アレスさんとアレフ 光と闇

 吟遊詩人ガライが書いた魔本がある。
 『死者の書』『闇の書』『滅びの詩』呼び方は様々。しかし、人々から恐れられているという点は同じ。
 黒い魔獣の皮の重厚な表紙は今も生きているかのように艶やかに美しく、触れる指先から鼓動を感じるという。その本は全てのページが真っ黒に塗りつぶされている。何のインクで塗りつぶされているのか知らないが、それは永久の闇のような漆黒であり、見る者はその闇の深さに飲まれ死に絶えるという。
 人々は恐れた。人を殺す魔本の存在を……。

  □ ■ □ ■

 ラダトームで最も美しい教会と言われる、カンタエット教会。
 観光客で賑わうはずの大聖堂には小さい棺が3つ並び、参列者が献花を手向ける。黒の修道服のシスターは白いハンカチで何度も白い頬を流れる雫を拭い、体格の良い傭兵達が黒の衣に身を包み己の獲物をきつく握りしめる。神官も特に儀礼らしい儀礼を行わず、闇や悪魔が肉体に取り付き魂を喰らう事を阻止する祝福を施す。アレフガルド最大の孤児院と言われた背景が縮小されたかのような光景だった。
 粛々と行われている葬儀は終わり、思い思いに参列者は去っていく。最後まで残ったシスターや神官が丁寧に棺を閉じて、祝福を施した糸で織った布を被せ聖水を巻く。いつもなら子供達の声で五月蝿いくらいの教会は、無人のように静まり返っていた。いや、耳を澄ませば啜り泣く声が聞こえてくる。慰めるように時刻は夜を迎えていた。
 床は白と黒のマーブルの大理石が、幾何学の模様のように敷かれた天然の織り成す芸術。柱は蔦の彫刻がまるで生きているように精巧に刻まれ、蝶や動物の彫刻が遊ぶようにその中で生きている。シャンデリアのように天井から下げられた魔法照明の燭台は金とも銀とも言いにくい輝きを持っており、細い飴細工を延ばしたかのような精密さに何処に光源となる魔法を発生させる仕組みがあるのか分からなかった。現在の魔法技術では解析不可能とされたのも頷ける。長椅子はしっとりと磨き込まれたオークで、長く使われた為の光沢を秘めている。見えにくい所には子供の落書きがあり、消そうか消すまいか苦悩する神職者の姿がありありと想像できた。天井は吸い込まれそうな程に高く、上部の階はない完全な吹き抜けである。遥か高みには尖塔からの採光が、内部の複雑な彫刻をモザイクのように光と闇に切り分ける。しかし、圧巻といえる存在感を有するステンドグラスが、その全てを闇に沈め極彩色の輝きを持って空間に君臨していた。
 初めて内部に入ったカンタエット教会は、その評判を裏切るどころか更なる感動を与えるが如く荘厳で華麗であった。吸い込むだけで内部に充満する魔法の濃さが分かる。循環する空気のようにこの教会は魔法技術の粋を尽くして作られ、ここに住む子供達を包み込んで守っていた。
 長椅子の最前列まで歩み寄ると、そこには緋色のマントと鉄の鎧に身を包んだ男が祈っている。この地に戻ってきたばかりなのか、ブーツには砂埃が落ちずにこびり付き茶色い髪は薄汚れている。使い込まれた鋼鉄の剣を立てて、その上に手を組んでいる手が身じろぐように動く。のろのろと上げた日に焼けた顔は、今までで見たことのないくらいの罪悪感の色に濡れていた。
「アレスか……」
 傭兵のアレフは深く暗い声色で、ため息のように俺の名を呼んだ。
 『何の用だ?』そう言いた気に前髪の影に黒みを帯びた瞳が俺を見る。もはや、言葉も紡ぐのも億劫な様子だ。今までこの男の実力や人の良さを見てきた俺には、これほどまでに余裕無く追いつめられたかのような姿は意外に思えた。
 俺はアレフの斜向いに立ち、用件を告げる。
「最後の鍵について聞きたい」
「誰の差し金だ」
