皇帝陛下の勅命により - 後編 -

 どうして忘れていたのだろう?
 正義感が憎悪よりも恐ろしい暴力となって、心に深い傷を付ける事を…。
 見渡す限り、人、ひと、ヒト。白い肌も、小麦色の肌も、日に焼けて黒い肌も、黒、茶、金と様々な髪の色も、全てが溶け合って大きく波打つ海のように眼前に広がっている。時折、舞台の上に並べられた罪人を見る為に跳ねる頭、肩車して一つ抜けた子供達。全く同じ色がない瞳は一様に熱狂に濡れて、大きく開かれた口からは僕らの死を望む声が迸る。
 しかし、人々は僕達に傷つけられた訳ではない。人々の生命を脅かしたり、大事なものを壊したり、生活を損ねたり、彼らが害に感じる事は何一つしてこなかったと断言できる。目の前の人々の殆どと僕らは言葉を交わした事はないだろうし、下手をすれば僕らの名前すら知らないだろう。
 共に処刑されるバディントも多くの罪を重ねて極刑が妥当なのかもしれないし、目の前の群衆の中にはバディントに苦しめられた者もいるだろう。だからといって命で罪を贖う以上の責め苦が、必要だとは思えない。
 彼らは僕らが憎くて、僕らの死を望んでいるのではない。
 僕らの死を望んでいるのは、ドミネウスというこの国の王だ。
 王が断罪する僕らの価値は、この国の何よりも低い。人々は王が極刑を言い渡した罪人を裁くべきだと鵜呑みにし、無邪気な正義感を振り翳して無抵抗な罪人を言葉で殴打する。極刑が執行される罪人だ。死んで終えば報復の心配もない。だから心置きなく普段言う事もできない言葉を大にして言い放ち、理性が抑え込んだ鬱屈を晴らしているのだろう。投げる石があったら雨霰と降り注いでいたに違いない。
 彼らは彼らで楽しいだろう。
 だが、こちらはたまったものじゃない。
 僕は傍に視線を向ければ、小刻みに揺れる青紫の髪が見える。その目は乾き切って硝子玉のようで、浅い息が戦慄く唇の間から出入りする。極刑で死ぬ恐怖ではなく、目の前の群衆が振り翳す正義感に打ちのめされている。暖かい故郷と優しい仲間達に囲まれ、困っている人に手を差し伸べる善良な心を、人々の無邪気な暴言がへし折っている。見ているだけで胸が締め付けられるような、痛ましい姿だった。ルアム君の瞳にまだ光が灯っていられるのも、魂が繋がる同じ名前のプクリポの励ましがあるからだろう。
 少年の向こうに見えるプクリポは、怒りで赤いふわふわとした毛が逆立って一回り膨らんでいた。映る者全てを焼き尽くさんと赤々と光る瞳。食いしばる糸切り歯が口の隙間から覗く。傍に立つバディントも、哀れな少年を気の毒そうな顔で見ていた。
 腹の底が冷えて、首筋から頭を貫かれ燃えるように頭が痛む。
 広場に集まった群衆と、黄金が煮え沸る錬金釜を前にした処刑台を見渡せるバルコニーから、槍衾のように金色のトランペットが突き出された。雲一つないエテーネ王国の空を突き抜けるような音色が、高らかに響き渡った。白金の胸当てにエテーネ王国の紋章が施された豪奢な鎧を着込んだ儀仗兵が、バルコニーに立って民衆達に高らかに告げた。
「第四十九代エテーネ王国国王、ドミネウス陛下の御成である!」
 人々が一斉に首を垂れ、荒波が一瞬にして凪ぐ。
 儀仗兵が恭しく下がると、しゃらりしゃらりと涼やかな音を響かせて壮年の男性が現れる。黒い鳥の尾羽で飾った王冠を戴いた偉丈夫で、戦士と言っても差し支えない頑強な体つきがオレンジ色のローブから浮き上がっている。空色のマントを留めた胸元で、金の留金に刻まれた王章が輝いた。
