アレスさんとアレフ 恋と友

 貴族に恋愛の話は絶えない。
 噂話も、事実も、嘘も、取り立てて意味合いはなく、貴族の暇つぶしとして永久不変の確固たる地位を保持し続けるのか恋愛の話であるだけだ。目麗しい男女の並ぶ様は花のように美しく羨望の眼差しで語られ、毒を持った予測を持って蜜のように甘く囁かれる。恋愛とは娯楽の一種。政略的婚約がほとんどの貴族の世界ではその認識傾向が特に強い。
 なので、俺はその依頼が興味から来るものだと感じていた。
 晴天の麗らかな日差しに鮮やかに色付く庭には、丁度薔薇が一番美しく咲き誇る時期である。芝生は柔らかく朝露に濡れて輝くも、主の衣を濡らさぬよう絶妙の長さに揃えられ、石畳が庭の隅々にまで整備されている。実に良く手入れされている。濃い緑の中に咲き誇る色とりどりの色彩が庭の中に満ちているが、テーブルと椅子を設え茶を用意した一角には桃色の小振りながらに可愛らしい薔薇が咲いていた。
「媚薬ですか…」
 俺の依頼内容の復唱という意味もある呟きに、貴族の令嬢が微笑みながら応えた。
「えぇ。遥か昔から研究を重ねて、未だに完成を見ない、人の心を操作する薬。是非とも拝見しとうございますの」
 清楚な印象を与えるも全てが一級品という装いの令嬢は、恋愛をして恋人がいてもおかしくはない年齢と外見を持っている。貴族に相応しい整った顔立ち、細く色白の手、一挙一動にまで行き渡る優雅な所作、微笑を讃え慎ましやかに咲き誇る気配。唯一彼女がその外見と食い違うものがあるならば、彼女は魔法具の研究家の一人であるという事だろう。
 この庭を所有する貴族の一族は、魔法研究の中でも道具に魔力を貯え発動させる魔法具の研究の第一人者を当主としている。研究成果はあらゆる面に活用され、貴族の中では相当の実力者として知られている。製作も行っており魔力を帯びた品々を宮廷に献上もしている。
 しかし、そのような立場だから気になる事がある。
 なぜ彼女が『媚薬』というものに、今更興味を持ったのか…。そして、探索商人である俺に依頼するのか。
 貴族にも薬剤に関して専門の研究を重ねている者は存在する。彼女の属する一族程に名門であるならば、薬学研究を行っている貴族へ働きかけ研究成果を一部であっても閲覧することも可能であろう。そして名門な貴族程に共通するのは、依頼の品に対する知識を十二分に持っているという事である。
 想像の域は出ないが、貴族ではない個人が独自に行われている研究に興味を持ったのではないか。
 そうであるならば貴族が直に干渉する事は非常にリスクが高い。
 その為の探索商人への依頼であるならば、成る程、理に適っている。
「最近ラダトーム城下に居を構える呪術研究家と薬学医師が、媚薬の研究を行っていると耳に挟みました」
 俺が紅茶のカップに目を落とす僅かな間に巡らせた思考は、どうやら正解であったようだ。俺は視線を上げて令嬢を見つめた。
 さらさらと長い髪が優雅に落ち、はにかむ笑みは答えへ導くように訴える。
「では、その結果を提出すれば宜しいのでしょうか?」
 えぇ。
 風に流されてしまいそうな了承の返答だが、零れるような満足そうな微笑が声を不要とした。少しだけ目を伏せて、真っ白い便箋をテーブルの上に滑らすように置く。染み一つない便箋には前金の金額が書かれているだろう。俺が受け取れば、その金額が銀行に振り込まれる。
 俺はその便箋を受け取り、令嬢に畏まった。

 □ ■ □ ■

 依頼主が話していた呪術研究家は、魔法を知る者の中では知らぬ者が居ないとまで言われる有名人である。今は老人という年齢に達している人物であるが、貴族とも王宮とも関わりを一切持たず研究を公表することもないが故に『秘匿の賢者』とも呼ばれている。直に会った事はないが、知識や技量において王宮の魔法儀官長と同等かそれ以上の存在と噂されている。
