アレスさんとアレフ 刃と鏡

 カンタエット教会という、ラダトームの古い歴史の中では比較的新しい建物がある。
 外装は完全に大聖堂に劣らぬ美しい教会であり、美術的観点からラダトーム城下屈指の観光名所ともなっている。左右対称の建物の美しい白亜の壁面は、複雑に施された彫刻によって土を盛ったかのような凹凸を見せ、寄って来た者を驚かせる。こじんまりとした庭園は狭くも手入れは行き届き、切り出された石の鋪装は年月によって個々に丸みを帯びている。内装も絢爛豪華。現代の匠でも過去の技術でも見る事のできない複雑な魔法倫理に基づいた、永久的な魔法照明や加工品の数々は未だ解明されていない。
 ここは創立者の理念から、数多くの孤児を引き受けている。アレフガルド最大の孤児院だ。
 その反面、価値ある存在を保有しようとした王国と、ここを家として暮らしてきた孤児達の戦いの歴史は長い。
 勇者ロトが大魔王ゾーマを打ち倒し平和になった折、溢れんほどに大陸に満ちた孤児達に同情した創始者が建物を建てた。決して倒れぬ価値と強度を与えた建物は、直ぐさま王国の目にとまった。国王の提案に反発した創始者がラダトーム城の大正門を一刀両断した事に始まり、その後は独立した孤児達に支えられ存続しているという。今では教会の神父からシスター、庭師に至るまでそこの出身者だ。
 現在ここにいる孤児の殆どは傭兵の子供達だ。
 そしてこの孤児院を支えるのが子供の親と親しかった傭兵達である。
 教会の前を通るだけで子供たちの声が高らかに響く。ここは教会である以上に孤児院の意味合いが強く、世話を焼くシスターと孤児達の声がよく聞こえる。しかしそれは外に限った話。建物の中は防音を施した魔法が施されているのか、全く外に声が漏れることはない。
 教会の正門に差し掛かった俺が何気なく教会を見遣った時、何者かとぶつかりそうになる。相手は俺にぶつかりそうになる直前に身を翻した。その動きは一般人ではなく戦闘を職業とする身のこなしである。なかなかの反射神経と運動能力だ。
 もうじき夕暮れ時になる空を背後に、逆光で黒く塗りつぶされた相手は俺に向き直った。
「失礼」
 男が兜を少し持ち上げ短く詫びる。薄汚れた鉄の鎧を遮るように、炎のような赤いマントが翻した動きに従ってふわりと舞う。使い込まれた鋼鉄の剣がマントの影から少しだけ覗き、傭兵が持っている大きな鞄が存在感を露にする。茶色い髪が兜から溢れ、日に焼けた肌に色濃く見える茶色の瞳が俺を見て見開かれた。
「アレスじゃないか」
 ひさしぶりだな、と言いたげに俺の顔を見る。
 彼はラダトームとメルキド間の護衛を専門にしている傭兵、アレフだ。彼のような傭兵は一か所に留まる事はなく、直ぐに次の仕事を見付けて旅立ってしまう。その為、ラダトームに滞在する数日間に会う事ができなければ半年は会う事もできないだろう。彼と共に仕事をしたのはずいぶんと前なのだと、俺も月日の流れを思い返す。
 しかし…。
 俺はカンタエット教会を見遣る。彼がここから出てきたのは間違いない。
「お前が信徒だとは思わなかった」
「違う」
 アレフは短く否定して、気恥ずかしそうに視線を明後日の方角に向けた。
「あー、その…えーとっだな…仕事仲間のガキ共の面倒を……たまに見に来てるのさ」
 傭兵とは俺が生業にしているトレジャーハンターと違い、集団行動の任務を行うことが多い。護衛の仕事には命の危険も多く、傭兵の子供達の多くは親を失い孤児となっている事が多い。親と親好の厚かった傭兵は孤児となった友人の子供の後見人になる事も多く、そこから傭兵の家族観が見て取れる。
