アレスさんとアレフ 狼と猫

この連作作品はLUNARCADIA様にて完結した『闇を照らす光』の主人公アレスさんと、ハコ開きにて完結している『闇の衣の遺産』の主人公アレフを共に行動させるというコラボレーションパロディです。
 キャラクターの設定はそれぞれの作品に準じておりますが、(ドムドーラの滅亡、回復呪文の定義等)世界設定はハコの開きの設定となっております。なおアレス、アレフ以外の主要キャラクターは出さぬ所存にございます。


 中央広場から少し奥まった方に歴史を感じるほどに古い大きな家がある。赤煉瓦の壁には青々と蔦が茂り、街路樹と相まって鬱蒼とした気配を醸し出している。黒い年季の入った扉を開ける前に、爺さんが開けた。窓から見えていたのかもしれないが、その表情は神経のすり減ったような感じもなく普段通りのものだった。
 俺は憔悴しきっていた表情を想像していただけに、その顔面を思いっきり殴りつけてやろうと思った。が、そこまで大人げない人間ではない。
 南方の山岳地帯の都市メルキドから首都ラダトームへ向かう商隊の警護の依頼を遂行した俺は、ちょっと不思議な出来事に遭遇した。常連の店へ繰り出すと、必ず、何故か手紙が手渡されたのだ。
 差出し人は全て同一人物。以前に呪いの品を探してほしいと依頼した、ラダトーム城下では知る人ぞ知る奇人変人である目の前の爺さんだ。内容も全て同一。『頼みたい事があるから家に訪ねに来い』という内容が一文字一句違う事なく記されている。
 俺がラダトームに来た際には寄るだろう常連の店に、金まで握らせて手紙を渡すように頼んだ徹底振りでは相当深刻な用事だろう。第一、どうして俺なのか理解できない。しかし、爺さんが抱える問題を解消する手段として最終的にたどり着いたのが、俺に依頼する事であったには違いない。
 今なら、知らん振りをしてしまう事はできる。
 だが気になりながら、これからを過ごすのも嫌だ。相当、面倒くせぇ事頼むつもりなんだろうなぁ…。あのジジイは…と呟いて解決はしない。
 散々悩んで、依頼を受けることを決意して、ここにいるわけだ。
 爺さんは俺の抱えている包みの中身を察したのか、口元の真っ白いひげを持ち上げて笑った。
「お前さんにしては珍しいのぅ。夕飯を買ってきてくれたのか?」
「爺さんのためじゃない。俺自身のためにだ」
 仕事を終えて重くなった財布に俺はご機嫌だ。折角飲みたい気分なのを棒に振るのは良くないが、一人で部屋で飲むほどの酒好きではない。だから爺さんの依頼を肴に飲むのも悪くないと思ったのだ。酒屋でそれなりに良い酒を買って、腹の膨れる惣菜を抱えて、晩餐をする気は満々だ。
 俺の最高な気分に陰りを注したのだから、これくらいの態度で臨むのくらいは目を瞑ってもらいたいものだ。
「ほっほっほ…。まぁいい。入りなさい」
 急く様子もなく頭髪のない頭を撫でて、室内に入るよう促す。
 室内は以前来た時と然程代わり映えはしない。入ってすぐの吹き抜けの広間のど真ん中には二階に迫る高さの巨大な壷があり、時折ボコッと音がして壷から紫色の煙が漏れ落ちる。傍に置かれているテーブルには所狭しと書物と巻き物と薬草の類いや貴金属が、何なのか一見して分からないほど乱雑に置かれている。2階の壁という壁は取り払われ、王立図書館もびっくりといった濃い内容の魔導書が詰め込まれた本棚が整然と並んでいる。
 俺は爺さんの家で酒を飲む事を少々後悔した。臭いが強烈で物が食える環境ではない。