 言葉と同時に喉元に突き付けられた白刃の刃。想像通りの反応に身を引く事も容易かったが、余計話を拗らせる事になる。
 しかし、その反応は俺の発言を肯定するも同じ。俺はようやく見つけた手掛かりに内心薄く笑みを浮かべた。
 前髪の隙間の瞳に覗くのは警戒と嫌悪。極彩色を混ぜ合わせたような滑るような漆黒の感情が、彼の茶色の瞳を黒く見せた。引き結ばれた唇は僅かに噛み締められ、彼の引き延ばされた緊張の糸を感じさせる。
 とある貴族の依頼で『最後の鍵』という物を手に入れるよう仰せつかった時、その道の達人といえるリムルダールの名家を訪れた。その名家はリムルダールでは比較的歴史の浅い一族ではあったが、魔力に優れると共に魔法道具の製造に多大な信頼がある一族だった。代表格とされる『魔法の鍵』は脆さ故に評価が低いものの、研究家からは高い評価を得ている。金属に魔力を注入し固定させ、秘められた魔力による金属の変形によってあらゆる扉を開かせる。伝説の存在『最後の鍵』の模倣品というには、少々出来過ぎなほどである。
 故に俺はその一族が何かしらの形で『最後の鍵』に関与している。そう推測したのである。
 思惑は適中した。
 どれほど調べても由緒は不明だが、その一族は勇者ロトの時代に『最後の鍵』相続したらしい。彼等の先祖はその遺産を研究して形にした物が、彼等の信頼の資源である魔法道具の製造等の技術になったものであったとされる。現在では力も衰え、一般市民よりか多少裕福な生活をしているという程度。
 それでも、幻の存在といわれた『最後の鍵』の足掛かりには十二分なものだった。
 世界に存在する全ての扉を開くと言われる魔法の鍵。『マネマネ銀』という伝説の金属と高度な魔法技術を駆使して作られた、人の領域では作られる事など不可能な一品。伝説が俺の目の前で伝説ではなくなった瞬間でもある。
「……」
 冷静になって己の存在を認めた事が腹立たしかったのか、アレフは無言で短剣を仕舞った。
 それでも殺意とも敵意とも取れる警戒心は全く緩まない。彼とは他の他人よりも多く関わった方だというのに、全てを断絶され敵対でもしているかのような印象すら俺に突き付ける。立ち上がり見下ろすように俺を見る視線は、まさに赤の他人を見るような冷ややかさを帯びていた。
「改めて訊く。誰からの依頼だ?」
「ラダトーム貴族から。目的は最後の鍵だ」
 その言葉を聞いてだろうか、アレフの張りつめたような警戒心が若干緩む。
「そうか……」
 アレフは正面のステンドグラスを見遣り、緩慢な動きで剣をベルトに固定する。移動する為の身支度ではあるが、俺を欺こうとか隙をついて場を逃れるような様子はない。ばりばりと頭髪を掻き回すと、アレフは引き結んだ唇をうっすらと開け、囁くような呟くような声を静寂の中に響かせた。
「俺はこれからガキ共が死んだ理由を突き止めに行く。……悪いが、優先順位はこちらが先だ」
 身を翻し深紅のマントがふわりと空気を含み、砂塵が光の中に煌めく粉のように舞った。
 大聖堂と横の繋がりを持つ住居のエリアは、まるで廃墟のような沈黙に悲しみを溶かし冷えきっていた。貴族の家よりも高めに設定された天井からは、大聖堂と同じ細工を施した魔法照明が吊るされている。白く淡い光は窓から差し込む月光と調和して解け合い、廊下にある様々な生活品を浮き彫りにした。子供の衣類、手作りの玩具、絵の描かれた紙。食堂として存在する広間には大小様々な食器と瓶詰めの食料が陳列され、火の気配のない台所には鍋がいくつも置かれている。荘厳華麗な空間と続いているのも疑わしい程の、日々の生活の為に築かれた空間。この建物があった時からこのようであったかのように、月光に縫い留められ動かす事すら許されない。