 教会に土産や菓子やら持って行く姿が容易に想像できる。
 降神祭の時は袋にプレゼントを大量に持って玄関先に置いていそうである。
 彼の人柄ならば、子供達にも好かれるだろう。
 それにしても行動を数度しか共にしていない俺を、一目見ただけで思い出す。その記憶力は大したものである。
 その記憶力の強さは前回仕事をした時に痛感したものだ。
 集めた傭兵達は皆が相当の手練で戦闘技術も高い。しかし作戦で二人一組の共同戦線を張る際の組み合わせも、初見の顔合わせではなく面識ある傭兵を選んで組ませていた。それは組んだ人間同士が親しげに会話している様子から容易に察する事ができた。互いに知り合いであれば連携は取りやすい配慮が伺える。
 ただし、知り合い同士を組ませるだけでは成功など当然しない。
 戦闘の様子を遠巻きに見ても、傭兵達の戦力は見事に集中し拡散していた。魔法使いには必ず防衛技術が優れた傭兵が付いていたし、その魔法使いが周囲の援助もできるよう分散した配置がとられている。切り込み役の戦士系も打撃重視と軽快な戦法が得意な人間を組まし、隙が最小限に留まるようになっていた。
 作戦通り事が進んだのは、傭兵達との信頼が厚いアレフの裁量が適切であったと言って差し支えない。その手際の良さは、商隊の護衛の際の人員配置までしていたのか手慣れていたほどだ。
 『アレフの手配料は、護衛傭兵の中では最高位』とまで情報屋に言わしめた実力は、こんな事の積み重ねでできているのだろう。自分の稼ぎをこのように使っているのを俺は到底理解できないが…。
「この事は秘密だぜ。仲間にバレたら笑われちまう」
 いや、既にバレていると思って問題ないと思う。俺はそんな言葉を喉の奥に押し込んだ。
 人でも特に子供の口に戸など建てる事もできないし、情に脆いシスターや神父がそんな美談を包み隠して墓まで持って行ける筈がない。この教会を訪ねる傭兵は、ここの卒業生も含めれば観光客よりも多い。守銭奴で無愛想な一匹狼が子守りなど、面白い噂が大好きな連中にとっては隠す事など出来ないに違いない。
 知らぬは本人のみ…だろう。
 気にしている本人の為に仲間は黙っているようだが、これが本当にアレフの為なのか俺は知らない。いや…、知れ渡ればアレフが行為自体止めてしまうから孤児達の為か、それとも面白く観察したい傭兵達の為のどちらかであろうが…。
 しかし、俺が黙っていたのをどう受け取ったのか、アレフは焦ったように口調を早めた。頼み倒すように両手のひらを合わせる。
「じゃあ、口止め料…とまではいかないが、今晩の晩飯は俺が奢る! だから、黙っててくれっ!」
 口止め料など払わなくても、俺がお前の事について話せる相手などいないのだがな…。冷静に考えれば辿り着く答えではあるが、アレフの慌てて正確な判断の伴わない思考では少々遠い答えであったらしい。
 まぁ、奢ってくれるのなら、奢ってもらうまでだ。
 夕食費が浮くのは良いことだ。
「いいだろう」
「じゃあ、どこが良いかな?」
 俺の返答にアレフが考え込むように視線を斜に向けた。
「野郎と二人で洒落た飯屋は御免だし、酒場の飯は旨くねぇ。しかもメルキドやドムドーラ地方の飯は俺が食い飽きてるし…。だが、酒はドムドーラだな。でもここはやはりマイラかガライの郷土料理メインで扱ってる料理屋が良いかなぁ? リムルダール方面の料理が良いか? あそこの店は名酒が揃ってるし…」
