矢面に立つ

 王様の弟が暮らす家にしては、静かで質素だった。
 こじんまりとした二階建ての家は、古めかしい遺跡みたいな煉瓦造りの壁に蔦が這っている。家の前には大きな湖が広がっていて、一面に白い花が咲いて濃い色の空に光っているみたいだ。玄関横の庭園は自然な感じに手入れされていて、木陰には木から吊るされたブランコが揺れている。穏やかで心地よい時間を過ごすために、心が砕かれている感じが伝わってくる。
 心配が杞憂だったと、ファラスのあんちゃんは硬い息をゆるりと吐き出した。
 ちょろちょろと水が流れ、さわさわと木々の葉っぱが擦れる音が広がる世界に踏み出そうとした瞬間。何かが落ちて壊れる大きな音が、オイラ達の安堵を打ち砕いた。
「…っ!」
 ファラスのあんちゃんが矢のように屋敷に向かって駆け出す。ラチックのあんちゃんみたいに筋肉ムキムキなのに、ダッシュランみたいに早いのな! オイラも相棒に短く目配せして、バギの力を繰ってファラスのあんちゃんを追い抜いた。
 二階建てのこじんまりとしたお屋敷を左手に見つつ、転送の門から玄関に伸びる煉瓦が敷かれた道を走る。一階の窓が割れる音がして、女の人の悲鳴が上がる。オイラは玄関に向けた足をぐっと地面に押し付けて、バネのように方向を変えた。お屋敷の壁伝いに植えられた花々を超えて、メラのように割れた硝子に飛び込むと、腰が抜けた侍女の姉ちゃんと爪を振り上げた異形獣の間に出る。
「立って走って!」
 両手に装備した爪を交差して、異形獣の爪を受け止める。
 それでも力の強い異形獣の攻撃を止めるなんて、空中に浮いた状態じゃ無理だ。床に叩きつけられる直前に練り上げた強風で、異形獣の爪から逃れて足の間に滑り込む。そのまま尻尾に足を掛けて背後を取ると、頭にひゅるんと伸びた角に爪を叩き込む。びぃいいん。一撃に細長い角が震えて、異形獣の動きが止まる。
 その隙にオイラは階段を駆け上って、二階の部屋にいる姉ちゃんに追いつく。
 甘いミルクの匂いがする円形の部屋の真ん中には、可愛らしい星のモービルが吊るされていて、木製の揺籠が微かに動いていた。揺籠の中にはふかふかのクッションが敷き詰められて、寝ていた赤ちゃんの形に窪んで温もりが残っている。侍女の姉ちゃんが黒いロングスカートを捌きながら、隠れられそうなソファーの裏を覗き込んでホッと安堵の息を零す。
「マローネ様は御子息様と逃げられたのね」
 まだ湯気が立っている紅茶の横には、赤ちゃんの成長を細かく書いた日記がある。几帳面な綺麗な字で、絵もとても上手だ。可愛らしい赤ちゃんの笑顔の絵や、小さい手形や足形を取った紙が日記に挟まれて、マローネママ様がとっても赤ちゃんを大事にしているのが伝わってくる。
 ほんわかしてる場合じゃない。
 オイラの耳が、階段を上がってくる異形獣の足音を捉える。じゃり。じゃり。鋭い爪が絨毯にめり込んで、その下の床板を引っ掻く音が這い上がってくる。オイラは侍女の姉ちゃんを引っ張って、部屋の扉から一番遠い物陰に押し込んだ。
「オイラが囮になる。その隙に逃げるんだ」
 立ち上がって扉に向いたオイラの手を、姉ちゃんが掴んだ。必死な顔で、ぎゅっと強く手を握ってくる。
「マローネ様と、御子息様を、守ってください!」
 ファラスのあんちゃんの心配は、的中ってわけか。
 転送の門の安全が確保される少し前、ファラスのあんちゃんが硬い表情でオイラ達に言った。
『パドレア邸に同行してはくれまいか?』
