アレスさんとアレフ 食と味

 アレフガルド屈指の温泉郷マイラは同時に鍛冶技術の非常に発達した地域でもある。メルキドの武器製作技術も確かに信頼が置けるのだが、メルキドは魔法を施した武具の開発に優れている。例えば魔法の鎧や炎の剣や各種のアミュレットなど、魔力を帯びている武具ならばメルキドの方が優秀だ。しかし素材単品の質を高める技量はマイラの方が優れている。
 俺達傭兵という職業は、武具の消費が激しい職業でもある。
 せっせと修繕はしていても、度重なる戦闘や護衛の行程の天候に疲弊してしまう。俺も鉄の鎧をドムドーラ大砂漠の砂やメルキド山脈の変わりやすい大雨に何度も錆び付かせるし、魔物や盗賊への対処で傷や凹みは常に絶えない。剣とは違い鎧ばかりは『買い替えた方が安上がりだ』と鍛治師に言われる始末である。俺が盾を使わない戦闘スタイルというのもあって、修繕費は確かに買い値よりも高く付いてしまう為に毎回苦渋の選択を取らざる得ない。
 その代わりなのか剣の保ちは良い。
 俺が鋼鉄の剣を手に入れてからは、全部を買い替えた記憶は一度もない。だが、毎日の手入れは欠かさないし、一年に一回程度は必ずマイラの鍛治師の元で研ぎ直しをしてもらう。
 マイラは温泉郷として観光客も絶えないが、それなりに混む時期は決まっている。その時期以外は宿も安かったりするので、俺はその時期を狙って打ち直しを依頼しにマイラへ向かうのだ。護衛依頼を探すのが逆に大変な時期でもあるので、一人旅が多い。
 一人旅の方が性に合ってるんだがな。
 俺はマイラの山道へ続く街道を北上しながら、眼前に聳え立つ緑深き山の連なりを見遣った。メルキド山脈とは違いマイラの山岳地帯は非常に緑が多い為、真冬の豪雪地帯とされても観光客が絶える事はない。木の下なら多少の雪も避けられる為に街道が完全に雪に閉ざされることも少なく、何よりも雪崩の危険が少ないのだ。
 魔物の強さも弱い方で、俺としてはちょっとしたハイキング気分である。
 なので、その後ろ姿を見た時は、そいつは登山初心者か3合程度で引き返す本当にハイキング目的の旅行者なのかと思ったものだ。
 しかし、どう見てもその相手が羽織っているのは本格的な厚く重厚感のある外套で、旅慣れているに違いない。旅慣れた一人旅の背中は外套以外にも、兜と肩当てが視認でき戦士か何かの職業らしい。外套の翻る様と地面の隙間に見える使い込まれたブーツ、登り坂でも疲れを感じさせない一定の歩調、景色を楽しむ素振りも感じられぬ一点を据えた頭部。まだ俺の親指程度しか見えぬ後ろ姿なのだが、その後ろ姿に違和感を感じて仕方がない。そう、その旅慣れた姿に、何かが足りない。
 同じ傭兵仲間ではないだろう。
 もし同じ傭兵仲間だとしたら、そいつは新人か大事な何かを忘れたうっかり者に間違いはない。
 その何かとはそれほどまでに、絶対に、旅人として必要不可欠な『何か』なのだ。
 俺は相手の歩調に合わせて計った歩幅がと歩調が、俺の普段のペースよりも若干遅めであったのを確認した。まぁ、歩幅は俺が若干広いからか、追い越さねば延々と相手の背後を付いて回る嵌めになるだろう。一旦速度を上げて追い越して見えぬ距離くらい引き離してから、いつもの歩行速度に落としても追い越される事はあるまい。
 そう決めるや否や、俺は手に持った荷物を担ぎ直し歩行を早めた。
 近付いてきた距離の中で、俺は相手に何が足りないのかようやく理解した。驚く事に荷物が少ないのだ。俺が持っている荷物はベルトに固定した3つの革製の鞄と、手に持った帆布で出来た大きめの荷物袋である。それに対して、相手は手ぶらと言っても良いのではないだろうか? どちらにしろこれから数日間、マイラへの登山を強いれる装備は持っていそうにない。
 鞄の中には旅路に必要な金銭や薬草類などの小道具が入っており、他にも保存食や水分の食料も数日分もあり、俺が傭兵の仕事をする上で持ち歩かねばならない必要最低限が収まっている。これはベルトに固定している為、戦闘の際も邪魔になる事はない。傭兵としての知恵だ。だが、帆布の荷物袋は違う。帆布の袋の中には鍋や匙などの料理用具や、調理せねば食べられぬが日持ちする食料が納められている。商隊と行動を共にするならば持つ必要のない荷物ではあるが、一人旅ではどうしても必要になる。これがなくてもマイラの芳醇な森林のおかげで餓死する事はないだろうが、ハイキング気分は著しく疎外されるに違いない。