 ぶつぶつと漏れる独り言で彼の考える事が筒抜けである。おそらくは俺の希望を引き出す為の呟きであるかもしれない。あまりお喋りな男ではないが、気遣いはする男であるから…。
 しかし、妙に酒にこだわる姿勢が見て取れた。
「アレフ」
「ん?」
 思考を中断し、彼が顔を上げた。
「俺は酒は飲まない」
 アレフの明るい茶色い瞳が驚いたように見開かれた。
「お前、酒が飲めないのか?」
 飲めないわけではない。貴族の屋敷に行けばそれなりの接待の過程で飲酒を避ける事はできないからだ。しかし酒は思考を低下させるし酔いつぶれるなどもっての他。俺個人としても酒は飲むほど好んでいる訳はないし、娯楽の為の出費など認めぬ。故に飲酒は接待以外ではする事はまずない。
 それを説明するのも億劫で、俺は一つ頷いて見せるに留めた。
 俺の反応にアレフは神妙な顔つきになって顎に手を添わせた。
「意外だなぁ…」
 静かな染み入る声が空気に伝った。
 次の瞬間瞳が閉じられごつい皮のグローブが俺の視界から顔を遮った。アレフは身を翻して歩き出す。マントが翻る背中から彼の顔と手が覗き、俺を促すように招く。
 石造りの橋は川の乱反射の上に、微動だにせず陽光を反射して赤く色付いている。ラダトーム城下町を流れる川は流れる際に立つ細波が光を宿し、まるで対岸が満天の星空の上にあるかのように見えた。
「ちょっと、手合わせしないか?」
「手合わせ?」
 俺が聞き返す間に、アレフは剣を抜いて手で弄んで河原へ向かう。
 磨き抜かれた鋼鉄の剣は相当長く使い込まれているのだろう。握りに巻き付けられた皮は手の形に磨り減り光沢を宿しており、刃も相当手入れをされているのか鏡のような光沢を宿している。最近の形よりも少し古い形の柄ではあったが、一種のアンティークに似た趣を感じさせる剣であった。
 グローブが柄を握り、さっと刃の軌跡が横一線を描く。
「開店までの時間、語らってるよりか良いだろ?」
 茶色い瞳が俺を見つめて、唇は簡潔に言葉を紡いだ。
「そうだな」
 俺も同意して剣を抜いた。

 アレフの剣術は、相手をよく見ていると思わずにはいられない動きであった。
 剣の一撃は重く、受け流す事のできる位置と受け止めなければいけない境に寸分違わず落ちてくる。相手はそのどちらかを選ぶ隙が生まれ、その間に彼は一歩踏み込んで追撃の用意をする。受け流すか受け止るか決めた瞬間には、既に準備は整っており選択した攻撃に対応した手痛い一撃を仕掛けてくる。
 しかし、彼の動きが全て先程述べた内容に沿うかと言えば、そうではない。
 呪文を唱えようと魔力を集中すれば、彼は呪文発動を阻止する為に全力で突っ込んでくる。攻撃速度が倍に感じるのは、彼が相手の行動の『観察』をしなくなったが故の速度だった。弾き飛ばされそうな強力な一撃で加えた力を突如抜き、集中を途切れさせる妙技まで駆使する。メラ1つ唱えるのすら、相当の集中を要する。
 強力な呪文を見舞う暇など、本気の彼なら与えてはくれないだろう。
 強力な呪文を食らうという事は、彼にとって敗北と死を意味する。そして自分の命に対して執着を持たない戦闘スタイルは、多少の深手を負ってでも強力な呪文を阻止する事に徹するだろう。そもそも人間が発動後の魔法から逃れられる手段がないため、生存確率等を考えれば発動前に阻止する事は理に適った戦法であろう。単独で相手をするなら、これほど手強い存在はいない。
 剣一つ、体術一つでこれほど強くなれるものなのか。
 俺はその強さの氷山の一角を見せつけられ、奥歯を噛み締めた。
「お前は…本当に遊ばない奴だな」