 呪いと一言で言い退けるにも、その内容は異常なまでに深い。魔導書のように書面で方法が残っているものなど皆無で、歴史書などで呪いに関する症状が残っているだけである。その症状に至るまでの呪文構築というのも、一般的に魔法使いと呼ばれている者が扱う内容とは畑違いな分類に属する。呪文とは一種の宣誓に似たものであり、言った直後にその効果が現れるものである。しかし呪いは発動は相手に気取られることなく、遠隔的な距離の元で発動させる必要があり、徐々に効果の及ぶものすらある。
 呪いと分類するに相応しい呪文や魔法との違い、そして難易度ははかり知れない。
 こう言っている俺ですら、理屈は分かるが内容など針の穴ほどに理解できない。毒殺や暗殺の方が自分で遂行可能なだけあって簡単に思える。
 しかし、この爺さんは知識や技量において王宮の魔法儀官長と同等かそれ以上の存在だ。それで高給取り捨ててこの生活とは、俺は気が触れているとしか思えない。
 爺さんに続いて壷の横を通り過ぎ、生活スペースなのだろう空間に出た。台所やクロスの敷いたテーブルなど一般家庭にありそうな佇まいだ。
 そこで紙袋を降ろした俺は驚いた。この家全体に染み付いているだろう先ほどの臭いが全く感じられず、紙袋の中に入っているオードブルの匂いが感じられるほどだ。振り返っても魔法陣の類いが見えないが、これが魔法というものの力なのかもしれない。俺は爺さんに改めて感心せざる得なかった。
 爺さんは保冷庫から出した薫製の肉を切り分け、腸詰めを茹でる。ちょっとした野菜のサラダを用意して、食器をテーブルの上に用意した。
 ようやく席に腰掛けた爺さんは、俺の買ってきた料理と自分の用意した料理でいっぱいになったテーブルをさも嬉しそうに眺めた。そして一口酒を口に含んで満足げに目を閉じる。ゆっくり飲み込んだかと思うと、世間話でもするかのような穏便さで口を開いた。
「気持ち悪い話じゃないから、飯を食いながら話を聞いてもらおうかのぉ」
 俺が一つ頷くと、爺さんは話し出した。
 貴族が魔法の研究を趣味にするのは珍しい事ではない。現存している半分以上の貴族は魔法が得意であるし、またその研究で成果を得れば一族の評価になるので研究はかなり活発に行われている。ひとつのステータスのようなものである。内容は様々。魔物の毒を研究し解毒剤の開発に成功して更なる名声を手に入れた貴族もいるし、高度な魔法技術を持って王宮の魔法使いの指導をしている貴族もいる。だが、所詮貴族。平民にはその研究の恩恵は来ないどころか、平民にも関心も持たないのだから当然の摂理だ。
 先日魔法研究で有名なとある貴族が死去した。遺産を相続する家族もいない彼の財産は全て王宮に寄贈される事になった。貴重な太古の文献や、魔法の展開の演算方程式や魔法反応の論文の数々はラダトームの魔法学術を5年は推進させたと言って良い。彼の家も敷地も次の季節になる頃に全ての手続きが終わり国の所有物になるという。しかし、一つだけ国の手に渡らない事になっているものがあるのだそうだ。
 その貴族が飼っていた黒猫だ。
 エメラルド色の瞳に、天鵞絨を思わせる上質な毛並みを持っている猫である。貴族の家を訪れた事のある者は、その猫が彼の飼い猫だと知っていた。家に住み着いているのだとしても、家はもうじき国のもの。王国の兵士は猫を追い出そうとしたのだ。
 その時、猫は呪文を使って兵士を追い返したという。どんな手段かは噂程度の信憑性しかないが、家が壊れてないのなら攻撃呪文ではないだろう。
「呪文か…」
 言ってグラスの中身を飲み干した俺に爺さんは軽く頷いた。
「今、ラダトームの貴族達は一つの推論に達し動き出しておるのじゃ」
 フライドポテトを刺したフォークを、俺の前で踊らせた。
「あの猫は死去した貴族の研究成果が施された猫なのだとね。その為、あの猫を獲得しようとする貴族が出てきた。儂もその争奪戦に参加したいんじゃが、なにぶん年齢が年齢じゃからな。…じゃから」
 ポテトを俺の鼻先に突き付ける!