 老人の研究の内容はあまりの難しさのあまりに研究者が皆無とされる呪術の分野である。一度だけ開示された研究成果は魔法使いの常識を覆す程の衝撃と、理解できる者が極僅かという難解なものであった。他人の魔法論文を尽く解明しより向上した内容を解説してくれる俺の師匠でさえ、『完璧ね』と唸るに留めたほどであった。
 貴族に対しては拒絶とも言える姿勢を貫く偏屈な老人であるらしい。
 令嬢が俺に依頼した理由も、調べるほどに理解を深めるだけだった。
 その老人の自宅はラダトーム大通りのちょうど真ん中にある広場から、路地を巡り奥まった場所に家を構えている。一軒家としては大きいと思える家は、歴史を感じるほどに古めかしく感じる。壁を這う蔦の葉が青々と茂るのを横目に見ながら、俺はその家の戸を叩いた。
 ほどなくして扉が開く。
 開いたわずかな隙間から、漆黒の艶やかな毛並みの猫がするりと出てきた。
「アレフ、遅かっ…」
 頭髪のない代わりに豊かすぎる口ひげが嬉しげに持ち上がった状態で、老人は凍り付く。暫くして恥ずかしげに俯き、咳払いを一つ。
「何か用かね?」
 再び俺を見上げた老人の顔は威厳に溢れ、気難しさを漂わせている。俺の身なりから探索商人にある事を察したのか、警戒の色が色濃く声に現れていた。
 俺は貴族以上に慎重に言葉を選びながら懇切丁寧に話し始めた。
 突然の訪問の非礼を詫び、己の身分を明かし、媚薬の研究をされている事、それに対してとある貴族が興味を持っている事を伝える。本来ならばそこまで明かす事は探索商人としては危険極まりない。しかし、このような人物の周りから探りを入れると、いつの間にか本人の耳に入り完全拒否の姿勢をとられてしまう。媚薬の研究の協力者の医師は若いらしく、その医師の口添えがあったとしても老人が拒否すれば協力は得られまい。師匠ならばもっと違う方法で接触しただろうが、俺には直接交渉しか思い浮かばなかったのだ。
 一通り話を聞き終えた老人の顔に険しさが広がり、無言で手が扉のノブに掛かった。
「一つ、伺いたいのですが…」
 俺は閉められる扉と壁の隙間に靴先を滑り込ませ、老人に訊ねた。
「傭兵のアレフとお知り合いなのですか?」
 扉と壁の隙間から見える老人の瞳に疑惑が浮かび、拒否的な態度が幾分か緩む。
 なぜこんな所で彼の名前が出てくるのだろう? 俺は茶色い髪と瞳の傭兵を思い出すと同時に、彼のお陰で現状が維持できている悔しさに苦渋の思いが胸に広がった。
 互いに黙り込んでしまい、沈黙の中で真意を探り合おうとする空気を話題の男の声が引き裂いた。
「アレスじゃないか」
 振り返れば頭よりも高く積み重ね紐で団子の様にまとめ上げた箱の固まりの後ろから、アレフが顔を覗かせて俺を見ている。驚いた事に傭兵の装いではなく、ごく一般的な私服に剣だけ下げている。数歩後ろには灰色の髪に無精髭を貯えた男が、アレフより多くはないが箱と紙の束を抱えて立っている。二人共玄関先で硬直している俺達を訝しげに見つめていた。
 俺の顔を確認したアレフが、俺の横に歩み寄り恨みがましく老人に詰め寄った。
「爺さん。知り合いならアレスに頼んでくれよ。常連の店に手紙握らせてまで俺に頼もうとするな」
「わ、儂は知らぬ! 今こやつが儂の家に訪ねて来たんじゃ!」
 老人も扉を開け放ち、必死の様相で今までの経緯を捲し立てる。
 しかしアレフは疑いの眼差しを緩める事なく、俺と老人を見比べた。俺は俺で老人に『お前も説明せんか!』と脇腹を突かれる。俺が口を開く前にアレフが意地悪く目を細め、老人を見下ろした。
「本当かぁ?」
