夢の終わり

 マデ氏族の長となりしレトリウスは、ティプローネ高地に巣食う毒竜を討つ事を決意せし。されど毒竜の息は毒の霧となりて漂い、血は触れれば即死の猛毒となって降りかかる。
 識者キュレクスは、親友に勝利の予言を齎す。
 予言に則り大雨が降り頻る日、レトリウスは討ち手の先頭に立たん。毒竜ガズダハムの毒は雨に流され薄らぎ、レトリウスの槍が毒竜の心臓を貫きて二度と毒の呼吸を継ぐ事はなかった。
 汲めども尽きぬ水源と豊かな狩場を手に入れ、氏族の繁栄は約束された。マデ氏族はこの地に覇を唱える一歩を踏み出し、その道はエテーネの建国と栄光の玉座に続かん。
 天の神よ、地の人よ、エテーネ建国王たる英雄レトリウスを讃えよ。

□ ■ □ ■

 どんなに厚い肉布団をまとっていても、倒れ込んだら痛いんですね。薄く目を開けると、私のぽっちゃりとした手と、転送の門の床に描かれたモザイクが広がっていました。肘を立てて見回せば、転送の門の白い壁が見えるばかりです。
 頬に張り付いた冷たい床を感じながら、私は呟きました。
「分かっていましたが、次元の狭間に放り出されずに済んで良かったですねぇ」
 転送の門が正しい行き先に転送されなくなり、錬金術師達もすぐには復旧できぬと判断を下し、魔法生物問題も落ち着いた頃でした。王都の人々は転送の門に飛ばされる先を、娯楽感覚で推測しました。広大な大海原の上に放り出されて、溺れ死ぬと予想した人。日が昇る方角へひたすら舵を向けた先に広がる、大砂漠に放り出されて乾涸びると曰う人。魔物の巣窟のど真ん中に転送され、夥しい人骨に新たな被害者の骨も加わるという悲観の声。天の梯を上り、神様の元へ行くと笑い飛ばした酒臭い息。帰ってくる人が誰もいないのですから、言いたい放題です。
 噂はただの推測でしかありませんでしたが、実際に外れて一安心です。
 呻き声を漏らしながら体を起こし、体に固定していた鞄の中を確認します。
 鞄の中から柔らかく厚い布に包まれた布の塊を取り出すと、はらりと布が解けていきます。中から現れたのは使い勝手の良さそうな携帯型のランプです。丸い真鍮の取手が付いていて、その下にシンプルな形のランプが吊り下がっています。ただし、錬金術で生み出された品なので、燃料を注ぐ穴や蝋燭といった灯りとなる媒体は見当たりません。ランプの中には星を彷彿とさせる、トゲトゲした結晶が詰め込まれています。嵌め込んだ硝子にヒビはなく、大きな損傷はないさそうですね。私の体で潰していなくて、良かった良かった!
 私はランプを手にしていない指先を擦り合わせました。
「さぁて、壊れていないか動作確認をしましょうねぇ」
 そっと魔力を込めてランプを起動させると、転送の門が真っ白に塗り替えられる閃光が迸りました。建物の中に一人いた私の影が、大きな真っ黒い闇となってべったりと壁に張り付いています。私は堪らず目を閉じて、真っ赤に灼けた視界から庇うように手をかざしました。
「あぁ! なんて眩しいんでしょう!」
 魔力を切って光が消失しましたが、目がチカチカと眩んでいます。
 この『星華のライト』は、私、錬金術師ディアンジが開発した光源です。ザグルフに言われた通り持参してきましたが、眩しい光を放つだけのこれが何の役に立つのでしょう? 開発者である私こそ、首を傾げてしまいます。
 しかし、ここで考えても仕方ありません。私は取手をぎゅっと握り込み大きく息を吸い込んで胸を張ると、転送の門から出る為に扉を開け放ったのです。
 転送の門は王都キィンベルと、エテーネ王国に浮かぶ数々の浮島とを繋いでいます。浮島は王国の重要施設や王族や要人の居住地であり、扉を開けた先は美しい庭園が広がっています。白い石畳が立派なお屋敷へ伸びていて、その両脇にはエテーネ王国原産の花々が美しく咲いています。見上げれば鳥や不法侵入を防ぐ為の魔法が、七色の油膜のように空を覆っていました。
 私は庭園の奥にあるお屋敷を見て絶句しました。
 ザグルフと私は、ドミネウス国王陛下の第二子、クオード様にお仕えしています。だからこそ、そのお屋敷には見覚えがあったのです。
「ドミネウス邸…?」
 こ、これはどういう事なのでしょう?