 馴染みの場所のように分け入るその足取りには一分の隙もない。まるで、目的地を知っているかのようだ。
 白いとすら感じる世界を、俺とアレフの影が切り裂くように進む。
 無言で前を進んでいたアレフが、唐突に言った。
「…奴らは何も持ってはいなかったろう? 何も知らなかったろう?」
「あぁ…」
 最後の鍵についての話である事に、本題でありながら理解するのが若干遅れた。
 そうなのだ。俺もそれは最初に疑問に思った。
 遺産を継承している一族であるのに、彼等の手元には一切それらしき物が残っていなかった。浅くとも一代で成り立っている一族ではない。貴族でさえ対価に家宝を差し出したり、生活に窮すれば財産を売り払う事も珍しくない。なにせ、あの一族は貴族としては低級であった。それはラダトームという首都とリムルダールという辺境の貴族とで比べるのは哀れなほどの差があったが、それを差し引いても貴族らしい気配というものはあまり感じられなかった。ある意味、技術師としての印象を受ける気配が、その一族にはあった。
 しかし、技術師としての面が強ければ尚更あるべき記録というものが一切存在しない。
 口伝で伝わるにしても、当主であろう男には知っているような反応はなかった。
「あの一族は何も持っていない。何も知らない。それが真実だろう」
 横手にあった扉に手を掛け、アレフは俺を見遣り言った。
「ふざけるな」
 言葉とは裏腹に、俺はアレフの言葉に同意していた。彼の言葉が正しいと思う要因が、今までの調べを裏付けるように多かったからだ。
 ラダトーム王家に献上された『ロトの剣』と『光の玉』と『太陽の石』。そして賢者と呼ばれた存在に託された『雨雲の杖』。しかし勇者ロトの時代に存在した遺産はその他にも数多くあるとされる。精霊ルビスから賜ったとされる防具一式は伝承に多く記載され、鋼より強固で深き青く輝く色彩を持つ金属であり、金の文様は不死鳥の印を美しく形作ったという。エルフの秘宝、変化という進化の方程式が刻まれた杖、意志を操る黄金の魔法具、天の宝玉、最後の鍵……。様々な文献に記されたそれは、この世界のどこかにかつてはあったはずなのに、この世界のどこにもない。
 その紛失した遺産を一つでも継承しているならば、辺境であれ人の住む家にあれば何らかの形で情報は漏洩する。
 人の口に戸は立てられないものなのだ。
 しかし…
 俺は扉のノブに手を掛ける男の横顔を見る。日に焼けた粗野な印象を受ける輪郭と肌質、髪の隙間から見える瞳はまさに傭兵のそれである。ラダトームに来たのは4歳くらいの時で、身内は居らずカンタエット教会に身を寄せていた。それでも、子供でもできるような仕事を手に入れてはラダトーム中を駆けずり回り、12歳の時には傭兵として活動を始めたそうだ。金銭感覚はかなりシビア、人付き合いは深くはなかったが顔は異様に広い。情報屋がどんなに探りを入れてもそれ以上の情報はなく、出身地や身元は全く不明だった。本人の口が堅いと同じく、彼の登場は全くの突然であったからだ。
 だが、もう一つ要因がある。
 『アレフ』が偽名であるという事。アレフが本名を隠し通している事である。
 俺が調べたリムルダールの良家で唯一行方が不明な人物は、生存していればアレフと同じ年。そこにアレフが関わってくるなど、俺にしてみれば想定の範囲外に他ならなかった。しかしその人物がアレフである事はもう間違いない。俺は珍しく、確かめたいという好奇心に似た感情に駆られて口を開いた。
「お前の名はアレフィ…」
 喉元に鞘に納めた短剣が深々とめり込み、俺は言葉が発せず息を詰める。言葉を続ければ、首の骨も折らんばかりの気迫が圧迫した箇所から伝わってくる。俺が言葉を続ける様子を見せずに黙り込んだのを確認して、アレフは眉根を寄せて首を振った。まるで毒でも食らったかのような青ざめた顔に、苦渋の表情と冷や汗が浮かぶ。