 アレフが唇を歪めた。それは彼の本気と遊び心の境界線にある、笑みだと悟る。
 強敵だ。
 汗が一つ頬を伝い、掠めた剣圧に吹き飛んだ。
 彼の認識の中では、これはただの戯れ合いなのだ。俺も殺意の無い彼に対して、本当の意味で本気になる事はできない。短時間に百と数えてもおかしくない数打ち合わせてなお、俺の体には過擦り傷一つない。逆にアレフの肌や服が浅く切り裂かれていたりしている。
 それなのに俺の剣技の程度が彼より劣っていると痛感させられる。
「俺に遊べというのか?」
 冗談ではない。
 少しでも手を抜けば地に伏されてしまう。
 彼の口振りでは、俺の実力にあわせているのが伺えた。手を抜いても彼は俺を打ち負かさない為に、さらに力を加減をするだろう。そんな屈辱など俺には耐えられない。
 アレフの唇は歪みからはっきりとした笑みと見える角度を持った。
 今まで互角であった撃ち合いが、あっという間に俺の優勢に転じた。しかし、今度は守りが強くなる。俺の一撃は全て流され弾かれ受け止められ、今度は彼の服にすら剣先が届かなくなる。
「お前は強いよ。剣の速度も精密さも、剣撃の軽さをカバーするのに十分なものがある。それに呪文がある。きっとお前の全部の強さは俺を軽く凌ぐ。だからだろうな…」
 アレフは歌うように言い、俺の攻撃を尽く防ぐ。
 そしてくるりと回転し踊りでも踊るかのように俺の攻撃を防ぎはじめた。剣を振るう腕のしなりは柔らかく遅く感じるほどに洗練されたものになり、足捌きは重い一撃を出さないが為に爪先だけを地面に接し軽快に体を支えた。剣撃は明らかに軽くなった。無駄な動きが増え、優勢は揺るがなく勝つ要素すら出てきたはずであった。それなのに、俺は新たな傷を一つも作ることができない。
 こんなにも全力で撃ち込んでいるのに。
 こんなにも全速力で振り下ろしているというのに。
「お前の何の面白味のない戦い方が、気に入らねぇのさ」
 アレフが剣の持ち手を変えた。
 瞬間に彼の構えが変化する。足は踵から地面を叩き付けるように踏み締められ、反動で地を抉る程に力強く踏み込む。間合いは狭まり剣を盾のように扱いながら懐に潜り込み、俺の鎧を力強く押した!
 浮き足立った片足を引っかけられ危うく転倒しそうになるのを、無理矢理引き込んだ剣を彼の顔面に向ける。
「殺し合いじゃないんだから、もっと楽しくねぇとな!!」
 彼は笑った。
 顔面に迫った刃先から逃れる為に仰け反ったついでに、強烈な回し蹴りが飛んでくる。剣を持っていない方角から飛んできたそれを、小手で受け止めるも衝撃で骨が痛みに軋む。
 俺は剣を突き出す!
 彼は拳を突き出す!
 互いの喉元に寸分違わず吸い込まれた暴力は、紙一重の位置で静止した。

 □ ■ □ ■

 ラダトームの住宅街と商店街のちょうど境い目の半地下に、情報屋がある。一見しては情報屋とは思えない喫茶店を思わせる洒落た造りで、実際は料理を提供する店としても機能していた。この情報屋は傭兵だけではなく探索商人や一般人に対しても情報を提供する幅広い仕事をこなしていた。薄汚れて雑然としていれば探索商人や一般人は敬遠してしまう。情報屋の内装は一つの客層を見極める目安だった。
「ここの飯はなかなか旨いぞ。俺達傭兵が逐一ケチつけて、舌に自信のある奴が厨房乗っ取るくらいだからな」
 俺もここの情報屋を知らなかった訳ではないが、料理屋として利用したことはない。