 現国王ドミネウス様のお屋敷は、戴冠され王宮に居を移されてから地上に墜落したのです。転送の門は二つの空間を行き来するだけの装置であって、時空を超える能力があるはずがないのです。
 玄関に続く石畳を進んでいけば、玄関に私を出迎える人影があります。妙に薄暗い世界で赤い髪は黒っぽく沈み、丁寧に腹の前で手を組んだ細い体は爪楊枝のように突き立っています。別れ際と同じ動きやすそうな服装のまま、手を前に組み流れるように頭が下げられる。
「お待ちしておりました、ディアンジ様」
「ザグルフ! 無事だったんですね!」
 一足先に転送の門に飛び込んで調査していたザグルフの無事な姿を見て喜びが溢れましたが、言いようもない違和感に足が重い。
 私と共にクオード様にお仕えするザグルフは、諜報部では重宝されるだろう優秀な感性をもっていました。人の名前と顔を一瞬で記憶し、その何気ない仕草から戦士であれば得意な武器を、その人が患う病や怪我まで見抜いてしまいます。額縁の角度が少しでもズレていれば気がつき、魔力の流れからその場で効果を発揮している錬金術まで察知します。
 そんな優秀なザグルフでしたが、極度のあがり症。調査の為に街を歩けば、まるでゴーレムが歩くようなぎこちなさ。報告を口頭でさせようものなら、いつまで経ってもマホトーンが解けない有様です。協力での調査も上手く行った試しがなかったそうです。
 特に強い違和感を醸すのは、ザグルフの口調です。横隔膜が痙攣するようにつっかえる声が、滑らかに紡がれる。これだけで、普通ではないと思うのです。さらに、私と彼は同僚。ザグルフが私に頭を下げたり敬意を払ってくれた事は、一度もありません。
 魔物の類がザグルフに化けているのでしょうか?
 警戒して足を止めた私に、ザグルフは気持ち悪い笑みをにっこりと浮かべました。
「さぁ、メレアーデ様がお待ちですよ」
 どうぞ、と開けられた玄関を恐々と潜れば、使用人として働く様々な人々の姿が見えます。転送の門の事件で行方不明になった兵士達。王宮で働く女官や、文官の姿もありました。二階からメレアーデ様が階段を降りてくれば、エテーネ王国の民として深々と頭を垂れる。私も居住まいを正して、近づいてくる主の姉上を迎えました。
 クオード様と同じ青紫の艶やかな髪を結い上げ、赤いリボンで結んでいます。肩の出ている桜色のドレスは、華美でも質素でもない丁度良い塩梅です。凛と伸びた背筋、一挙手一投足が美しい立ち振る舞いを叩き込まれ、まさに女王の風格でありましょう。クオード様は姉上様の美しさと素晴らしさを、時間の許す限り語るのですが、まさにその通りのお姿ですねぇ。
「良く来ましたね、ディアンジ。待っていましたよ」
 勿体無いお言葉です。そう深々と頭を下げて、メレアーデ様の足元が見える。
 足先まですっぽりと覆うロングドレスが、床に擦れる擦れないかという長さでふわりと揺れる。その足元を見て私は、ふと違和感を感じたのです。
 浮島に差し込む日差しが、ドミネウス邸の奥へ燦々と差し込んでいました。私のずんぐりとした影が、ザグルフのひょろりと引き伸ばされた影が、窓から差し込む日差しに黒々と床に縫い付けられる。そう、影は二つだけ。
 メレアーデ様の足元から影が伸びていませんでした。
 私は下げた頭を上げると、メレアーデ様を正面に見据えて問いました。
「貴方は誰ですか?」
 大きな紫の瞳を瞬かせ、優雅な手つきでシルクに覆われた手が胸に添えられる。
「ディアンジ、何を言っているのですか? 私はエテーネ王国国王ドミネウスの娘、メレアーデです」
 よくよく考えてみれば異常な話です。