 目の前を行く相手には、一人旅で必要になるだろう食料を持っている様子が見られなかったのだ。それはあと数十歩という距離まで詰めた今、違和感として感じられた足りない何かの原因であったと確信した。
 どう見ても旅馴れている感じがあるのだが、一体どんな面構えなのやら…。
 俺がそんな好奇心に相手の後頭部を見遣ったとほぼ同時に、相手も近付いてきた存在を確かめる為に俺を見遣った。
 次の瞬間互いに浮かんだのは、驚きだった。
 茶色い髪に蒼い瞳の…そう、アレスだ。今までも何度か行動を共にしていた以上、見間違える事はあり得ない。アレスはわずかに目を見開き驚いたように息を飲んだように見えたが、あまり表情は動いていない。俺が驚いたと感じたのは、アレスから驚いたような雰囲気を感じたからだ。
 どうしてこんな所で出会うのか疑問も確かにあるが、黙って追い越す事のできるほどの関係では流石にない。
 俺はそのまま追い越してしまった歩行速度を落として、アレスの横に並んだ。
「アレスもマイラに何か用なのか?」
「そうだ」
 落ち着いた返答が帰ってきた。アレスも俺がマイラヘ向かう事は既に察しついているのか、その事については何も触れてこなかった。
 それはいい。
 俺はアレスの横に並んだ事でようやく見出した手元を見て再び驚くはめになる。
 探索商人としてラダトームに拠点を置いてはいるだろうが、探索商人とは依頼の品を調達する為に各都市を巡るどころか人など訪れない秘境に入る事すらある人種だ。ある意味、傭兵以上に旅慣れている職業だ。正気だとしたら、それは相手の実力が俺の想像以上であるという事に違いない。
「お…おまえ、食料は?」
 完全に狼狽しているのが伝わってしまうのが分かる声色だが、構ってはいられなかった。
「その場で調達する」
 素っ気ないほどの簡潔さで返答したアレスの手は完全に空だった。荷物は俺のようにベルトに固定して邪魔にならないようにしてはあるが、非常食等を納めている容量にしては小さすぎる。これからのマイラの山道をちょっと隣町に出掛けるような軽い装備で臨もうとしているようにしか見えない。確かに野草や獣もいるので食料を調達しようと思えばできるだろうが、…俺だってやろうと思えばできるがしたくはない。だから食料を持って山を登っている訳だし……。
 どうするべきなのだろう?
 俺と同じかそれ以上に旅慣れている若者に、わざわざ指摘するなど余計な節介だろう。
 第一、アレスは行動としては慎重で堅実なタイプなのだから、食料の調達を忘れてきたなどとは考えられる訳がない。彼は本当に食料を現地調達しながらこの山道を登るつもりなのだ。ハイキング気分で少々食料の質を高めにし、さらに量を多めに持ってきた俺とは対照的である。これをアレスは修行の一環として行っているのか、それとも探索商人として野外に出る時に行っている常時の行為なのかは俺は知らない。
 だが、俺が混乱する一歩手前まで目まぐるしく思考を巡らしている論点はそこではない。
 一緒に行くべきか、別行動してしまうか…だ。
 当然だが、顔見知りとは言え行動を共にする程の仲でも、義理を尽くすべき相手でもない。
 アレスが団体行動を好むような奴だとも思えない。
 俺も久々の一人旅な訳だし、誰かと行動したいなどとは考えていない。俺は誰かと行動を共にするのには慣れているが、好きか嫌いかと問われれば好きじゃないと答える。そういえば、あの藪医者からマイラ地方の薬草いくつか持って来て欲しいと言われていたから、村で買うよりか道中見つける方が良いだろう。
 ならば、選択するべきは『別行動』であるべきなのだ。
 そう。アレス本人が敢えて食料を持ってきていないのだから、俺が食事の事まで考えてやる必要などない。俺はお人好しな思考に苦笑して、落ち着きを取り戻した。
「そうか……、邪魔したな」
 俺は小さく手を挙げて、アレスを追い抜いた。
 振り返らず、先ほど追い抜こうとした歩行速度で先を行く。おそらく、距離はどんどん広がっているに違いない。

 □ ■ □ ■