「俺を……その名で呼ぶな…」
 開かれた扉の先は上下に貫かれた巨大な書庫だ。吹き抜けの壁に相当する場所が全て本棚であり、その本棚の間を板が渡されているような階段が上下の階を繋いでいるのだろう。階段の役割を果たす板の間から覗くのは漆黒のような闇であり、開かれた扉がら流れ込む月光により深さを増して淀んだ。
 屋外よりも冷たく冷やされた空気が、闇と共に足下を緩やかに流れ出る。
 アレフはその闇を暫く見つめた後、階段を下りはじめた。
 階段の役目を負う板には何冊もの本が積み重なれてはいたが、それでも隅に追いやってある為に慎重に歩を進めれば問題ない。棚は非常に強固で厚い木の板を利用しており、詰め込むように本や羊皮紙や巻き物が押し込まれている。横を通るとその本に秘められた魔力が香るように感じられる所から、ここに納められている本は古く貴重な本が多数を占めているのが分かった。暗闇で本の名称を知る事はできなかったが、重厚感を感じる皮の背表紙や留め金として使われている宝石細工は調度品と称しても何ら遜色がない。
 約2階分の階段を下りた後、広大な空間に出たと思われる。真っ暗な空間で、上階を余さず照らしていた魔法照明の類いは無いらしい。ただ、長年鍛えられた空間認識力が、その暗闇に沈む空間が広いと俺に告げたのだ。地下独特の湿り淀んだ空気が満ちている。
 前を行くアレフが振り返ったのか、靴が床を蹴る音がする。硬質な響きから、床は石畳に違いない。
「俺の気配が分かるか?」
 俺はその場が一寸の先も見いだせない闇であるのに、思わず頷いた。
「よし。離れずについて来い」
 アレフはそう言い放ってゆっくりとした歩調で歩み出す。足音が空間を反響し幾重にも重なって耳を打つ。俺は惑わすように響く音を断ち、彼の気配を追って後に続く。そして、思う。
 なぜ、彼はこのような暗闇で俺が頷いたのが分かったのだろうか?
 返答はアレフが俺の頷く様を視認したような口振りであった。彼の問いに俺が了解の意をしめした事を、彼が何らかの形で認めたのだ。
 しかし……どうやって?
 夜目が利く…。夜目は少ない光でも見えるという意味でしかないのだ。光源の何一つない闇の中で視野を保つなど不可能に近い。かといって、頷いた時に鎧の金具等擦れる音で察知したとしても、それが必ずしも頷く動作で鳴ったものか判断できない。気配の察知にどれだけ優れているとしても、動作を知れるものではない。
 アレフはこの暗闇の中を明かりも付けずに進む。時折柱を避けて進むらしく、避けた柱に俺も触れる事ができた。しかし、柱など気配があるものではない。ひんやりと金属のように指先の触覚に訴えて存在を露にした柱は、やはり俺には視認できなかった。アレフは、この闇の中が見えているとしか言い様がなかった。
 やがて、アレフが足を止めた。把っ手を掴みドアノブを回すような音がして暫く、唐突に扉が開く音が響く。重厚な扉の開く野太いうめき声のような音が、暗闇を引き裂いた。地下階の空気とは全く異質の、凍えるように冷たく乾燥した空気が音に続いて溢れ出た。
 なんだろうこの暗さ。
 アレフが入っていくその部屋らしき空間に入り、俺は言い様もない恐怖を感じた。全く目が暗闇に慣れない。それどころか闇は意志でも持っているかのように蠢き、俺を包んでいる。容赦なく全身を眺めまわされているような嫌悪感に鳥肌が立ち、冷気が吐息のように俺に触れる。いつ牙を立てて来るのではないかと見えぬ魔物と対峙したかのような恐怖、もはや剣の柄を握っているだけでは耐えられるものではなかった。
 俺は、無意識にレミーラの呪文を唱えていた…!