 地上で転送の門が正しく起動しないのなら、当然王宮側も異常が起きている事でしょう。地上と同じく正しい目的地に転送されず、行方不明者が続出しているかもしれません。時渡りの力を持つ王族に、そんな状況にある転送の門を使用させるだなんて到底あり得ない。
 この場にメレアーデ様がおられる事は無い。
 このメレアーデ様は偽物か、幻でしょう。
 私がひたと見つめ続けると、ふふっと見た目の年齢相応の悪戯っぽい笑みを浮かべました。緩く組んでいた片腕を外し頬に人差し指を当て、あざとく首を傾げてみせる。クオード様に付き従った際に何度か拝見した笑みと寸分違わぬ仕草は、この怪しい状況でなければ騙されていたでしょう。
「不思議ね。皆、私がメレアーデではないと言うの。じゃあ、私は誰なのかしら?」
 偽物を見る私の視線はどんどん上向き、完全に顎が上がる。
 へ。私は間の抜けた声を漏らしたのです。
 まるでもくもくと沸き立つ入道雲のように、偽物メレアーデ様が大きくなる。足元のタイルがまるで広間のような大きさに広がりメレアーデ様が遠退いていきますが、ちっとも小さくなった気がしません。
 すると、ほっそりとした女性とは思えぬ巨大な指が、塔のようなものを摘んで私の上に置こうとするのです。私は悲鳴をあげて逃げ出しましたが、この樽腹では素早く動ける訳がありません。縺れた足でべとりと地面に転がると、私は頭を抱え縮こまって震えるしか出来ません。
 ごぉぉおおんと低い音を響かせ、地面が激しく揺れる。
 どれくらい震えていたでしょう。地響きも轟音もしなくなり、私は恐る恐る顔を上げました。
 乱立する巨大な塔の上に、空を覆わんばかりに巨大なメレアーデ様の端正な顔が広がっています。ひっ。息を詰まらせ後ずさった私の背に、偽物のメレアーデ様が置いた塔が当たったのです。
 等間隔に並べられた塔を、まじまじと見る。
 塔の上に王都キィンベル近辺に生息するスライムの形が見えました。遠くをみれば、翼を広げたガーゴイルや今にも駆け出しそうな馬に跨った死神貴族、裾を摘んだメイデンドールといった魔物達の影が浮かび上がるのです。逃げ場がなく叫んだ私でしたが、魔物達の影は一向に動く気配がありません。白と黒に切り分けられた真っ平らな地面。息苦しい呼吸の中で、視線を巡らせた世界の様子はまるで…。
「モ、モンスターチェス…?」
 王立アルケミアでも部署を超えた娯楽として存在する、チェスゲームの一つです。
 状況を把握した私を見て、巨大な瞳が細められて笑ったようでした。
「貴方は私の本当の名前を、言い当てる事ができるかしら?」
 しなやかな指が先攻を促すように向けられました。
 私は生唾を飲み下し、近くにいたスライムの駒に『前へ』と命じる。すると巨大な塔のような駒が浮き上がり、一つ前のマスに着地する。偽物は巨大な指でスライムの駒を摘むと、一歩こちらへ前進させる。動きは従来のモンスターチェスと同じようですね。脳内で現在の盤面を浮かべながら、次の一手を示す。
 すると、私の上にメレアーデ様のガーゴイルの駒が下される。至近距離で雷が落ちたような衝撃と音が私を揺さぶり、地面から跳ね上げられた私はほんの数歩前に置かれた駒を見上げる。駒を摘んだ指が離れ、まるでギロチンの刃のように爪が私へ向けられる。
「頑張ってお逃げなさい、ディアンジ。貴方がキングの駒よ」
 私はキングの駒があるべき場所へ、視線を走らせた。
 確かに、そこには駒が置かれていない。私が自由に盤面状を動けるとしても、マス目一つ一つが王都の一区画分の広さを持っています。もし追い詰められて駒に囲い込まれてしまったら、チェックメイト。私は偽物のメレアーデ様に摘み上げられてしまうか、駒に押し潰されてしまう!