 マイラ登山の行程の一日分を野草の採取に充て、なかなかの量が採れた。歩行速度を上げる事で切り詰めて一日分を確保したつもりだったが、ハイキング気分で多めに持ってきた食料のおかげで無用な心配だったようだ。俺は採取した野草を痛まないように瓶詰めし、堅くコルクの栓を締める。後日に宿を取った所で乾燥させて先生の手土産の完成だ。
 指定外の物もいくらか混じって入るが、あの人なら気にもかけないだろう。俺は上機嫌に積み重ねた瓶を丁寧に緩衝の為の皮に包み、帆布の袋の底に入れた。そのまま、大木に背を預け体を伸ばす。燃える焚火の炎に少しだけ離して暖めてある夕飯のスープと、即席で作り鉄串に巻き付けて焼いてあるパンの生地を見ながら幸せな気分になる。これで旨い酒でもあれば最高なのだが、流石に野宿に酒が入るのは得策ではない。
 ここからなら明後日にはマイラに到着する。
 先生からの依頼もそれ相応にこなしたとなれば、後は剣の打ち直しを鍛治師に頼んで完成するまで露天風呂でのんびりさせてもらえるだろう。
 ぼんやりと身を起こし焚火に枝を足して火加減を調節しながら、他にやり残した事はないか考えるも特に思い浮かばない。…久々の本気の休日を満喫できそうだ。
「休日かぁ…」
 そう言えば、何もする事が無い日など一年にあるか無いか。
 俺が何もしないと決めなければ、休日は休日にならないのだ。
 思わず口元が緩む。
 なかなか手に入らないものが手に入ると分かると、やっぱり俺も幸福に感じるものらしい。
 スープとパンの香りが漂い始めた。だが、もうちょっと食べ頃になるには遠い。
 俺は意識を引き締めて森の様子を探る。香りに釣られて、魔物や動物がやって来るという事は十二分にあるのだ。
 夕日は沈み空は完全に漆黒となり、所々に星が見え月は木の陰に隠れて見えない。焚火の炎が円形に淡く暖かい赤で照らし、周囲の木々の樹皮を掘り出し、奥の闇を濃厚にして沈めて黒く埋める。上空の風とは別に、煙と熱気に俺が寄りかかっている樹木の葉が揺れさらさらと音を立てる。時折聞こえる野鳥の鳴き声、狼の遠吠え、虫の囁き、どこにも魔物の声はない。
 俺は片手に剣を抜き放ち、火に熱した鉄串を引き寄せた。革の手袋をはめ、闇の奥を見据える。
 魔物は襲ってくる直前という時に、声を発する事はない。魔物の鳴き声とは同族に対して縄張りを主張する合図であって、その鳴き声が聞こえる限り魔物はこちらの存在に気が付いておらず、また他の魔物も主張する範囲には近付く可能性が少ない。だからこそ魔物の鳴き声が聞こえないからと言って、決して油断してはいけない。ましてや香りが漂い広がっている今、相手が襲って来ない方がおかしいと言うべきだろう。
 非常に耳障りな声を立てて、真っ黒い固まりが森の中の漆黒から飛び出してくる! 俺は牽制の意味合いも持っただろう声を聞いた瞬間に、その方角に鉄串を放つ! 熱された鉄串に貫かれ、ドラキーは鈍い声を血が熱されて蒸発する音に混ぜながら炎の光が届くギリギリの所に落ちた。動かなくなった敵を見つめ、さらに闇の奥を見据える。
 闇の奥から光が漏れてくる。
 炎の揺らめきを感じない、無機質な魔法の光が葉を掻き分ける音と共に近付いてくる。闇と光が強く引き立てあって、その中にあるものが全く見えない。どうやら、相手のレミーラは手などに集中するのではなく体から溢れるように制御しているらしい。やがて光が炎に照らされる樹木の横にまで近付き、炎の光と融和して光の元が見えた。
「アレスだったのか」
 レミーラを使っていたアレスは死したドラキーを見遣っていた。
 おどかすな…と俺は呟きながら剣を納め腰を落とした。
 俺が野草の採取に明け暮れている間に追い付いたのだろう。俺が火を焚いているこの場所は実際マイラへ続く街道からはそれほど離れていない。焚火の光でも見えたので、近付いてみたのかもしれん。
 俺はドラキーの死体を見つめているアレスを見遣って、声をかけた。
「晩飯も出来た頃合いだし、座れよ」
 俺の言葉が理解できないと言いたげに、アレスが眉根を少しだけ寄せた。奇麗な眉間に皺が寄る。
「俺はいつも朝の分も夜に作っちまう方だから、二人分はある。俺は流石に出来た飯を目の前にして『帰れ』と言うほど酷い人間じゃないつもりだ」
 むしろ俺がそうされたら辛い。
