アレスさんとアレフ 女と男

 マイラの温泉郷は崖の隙間を流れる温泉の湯の川を中心に栄えた、まさに絵に書いたような世界である。
 中心街は数々の板と岩を這わせて川そのものすら見いだせぬものの、そこに立てば高山の寒さを忘れるほどの暖かさである。地下には数々の趣向を凝らした湯船があり、地上の寒さを少し我慢すれば絶景を借りた露天風呂がある。響く湯の雫の贅沢な事か、溢れる湯の信仰はまさに黄金色。数多の吟遊詩人ですら己の詩に言葉を見つけるよりも、その湯を楽しんでしまって世界で最も謳われる事少なき秘境中の秘境であった。
 秋は紅葉、夏は青空、春は新緑、最も美しさを誇るとされているのは雪深い深雪の時期。マイラこそ生涯を通じて見飽きぬ世界。そう謳った詩人もいた。
 雪の降る時期に行けば銀世界に煙る温泉の水蒸気はスターダストの如き煌めきを宿して細やかな氷砂となり、雪の結晶と違った質感が白き純白の大地にきらめきを巻き散らす。雪の積もった崖は滝の如く落ちる道をそのままに、巨大な氷柱となって熱気に甘やかな極上の一雫を熱湯の湯冷ましとして汲む。全ての音が世界から消え去る無音に、最も甘美な言葉を拾い上げた詩人は多かったらしい。この地にて執筆された高名な著書の数々にあやかろうとする文人はそれなりに多いらしい。
 今は紅葉も直に終わるという頃合い。観光地マイラの魅力が最も低いこの時期は、人通りが非常に少ない頃だった。
 その時期を狙って人々でごった返す一角がある。繁華街から外れた寂れた鍛冶屋通りと呼ばれる一角がそれだ。普段は鋼を叩く音が絶え間なく響き、窓からは灼熱した炉の赤々した輝きが漏れ、立ち上る煙は温泉の湯気とは違った寂れた灰色の色を帯びる。マイラでは鋼打ちの時期と呼ばれる今では、アレフガルド中の傭兵が打ち直しを依頼するので大忙しになる。
 繁華街と鍛冶屋通りの僅かな隙間には遊郭があり、宿代すら渋る俺がそこを一時の宿にする事が多かった。薪を割ったり、賄い食を作ったり、掃除したり、遊女の愚痴を聞いたりする事を宿代代わりにしてもらうのだ。まだまだ駆け出しの傭兵でマイラに来る事が出来るのがやっと、武器を打ち直す代金を払うだけでやっと、そんな時代から世話になっていた。
「アレフ、そのくらいでえぇわ」
 豊満な胸の谷間に滑り込んだ長い長い黒髪をさりげなく払うと、『あねさん』と今では呼ばれている女性が言う。あねさんと言うのがどういう意味なのかは良く分からないが、俺は『姉さん』という意味だと思ってそこで働く娘達と同じく呼んだ。彼女は俺がここに世話になってから3代目女将だった。
 無防備に色気が滲み出た微笑みで片付けられた棚を見た。古くなった絹織物が満杯に収まった棚は女には流石に片付けられなかったようで、何も無くなった空間を見て姉さんは微笑む。これで新しい衣類を仕舞う場所が出来たわ、と無防備に。
「やっぱり、男手があるってえぇね」
「ものは良い物だから、流す場所さえ選べばそれなりの金になるだろうさ。俺が手配してやろうか?」
 俺の言葉に姉さんは綻ぶ様に笑う。色気がどうにも香ってしまうが、僅かに浮かんだ困ったような表情は隠せない。
 床板が鬱陶しく無い程度に鳴り、ジパング式庭園と呼ばれた古い形式の庭を回り込む様に並んで進む。造られた池には紅葉が浮かび端に溜まり、岩に生した苔が鮮やかな色彩で赤と対比してみせる。この建物もジパング式と呼ばれた古い建築方式を用いたもので、アレフガルドの何処にもなさそうな異文化の空気で満ちている。
 商人達に足下を見られ、正当な値段で引き取ってもらえぬのだろう。悟られない程度の間であったし、俺も庭園を見ていたから気取られてはいないと思っているだろう。付き合いが長いから全く知らない訳ではないが、心配させないようにするつもりか姉さんはさっぱりとした口調で答えた。
「助かるわ。そうして頂ける?」
 俺は二つ返事で了承した。
 遊郭という存在はかなり昔から存在していて、そこに暮らす女達の生活というものは奴隷よりも悲惨だといわれている。歌や舞いを生業とする遊女は地獄のような修練で逃げ出す者も多かったそうだが、性を売る遊女の方が実は有名で印象が強い。