 遥か彼方の盤面の向こうに、偽物の手が伸ばされる。砂時計がひっくり返され、豪雨の音を響かせて夕焼け色の砂が落ちていく。
 控えめな色艶の紅を塗った唇が、大気を震わせて言葉を紡ぐ。
「この砂が全部落ちたら、貴方の順番は終了よ」
 時間を稼がせては貰えないという事ですね。私は顎に滴った汗を拳で拭いました。
 時々、クオード様にも勝利する腕前の私は、決してチェスは弱くないと思っています。王立アルケミアでも、腕前は真ん中よりちょっとだけ上といったところです。しかし、盤面を俯瞰できる偽物と、脳内で駒の位置を把握するしかない私とでは状況の差は明らかです。
 ガーゴイルの駒が取られ、メイデンドールが睨みを利かされて動けぬ状況。着々と追い詰められているのを感じていました。スライムの駒はいくつか最奥に到達し、八方向に進むスライムに成る。しかし、偽物のキングであるキングリザードの駒は巧みに逃げ、私に迫ってきています。  
 動き回って汗だくの私を、組んだ手の上に顎を乗せた偽物が眺めている。
「思った以上に粘るわね、ディアンジ。殺したりしないから、降参なさい」
 殺しはしない。
 その言葉に嘘はないでしょう。この状況を打破する為に『星華のライト』を求めたザグルフが、生きているのが何よりの証拠です。遠からずチェックメイトで私が駒に潰されるか、偽物に摘み上げられる未来がやってくるのは確定していました。
 迫る駒の恐怖に心が折れ、偽物でもメレアーデ様の慈悲深い笑みに言葉を受け入れた者もいるでしょう。しかし、私はにやりと笑いました。
「残念ですが、諦めが悪いのが私の良いところなのですよ」
 私は王立アルケミアに所属できたのが、奇跡のような落ちこぼれでした。
 研究していた『星華のライト』は、満天の星空のように周囲を照らす照明器具となるはずでした。しかし結果は、王族や有力者の前での成果報告の際に『星華のライト』で失明者を出してしまうという大失態を犯してしまったのです。
 過ぎたるは及ばざるが如し。強すぎる光に壊れやすさも加わり、改善が見込めない。王立アルケミアの威信を賭けた錬金薬で視力を回復したとはいえ有力者の怒りの矛が私を貫きました。私がアルケミアを追われるのに、そう時間は要りませんでしたねぇ。
 王立アルケミアの研究者は地上に降っても、王都で看板を掲げて店を開いたり、故郷に錦を飾って知識を還元したりするものです。しかし、さして才能のない私は軍部の下請け錬金術師として、日々の糧を得られる程度の細々とした生活をしていました。
 それでも、『星華のライト』の研究を諦める事はできませんでした。
 あまりに強い閃光に苦情が出た日、私の前にクオード様が現れたのです。クオード様は私の『星華のライト』を見て、あの失明する閃光を放った錬金術師であると分かったそうです。そして、あの大失態を犯した研究を続けている私を見て、呆れたように笑ったのです。
 まだ幼さの残る顔立ちでも、剣胼胝に固くなった手が差し出されました。
『ディアンジ。俺のもとに来い。貴様の信じる練金を成功させろ』
 私は嬉し涙に歪んだクオード様を見て、なんて物好きなお方なのだろうと思ったのものです。こんな才能のない私を臣下に迎えても、クオード様には何の得もありません。
 それでも、私はクオード様の手を取りました。
 しがない錬金術師の可能性を見出し、信じてくださったこの方の為に『星華のライト』を完成させたいと、強く思ったのです。
 ザグルフは果敢にも敵の懐に潜り込み、転送の門の事態を解決する情報をもたらしてくれたのです。『星華のライト』がその切り札になるなら、私こそ最後まで諦めてはならない!