「んな事、どうでも良いじゃねぇか。俺はアレフ君の方に頼んだ方がよっぽど楽しいと思うぞ?」
 睨合いを繰り広げる男性二人の横を悠然と無精髭の男が通り、家の中に入ってゆく。その背にアレフが怒鳴り声を投げ付ける。
「先生!今言った事をもう一回言ってみろ!」
「おぉっと、なんて言ったか忘れちまったなぁ!!」
 ぼさぼさと灰色の後頭部を掻きながら、飄々と箱をまとめていた紐を解き箱の中身を検分し始める。その様子を察した老人が、慌てて年相応には見えない足取りで家の中に向かってしまう。
「待つんじゃ!儂が見る前に勝手に広げるんじゃない!!」
「あぁ、くそっ!人の話を聞けってんだ!!」
 アレフが床を踏み抜かんばかりに苛立った足取りで二人の後を追っていく。
 箱の固まりを壁や天井にぶつけながら入ってゆくアレフの足下には、いつの間にか漆黒の猫がまとわりついている。最初に出会った貴族の家の猫だろう。やはり老人はアレフと知り合いであったのだと再確認する。
 ほんの僅かに振り返り、アレフの目が急かすように俺を見つめてきた。
「何やってんだ。早く中に入れ」
 黒猫がエメラルドグリーンの瞳を光らせ、にゃーおと鳴いた。
 玄関から短い廊下を通り抜け、広がった視界に飛び込んだのは二階に迫る高さの巨大な壷だった。一階の天井はその広間の分だけ吹き抜けにされ、奥にあるスペースは一般的なダイニングとキッチンである。二階の壁は無く、むき出しの柱の奥に図書館さながらに並べられる本棚と書籍が見える。
 呪術の研究であるのに、空気には言葉にし難い臭いが充満し家具にまで染み付いている。俺はくらくらする頭を振りながら、目の前で薬草の説明と選別を繰り返す二人から近付いてきたアレフに視線を移した。アレフはキッチンから勝手に拝借したのか、冷茶を入れたコップを両手に持ちその一つを差し出した。
「で、結局知り合いなのか?」
「貴族の依頼だ」
 その一言でアレフは全てを察したのか、呆れた表情を老人の背に向けた。
「それで、お前は?」
 俺はアレフの横顔を見遣り訊ねた。
 ちょっと長い話になるんだが…とアレフは茶を啜った。
 傭兵の人脈というものは意外に広いもので、何の脈絡のない人間の接点になる事も多い。今回の使いっ走り的な仕事もその一つの産物であるらしい。
 薬草学を専攻する灰髪の医師は新種の治療薬の数々を生み出しているが、回復呪文が主流のこの世界では全くといって良いほどに受け入れられていない。しかし彼等呪文が使えない上に金もない傭兵は、彼の生み出す薬草の数々にはそれなりの信頼というものを持っている。なにせ、かの医師が駆け出しだった頃は数々の新作を試されて地獄を見てきたので、その時に比べれば今の先生の腕は神に感謝せざる得ないほどに上達した。それでも傷を負って格安の治療料と言って、新作の実験の被害者になる者も少なくはない。…という所をやけに強い口調でアレフは熱弁を繰り広げた。
 医師は治療の見返りとして、彼等傭兵に各地から草という草、茸という茸、木の実に魔物の毒など様々な物品を請求する。医師の元に渡った数々の品は千に迫るそうだ。それを元に数々の新作を生み出しているのだ。
 話を聞く限り、目の前の医師はアレフガルド最高の薬学知識を備えているに違いない。
 そんな医師は精神に働きかける薬…言うなれば惚れ薬を昔から研究していたらしいが、実を結ばずに苦心を重ねている。
 ついに白旗を掲げた医師は魔法関係に詳しい人はいないか、と薬草を買い付けにきたアレフに持ちかけたのだそうだ。アレフが白羽の矢を立てたのが、『秘匿の賢者』と呼ばれているが紹介した本人はただの『呪いオタク』という認識の老人であった。