 洒落たステンドグラスのはめ込まれた扉を開くと、夜の闇を押しのけるように店内の明かりが広がる。香り豊かなスパイスの匂いが暖かい空気に押され、俺の顔を撫でて外に出て行った。扉に付いているベルが高い音を立てて、俺が来た事を告げる。落ち着いた店内の照明に、複数の客の姿が見えた。テーブル席は満席のようだ。
 俺達が入るとすぐに男性が声を掛けて来た。情報屋である店主にアレフは小さく手を挙げて挨拶する。
「今日は飯食いにきたんだ」
「奥のカウンターで宜しいですか?」
「連れがいるから、2席用意してくれ」
「了解しました。今回もメルキド方面の良い依頼が揃っておりますよ」
「明日にでも聞かせてもらう」
 いつもならこのまま入り口横の扉を潜り、図書館さながらの依頼書数々が納められた場所に通される。雑然としたごく普通の情報屋である。
 しかしこの店は一部の探索商人や一般人に対しては、この小奇麗な店内で対応する。店の奥にある個室に案内し資料を持ち合わせ、珈琲や菓子や料理を出しながら対応してくれるのだ。
 しかし、俺はそのような対応は拒否していたので料理店としての場所に入るのは初めてだった。
 広い店内の隅にはピアノが置かれ、落ち着いたドレスを着た女性が軽快に盤上に指を踊らせている。サックスを吹く男性と共にしっとりとした音楽を提供し、落ち着いた照明の店内の雰囲気の演出に一役買っていた。料理もスパイスの利いたものから、デザートまで様々な地方のものが揃っており、どれも旨い。
 しかし、驚くのは酒の種類の豊富さだ。
 店の壁一面を占めるカウンターの奥には、天井から下まである棚に所狭しと酒瓶が置かれている。ボトルキープはどれも芸術的な細工の施された装飾品で、一番上の棚に並べられている。種類も様々なものが置かれており、棚の一番端には樽まで置かれていた。
 店主の勧める料理を一通り頼んで平らげる頃には、アレフも相当の量を飲んでいた。
 アレフの手がグラスを取り、中身を煽った。あまり氷の解けていないストレートの酒は彼に飲み干され、グラスに残った氷が軽やかな音をたててテーブルに置かれた事を告げた。彼は随分と酒の入って上機嫌に染めた頬を手で支えながら、こちらを見た。瞳は酔いの為か若干潤んでいる。
「お前の剣技って混ざりっ気ないよな。一人の師匠に叩き込まれて学んだのだろう?」
 …師匠。
 師匠の背中が一瞬脳裏を掠めた。失いたくなかった背中、守りたかった人。
 手に持ったグラスの冷たさよりも冷えきった手から視線を上げて、隣に座っていたアレフを見遣る。
 やはり彼が手合わせしようと思ったのは、俺の事を知るためであったのかもしれない。もちろん、彼の場合好奇心が全く無いと言えば嘘になるだろう。刃は己の心を映すという。より本心に近い姿が刃と戦い方に現れるとされる。
「…お前は?」
 アレフが俺を見た。
 刃は己を映す鏡。
 戦いの全てにおいて、迷いなど欠片も見えなかった。例え遊びであっても、微量の迷いは反映されてしまうものだ。
 彼は孤児達の様子を見に教会へ行く。 延々と続く傭兵達の家族観を彼が持っているとしたら、その孤児達は守りきれなかった者の形見なのだろう。彼は何人、守れなかったのだろう? 彼はその全てが辛い思い出であったのだろうか?
 俺のように。
 師匠を失った時のような、あの絶望に撃ち拉がれたのだろうか。
 圧倒的な剣技に俺は呪文すら封じられていた。予測不能な動きは、全て彼の動きではなく彼ではない誰かの動きのように見えた。たかが戯れ合いにあれだけの力量を見せつけておきながら、傷一つない我が身。比べれば俺より弱いと言っておきながら、剣技と体術だけであんなに強くなれるというのだろうか?