 一瞬、人生で初めて出会った王様が脳裏を過ったのは、僕らの殺害を画策する首謀者だからかもしれない。黒い羽飾りは王冠の飾りとして流行ってるんだろうか? 王は畏まる民をゆっくりと見回した。
「皆のもの、面を上げよ」
 ざぁっと顔を上げた民が見るのは、青紫の長髪を後ろに流し、鋭い眼光と整えた髭が相応しい威厳を醸す彼らの王の姿だろう。民の顔に畏怖と、かの王を戴く誇らしげな感情が浮かんだ。
 ドミネウス王はゆっくりと腕を開き、どっしりとした声で語り始めた。
「極刑なき慈悲に付け上がる罪人達に害される苦しみを、無辜なる民に強いてしまった。これ以上罪人達を放逐する事は、民を守る王の責務を放棄する事と同義である!」
 へっ。お綺麗なこって。窃盗、強姦、殺人、あらゆる罪に手を染めたと言っていたバディントは、嫌味ったらしく吐き捨てた。ぼさぼさと脂っ気のない髪と髭の隙間から、ぎらぎらと欲望に塗れた瞳が国王を睨め付けていた。
「第四十九代エテーネ王国ドミネウスの名において『黄金刑』の復活を宣言する!」
 わっと歓声が湧き上がり、ドミネウス王を讃える言葉が口々に上がる。拍手は鳴り止まず、足踏みが地面を揺るがし、口笛が歓喜の音を引き裂いて響く。
 じゃらりと後ろ手に手枷を繋いだ鎖が引かれ、現実に引き戻される。耳元に触れた生暖かい吐息は、笑い声を含んでいた。
「最高の眺めじゃないか。なぁ、レナート?」
 声の主を確認しようとするが、両腕を引っ張るように鎖を強く引かれ胸が張って振り返れない。だが、女性の声に聞き覚えがあった。ゼフさんの店で再三魔法生物の破棄を迫った、指針監督官ベルマだろう。
「ドミネウス陛下はどんな無価値なクズであろうと、眩い黄金に相当する価値ある人間に矯正する機会を与えてくださる。貴様には勿体無い御慈悲だ」
 愉悦に歪む顔がありありと描けるような、ねっとりとした声。
 やはり『黄金刑』は事実上の極刑なのだろう。この黄金の煮え沸る釜に飛び込んだだけで全身大火傷で死にそうだけど、それ以外に絶対に死に至るカラクリが存在するんだ。
 背中にちくりとナイフの切っ先が当たる。刺されぬよう自然に足が前に出る中、僕を繋いだ鎖を持ったベルマの声が高らかに響き渡った。
「黄金の釜が汝に更生の輝きを見出したのなら、今一度汝を信じよう!」
 視界が黄金に眩み、ぐつぐつと煮え沸る黄金の熱が顔を舐め上げる。処刑台の前に設られた黄金がなみなみと注がれた釜は、大きな幌馬車がそのまま入ってしまう巨大なものだ。
 僕は空気を含んで頬を膨らませると、舌の下から固い感触を引き出して唇の真裏に当てがう。
 故郷でやった西瓜の種飛ばしの要領で、一つ輝きが口から飛び出した。
 メレアーデ様の愛猫チャコルが運んできた『命の石』が、きらりと一つ瞬いてぽちゃりと沈んだ。まるで濃厚なコーンスープのようなとろみに緩く弧を描くと、ぷつぷつと沸騰する泡が何事もなかったかのように湧き出してきた。
「貴様! 一体、何を…」
 怒りの声を迸らせたベルマが、ナイフを素早く振り上げた。しかし、いつまで経っても振り下ろされない。振り下ろせなかったのだろう。
「罪深き罪人に黄金の審判を!」