「やめろ!アレス!」
 アレフの声が闇を振るわせるが如く言い放つ。
 闇からすり抜けてきたようにアレフの体が俺に迫ってくる。レミーラの光に照らされたアレフの顔は、紙のように白い。継ぐ息も忘れ、アレフは叫ぶように怒鳴った!
「闇を光で照らすな!!」
 言葉が放たれた瞬間、闇が殺気だった!
 光は闇の存在を書き換える。光が闇を刺激し、変質させる。保たれた均衡をレミーラの光が突き崩し、闇が吠えるような怒りを放ち俺にぶつける。湧くように生まれる憎悪に満ちた生命の鼓動。邪悪な意志が光を侵食し、俺を包むレミーラの光ごと飲み込もうとした! 首筋に触れる闇が、生きとし生ける者が直感的に感じる絶対零度の殺意を発する。
 アレフが手を伸ばし、駆け寄る。
 彼は、間に合った。
 蒼白の彼が俺を掴み、胸元に抱き寄せ、マントで覆った。
「…う」
 思いのほか強い力で押し付けられ、思わず呻いてしまう。しかし、彼が間に立つ事によってか迫っていた闇の気配が退いた。
「邪魔をするな、アレフィルド」
 闇が憤るように言う。銅鑼を鳴らすが如く良く響く低音が、空間の全てを震わすように響いた。
「光が攻撃的であればある程、闇も応酬せねば存在できぬ。逆も然り。摂理に反論は許されぬ」
 その言葉にアレフは……いや、アレフィルドは舌打ちした。
 交渉の機会として与えられた空間、そこで相手を怒らせた不手際に対する怒りのような感情だ。その原因を作った点は申し訳なく思ったが、子供達を死に至らしめた原因がこのような存在であるとは俺は想像などできやしなかった。彼の反応では予め予測はついていたようだし、説明してくれれば良かったのだ。聞いて引き下がる俺では当然ないとしても…だ。
「お前はそのまま光ってろ。光を消したら流石の俺も守る手段が限られる」
 一体、あの闇からどうやって守るというのだろう?
 しかし、俺を抱きすくめる手には強くその意志が感じられた。それに先ほどの殺意が向けられて尚、闇の主は殺意を若干抑えた。闇の主とアレフィルドの間には、何らかの関わりがあると思って良いだろう。力量的には闇の主の方が圧倒的に上だが、アレフィルドはその差を同等に持ち込む何かがあるのだ。
「この扉は閉じさせてもらう」
 アレフィルドの声に闇は何の感慨も持たず了承した。
「好きにすると良い。どこにでも扉が存在する事は汝がよく知っているはずだ」
 そこでアレフィルドの手が伸びた。
「最後の鍵を預かってるなら渡してほしい」
「鍵を求めるか。汝の行動とは思えぬ」
 心底驚いているのか、闇がその感情を露にした。探るように展開した闇の集めた情報が波になって押し寄せる。俺が、俺に依頼した貴族の情報が、水に触れた時に感じる外部的な情報のように感じ取れる。リムルダールの町並み、大木を望む家、そこに住む平和そうな一家、古びた写真。アレフィルドは不機嫌そうに写真の情報を掴み、叩き割ったのを感じた。静かな水面に大きく波が立つように、その余波は思った以上に強かった。いくつもの脆弱な闇が砕け、悲鳴を上げて逃げまどった。
 その様子に闇は愉しそうに笑った。
「真祖の末裔に定められた運命。逃げ遂せると思うな、アレフィルド・バコバ・コリドラス」
 謳うように朗々と響く声は、独特の意味合いを込めて言葉を紡ぐ。その真名が響き渡った瞬間、主以外の闇が全て平伏したのを感じた。まるで、闇の頂点に君臨する大魔王を前にするかのような畏怖が、闇を平らげ薙ぎ倒した。
 その中心に居ながら、アレフィルドは吐き捨てるように言った。
「下らねぇな」