 斯くしてアレフガルド最高の薬学知識を持った灰髪の医師と、アレフガルド最高位の魔法研究者たる『秘匿の賢者』が媚薬の研究を始めたのであった。
「試薬の実験に付き合わされて、生きた心地が全くしないぜ。もうすぐ完成だって言ってるけど、本当か疑わしい限りだ」
 アレフは眉間に皺を刻んで薬草の調合と魔法の施術に格闘する二人の背中を睨み付けている。
 医師が調合した薬に老人が魔法を掛け、専門的な用語を多く含んだ会話を交わして首を傾げ、また調合をし直すというのをもう片手では数えられぬほどに繰り返している。逃げ出す事など容易すぎる隙だらけの背中である。結局、俺がここに居るのですら意に介してはいない様子で、周りの事など目に入っていないだろう。
 なんだかんだ言ってここに居るのでは、アレフが相当のお人好しにしか見えない。
「アレフ君」
 灰髪の医師が振り返ってアレフに声をかける。
「御老体の家の裏に白い花が咲いてるらしいんだが取って来てくんねぇか? その花の花粉を混ぜてみたいんでね」
「はいはい、持ってきてやりますよ」
 皮肉を多量に含んで投げ遺りに答えると、アレフはランプを引っ掴み颯爽と歩み去って行く。
 間を置かずふわりと部屋の空気が動き、冷気が頬を撫でる。ふと窓を見遣れば外は夕刻で赤く染まった空が見えた。冷えはじめた空気に触れたからか、遠くでアレフの盛大なくしゃみが何度も響いた。
 暫くして扉が閉まる音が響くと、アレフが真っ白い大きな花を束にして持ってきた。
 良い香りだが強すぎる香りが、彼の腕が動いて花が追随して揺れる度に広がり部屋に充満していた臭いすら押しのける。俺も知っている花だ。その花の花粉は水に溶かすと呪文の浸透率が上がる効果があるのだ。人間が飲めば回復呪文や補助呪文を受けた際、即効性や持続性が上がったり、呪文の効果が増幅するのだ。呪術の研究者であるのだからあるとは思っていたが、まさか栽培までしていたとは思わなかった。
 医師に花を渡して俺の隣に戻ってきた彼は、くしゃみにぐずついた鼻を擦る。
「風邪でもひいたか…?」
 アレフが小さく呟いた。
 日に焼けた肌で分かりにくいかもしれないが、頬に赤みが差し紅潮しているのが分かる。眩しそうに細められた瞳は潤み、息づかいが若干早いよう見える。アレフは自分の額に手を当てて首を傾げ、俺の視線に気が付いて顔を俺に向ける。
 アレフが硬直した。
 いや、呼吸は先ほどと変わらず早いままであり、息苦しく胸が動いているのが鎧を着込んではいないのでよく見える。手はゆっくりと額から離れている。硬直とは言い難い。
 なら、何が固まったというのだろう。
 その印象を俺に与えたのは彼の視線というか、瞳だった。
 俺から目が離せないのか、瞬きすら忘れているかのように食い入るように俺を見詰めている。瞳が小刻みに揺れ、視線を外しては合わす事を忙しなく繰り返す。視線を動かそうとする意志と、それを阻害し動かすまいとしている意志に揺れ動いているように感じた。しかし、俺から視線を外して彷徨うように揺れる視線は、俺の輪郭を撫で、体のラインを追っているように感じられる。その行為をアレフが嫌悪に感じるのか再び視線を合わす度に、戸惑いに似た色が瞳に強く現れ出した。
 目を閉じたアレフは深くゆっくりと息を吐いた。
「熱い。…風邪だな」
 口元に手を遣り、苦笑する。まるで『心配は無用だ』と拒絶するように、平静を装う。
「宿に帰って、寝ないとなぁ」
 量のある髪の隙間から瞳が見え、部屋のわずかな明かりでも熱に潤んでいる。酒が入った時よりも複雑に感情が渦巻いて、それを制しようと瞳に強い光が灯っているように見えた。苦笑を消して油断なく俯く顔は精悍さが引き立って見え、鎧以上に体格がはっきりと分かる私服の彼は、俺ですら別人に感じられた。