 人々の声が地鳴りのように響く。ある者は笑顔で死を望む声を上げ、ある者は復活した極刑に興味津々と視線を注ぎ、ある者は己よりも弱い立場である罪人に対し嗜虐的な笑みを浮かべている。それらが次の瞬間、凍りついた。
 嵐の前の静けさ。そんな不気味な静寂だからこそ、誰もがはっきりと感じ取った。
 足の裏から微かな振動が這い上がってくる。それを自覚した時には、大きくどっしりとした錬金釜がぐらぐらと揺れ始めた。黄金がびしゃびしゃと錬金釜の縁からこぼれ落ちたのを見て、バディントが『うおっ! もったいねぇ!』って声が後頭部を叩いた。
 皆が錬金釜から目を離せない中、釜から天高く黄金が噴き上がった。溶けた黄金の飛沫を浴びて熱い熱いと悲鳴が上がる中、元凶が黄金の中から現れる。
 大きな大きな手。金塊を積み重ねたごつごつとした手が、捕まる所を探して僕目掛けて手の平を振り下ろす。僕が素早く下がると、目の前で舞台が破壊され砕けた板が舞い上がる。僕が回転してベルマの緩んだ手元から鎖を抜き取ると、そのまま大きく飛び退る。ベルマが気がついた時には、振り回した手の平に薙ぎ払われて吹き飛んでしまった。
 サーカスのイリュージョンのように華麗に手枷から手を抜いた猫耳君が、花びらのように手の平を避けて煮え沸る黄金の中に『命の石』を投げ込む。どんと音を響かせ腕を振り回す巨大な上半身が錬金釜から押し出され、錬金釜ごと横倒しになった! ざばりと流れ出す黄金から、ぬるりぬるりとゴールデントーテムが生まれ、集まった群衆の中を駆け巡る。
 錬金釜からようやく下半身が抜けた巨体は、ゴールドマンとなって立ち上がる。
 黄金の巨人の背後で錬金釜は大きくヒビが走り、真っ二つになった残骸からゴールデンスライムが誇らしげな顔で現れた。
 民衆達の悲鳴が上がり、我先にと背を向ける。転んだ者を踏み締め、足の遅い者を押し退け、進めずに足踏みする者の肩に乗り上がって踏みつけて逃げ出してた。
「すげーな! もう、処刑どころじゃねーな!」
 おでこに手を翳して遠くを見る猫耳君に並んで、バディントがガタついた歯並びを見せびらかして豪快に笑う。いく筋も古傷が走る筋肉隆々の腕で、手の平に拳を打ち付けると景気の良い音がした。
「で。どうするんだ? 逃げちまうか?」
 その言葉に僕達は改めて前を見る。逃げる人達が巻き上げた砂埃に乗じて姿を眩まし、殺到する人々に紛れて転送の門を潜れるだろう。ここに残っていれば殺されるんだから、逃げない選択はない。
「皆さん、こっちへ!」
 突然横から掛けられた言葉に、僕達は弾かれるように顔を向けた。
 処刑台を支える柱に齧り付きこちらを見上げていたのは、樽のような体格の錬金術師らしい男性だ。屈託ない眩い笑顔には、だらだらと滝のような汗が流れている。猫耳君が『ディアンジのおじちゃん!』と抱きつけば、明るい色のローブを着た背後に暗い色の服を着た痩身の男が影のように立っているのに気がついた。
「皆さん、ご無事で何よりです」
 ザグルフ、急いで。そうディアンジさんに急かされた痩身の男が、僕達全員の手枷を手品のように外して僕達の荷物を手渡してくる。バディントだけは、なぜか黄色い皮に角飾りのついたマスクだ。
「僕らの逃走を手助けして、大丈夫なのですか?」
 エテーネ王が極刑を言い渡した罪人を手引きするのは、王の決定に反する行為だ。極刑にならないとしても、エテーネの国民を巻き込むなんて出来ない。
 僕の問いに、ディアンジさんのふっくらとした頬が硬くなる。