 多くの遊女達は短命で堕胎や仕事から来る病で死んだ。俺の知り合いの薬草オタクの先生の薬でも、助かる命は多く無い。仕事柄同情されるどころか蔑む対象とされていて、口減らしで押しやられた子や家族を支える為に身売りした子供も多いのも一つの原因だった。女衒の事は良く知らん。真っ当な仕事ではなかったが、それでも彼女等は生きている人間だった。
 なんとなく傭兵の生き様に似てるのかもしれない。俺も彼女等も向けられ向けているのが同情じゃないのは分かっていた。
「一服したら風呂を沸かしておくよ。香りはどうする?」
「あんさんの良いと思う香りでえぇわ」
 わざとらしく色っぽい流し目を俺に寄越して来るから、俺は思わず苦笑して彼女を追い越す。
 姉さんは通りすがりに娘達に声を掛けて茶に誘う。居間はあっという間に俺以外は女ばかりの空間になったが、遊女の住処は普通女しかいない。一時とはいえ俺がいる事の方が不思議な光景だろう。人数が集まれば、女という存在は勝手に話し始めるのだ。職業なんぞ関係は無しにだ。
「鋼打ちの時期はいつも単独だったじゃない。依頼人じゃない同行者がいるなんて、アレフさんにしては珍しいんじゃないかしら?」
 素敵な人だったわねぇ。まだあどけなさの残る娘が、明後日の方向を見ながら熱そうな息を吐く。
 今回はマイラに来る途中でアレスにであったから一緒に来たまでの話だ。探索商人という傭兵と犬猿の仲である職種の年下の男だが、なんだかんだで縁があって仕事を共にしている。貴族が好みそうな整った顔立ちに、瞳の蒼さは彼以上の者を見た事は俺はない。真面目なんだか冗談一つ言わないしそういうのも嫌いなのだろうが、異常なまでの倹約主義者で楽しみでもあるんだろうかと思う所はある。姿は上物かもしれないが、友人とするなら面倒な男かもしれない。
 マイラ到着は日が高い頃だったし、俺と彼が歩いているのを見かけたのだろう。
「仕事の知り合いだ。個人的にはそんなに親しくはねぇさ」
「あらあら、じゃあアタシ達とは個人的に親しいのね。嬉しいわ」
「起きながら寝言言うなって」
 俺が軽く言い放てば娘達は楽しそうに笑う。仕事の様に気負う事もなく、気楽だから楽しいのだろう。どんな反応をしても決して本気に取られる事はない。彼女等の中では俺は『良い人』の分類に入るらしいし俺に淡い気持ちを持つ者もそれなりにいたが、彼女等は自分達でその気持ちを手折っていた。本当に愛しい人とは抱き合わないという考えが遊女の中にはあったようだった。
「そういえば、見間違いでなければその麗しい殿方が通り掛かりましたよ」
 アレスは呪文の方が得意な印象を受けるが剣は携帯している。摩耗の早さは圧倒的に主力で剣を使う俺と比べれば遅いだろうが、どんなに丁寧に扱っていてもそれなりに鍛冶屋に厄介にならなくてはならないに違いない。
「あいつも鍛冶屋通りに用があるんだろう」
 まぁ、用意周到な奴の事だ。用事だったら別れる前にする筈。俺はそう思って軽く流した。

 □ ■ □ ■

 アレスは頭が良い。呪文の才能も作戦の立て方も戦闘の仕方も人の接し方もその頭の良さを生かしている。貴族に好まれる洗練されて無駄や俗っぽさのないのも、彼の秀麗と相まって良く見える。色んな事が頭が良くて計算されて分かりやすい男だとは個人的に思うが、それを煙に巻くような事をしないあたり不器用で素直なんだろうと思う。
 だから遊郭の娘の言ったアレスらしい男を見たという言葉は、半信半疑だったりする。
 頭が単に良いだけだったら、探索商人が遊郭に近づくなんて己の職業生命を絶つ自殺行為であるって分かる筈だ。わざわざ遠回りをしてでも近づかない鍛冶屋通りにいく道はあるのだから、今までの彼ならそうしていたに違いない。
 だが、アレスが遊郭を通った事はありうるだろうとも思う。俺がここにいて、アレスは何かしらの用事があったのかもしれないからだ。