 瞳のように深紅の玉を細工の内に挟み、翼のような細工と舞い上がる風をイメージされた流線型の形。闇の中に輝くように生じたそれを、アレフィルドは掴んだ。
 その動作の中で一瞬だけ生じた隙間。その隙間を縫って闇が入り込んだ。
「命拾いしたな」
 闇の蛇が深紅の瞳と口をにたりと笑わせて囁く。俺は思わずレミーラの光を強め、その蛇を光にて断ち切った。
 闇が笑う。まるで子供の癇癪を見ているかのように、闇が蠢き笑っている。
 再び闇がその内面を開いた。簡素な木のテーブル。そこには一冊の漆黒の本が開かれて置かれていた。表紙もページも全てが真っ黒の本だ。
 アレフはその本を手に取り、そっと、閉じた。
 とたんに
 闇の気配が途絶えた。
 アレフは小さく息を吐き、手近の燭台に乗った短くなった蝋燭に火を付ける。明るい炎の光が暖色系の輪を闇の中に投じ、普通の広さを持つ石造りの壁面が濡れるように光を反射した。闇は一段と暗さを増したが、先ほどの主の気配はなかった。
「奴は……何者だ?」
「先祖の遺産を預かる存在だ」
 アレフは漆黒の本を読みながら、ぽつぽつと説明した。
 勇者ロトの時代を生きた先祖は数々の遺産を継承したが、その重要性や影響力、悪用された時の被害を想定すれば人の手に余る物と考えた。その為、彼の先祖が数多くの遺産を人の手に安易に届かない所で、悪用などせぬ信頼に足る存在に預ける事にした。それが、奴だった。
 先祖と対決し退けた存在であったが、彼の先祖はその存在を信用していた。そして奴は彼の先祖の要求を飲み遺産の保管を請け負うことになった。
 子孫で目に適う存在がいれば、招き説明し鍵を渡す。一族が知らなかったのは、記録に一切残っていなかったのは、その為だったのだろう。
 俺は奴の気配を思い出し、血が滾る思いだった。圧倒的な気配であるのに、討たなければならないと体の内から叫び吠える。人とは全く相容れない存在。一族という肉親に危害が及ぶような存在を誰からも隠して行く必要があったのだろう。
「鍵を預かるという表現は例えだ。実際は扉の位置や、闇の中に何があるのか分かる。やろうと思えば奴との記憶も共有できるそうだ」
 アレフは悔しそうに目元を細めた。
 彼はある程度の確信を持ちながら、改めて知ったんだろう。子供達を殺した存在が、奴である事。子供達が戯れに侵入し闇を光で照らしてしまい、どのように殺されてしまったのかという事。あの存在に続く扉に早く気が付いていればこのように閉じる事ができた。だが、気が付くのが遅かったのだ。
「面白くねぇ本だ」
 アレフは小さく舌打ちして本を閉じた。
 降りた静寂。その中で俺は思わず声を上げた。
「お前は…何者なんだ?」
 あぁ、聞きたい事は、疑問に思った事は山のようにある。
 聞いたとしても何の特にもならぬ事であるのに、なぜ、俺は訊いているのだろう?
「アレス。お前、女だろ?」
「…な」
 答えすら返す事なく平然と言って退けたアレフは、俺の顔を見る。俺は俺で、突然の言葉に声を失ってアレフを見た。
 黙って俺の顔を見ていたアレフは、やがて確信を得たかのように表情を呆れさせて視線を外した。
「可愛らしい声だったから、まさかと思ったが……。本当だったとはな……」
 ……たかが、たかがそんな理由で女だと思うのか!?
 しかし反論も出来はしない。それは肯定も同じだった。あまりの恥ずかしさに、悔しさに、己の腑甲斐無さにただ睨み付け震える。
 アレフは笑った。俺を見て、軽く腕を放った。
「俺は…傭兵のアレフだ」
 黄金色の至宝が闇と光の間を、輝きながら渡り行く。最後の鍵が宙を舞った。