 荷物袋の中から椀と匙を二組出すと、匙で一口味を見る。もともと保存用の肉の塩気もあって、味は十分にしっかりしてしょっぱいくらいだ。水で戻した乾物の根野菜がスープの味を吸って良い色合いに色付き、下ごしらえで灰汁を抜いた野草が華やかに緑を添える。パンに串を刺して生地が付かず中まで焼けているのを確認して、俺はスープとパンを持ってアレスを見た。
 相変わらず立っていた彼が、漸く焚火の向かいに座る。
 俺が差し出した晩飯は、俺が食べ始めて少ししてから口にし出した。警戒している…というよりも居心地でも悪かったのかもしれん。
 俺は個人の護衛専門の傭兵ではないから何とも言えないが、野営の飯の腕は悪くないと思っている。むしろ一緒に商隊の護衛を行う傭兵たちの中では、料理の腕は良い方だ。俺の料理はいかにも男が作りました的な見た目ではなく、仲間からは『女が作ったのか?』と言われるほどの丁寧さである。ちゃんと肉は火が通りやすく薄くスライスするし、野菜類もしっかりと調理法に添った切り方を心掛ける。彩りも、余裕があれば考慮する。
 俺が料理の味や食う事の対して、それなりに熱意があるからだとベテランは良く言っていた。
 今回は余裕のある晩飯で、俺が今年一年で作った飯の中では1・2を争う出来に違いない。アレスの反応が無いので彼自身がどう思っているかは知らないが、俺としては良い出来だと思う。旨いと思える飯を自分で作れるだけで合格だ。
「このままここで野宿でもしてったらどうだ?」
 飯を食い終えたアレスがさも嫌そうに顔を顰めた。
「嫌なら別に構わねぇけど、お前、これから野宿の準備するのかったるいぞ? ま、俺は寝ちまうから好きにすればいいけどさ」
 そういうが早いか、俺は外套と剣を引き寄せて木にもたれた。夕刻の修練は済ませたし、もう、寝るだけ。俺は目を閉じながら感じる外の気配の中で、アレスは結局その場から離れなかったのを感じた。薄目を開けて探すと少し俺から見えにくい木の影に居所を定めたらしい。一緒には居るが、交代で見張りをしなくてはならない程、互いに弱くない。一人野宿と変わらないようにして寝ろと、その僅かに見えるアレスの外套が物語っていた。
 ま、適当にやってくれ。
 四方八方が草に囲まれており野宿している旅人を狙う盗賊達の行動を察知する事と、街道から離れない事によって魔物の襲撃率が上がらないようにもしている。夜行性の魔物は焚火の光にすら眩んでしまうほど光を感じる視覚が特化しているので、火さえ絶やさなければおいそれと負ける事はない。俺は目を閉じて意識を外に留めつつ、吐く息と一緒にできるだけ体の力を抜いた。

 空の色は深い紺の色彩だが、徐々に明るくなってくるだろう。俺は空を見上げて懐中時計を眠気眼で眺めて思う。
 俺は外套を荷物の上に引っ掛けると、剣と水を入れる袋を手に持つ。アレスが寝ている場所には、寝る前に見たのと大して変わらぬ姿勢で彼が居るような気がする。まぁ、どちらにしろ彼はここで野宿する事を選んだんだろう。俺としてはどうでも良いことだ。
 頭を掻くついでに手櫛で梳きながら、野営の場所から更に街道を離れる。程なくして突き当たった崖と言っても差し支えない急斜面の下を覗き込み、下に小川が流れているのを確認する。早朝よりも少し早い時間だが、どうやら魔物や動物の影はないようだ。
 俺は急斜面を滑り降りるように下ると、小川の清流を少し掬って口に含む。マイラの火山帯の成分を少し含んで癖があるが、流石に温泉ほど味や匂いがついているわけではない。俺は袋に水を汲み、野営の場所に引き返す。
 明るくなりはじめた空を見上げながら、ぼんやりと考える。
 剣の修練はいつも野営している場所で行うのだが、今日はどうするかなぁ? 少し離れた場所で行えば問題ないか。剣を振り回しても木にぶつからない程度の広さの場所を見つけると、足下に生い茂る草の下を探り小石を一つ拾う。
「…さて、やるか」
 小石を真上に放り投げ、剣を抜き放ち落下する小石を跳ね上げる! 徐々に跳ね上げる力を弱め、剣の速度を上げなければ跳ね上げられないようにしていく。
 足下の草が動きを阻害し、打ち返しにくくする場面は数多くあったが、それも修練の内だ。どちらにしろ、石が地面に落下する前に跳ね上げればいいのだからな。
 森の中に小石と剣の刃が当たる音が間断なく響いてゆく。
 黙々と剣を振って大分時間が経ったのか、体が温まり汗もかいてくる。
 もう……十分かな?