 噂が流れるかもしれないが店に入らなければ良いだけの話だし、ここ一帯は来客の事を事細かに記帳する。容姿、年齢、好みの酒、好きな料理、誰を指名したか。常連を得る為の努力と、遊女達の一種の防衛手段の一つの方法だ。貴族が噂の真相を探ろうとすればする程、アレスの潔白は証明されるに違いない。
 変に手紙を渡すよりも良いだろう。
 やはりアレスは頭が良いのだな。
 姉さんから借りた紺に白い雲をあしらったような比較的男物に見える羽織を借りて、マイラの街を歩く。日が暮れて遊女の仕事が忙しくなる頃合いには下宿先を出るのが常なので、昼よりも見慣れた夜の街が目の前に広がる。建物から漏れる明かりに、温泉の湯気が反射して薄い玉虫色の雲がゆったりと流れて行く。遠くに森の黒に遮られた夜空が、満天に星を散らしている。
 からんからんと下駄を鳴らしながら、慣れた様子で飲食店の並ぶ通り抜けた。満腹でそれなりに酔いも覚めて来て、いい気分である。手には姉さんや娘達に振る舞うつもりで女性が好むような果実酒の瓶が紙袋に入っている。山の高さの割に温かい地熱の恩恵が、素足の部分から感じられる。
 少し探して見つからなかったらそれで良いと思ったが、案外、目的の男は直ぐ見つかった。
「アレスじゃないか」
 俺はやや呆れた口調を滲ませながら声を掛けた。
 この男はこんな湯治の街のど真ん中でも仕事着なのか…。お前、俺とここに到着して何日過ぎたと思ってる。鎧くらい脱げ。俺の幸せな休日気分が削がれる。
 誰もが寛いだ格好で街の中を歩いているというのに、アレスは見苦しく無い程度に質の良い鉄の鎧にマントと旅装束のままだ。顔は相変わらず表情の読み取り難いしかめっ面。ラダトームならまだしも、ここでは探すのが無駄な労力と言わんばかりに目立つ。
 それにしても待ち構えている感じもなく互いに偶然出会いましたな再会を重ねているのが、いつも不思議でならない。運命の赤い糸かなにかと傭兵仲間が冷やかすだろうが、流石に野郎とでは色気もロマンもへったくれもなくて勘弁して欲しいぜ。
「やっぱり俺に用事あったのか?」
 俺が問うと、アレスは真っ青な奇麗な瞳を何度か瞬かせた後に『…いや』と呟いた。
 それはアレスにしては珍しい間だった。用事があれば単刀直入と早速話題を切り出すのに、彼は少しだけ間を置いてから俺に言う。
「道中世話になって口答だけの礼ではいけない気がしてな」
「変な所で律儀だな」
 第一、俺が勝手にした事で礼を言う理由もないだろう。俺はお礼なんて結構とのらりくらりと適当に避けていると、アレスは俺の顔をじっと見た。
 アレスの奴、やっぱり何か用事があるんだ。何なんだろう? 俺は促す様に返した。
「何だ?」
 アレスは俺の言葉に少し考える様に間を置くと、慎重な口調で切り出した。
「遊郭に入り浸っているというのは本当か?」
 ひくっと顔の筋肉が強張った。ちょっと詳しく聞かせて欲しいと頼むと、アレスは簡潔に内容を教えてくれた。
 何でも鋼打ちの時期に遊郭に入り浸っている男が居るというのが、それなりに有名な話であるらしい。あまり男性ので入りする世界ではないからか、女衒の支配者、遊女の主など様々な噂になっているらしい。遊女にそれとなく聞いても、羨望と夢を見る心地を垣間みる表情を浮かべるばかりでその男という存在に辿り着く事は出来ない。聞けば聞く程、女誑しか慢性的を通り越した病的な女日照りかなにかに聞こえてならない為、俺は慌ててアレスの言葉を遮った。
「お前、そんな事信じてるのか!?」
「信じられないから聞いているのではないか?」
 なんというか至極真っ当である。
 なんというかそんな事知ったって意味がない気がしてならない。この男、他人に関心がない人物かと思ったら、案外そうじゃないのかもしれない。
 俺は少し冷えた頭を掻いて、腕を組み直しアレスを見た。
「まぁ、遊郭に世話になってるのは事実だな。貧乏傭兵は宿代捻出するのも大変だって事だ」
 傭兵として食える程度の利益が手に入る様になったが、それでも余計な出費はしたく無い。それに、遊郭の女達とは仕事としてではなく友人としての仲にはなった。彼女等が拒否しない限り、俺はこの時期には彼女等の住処で世話になるだろう。