「ご心配なく。こんな私達でもクオード様のお役に立てるなら、なんだってします!」
 さぁ。ディアンジさんが土煙が立ち込める先を示す。
 よく見れば鏡面のような白いタイルの上に、転がった小さい丸薬が燻っている。ディアンジさんのぽっちゃりとした指先がメラの火を灯して、握った丸薬を炙るともうもうと煙が湧き上がってきた。土煙だと思ったがディアンジさんが仕掛けた煙幕のようだ。
 風を読むように虚空へ視線を向けていたザグルフさんが、ひらりと煙に向かって歩きだす。
「さぁ、ずらかりますよ! 大丈夫。ザグルフの指示に従えば、安全に逃げられます」
「おいおい! 逃げるって、この黄金はどうすんだよ?」
 マスクを被ってくぐもった声のバディントが、ぶんぶんと腕を振った。確かに地面には巨大な水溜まりのように黄金が広がっていて、足元に転がった飛沫は砂金のように硬くなっている。上手く持ち帰って換金できれば、ひと財産になるだろう。でも、僕達を黄金に作り替えようとした黄金だなんて、気持ち悪くて持ち帰ろうだなんて思えないな。
 猫耳君が『好きにすればいいんじゃねー?』と言って、煙に消えた痩身を追いかけていった。先に飛び込んだ赤い尻尾が見えなくなる前に、僕とルアム君が煙に飛び込んだ。
 手を伸ばした先が白く解ける世界で、ぼんやりと浮かんだ青紫の髪や鮮烈な赤い尻尾、暗い色の細い影やずんぐりとした体が切り裂く煙の跡を追って進む。足元は逃げ出した人々の靴や荷物が散乱していて、時々ゴールドマンが踏み締めてヒビ入ったタイルや気絶した兵士達を跨いだ。
 泣き声を聞いて赤がさっと離れて暫くすると、母子を連れて戻ってきた。ポニーテールの可愛らしい女の子は、薄汚れた頬にくっきりと涙の跡が残っている。それを猫耳君が拭って『もう、大丈夫だぞ!』って言い切れば、嬉しそうに笑って抱きついた。
 固い金属音にゴールデントーテムを蹴散らしてしまっていたのに気がついて、ごめんねって平謝り。ザグルフさんの選ぶ道には大きな魔物の姿はなかったが、煙の向こうでずずんと地響きが響いていた。
 不意に先頭を進むザグルフさんが足を止めた。
「ザグルフ。どうしたんですか?」
 あ。あ。ザグルフさんはがくがくと震えながら、逃げ道を求めるように視線を彷徨わす。
 しゃらりしゃらりと涼やかな音を響かせ、煙が黒く影を刻む。薄くなった煙を払って現れたのは、ゴールドマンが拳を振り回して暴れ回り、ゴールデントーテムが足もをと掬い、ゴールデンスライムの巨体が全てを押し潰す危険地帯に居るはずがない存在。さらに煙が充満して見通しが悪いとなれば、力のある近衛兵でさえ不利な状況を判断して押し留める、この国で最も守らなくてはならぬ者。
 第四十九代エテーネ王国ドミネウス。
 僕達に極刑を下した王を前に、無意識に目を眇める。
 まさか、僕達を殺す為にわざわざ来たのか?
 どうして? 身に覚えのない殺意の懐かしさに、胃の下がぎゅうっと痛んだ。
 僕達もルアム君達も、この国に偶然立ち寄った旅人だ。この国がどんなに荒んで滅びの道を歩もうと、国外追放にされれば二度と立ち入る事はないくらい思い入れはない。王国で関わり信頼を得た人達が僕達が処刑される事で抱く反感は、簡単に王国が握りつぶせる。しかし国外追放なら、旅立ち別れる日が早まる程度で反感すら感じないだろう。
 それ程までに『黄金刑』の復活は魅力的なのだろうか?