「お前さんに猫を捕まえてきて欲しいんじゃ!」
「断る」
 俺のやる気なさそうな即答に、爺さんの目が真ん丸になった。
「なんでじゃ!?」
「猫は追えば逃げるし、抵抗するために噛むに決まってるだろ。猫が呪文を使う?…驚くことじゃねぇじゃんか」
 今じゃドラキーもゴーストも魔法を使い時代だ。猫が呪文だぁ? 驚くことなんかぁ?
 くだらねぇなぁ…。俺はそう呟いて薫製肉のスライスを噛み締めた。
 だが、頭の中ではもっと合理的なことを考えていた。
 猫の争奪戦に参加している貴族の数は知れないが、恐らく1人以上はいるだろう。その争奪戦に貴族から送り込まれる刺客は、俺等のような傭兵ではない。探索商人、別名トレジャーハンターと呼ばれる者達だろう。彼等は主に貴族と取り引きをする者達で、貴族が金を積んでも世間から購入できない品々を調達するのが主な仕事だ。竜の心臓やメタルスライムの瓶詰めとか、国宝級の書物、伝説上の宝石とか貴族の無知がもたらす無理難題をこなしている。気の毒だが同情する事はできない程に偏屈な連中であるが、そんじょそこらの傭兵よりも腕が立つ。
 そんな連中を同時に相手にするなど、ほぼ不可能といっても良い。
 探索商人は言葉どおり探索を仕事とし単独行動で品物を入手する。つまりその道の専門職に俺のような専門外の職業が首を突っ込んだとて、結果は過程がどうであったとしても良いものはまず得られないだろう。
 俺はそんな考えを表情の下に隠しながら巡らしていた。
「猫を飼うつもりなら、考えてやるよ」
 むぅ…と爺さんが唸った。
 猫を飼う事ができねぇんなら欲しがるなよ。俺は酒をグラスに注いで意地悪く笑った。

 □ ■ □ ■

 しかし…家に住み着いている猫を捕まえるのに、そんなに時間が掛かるものなのだろうか?
 俺は立派な格子の門の内側に広がる、立派な庭を挟んでなお遠くに見える屋敷を見ながら首を傾げていた。庭の広さは上流貴族でも確保するのが難しいほどの広さがあり、季節相応の花々が丁寧に手入れされている。レンガで作られた川もあり、映り込んだ緑は鮮やかだ。柵越しから見ても感激できるような絵に描いたような美しさだ。それの背後を彩るに相応しい屋敷は2階建てで格調高い佇まいだ。
 情報屋の話では傭兵の方にも猫駆除の依頼が降りて来ているとの事らしい。家財道具から書籍、ドアノブ一つに至る建築物全般の損壊を行わないという厳しい条件と、しかも壊したら弁償というオプション付きだ。すでに傭兵仲間からは酷評の箔までついている。猫が逃げた時に本棚一つ倒されては、破産しかねないからだろう。
 だが、それは傭兵の話。
 探索商人は違うだろう。
 彼等は俺達ほどに気が楽な職種ではない。一つ依頼をし損ねれば信頼は地に落ち、二度と探索商人という業界で仕事はできないらしい。しかし、あの面倒で仕方のない貴族共の支払いは、俺達の金銭感覚なんかぶっ壊すほどの高額だ。探索商人とは、極端に言えばに金持ちな傭兵になる。故に無茶振りな依頼に対しての高額な出費も捻出できる、まさに高収入高出費な職業なのだ。それに貴族に舐められねぇ為の教養や礼儀作法や情報収集は割にあわない。
 しかし…。
 俺は確かな広さを持っている屋敷を見上げながら、湧く一方の興味をどうするべきか悩んでいた先刻を思い出す。大の大人が束になって捕まえられない猫とはいったいどんなものなのか…ぜひこの目で確かめてみたい。兵士に聞いても、余計な噂が立たないがために口外を禁じられているだろう。