 …………………淡白なアレスにしてはやけに食い下がるな。そこまで説明して、俺はアレスをまじまじと見る。
「アレスは、どんな女が好みなんだ?」
「…?」
「いや…禁欲的な生活してて男として余計に気になるんなら、お前好みの女にそれとなく口利いてやるよ……っ」
 凄まじい目つきで睨みつけられて俺は口を閉ざした。
 こんな女性でもなかなか得られない整った容姿を持っておきながら、仕事の為とはいえ彼は非常に清楚なくらいだ。浮いた話も、汚れた匂いも、女の影も一つもない。無論、俺のあからさまに胡散臭そうなお誘いに乗る程馬鹿者だとは思わなかったが、今にも殺さんばかりの目つきで睨まれるとは思わなかった。
 いや。冗談が嫌いな男だとは知っていたのだから、酒も抜け切っていないのも手伝ってふざけ過ぎたのだ。
「悪い。ふざけ過ぎた。本当にすまなかった…」
 俺は心底反省してアレスに丁寧に頭を下げた。それしか言えない程に、申し訳ない。
 俺が黙らされると、耳に痛い程の沈黙が来る。周囲は擦れ違う人々の賑わいで煩いくらいだが、アレスの俺にしか分からない程度に抑えた敵意にすら思う感情に居たたまれない。アレスが寡黙なのが憎らしいくらいだ。いっそ殴られた方がマシだ。
 顔を上げてもこのまま帰る訳にもいかず、川へ向けてぎこちなく視線を外す。
「お前こそ、どんな女が好みなんだ?」
 視線の外から話しかけられアレスを向くと、彼は俺を見続けていたようだ。
 先程と変わらぬ姿勢だったが、凄まじい目つきもだいぶ和らいでいる。何故か知らんがホッと一安心した気持ちになった。
「遊郭の一角に寝泊まりしていて、一人も抱いていないとは信じられない。誰かがそう言っていた」
 遊郭に寝泊まりしてるからって、女達が好き好んで仕事外にも抱かれたいとは思わねぇだろう。男共の妄想というのは都合がいいというか、なかなかに凄い。
「そうだなぁ…」
 俺は気持ちを切り替え少し真面目な顔で考える。
 なにせ、女の趣味など考える余裕がそうそうなかった。命懸けの仕事だからそんな暇がないと言いたかったが、考える時間をこうも与えられるとそんな趣向が見つからない。同期の軽い傭兵は女とあらば手当たり次第だったが、俺はそれほどまで熱心に女性に気持ちを傾けた事はない。
 髪の色も、肌の色も、性格も、雰囲気も、女という存在はまさに千差万別だ。同じ奴を見た事がない。好みと言われても正直困った。
 だが、胸の大きさやら筋肉質やらは傭兵の世界では禁忌事項だ。肉体労働の女傭兵は胸の脂肪も筋肉に割かれてしまうという言い訳だったが、お世辞にも大きい傭兵仲間はいなかった。筋金入りか剽軽なムードメーカーのように言っても良い事を許されているような傭兵でない限り、言った後は背中に気をつける必要があった。傭兵として武力事を仕事にしているのだから、女の力とはいえ下手すると魔物よりいたい目に遭わされたからだ。ホイミで対応できない洒落にならん事もなきにしもあらず。
 考えて考えて、今までに関わった女達の顔を思い巡らして一つ思う。俺が浮かべる彼女等の表情に一つの傾向があった。そんな表情の女が多い。
 俺はようやく思考から現実に意識を戻してアレスに答えた。
 あまりに下らな過ぎて酒を開けたくなる気分になると、手元にあった酒瓶が自己主張し出す。
「笑顔が良い女…かなぁ」
 その時、アレスの顔が強張った様に見えた。そう見えただけで表情は動かなかったから気のせいかもしれない。
 丁度果実酒の栓を抜いて渡した所でもあったから、口飲みは嫌なのだろうか? 酒は飲まない奴で好き嫌いは聞いた事が無いが、こういう酒は嫌いなのだろうか?
 アレスは無表情のまま一口瓶の中身を飲んで、俺に返した。受け取って傾ければ、果実の香りと酒の風味が良いバランスで胃までころころ落ちて行く。まぁまぁ美味いじゃないか。女達が喜びそうな飲みやすさだ。
 アレスにもう一度瓶を渡せば、彼の表情が何故か複雑そうに見えた。