 だとしても、国王が危険な場所いわざわざ足を運んで、逃げる僕達を殺そうと深追いしている。なぜ、この王は、こうまでして僕達を殺そうとするのだろう? 考えれば考える程に理解できない殺意を、心底不気味に感じた過去はもう懐かしく思うほど昔の事だ。
 僕は悟った。ルアム君達はこの国の未来に大きく関わる。彼らを守る事は、きっとこのアストルティアの未来を守る事に繋がるのだろう…と。
 あの世界が崩壊し多くの人が死んだ大災害。あの時に感じた絶望を、背負わされる重責を、この幼さの残る子供に強いちゃいけない。僕はルアム君達の前に立ちはだかり、王に剣を向けた。
「逃さぬぞ! 国王直々に裁きを下してくれよう!」
 毅然とした声が煙を吹き払うように響き渡った。
 いや、頬に真っ直ぐと落ちていた髪が、さわさわと頬を撫でる。無風の為に立ち込めていた煙が、ゆっくりと動いているようだ。
 歩み寄ってくるドミネウス王を前に、普段は物怖じしない猫耳君が後退りした。耳を前にペッタリと折り、顔に露骨なまでの不快感を張り付かせる。ぎゅっと噤んだ口を薄く緩めると、呻くように言葉が漏れる。
「なんだ、この王様…。人間じゃねーのか?」
 目を凝らし王に意識を集中すると、微かに布だけのローブを着た人間から発する筈がない音が聞こえてきた。がちゃり、がちゃり。きり、きり。きっ。引き攣る音がひとつして、王が軽く膝を曲げた。
「え?」
 反射で動いた剣と錫杖が鍔競り合う。吐息が掛かる程近くに、ドミネウス王の顔があった。
 何があった? 僕は錫杖に押し潰されないよう、渾身の力を込める。
 飛び込む予備動作もなく、一瞬にして踏み込まれた。例え軽く曲げた膝と足首の力で踏み込んだとしても、あんな巨体がこんなに素早く、間合いの外から飛び込むなんて無理な話だ。そして口の中に鉄の味がしそうなくらい強烈な金属臭。もしかして、これってドミネウス王の口臭なのか?
 がちんと剣越しに鈍い衝撃が伝わると、相手の膂力が増す。このままでは押し潰されると、僕は咄嗟に錫杖を受け流した。勢いよく地面を打ちつけた錫杖が、磨かれたタイルを粉砕し破片が飛び散る。
 飛び退って間合いを開けると、一瞬の鍔競合いであったにもかかわらず全身がびしょ濡れなほどに汗が吹き出していた。顎をから滴る汗を拳で拭うと、王から視線を外さずに仲間に言う。
「レナートの兄ちゃん、王様殺しちゃったらヤバいんじゃねーの?」
 あぁ。その通りだ。僕は相槌を打ちながら、周囲に素早く視線を走らせた。煙幕は全て吹き払われ、逃げ惑っていた人々が足を止めてこちらを見ている。
 王を追ってきた近衛兵が避難を促しているが、王が直々に罪人を処刑する様子に人々は目を輝かせていた。ドミネウス王を応援する声が一つ上がれば、この場は黄金煮え沸る釜の前と変わらぬ空間に変えられてしまう。王の名を叫ぶ声が、正義の執行を称える声が、そして僕達の死を望む声が押しかかる。
 周囲の異様な熱狂に、猫耳君が途中で助けてきた女の子が母親の腕の中で大泣きした。何かを訴えているが、その声は僕達の死を望む声に掻き消されてしまう。
「エテーネ王国の民の前で王殺しになれば、冤罪だったはずの国家反逆罪が本当の事になってしまう。例え、目の前の王が人間でないと、僕達が気がついていたとしても、だ」
「どーすればいいんだ?」
 完全に周囲は観客に囲まれているし、転送の門を封鎖されてしまえば逃げ道はない。このままドミネウス王と交戦を続けている限りは、民の避難が優先されて封鎖はされないだろう。
 メレアーデ様やクオード様は人間なのだから、その親であるドミネウス王も当然人間だろう。だが、目の前の王が人間でないのを、僕は一撃を交えて体感した。つまり、影武者か何かなのだ。
 ルアム君が夕暮れと夜の合間の瞳を、ゆっくりと王へ向けた。
「目の前の敵の正体を暴きましょう」