 結局、好奇心に負けてしまったが、大人しく見学だけして帰る事にしよう。
 触らぬ猫に祟りなし。
 俺は偉大なる先人の警句を胸に刻み扉を開けた。
 玄関の扉を開けてすぐに広がる広間は豪奢な装飾の柱を四方に配した吹き抜けであり、教会を彷佛とさせる造りになっている。正面のステンドグラスは精霊神ルビスとラーミアであり、屋敷の主が精霊信仰者であったか精霊信仰の教会であったのだろう。床は磨き抜かれた重厚感溢れる石材であり、深紅の絨毯が通路に当たる場所に敷かれて却って華やかだ。
 爺さんの家に似た雰囲気を想像していただけに、俺は出端を挫かれたように立ち尽くした。
「…!」
 俺は剣の柄に手を掛けて気配のした方角を見遣った。
 男が一人、こちらを一瞥して通路へ消えていった。
 濃い茶色の毛髪の、細身の体格の男だった。身のこなしから鎧と剣を所持していたが、俺のような完全武術に頼るタイプではないだろう。そしてあの無愛想さというか俺も面識がないことから探索商人と察せられる。
 先客が居たのか…。
 だが、先ほどの相手の様子では猫は見つけていなさそうだ。俺は俺で男が消えていった方角とは真逆の通路に入った。一定の間隔に並ぶ扉は堅く閉じられ、猫を探すにも苦労はしない見通しの良い廊下だ。たとえ柱の影に隠れているとしても、数秒待てば猫のしっぽも見えるだろう。
 俺は早速手前にあった扉を開けて、中を見た。
 日溜まりに、黒い猫が昼寝をしている。
「……」
 あっさりと見つかったという拍子抜けに、俺は脱力した。
 扉に身を預けそうになって破壊の恐れを抱いて姿勢を正し、あることに気が付いた。部屋の中は差し込む西日に暑いくらいで、窓はぴったりと閉じられている。俺が入ってきたこの部屋の扉も、しっかりと閉じられていて猫が入り込める隙間は開いていなかった。先程の先客が争奪戦の刺客であるならば、こんな所に猫を転がせておく事はあり得ないだろう。
 どうやって、猫はこの部屋に入ったのか?
 俺は扉を閉めて猫の横にしゃがみ込む。黒猫の太陽光を浴びてキラキラと艶めく真っ黒い毛並みが、呼吸と共にゆったりと動いている。金の首輪は締め過ぎないように多少大きめのものなのか、その呼吸でかくんかくんと動いた。
 俺が触ってみようかどうしようか悩んでいると、猫はゆっくりと目を開けた。眠たげに体の毛を繕い、日向の中で伸びをする。
 にゃーお。
 呪文の効果一つ現れる気配はない。至って普通の猫ではないか。
 猫は俺の鞄に興味を感じたのか、それを興味深げに見つめている。昨日の爺さんとの晩餐の残りで、薫製肉やら日持ちする物を袋詰めして鞄の中に入れてあるのだ。ま、明日明後日に依頼の仕事を受ければそのまま旅の食料の一つになるが、そうならなければ朝食とかのパンに挟んでもいい。きつく縛ってあるのだが、猫の嗅覚では感じられてしまうのかもしれない。
 猫は鼻先を袋に押し付けるように嗅ぎ回しながら、荷物に頭を突っ込んだ。
「……!?」
 鞄は開けていないので猫が入れる隙間はない。猫はすり抜けるように、鞄の中にすっぽりと入り込んでしまったのだ!そして猫はひょっこりと顔を覗かせる。食物を入れてある袋をくわえて、何食わぬ顔で俺を見上げた。金の首輪が猫の笑いを代弁するかのように光った。
「…この猫!それは俺のだ!!」
 猫が軽やかに駆け出し、猫は扉をすり抜ける。
 追い掛ける俺は扉にぶつかりそうになり、扉を開け放って廊下に飛び出した!