 そう思った俺は小石の落下するべき場所を定め、今度は跳ね上げるのではなく、小石を両断した! 俺は地面に落ちた小石が奇麗な断面を保って両断されたのを見ると、再び石を地面に転がした。
「…ん?」
 息を吐いて修練の為に張った気を緩めると、俺の嗅覚に何かが引っかかる。
 料理の匂いだ。
「アレスが…料理してるのか?」
 人の事は言えないが、あまりにも料理の似合わない彼が料理しているとは想像しがたい。彼も俺が作った飯を見て食べるのをそれなりに躊躇ったのは、俺が料理をするような人間だとは思わなかったからだろう。まぁ、傭兵だしそれなりに料理ができたとしても、あんなに本格的なものだとは……と仲間からも意外そうに言われる訳だし。お互い様というやつか。
 しかし、やはり肉が焼ける匂いやら、料理をしている時に発する匂いというものが空気に漂っている。思わず、空腹に腹が鳴る。
 剣と水の入った袋を持って、野営した場所に戻る。
 やはり、予想が正解だった。
 やはり、驚きは隠せず動揺はする。
 焚火には串を刺した肉が並べられ、俺が使っていて昨日は片付けなかった小さい鍋にスープが新たに作られている。量は、きっかり二人分。そして焚火の傍には当然ながらアレスしかいない。彼の横にはダガーナイフが置かれており、肉を捌いた後なのか脂肪や血液が刃にこびり付いている。
 アレスは立ち尽くしている俺を一瞥すると、黙って椀にスープと肉を取り分け寄越した。そしてアレスが黙々と朝食を食いはじめた。
 …期待はしていなかっただけに、ありがたく感じる。口では言わず、無言で匙を持った手を合わす。
 早速、スープの椀を持ち上げる。スープには刻まれた煮込まれて透明になった野菜と、焚火で焼いている肉と同じ種類のものが一緒に煮込まれている。彼は食材は現地調達すると言った以上、この肉はどこかで狩ってきた獲物だ。そう思えば、肉の加工処理に至っては手慣れているを通り過ぎて完璧というべきだろう。剣では捌くのには不向きだし、あのダガーナイフ一本で獣をかっ捌くのはそれなりに技術というものが必要になる。アレスのサバイバル能力は凄まじいとしか言い様がない。
 じゃ、いただくか。
 俺はスープを一口啜り
「………!!!」
 味覚という感覚が脳内で認識する間もなく、反射的に俺は盛大に咽せ込んだ。うっかりそれを飲み込もうとしない為に、液体が気管にでも落っこちかけたのか、非常に苦しい。体を折り曲げ、口の中の味まで吐き出さんばかりに咳き込んで体が痛い。
 口の中に広がった味は生理的に受け付けられない為に、酷い嘔気をもたらし油断すれば胃液が口に競り上がってきそうになる。感覚的には、まるで溶けた金属のようである。口の中に含んだとしても、決して体内に入れる事ができないのは人間の本能が知っているからだ。そんな感覚だ。
 啜った程度の量でこんな破壊的な味覚を体現せしめるのは、俺の知る限りたった一つ。
 こんな物を食材に入れようとする者など、俺はアレフガルドに存在しないと思っていたくらいだ。誰もが、『あれ』が食材として最悪の味であると知っている。ちょっとした悪戯で食材に混ぜて食わせようなどとは誰も思わない。そんな、冗談として成立する程度の存在ではないのだ。子供はあれを飲み下した瞬間死ぬという事を本気で信じているが、大人ですらそれに笑って否定する事などできない。
 体の過剰なまでの防御反応に苦しみ涙目になりながら、俺はアレスを見た。
「お、お前、スープに何入れてるんだ!?」
「何って」
 アレスは椀の中に一回視線を落とし、再び俺を見た。
「スライムの」
「んなもん入れるなぁああ!!!」
 質問しておいてアレスの言葉を全力で遮り、俺は喉も嗄れる程に叫ぶ。
 やはりそうなのか。聞きたくもなかった! 俺は後悔と背筋を走る悪寒に頭を抱えて叫んだ!!