 ルアム君は火打ち石を打ちつけてぱっと散った火花を、鏃の代わりに巻きつけた布に燃え移らせる。蝋燭の火程度の火が灯った矢を、ゆっくりと敵に向ける。
「レナートさん、少しの間だけ足止めしてください」
 なるほど、服を焼き払うつもりなのか。あの機械仕掛けの魔物を彷彿とさせる手応えを思えば、人間にあるべき部位を精密に再現する必要はない。さらに生物ではない構造なら、あれほどの力を引き出す為に膨大な動力が必要になるはずだ。
 まぁ。僕はうっすらと笑う。
 どうせ極刑にさせられるのなら、王様の服を剥ぎ取るのは罪のうちにも入らないだろう。さらに服の下が人間じゃなかったら、僕達は王殺しにならずに済む。
 僕は七色の光が這う白金の刀身を、ゆっくりと正眼に構える。翼を広げた鳳の鍔が、滑らかな黄金の光を反射して輝いた。手にしっくりと馴染んだ柄を両手に握り込み、僕はドミネウス王に切り掛かった。
 剣を交えれば交える程、ドミネウス王の動きが人間離れしているのに気が付く。
 反射神経は歴戦の猛者並みと言えるが、最も顕著なのが関節の可動範囲だ。人間なら決して曲がらない方向に関節が曲がり、外れて腕の長さが伸びる。最も厄介だったのは、人間の常識では考えられない行動だ。
「ふつーはあちあちってなったら、消さねーか?」
 本来なら人間は服に火が付けば、全てを投げ出して消火する。火が己の命を奪う脅威であると刻まれた本能が、地面を転げさせて水を求めて奔走させる。しかし、王はローブの裾に火がついているのに全く対応する様子がなかった。
「ぐっ!」
 僕の手首を掴んだドミネウス王の手が外れると、断面からメラのように火が噴き出して明後日の方向に飛んでいく。手首を掴まれ引き剥がせず、僕の姿勢は完全に崩されて王の前で大きな隙を晒す。王が僕の頭の上に錫杖を振り上げたが、引っ張られた手を引き戻せずにいる。
 ロケットパンチかっこいい! って喜んでる場合じゃないだろ!
「レナートの兄ちゃん!」
 猫耳君がドミネウス王の背後から仕掛ける。
 反応速度も膂力も人間離れしているドミネウス王だが、全ての情報を視覚に頼っている。視覚の外からの不意打ちで、狙いがずれて錫杖が真横を掠める。
 僕が持ち替えた剣で切り離された王の手を叩き壊すと、ばらばらと小さい部品が零れて動かなくなった手が地面に落下した。凄まじい力で握られて、手が痺れる。
「兄さん!」
 王に尻尾を掴まれて投げ飛ばされたプクリポが、悲鳴を上げながら風の呪文を高らかに唱えた。次の瞬間、旋風が王を捉え小さい火が大きく燃え上がった!
 火炎旋風の中に閉じ込められた人影は、大きく腕を振り風を振り払う。陛下! 口々に周囲で観戦していた人々や近衛兵の歓声の声が、戸惑いに口を噤んでいく。
「小癪ナ真似を…!」
 憎々しげに僕らを見るドミネウス王に、この場の全ての人々の視線が注がれた。
 オレンジのローブと空色のマントは大きく焼け落ちて、上半身は裸と言った状態だった。炎に炙られても白いままの王の素肌、肩や肘や膝には人形の関節のような球がはめ込まれ、二の腕にはメンテナンス用なのか開閉口がついている。
 極め付けは腹に嵌まった、人の頭と変わらない大きさの真紅の球だ。不気味に明滅を繰り返す球に、顔から滴った皮膚が滴る。皮膚を失った顔の下にあるカラクリで上下する顎や、空洞の眼窩の不気味さが加わって最高に達し、ドミネウス王ではないと理解した人々が逃げ出し始めた。
「余コソ、エテーネの王ドミネウスなリ! 余ノ意に添わヌ者は、殺して、コロシテ、コロシツクス!」
 これで、目の前の敵を倒せる。互いに顔を見合わせ頷き合うと、鋭い叱責が響いた。
「何をしている! 民の避難を優先しろ!」
 呆然としていた近衛兵達が、雷に打たれたように走り出す。取り除かれた人垣の向こうから、抜き身の剣を引っ提げたクオード殿が駆け寄ってくる。この混乱の対処に追われていたのか、碧の軍服は乱れ首元のスカーフも大きく緩められている。