 エテーネ王国の上にぷかぷか浮いてる浮島は、王国の大事な施設や王族のお家が建っているらしい。その一つであるパドレア邸はファラスのあんちゃんのご主人様である王様の弟のお屋敷で、ご主人様の奥さんと赤ちゃんが住んでいるんだって。あんちゃんが行きたがってた目的地だよね。
 どうして、一緒に来て欲しいんだろう? 首を傾げるオイラの横で相棒が口を開く。
『異形獣の襲撃があると、予想しているんですね?』
 あんちゃんが苦しげに頷いた。
『異形獣は時渡りの力を集める為に造られた魔法生物だと、王立アルケミアの資料から判明した。ならば、時渡りの力が強い者が標的にされると考えられる』
 エテーネ王国の人達が持ってる時渡りの力だけれど、王族に近い程、力が強いらしい。そう前振りして、おっちゃんは言葉を続ける。
『我が主パドレ様は現在生きておられる王族で、最も強い時渡りの力を擁しておられた。奥方のマローネ様の力量は不明だが、御子息は父親である主の力を引き継ぎ、強い時渡りの力を持っているだろう』
『そこまで分かってんなら、王国軍に頼んで護衛を付けてもらえばいーじゃん』
 ファラスのあんちゃんが頭振った。後ろに流した砂色の髪が、さらさらと首筋を撫でる。太くて逞しい腕を緩く組んで、オイラ達に説明するように話し始めた。
 浮島への移動手段である転送の門は、強固な城壁だ。結界が張られているから空を飛ぶ生き物は入ってこれないし、地上と繋がってないから侵入する方法は転送の門しかない。だからこそ、浮島の入り口となる地上の軍部区画では、転送の門の使用者に対し厳しい申請と審査があった。オイラなんか魔法生物か、って真っ赤な地毛をひん剥かれる所だったぜ!
 転送の門を使って浮島に上がれる者達は、一部の罪人を除いて身の清い者達ばかり。だから浮島には護衛となる軍人は配置されないだってさ。
『異形獣の被害が国内に広がりつつある今、護衛の申請は受理されるだろう』
 しかし。ファラスのあんちゃんが、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。
『時渡りの力を集めているのは、ドミネウス国王陛下だ。軍団長を務めるクオード様がどんなに優秀な護衛を配置してくださっても、いくらでもやりようはある。マローネ様と御子息様の安全確保には至らん』
『どうするんですか?』
 相棒がわからねーんじゃ、オイラが分かる訳ねーよな。
『先ずは自分がマローネ様と御子息様の元へ、向かわなければならない。不眠不休でお二人を守る覚悟が、自分にはあるのでな!』
 ふみんふきゅーって、オイラなんか徹夜一回しただけで立ったまま寝ちゃうぞ。それでも、ファラスのあんちゃんのカラッとした笑顔が、マジで『一睡もしなくたって守り続ける!』って決意を感じさせる。
 それに最初は辺境だけだった異形獣の被害が、大きく大胆になってきてる。閉鎖された浮島の出来事だから皆知らないだけで、王立アルケミアの研究員全員を口封じに殺した事が知れ渡るのなんか時間の問題だ。転送の門が開放され異形獣を送り込めて、側に守ってくれる人がいない。ファラスのあんちゃんの余裕のない焦りを見てると、今が一番あぶねーんだろうって思うんだ。
『国民ではない旅人の其方らに頼むのは心苦しいが、正規の手続きを踏んで軍人達を動員する時間が惜しい』
 頼む。腰を直角に折って下げられた頭を、オイラ達は二人がかりで起こした。ここまで来たら、最後までお付き合いするってーの!