 通路に出た瞬間感じた気配に剣を構えると、そこには先ほどの探索商人らしき男が立っていた。俺も争奪戦の刺客と勘違いされれば、余計な諍いを起こすはめになるが、今はそれどころではない。走らせた視界に俺の大事な食料をくわえた忌ま忌ましい猫を見つけ、猛然と走り出した。
「こんのぉぉぉぉお、ねこぉぉぉぉぉおおお!!!」
 追いかければ猫も当然逃げる。なかなかの速度だ。
 突き当たりにある扉をすり抜けたのを確認し追いかけると、そこは地下階に続く階段がある。壁は岩壁で階段も石を積んだ頑丈なもので、小さい窓から日が差し込んで十分な採光もある。俺はそれを確認すると、頑丈な手摺に手をかけて飛び下りる!着地の際に鎧の擦れる音が地下階に大きく反響したが、それに驚いて動く影はない。
 猫の野郎…どこかでなりを潜めて俺の食料食い漁ってやがるんだなぁ…。畜生、許すまじ。
 携帯ランプを掲げて地下階をゆっくり歩く。
 地下階には水路が設けられており、上の庭園にあった川の流れを一部引き込んでいるのだろう。どこかで水車の音も聞こえている。一種の倉庫のようになっているらしく、何が入っているかは定かではないが大量の箱が置いてある。剣や杖といった長い物も袋に入れられて仕舞い込まれており、その上に積もった埃は長年使ってはいないものだろう。
 水の音で若干冷静になった俺は冷静に猫の事について考えを巡らす。
 廊下に並ぶ木製の扉には爪の跡一つなく、あの猫はこの家の持ち主が家を傷付けない為に施した呪文の効果を得てあのような事ができるのだろう。問題は呪文の効果である。人間がその呪文を使えるようになれば、扉がなくても鍵がなくても泥棒ができてしまう。治安上の問題でもその貴族が猫に施した呪文は、一般市民の手に渡らせたくないだろう。泥棒なんてしなくても金のある貴族は例外だが、国が動いたのがその理由であるなら納得だ。
 魔法道具としても需要の高いあの金の首輪が、猫にあの効果を授けているに違いない。
 しかし…俺は首を巡らして倉庫と化している地下階を見回した。あの猫がすり抜ける力を持っているのなら、この荷物など障害物にもならないだろう。
 追いかければ逃げるのは猫として当然。
 なら、一人で捕まえるのは非常に難しい。あの探索商人が一人で捕まえるつもりであったなら、何かしら罠を設置していたか呪文が使えるなら呪文を使って捕らえる可能性が高い。余計な事をしてしまったが、俺があのように追いかけ回しているのを見て『使える』と考えて別の手段を講じた可能性も否定できない。
 俺は奴本人ではなし、知らされてもいないのだから推測以上のものは得られない。
 俺はランプを持ちながら腕組みをして少し考える。
 すると、周りに山と積まれた荷物が輝き出し、瞬きする間に目が眩む程の光量に達した!俺はランプの光に慣れていたお陰で酷く眩まなかったが、目をできるだけ細めて聴覚に意識を集中する。
 背後から驚いたような猫の声。
 俺は即座にその声に振り向くと、光に灼熱するほどに照り返す毛並みとその影を見いだした!混乱しているのか、目が眩んでいるのかその場をぐるぐると回っている。俺はランプを手放して滑り込むような姿勢で猫に近付き、その猫の胴体を鷲掴んだ!みゃあみゃあ暴れる黒猫が逃げないよう、俺は金の首輪に指を引っかけ直す。胴体を持っているだけだったら逃げられてしまうだろう。だが魔法道具である首輪が動かない状態にされては、すり抜ける効果が発揮されたとしても逃げることはできない。