 軍団長を担う息子が、王だったものに目を向けて顔を大きく歪めた。服は大きく焼け落ちてはいるが、黒い鳥の羽飾りがついた王冠は残っていたのだ。小首を傾げた拍子に、さらりと青紫の髪が揺れる。
「なんだ貴様は?」
 王の格好をした異形に兵士達が戸惑いながらも槍や剣を構える中、ぽたぽたと皮膚を滴らせる王だったものが王の声で叫んだ。しかし、声は上擦り雑音が混じって耳障りな声となって迸る。
「父に剣ヲ向けルトは、血迷ッタかクオード! 今スグ剣を引けィ!」
 クオード殿の青紫の眉が嫌悪に大きく寄って、皺を刻む。
 ふらりと動いた拍子に、丈の短いオレンジのマントがふわりと揺れた。
 ふっと空気が動き、鋭い剣戟がドミネウス王のだったものの胸を袈裟斬りにする。赤い宝石は鋭利な断面を見せて切り裂かれ、胸から上がずるりと滑っていく。王だった物が目を瞬かせている間に、地面に落ちた上半身が砕けて中に詰まった数多の部品が飛び散っていった。
 血の滲むような日々の鍛錬を重ねた者だけが持つ体幹。実戦で多くのものを切り裂く感覚が体に染み付いているからできる、両断という業。
 エテーネ王国軍軍団長に相応しい会心の一撃だった。
 クオード殿は剣を鞘に収めると、切って捨てた塊を睥睨した。
「本物の父上なら、この太刀筋を避けるなど造作もない事。紛い物が父を騙るなど片腹痛い」
 軍団長は兵士達を見据え、腹の底から朗々とした声を響かせた。
「陛下を騙った替え玉の謀略により、罪人に仕立てられた者達は潔白である! 魔物の討伐の為王宮は一時閉鎖とし、全ての人員に避難を命じる! 各自、避難困難者の援助にあたれ!」
 兵士達は凛とした声で応じると、手際良く散っていく。僕達と共に逃げてきた人達は並べられて誘導され、軽い火傷をしているだろうディアンジさんや、恐怖に過呼吸を起こしているザグルフさんが兵士に付き添われ転送の門へ向かっていく。
 王だった物の残骸を見下ろしていたクオード殿に、僕は囁いた。
「こんな事をして大丈夫なんですか?」
 問題ない。冷静な光を湛える青紫の瞳が、こちらを向いた。
 これは容姿も人格も完璧に模倣する、王家の秘宝であると説明した。時に影武者として用いる時代もあり、ドミネウス王が己の代役として使役していたのだろうと続ける。そして苦いものを口に放り込んだような渋い顔をした。
「民の前ではあぁ言ったが、父上がお前達の処刑を指示した事は間違いないだろう」
 大きく息を吐き、ゆっくりと視線が周囲に向けられる。
 王宮に風が流れ込み、煙が晴れて騒動の跡が生々しく広がっていた。ごうごうと唸る風が、僕らの服をどこかへ連れ去ろうと強く引っ張っる。
「兵士や民の前で冤罪を証明出来たが、父がどう出るかはまだわからない。王国軍副団長のセオドルドが、地上でお前達をエテーネ王国から逃す手筈を整えている。姉さんが王位に就くまではこの国に近づかぬ事だ」
 そして踵を揃え、姿勢を正して僕らに向き直る。伏せた目元に長いまつ毛が覆いかぶさった。
「迷惑をかけて済まなかった」
 向けられた謝罪に僕達は互いに顔を見合わせる。
 僕らの処刑を良しと思わなかったクオード殿の意志を汲んで、ディアンジさんとザグルフさんは助けに来てくれた。地上に降りてエテーネ王国から逃す手伝いをしてくれるのは、クオード殿の指示。チャコルに『命の石』を持たせて黄金刑を回避させてくれたのは、メレアーデ様だ。
 この国の人に散々投げつけられた言葉は、気持ちの良いものじゃなかった。
 それでも僕らを救おうと動いてくれた人達のお陰で、嫌いにはきっとなれないだろう。
 謝罪を受け取ったと感じたクオード殿は、顔を上げて僕らを見据えた。
「行ってしまう前に、一つ聞きたい」
 切長の瞳に切実な光が浮かび、ごくりと喉仏が動いた。
「姉さんを見なかったか?」