「絶対守るから、安心していーぞ!」
 オイラは不安そうな侍女の姉ちゃんに、にっかりと笑って言った。力が抜けた指からするりと手を抜くと、少し前まで赤ちゃんとママ様が幸せに過ごしていた部屋を飛び出す。
 日差しと影でくっきりと二分された世界に、ぬるっと異形獣が現れる。廊下に立つオイラを認めると、異形獣は頭を下げて前のめりになると凄い速度で突撃してきた。
 機械みたいな黒い体に赤い線が走る、王立アルケミアで遭遇した奴と同じ姿だ。
 オイラがサッと避けると、激突しそうになった壁に張り付き頭上に飛び上がる。そのまま車輪のように回転して振り下ろされる尻尾を、紙一重で避けた。標的をオイラに定めた異形獣を引き連れ、オイラは閉じた扉に向かって全速力で駆け出した。
 だけど、異形獣の方が早い!
 王立アルケミアは広い空間だったから撹乱も効いて逃げられたけれど、この狭い廊下じゃ逃げ場がない。オイラは背中から異形獣に突き上げられ、勢いそのままに扉を突き破った!
「おわぁああ!」
 木屑が飛び散った先は、吹き抜けの玄関広間だ。
 玄関だろう大きな扉が開け放たれ、逃げる為に集まっていた屋敷の人達が目を丸くしてオイラを見上げている。玄関扉から正面には階段があって、それが左右に分かれて二階につながっている。踊り場には赤ちゃんを抱いた女の人を背に庇った、ファラスのあんちゃんが異形獣へ鋭い視線を向けていた。
 吹き飛ばされたオイラは、そのまま玄関広間を照らす大きなシャンデリアにしがみついた。押し出される形で、大きな金属の輪と沢山のキラキラの石で連ねたシャンデリアが大きく揺れる。オイラは天井から吊るされた鎖に取り付くと、異形獣に向かって揺れるタイミングで鎖に爪を引っ掛けた。
 ぎぎっ。 ばぎん! 梃子の原理で歪められた鎖が、遠心力に引っ張られて千切れる。
 鎖が外れたシャンデリアが、異形獣の上に落下した! 二階の廊下へ続く扉周辺が崩落して、シャンデリアと異形獣が階段の真横に落ちていく。玄関前にいた人達が、悲鳴を上げて外へ飛び出していった。
 大きな音にびっくりしたんだろう。赤ちゃんが大きな声で泣き出した。
 鎖にぶら下がったオイラの思考の隅に、きらりと相棒の考えが翻る。
「ファラスのあんちゃん! 相棒がそっちの二階から逃がすって!」
 あんちゃんが素早く頷くと、赤ちゃんを抱いた女の人の背を押す。女の人は真っ白いお包をぎゅっと抱きしめて、緑のロングドレスを翻して異形獣から離れるように階段を登り始めた。シャンデリアの下から、異形獣が女の人の金色の麦の穂のような髪に顔を向ける。
「マローネ様、お早く! 立ち止まらないで、走るのです!」
 ファラスのあんちゃんが二振の片手剣を構えると、シャンデリアを押し退けて飛び出した異形獣に斬り掛かる。振り下ろした爪を受け流し、返す刀で関節の隙間に剣を差し込む。雄叫びのような気合を迸らせ剣が振り抜かれると、異形獣の片手が斬り飛ばされた!
 さっすが! 王立アルケミアで千切っては投げ千切っては投げって、無双した勇者様だぜ!
 鎖が無事な二階の扉に近づいたタイミングで手を離すと、丁度、相棒が二階の窓枠に足を掛けて赤ちゃんとマローネママ様を迎えている所だった。鉤爪のついたロープで窓を破りつつ、窓枠に引っ掛けて避難に使うつもりなんだ。
 相棒は赤ちゃんの泣き声に負けないよう、大声を張り上げる。
「こちらへ! 僕に掴まってください!」
 相棒が駆け寄るマローネママ様を抱きしめるように背中に手を回し、ママ様も赤ちゃんを抱いていない腕を相棒の肩に回す。しっかり密着して掴まったママ様を抱え、もう片手にロープを持って外へ身を投げ出そうとした。
 背後の扉が凄い音を立てて砕け、振り返ったオイラの体に破片が突き刺さる。
 異形獣がファラスのあんちゃんを振り切って、追ってきたんだ!