「あぁ!やっぱり全部食いやがったな!この猫!!」
 床に落ちている食料用の袋は見事に空にさせられていた。その薄っぺらい袋を摘まみ上げ、俺は猫を片手に頭を抱えた。
「あぁ…食費代浮いたと思ったのによぉ…」
 がっくり。
 肩を落としながら俺は空の袋を鞄に突っ込み、背後に歩み寄った人物を振り返った。
 無愛想に無言のまま立ち尽くす相手は、俺が床に転がしたランプの光を受けて俺を見つめていた。よくよく見ると、俺よりも少し年下かもしれない。貴族が好みそうな整った顔立ちで、美青年と形容されそうな艶やかな茶髪と奇麗な青い瞳の持ち主だ。最初の見立ての通り、背丈は平均的だが細い。あまり筋肉のありそうには見えない体格を見ると、攻撃速度と魔法を重視した戦い方を主にしているんだろうと容易に想像が付く。
 やはり先ほどの荷物が光ったのは奴が放った呪文の効果かもしれん。相手にしてはそれで俺も戸惑い、その隙に猫をふん捕まえるつもりであった可能性もあるが、結局は俺の手の中に猫がある。
 俺は猫の首輪を外して抱き直し、喉を掻いてやる。気持ちよさそうにゴロゴロ喉を鳴らす猫を見遣り、相手を見た。どう見ても猫が好みそうな人種ではない。コイツの腕に抱かれてもこの猫は大人しくしていられないだろう。そうなれば、コイツは籠を買うまでの間は猫を押さえつけているしかない訳か…ふふん、傑作だな。
 計算外かもしれない状態に様々な思考を巡らしているのか、黙っている相手に俺は苦笑した。交渉は十八番というべき舌の回る職業だろ、とか突っ込みたくなる。それとも喋る必要も無しと考えているか…、全く余計な手間だ。俺は猫を抱えた腕を少し持ち上げた。
「金の輪っかも要るか?」
「必要なのは金の輪だけだ」
 やっぱり依頼は猫に施した研究成果というものなのだろう。猫はごく普通の猫。研究成果が首輪そのものなら、コイツは首輪だけを必要としているのだ。それは今の俺の一連の動きを見て確信したといえるだろう。それを説明してくれるほど、面倒見の良い奴ではないだろう。
「そうか」
 俺は指に引っ掛けていた輪で遊びながら相手を見据えた。
「自分で名乗るのと、情報屋に探りを入れるの。どちらが良いよ」
「俺はお前の名などに興味はない」
 ま、そうだろう。
 俺は相手に金の輪を放り投げた。相手の手に収まった輪は、ランプの光にきらりと光った。
 それを見届けて、俺は猫を覗き込んだ。
「じゃ、お前さんは爺さん所につれてってやる。可愛がって貰えるだろうよ」
 下手な貴族の手に渡るよりも、断然良い結果だな。実験と称されて切り刻まれてしまったり、怪しげな呪文や薬に晒されてしまっては流石の俺も目覚めが悪い。第一、爺さんが『猫を連れて来い』って言ったのが悪い。あの爺さんの事だ。捨てたりはしないだろう。
 俺は猫を抱え直すと、奴の足下に転がっていたランプを拾って男から背を向けた。
「アレスだ」
 やっぱり名乗ったじゃねぇか。めんどくさい奴だ。
 アレフガルドでは一般的すぎる茶色い髪と瞳の傭兵と情報屋に探りを入れても、そう簡単には俺の元に辿り着けないだろう。貴族に手渡した後々に猫が必要になって俺が追跡できないのでは奴にとっては問題だ。
「アレフだ」
 俺は歩きながら僅かに振り向いて、愛想なく返した。
 今日は爺さんに肴を提供するのは俺の方かもしれないな。