「食いもんじゃないだろ!あれは…、あれは………、本当に食いもんじゃない!!」
 未だに口腔内に残る味に身震いし、俺は吐き気と苦痛に耐え切れずに完全に顔を伏せて蹲った。
 視界の外では、アレスは例のスープを啜り独り言のように呟く。
「問題ないじゃないか」
「何がだ!?『何が問題ない』だ? 言ってみろよ!!…いや、駄目だ。聞きたくもねぇ!!」
 顔を上げて抗議する。すると、視界の中に何かが無い事に気が付く。
 ドラキーの死体だ。
 ……まさか。
「肉は…何なんだ?」
 いや、答えなど聞くまでもないかもしれない。
 なんたってスライムスープ啜って平然としている正に規格外的存在だ。想像通りの返答が返ってきたとしても、特別驚く事などできないだろう。だが、確かめたかった。俺は確かめずには居られなかった。
 そしてアレスの端正な顔が殊更美しく見える表情で、俺の質問に答えた。
「ドラキーだ」
 こいつ…味覚絶対おかしい。変だ。俺の表情は絶望に今にも泣きそうになっているかもしれん。
 アレフガルドに無数と存在する魔物ではあるが、その全てが人間が食えるという訳ではない。最凶最悪の味覚として作用するスライムを始めとし、人間の味覚では全く受け付けられない魔物が多数を占めているのだ。ごく一部の魔物に限り、調理法次第で食えるという程度が人間の食用範囲である。
 しかも『人間の食用範囲』の意味合いは『人間が美味しく食べられる』という条件の範囲でもあり、味覚に執着しない人間ならもう少し広範囲の魔物が食用範囲となる。俺も傭兵なので、生き死にが懸かれば食用の最大範囲を食う事になる。無論、食えるし食った事もある。
 ドラキーも焼けば食えるが、食える場所はあまり多くない。
 個人的には魔物を食用として好む傾向ではないのだ。
 まぁ、翼の軟骨っぽい歯触りが好きな奴もいて、好んで酒の肴にしたり居酒屋の隠れメニューとして存在もしている事はしている。しかし、圧倒的大多数で魔物に対しては食用という認識が人間は薄い。魔物の中で一際美味いとされるキメラのように認知されているとしても、魔物を食う事は一種の偏見の目で見られてしまうものだ。
 俺達傭兵ですら、食料と先々の行程が不安でない限りは魔物は食わない。
「アレス…」
 そして、彼は『その場で調達する』と言った。
 食料を持たないで旅をするという事になるが、道中、動物を狩って目的地まで空腹を覚えず行けるかといえばそうはいかない。一般的な商隊は道中の食料の補填を行わなくても良い様に、予定日程の倍近くの食料を持って目的地を目指す。つまり、道中で動物等の人間が食べれる食材が手に入るという可能性を一切持っていないのだ。荷物が少なければ少ないほど良いとされる商隊でさえ、そんな認識である。
 食料を持たないでの旅が如何に困難な事であろう。
 しかし、それは魔物という存在を食さない、という条件の元でである。
 俺はすごく悲しい気持ちになって項垂れ、絞り出すように言葉を紡いだ。
「マイラまで、俺、お前の面倒見るわ」
 アレスが嫌そうな気配を立ち上らせた。しかし、彼が引き返さないのなら歩調の早い俺を引き離す事は不可能に違いない。
 こいつは、道中、倒した魔物を食っているのだろう。調達するとは、そういう意味にしか聞こえない。そういう意味なら、野営の場所に彼がやってきたのも納得できた。
 偽善者的な同情心と受け取ってもらっても構わない。あまり味覚に対してこだわりのない彼にしてみれば異常な節介であるように思うだろうが、俺は食う事に関してだけは金以上に煩い。せめて俺の目の前で俺が食料を持っている時だけは、魔物は食って欲しくないのは俺の我が儘でもあった。
 俺はため息を付いて良い色に焼けたドラキーの肉を齧った。
 食える物は、美味い物の方が良い。