 オイラは氷の力を高めて、ヒャダルコの呪文を放つ。ぱきぱきと朝顔の花を咲かせ、蔓が空中にばら撒かれた扉の破片に絡みついて網目状に広がる。突然湧き上がった壁に、異形獣が一瞬だけ動きを止める。
 その一瞬で、ファラスのあんちゃんが黄金の雷光をまとわりつかせた二刀流を引っ提げて詰め寄った。ばちばちと爆ぜる黄金の光が、氷の朝顔に乱反射して眩い光で廊下を染め上げる。びりびりと空気を震わせ、渾身の一撃が異形獣に振り下ろされる。
 床が大きく揺れてヒビが走った次の瞬間、二階の床が崩落した!
 もうもうと舞い上がる埃が落ち着くと、黒くて硬い装甲を貫いて深々と背中に刺さった剣を引き抜き、あんちゃんが動かなくなった異形獣を見下ろしていた。滝のように流れる汗を拳で拭い、マローネママ様の無事を確かめようと窓へ視線を走らせた。視線が外れたのを見計らうように、ぴくりと、異形獣が身震いする。
「あんちゃん! まだだ!」
 はっと剣を身構えた体ごと、異形獣の尾があんちゃんを薙ぎ払う。一階の壁に激突し突き破ったあんちゃんに一瞥もくれず、異形獣は外へ視線を走らす。
 相棒! オイラが心の中で叫ぶと、相棒も即座に異形獣へ視線を向ける。転送の門へ向かうママ様の背中に叫ぶように言い放つ。
「振り返らないで、走って!」
 さっと弓を構えて矢を番えると、火打ち石を鏃にして爆弾石の欠片をつけた矢を放つ。異形獣には狙うべき急所がなくって、鎧みたいな硬い装甲が普通の矢を弾いてしまう。頭の良い相棒は異形獣の足元を狙って爆破させ、巻き上げた瓦礫を礫にして異形獣へぶつけた!
 さらに瓦礫に向かって矢を放ち、ちりっと走った火花が爆弾石を熱して爆発させる。至近距離でイオが炸裂する衝撃に、流石の異形獣も体勢を崩した。
 それでも、異形獣の足は止まらない。
 相棒は短剣を引き抜いて異形獣を迎え撃つ。瞬く間に迫った異形獣に短剣を振り下ろそうとしたけれど、開いた脇に尾が食い込んだ。相棒は大きく撥ね上げられて、お屋敷の白い花が咲き乱れる池の中に落下して水飛沫が上がる。
 相棒が水から浮上しようとするのを感じる。
 死にそうにないなら、マローネママ様と赤ちゃんを助けねーと!
 オイラは風の力を繰って二階から飛び出し、瞬く間に異形獣の頭上に迫った。異形獣の背中越しに、転んだママ様の背中が見える。赤ちゃんを守ろうと必死に抱きしめている背中に、異形獣が角を突きつけた。角から光が女の人に照射されると、ママ様が苦しげな声を上げる。
 異形獣はママ様を掴んでない。光から逃そうと引き摺ったら、オイラに標的が変わるかも!
 傍に着地したオイラを、ママ様は見た。
 ざらりと落ちたメルサンディの麦畑を彷彿とさせる髪の奥で、夜と朝の境の菫色の瞳が太陽の光に灼かれるように燃えていた。まるでラギ雪原に取り残されたように震える体を叱咤して、女の人は胸に抱いた赤ちゃんをオイラに差し出しす。戦慄く唇が途絶え途絶えに、有無を言わせない強い意志を言葉にする。
「この子…を、お、願い…」
 熱い熱い、赤ちゃんの体温。指に張り付いて飲み込んでしまいそうな、発酵したパンを連想させる柔らかい体。火が付いたように泣きじゃくって、涙の跡が艶やかな真っ赤に熟れた林檎。必死に伸ばされた手が、オイラの毛を一房掴んで離さない。燃える小さな命を受け取った途端、マローネママ様が、がくりと力尽きた。
 おんわぁ。おんわぁ。
 赤ちゃんの泣く声が、全ての音を押し退けて響いていた。