 私を追い立てるチェスの動きを予測して駆け回りながら、周囲に視線を巡らします。
 地上に墜落し、現在は存在するはずがないドミネウス邸。
 事故現場に居てはならぬはずの、王族。
 洗脳されているのか、本来の己が役目を忘れている行方不明者達。
 周囲が巨大化したような、逆に私が小さくなったような状況。
 全てが現実に、起こり得る事がない出来事ばかりです。
 いくつか駒を動かしているうちに、私が念ずるだけで動く事も分かりました。私が宣言した内容をメレアーデ様の姿をした偽物が認識し実行するのではなく、私の意志もこの世界に影響を齎す。しかし、私がこの世界を壊すイメージを抱いても、それが現実のものとはなりませんでした。この世界の主導権は偽物が握っているのでしょう。
 この世界がなんらかの錬金術の作用で、生み出されたのは確定です。私は記憶を振り絞って、知る限り全ての錬金術具を思い出します。記憶の結晶石は記録した映像を再生するだけで、臨機応変な反応は出来ません。幻惑の錬金術も幻を生み出すだけで、会話は出来ない。
 偽物は確かに意志を持っている。
 偽物がこの世界をイメージし、私を含めた行方不明者を巻き込んでいる。
 そんな錬金術が存在したか? いや、今はそんな課題を研究している錬金術師は知る限りいません。これほど高度に偽物のイメージを共有している錬金術なら、多くの分野に発展をもたらす研究となるでしょう。
 なぜ、誰も挑まない? 何か、この研究に問題でもあるのか?
 私はスライムの駒を動かしながら、ふと、思い出したのです。研究を行なっていた人物と、その末路を…。
「残念。チェックメイトよ」
 自分のスライムの駒に囲まれた私の目の前に、キングリザードの駒が置かれる。
 しかし、私は笑みを深くした。ここを開けたのは、キングリザードを誘き寄せる為なのです。私はさっと手を上げ、宣言する。
「八つのスライムの駒を合体させ、キングスライムとする!」
 スライムの駒が輝くと、巨大なキングスライムの駒になったのです。キングスライムは大きく跳ね上がり、キングリザードの駒を押し潰し、盤を突き抜ける。大きく亀裂が走り、真っ二つに裂けた盤が断崖絶壁のように傾く!
