めた。アレフが不機嫌そうに振り返り、その眉間の皺を俺は懐かしく感じた。ここ暫く辛そうだったり、怠そうだったり、彼らしくない顔ばかりだった。こうやって彼らしい表情が見れて嬉しい。
「アレフ、本当にありがとう」
 アレフは眉間の皺をさらに深く刻むと、吐き捨てるように言った。
「俺が死んでないのに気が付いたからって、意識が戻んの何時になるかもわからねぇで持ち堪えようとするんじゃねぇ。俺から奴の意識を逸らす為に全力で向かって行きやがって、撤退くらいしてみせろってんだ。見殺しにして良いって、いつも言ってんだろ?」
「アレフなら間に合うって信じてた!」
「だから、その自信は何処から来るんだ」
 俺は笑った。
「また遊びに来てくれよ!」
「もう、二度と来ねぇって言ってんだろ!」
 いやいや、君は来てくれるよ。なんたって、君は俺の親友だからな!