 短く『じゃあな』と口走り、早歩きで動き出した彼が俺の体に勢い良く当たる。突然で至近距離であったために避けきれず、バランスを崩しかけた俺の腕をとっさにアレフが取って支えた。掴まれた俺の腕が、アレフの大きい手に包まれてしまうかのようだ。
 アレフは俺に触れたことで。俺はアレフの思い詰めたような表情に。互いに息を呑む。
 異様な静寂に己の脈打つ音が大きく響いた。
「よーし! 完成じゃぁ!!」
 老人の高らかな宣言のような声に、弾かれたようにアレフは手を離し逃げるように家から出ていった。その様子を老人と医師が呆然と見送ってゆく。
「何かあったのか?」
「いや…、特に何も」
 俺は話しかけてきた老人の持っている小瓶に目を止める。貴族の所望する目的の品で、俺の推測が正しければ限りなく本物に近いものであるだろう。まだ事情が掴み切れていない老人に詰め寄るように話しかけた。
「その試薬。貰っても良いか?」
「あぁ、構わんが…」
 緩慢な動きで俺の手に小瓶を落とし込んだ老人に、俺は丁寧に礼を述べ退出の旨を伝え玄関に向かった。

 明るい場所から突如暗がりに出た為か、周りは酷く暗い。俺は目を細めて闇に目を慣らすと、少し離れた家の壁にアレフが背を預け立っているのが見えた。何を見上げているのかと思えば、上空はもうすぐ新月になるだろう細く欠けた月が昇り、星が月の代わりに満天に輝いていた。
 俺が出てきたのに気が付いたのか、アレフが歩み寄ってきた。
「さっきはぶつかったってのに、謝れなかった。悪かったな」
「気にする必要はない」
 先程の彼の様子は尋常でなかった事は、彼が一番理解しているだろう。心底申し訳なさそうに言う。
 俺の短い返答に、アレフが訊き辛い事でも訊くかのように視線を泳がせる。
「アレス…お前さ……」
 長い。そう思わせる沈黙が続く。
 彼の唇が言葉を紡ごうとして止めるという行為を何回繰り返しただろうか。やがて、彼は諦めたように目を閉じて身を翻した。
「いや……、何でもねぇ」
 やはり。
 アレフは俺を女性と勘付き始めているのだ。
 今まで何人の貴族の令嬢に思いを寄せられ、他人が己に向けている恋愛の感情など、俺には何の感情を持たすにも至らなかった。しかし、今回ばかりは違うのだ。
 彼が、女である自分に思いを寄せている。
 吐く息が熱い。きっと外気の冷たさのせいだ。俺はアレフの横顔が見える位置に歩み寄る。
 自分の身体的な事を指摘された時の憤り、大切な人物を守れなかった己の腑甲斐無さ、強くならねばならない責務に似た急き立てる感情。しかし、その中で全く違う何かが混ざっている。言葉にし難い訳ではない。理解できない訳ではない。それは幸福感で安堵だ。しかし、それは過去にあって然るべきで、今の自分にあってはならないものだった。俺は己の中に沸き上がり頭を擡げた感情を、亡きあの人への更なる裏切りに感じて激怒したかのような感情が押しつぶしたのを感じた。
「お前、まさかあの二人が本当に惚れ薬を完成させたとでも思っているのか?」
「そりゃぁ…っくく………」
 アレフが必死に笑いを堪えている。
 しかし彼の中ではあの二人は、幻とされる惚れ薬を生み出せるほど大層な人物ではないのだ。いつも失敗薬の実験に苛まれていた彼こそ、成功など信じられるものではない。結果、彼は耐え切れず大爆笑した。夜中であるのも憚らず、大声で、喉が枯れ、咽せ込んで涙目になっても笑いはとまらなかった。
 ようやく少し落ち着いた彼が、楽しげに俺に言った。
「いやさ…俺の想像力も大したものだなぁって思ってさ。そうだよなぁ。んな訳ねぇよなぁ」
 彼の取り戻した調子を、俺は歓迎した。
 これでいい。
 背後で黒猫が鳴いた。エメラルドの瞳を瞬かせ、にゃーお。と。