「俺か?」
 アレフに酔っていた様子が消えた。
 味わう様子も、楽しむ様子もなく、黙々と同じ酒を頼んで呑んでいる。
 俺の問いから飲み始めて、3杯目を空にして彼は追加を頼む。2杯。今度も同じ銘柄だ。
「アレス、お前は強い。他人なんか気にせず、信じろよ。師匠さんから頂いた力を…さ」
 グラスの中で氷が回る様を見ながら、アレフは呟いた。
 視線はグラスから動かない。照明の関係なのか、彼の瞳は黒く見えた。
 茶色い瞳の色は古い血のような色彩を帯び、過去を思い返しているのか浮かんでは沈む感情の色はどれも暗く濃い。店内を照らす光すら、彼の量の多い前髪に阻まれ光を差し入れる事もできなかった。ただ、彼の日に焼けた肌と瞳が明度の差として区切られて認識できる。表情は能面のように動かず、それが却って瞳の中の闇を色濃く見せた。
 動かなかった視線が動いたのは、追加分が目の前に置かれてからだった。
 彼は追加に頼んだ酒の入ったグラスを明かりに透かす。ロックで頼んだグラスには、割られた氷が回っている。ランプの熱に酒と氷から解けた水分が溶ける様が、陽炎のように映る。それを眺めていたアレフは、やがて目を閉じてグラスを傾けた。
 暫く黙って飲んでいた彼は薄目を開けて、もう一杯のグラスを指差した。
「折角だし、飲めよ」
「俺は酒は…」
 言うが早いかアレフはグラスを空けて席を立った。
 店主に声を掛け勘定の代金をカウンターに置く。お世辞にも奇麗とはいいがたく金貨か銀貨かも見分けがつかない硬貨だが、グラスから零れ落ちた水滴の反射と照明の光を反射して輝いた。
「俺の奢りだ。好きにするといい」
 …何を信じろというんだ。
 俺は師匠を守れなかったのだ。彼女を守れなかった強さを信じれる訳がないだろう。
 だが、解っている。今の俺にはそれしかないのだ。
 …どうしたら強くなれる?
 俺は言えない。お前が強いなんて、口に出して認めるなどできない。
 だが、問いたい。少しでも、今より、俺は強くなりたいのだ。
 どれも喉に引っかかり苦しく塞ぐ。問いたい気持ちが募ったが、問うた時の彼の答えが恐かった。
 それでも、俺は彼に何か言わなくてはならない。俺はとっさに彼を呼び止めた。
「アレフ」
 彼が足を止め俺を見下ろした。
「次は、引分けにはしない」
 俺の言葉にアレフが静かに目を閉じた。唇の端を少しだけ持ち上げ、背を向けた。
 マントから挨拶代わりの右手が軽く挙げられたのが覗いた。
「期待してる」
 扉のベルが鳴り、アレフは店から去った。
 俺は前に置かれたグラスを手に取り酒を口にした。芳醇な香りと豊かな味わいが口腔に広がり、冷たいにも関わらず熱く喉を落ちて胃に流れ込む。香りは森のように清々しく、川のせせらぎを意識させるほど濃厚であった。飲みやすい味ではあったが、一口飲む毎に深みを増すような味わいだ。今まで貴族の屋敷で飲んだ酒よりも、良いものに違いない。
 俺はもう一度、杯を傾けようとした。
「封を切ったばかりだから旨いでしょう?」
 グラスを磨いていた店主は俺から背を向けていたが、その言葉は俺に向けられていたようだった。
「アレフさんが貴方に開封直後の活きの良い味を楽しませたくて、開封後の一本をわざわざ空にしたんですからね」
 頑張って…
 一口一口を重ねる毎に深みを増す味わいは、徐々に俺の中まで熱くさせる。酔いなのか分からない。しかし、鮮烈に込み上げてくる思いが、目の前にその人が居るかのように錯覚させる。
 私の可愛い…小さな…
 さらさらと音を立てる美しい漆黒の髪。紫水晶の瞳を細めてそっと微笑む彼女。
 期待してる
 柔らかくも手櫛で整えた程度の乱れた茶色の髪。明るい茶色の瞳を和ませて俺を見た彼。
 似ていない。
 あんなにも似ていないというのに…。
 俺はカウンターに置かれた硬貨を何気なく見遣った。
 少し錆び付いた銀貨が誇らしげに輝いていた。今の俺の反応を楽しむ者達を彷佛とさせる輝きだった。