「チェックメイトです!」
 私は『星華のライト』を振り上げ、ありったけの魔力を注ぎ込んで起動させる。
 全てを消し飛ばしてしまう閃光が、世界を貫いたのです。

 最大出力の閃光を放った事で壊れた『星華のライト』から、光が失われていきます。もう、私の前にはキングリザードの駒も、真っ二つに割れた盤と底なしの亀裂も、山のように巨大なメレアーデ様の姿もありません。転送の門の丸みを帯びた壁面と、ザグルフを含めた行方不明になっていた人々が眠っていました。
 ここは王都キィンベルの転送の門でしょう。戻ってこれたようですね。
 眠る人々の真ん中で、ランプを抱えた女性が座り込んでいました。アルケミアの研究者が好む白いローブの上に、美しい銀髪が流れるように落ちている。お顔は伏せられていて、ほっそりとした手から若い事だけを察します。
 ランプには美しいステンドグラスのガラスが嵌め込まれています。森のステンドグラスの光が当たった壁には、遥か海を超えた先にあるエルフの神エルドナの大陸に聳え立つ世界樹がそこにあるかのように映し出されています。美しい海のステンドグラスの先にはエテーネ王国の近海では決して見ることのできない真っ青な海と空が結ぶ水平線が、真っ白な雪原のステンドグラスには雪原と夜空に浮かぶオーロラが、まるで窓の向こうの景色のようにそこにありました。
「光と影の織りなす刹那の境界。全てを取り込み永遠へ…」
 呻き声と共に、ランプに押し付けてて白く染まる指先。必死に足掻こうとする姿が、言い様のない哀愁を漂わせるのです。
 レイミリア幻想機。
 かつて、王立アルケミアにはレイミリアという所長がいました。彼女が研究していたのは、使用者の思念を投射するというもの。この研究が実を結べば、使用者の経験を他者に己の事のように追体験させる事ができるようになっていたでしょう。
「レイミリア様」
 私はランプを抱く女性に歩み寄る。身を強ばらせ、壊されまいとランプをキツく抱き締めるレイミリア様の前に、私は膝を折って目線を合わせました。ランプに額を押し付け、白い頭皮と銀の渦が生み出す旋毛を見据えます。
「貴女の研究成果は、貴女が満足する結果には程遠いものだったかもしれません」
 『星華のライト』の閃光は、使用者の思念を驚きと眩しさで染め上げました。そうして生まれた綻びのお陰で、私は思念の主であるレイミリア様に対峙する事ができたのです。
「しかし、レイミリア様の幻想機を使えば、病床から起き上がれない病人に広い世界を見せる事も、愛した人を亡くした苦しみにもがく者に再会の機会を与える事すらできるでしょう」
 私はレイミリア様の手に、そっと自分の手を添えた。冷たく氷のような手でした。
「レイミリア様。貴女の研究はとても素晴らしい」
 そっと、萎れた花が水を吸ってもたげるように、才色兼備をほしいままにした女性の顔が上がりました。今まで金食い虫と罵られた研究を素晴らしいと褒められ、呆気にとられた無防備な顔にさっと朱が走るのを、私は美しいと思いました。
 レイミリア様は、アルケミアの所長としては不名誉な退場を強いられていました。多額の費用を投じても成果が出なかった責任を取って辞任をしたのです。
 結果の出ない研究を続ける苦しみを、完成させたいという執念と願望を、私はどんな才能溢れる錬金術師達よりも理解できると言い切りましょう。不要と切り捨てられた絶望を、顧みられない孤独を、私はレイミリア様と同じくらいに知っています。
 こんな私だったから、レイミリア様の事を知っていたのです。
 クオード様。私は、私を救ってくれた生涯の主を想う。
 貴方が私に手を差し伸べたように、私は彼女を救う事が出来るのでしょうか?
 私の問いに主は微笑んだ。いつも気難しい顔で眉間に皺が寄っているけれど、姉上様とご一緒の時は常に、忘れた頃に時々私達臣下に向けてくださる笑み。その笑みが私達の存在を受け入れてくれていると、私達を信じていると実感させてくれるのです。
 私はレイミリア様に尊敬の念を込めて、微笑みかけました。
「このような素晴らしい研究を完成してくださり、ありがとうございます」
 レイミリア様の瞳から大粒の涙がこぼれ、大きな口を開けて天を仰いだ。幻想機の光を透かした涙が、彼女の苦悩に満ちた人生を映し出す。次第に彼女の家族だろう父と母の姿が、故郷の小さい村が、エテーネの空が映し出され、最後は何も写さなくなった。
「貴女の研究を、私が責任をもって正しく使いましょう」
 私は幻想機を受け取り、レイミリア様に誓いました。