踊りましょう、あなたの掌の上で - 前編 -

 天の神よ、地の人よ、かの者をたたえよ。
 危険な魔物を討ち滅ぼし、大エテーネ島に住まう諸氏族を支配せし、マデ氏族の長レトリウス。その威勢はレンダーシア全土に響くまでとなった。
 レトリウスの武勇、キュレクスの叡智、ユマテルの秘術。それらが集い束ねられ、ここにレトリウスが冠を戴く偉大なる王国が生まれた。
 国の名はエテーネ。
 キュレクスより齎された名は、異邦の言葉で「永遠」を意味する。

 ■ □ ■ □

 エテーネ王宮から最も離れた閑静な区域に、マローネ叔母さんに充てた小さな離宮がある。出産直後や病気をした王族の療養を目的として建てられた宮は、王宮を凝縮したような贅を凝らした空間が広がっている。日当たりの良い一角には王宮の中央に聳える大樹型の環境調整装置をやや小さくしたものが稼働し、池の周辺にはラウラの花畑が出来ている。結界によって風雨から守られ、大樹の木陰で日差しの劣化もない宮は、美しい芸術品のように佇んでいた。
 足早に離宮へ足を運ぶ俺に、警護にあたる兵士が敬礼する。短く問題ないという報告を聞き労いの言葉を返すと、俺は玄関の扉を開け放つ。建国王の逸話を描いたステンドグラスが美しい玄関広間から階段を登ると、壁のない広々とした空間に子守唄と木の葉擦れが囁き合うように聞こえていた。王宮の聞くに絶えない醜聞も、ここでは小鳥の囀りに退けられている。
 傍に控えていたファラスの冬空の瞳がこちらを向くと、マローネ叔母さんにそっと声を掛ける。ぱっと顔を上げた叔母さんの小麦色の髪が、日差しに金色に輝いていた。赤子を腕に抱いた叔母さんの傍に歩み寄ると、あんな恐ろしい目に遭ったというのに、すやすやと眠る従兄弟を覗き込む。
「将来は大物になりそうですね」
 叔母さんが愛おしそうに従兄弟の頬を、指の背で撫でる。
「助けてくれたプクリポ族の子が、祝福を授けてくれたそうなの」
 隣国のリンジャハルは港町の関係で、生まれた赤子はウェディ族から祝福を受ける風習がある。ウェディ族の祝福を受けた子供は泳ぎが上手くなり、海の幸運に恵まれると言われている。エルフ族は聡明に育つ幸を授け、ドワーフ族の寿ぎは技巧を伸ばし、オーガ族の祝いは頑強な体を与える。とはいえ赤子を腕に抱き、赤子の幸福を願ってもらうだけの所詮験担ぎ。だがその風習はレンダーシアの各所にあり、訪れた異国の旅人を持て成すかわりに祝福を求めた。
 プクリポ族の祝福は、幸運。
 従兄弟の父はリンジャハルの悲劇で行方不明になり、先日には実の伯父に命を狙われた。時渡りの才能に恵まれた親を持てば、否応なくエテーネ王国を背負わされるだろう。波瀾万丈な星の下に生まれた従兄弟。どんなに過酷な運命を歩まされようと、幸せであって欲しいと願うならこれ以上ない祝福だ。
 クオード。俺の手を握った叔母さんの切実な表情に、胸が一つ高鳴る。
「私とこの子を守ってくれた旅人達を、どうか助けてあげて」
 叔母さんも姉さんも、父が旅人達を処刑する事に酷く心を痛めておいでだ。ドミネウス邸にボウフラのように湧いたルアムとレナートは、太々しい態度で気に入らなかった。しかし王都キィンベルで停滞した流通を支え、ファラスの要請に応じて叔母さんと従兄弟を守ろうとしてくれた事に心から感謝している。処刑を回避し救いたいと、俺だって思っているのだ。
 俺は叔母さんの手を優しく握り返した。
「勿論です。姉上と共に救出の手を打っています」
 ありがとう。叔母さんは潤む瞳で俺を見て、そっと頬を撫でた。包み込む花の香りと柔らかな熱、赤子から立ち上る甘い香りを目を閉じて胸いっぱいに吸い込んだ。
「貴方もメレアーデも無茶をしては駄目よ。貴方の無事を願っているわ、クオード」
 叔母さんの傍に控えていたファラスも、誇らしげに俺をみている。
「クオード坊ちゃんの立派なお姿、我が主にもお見せしとうございました」
 かっと顔が熱くなる。
 パドレ叔父さんの従者であるファラスは、俺が乳飲み子だった頃も知っている。幼い頃は従者のみならず叔父さんの邸宅を守る使用人達も、俺を『坊ちゃん』と呼んでいた。だが、もう俺は坊ちゃんと呼ばれる年齢じゃない!
「俺を坊ちゃんと呼ぶのは禁止だ! 良いな!」
 かしこまりました。ファラスの肩が笑いを堪えて震えていた。

 過去を振り返っていた意識が、微かな衝撃に今に向く。
 音もなく滑らかに昇降機の扉が開くと、さらりとした闇が広がっていた。洞窟のような様々な気配をない混ぜた漆黒ではなく、ただ光が届かないだけの濃い影が闇となって澱んでいる。空気は寒々しくさらりとしており、微かな水音に水の匂いが鼻を掠めた。
 闇に目が慣れれば、下から光が湧き上がっているのに気がつく。昇降機から飛び出した赤い猫耳が、光を覗き込んで歓声を上げた。
 光を吸い込んで黒く沈む特殊な石を積み上げ、最下層の祭壇から最上部までの吹き抜けを生み出す。石の隙間から淡い黄緑色の光が漏れて、幾何学的な模様を刻んでいた。遥か下方まで円形に吹き抜けた空間には、様々な大きさの黄金の立方体が数え切れぬ程に浮かんでいる。立方体を構築する面は凪いだ湖面のように平らで、黄金の輝きに目を凝らせば精緻な模様が隙間なく施されているのが見えるだろう。まるで水の中で攪拌されているように、一際巨大な立方体の周りを小さい立方体が回っている。
 ここは、時見の神殿。エテーネ王宮の礎となっている聖域だ。
「浮かんでいるのが、エテーネ王国の神器だ。災害や飢饉の訪れを事前に予知し、対策を講じる事で被害を最小限に押さえ、多くの民を助けてくれた存在だ」
 猫耳の後ろから見下ろしていたルアムが首を傾げると、夕暮れの瞳が朝焼けに燃える。
「神器の力を借りないと、未来が見えないんですか?」
 変な問いだったが、俺は『いや』と小さく首を振った。
「時渡りの力が優れていれば、神器の力を借りずに未来を見れる者もいる。しかし神器と交信し望んだ未来を引き出す力が優れた司祭の子孫が、今日の王族を務めている」
 説明しながら、緩やかに降る坂道へ足を向ける。螺旋状に坂道を下っていくと、水が滝となって落ちるのを裏から見る。滝は細やかな雫となって最下層に降り注ぎ、神器の黄金を煌びやかなものにする。光は黒い神殿を藍色に切り取り、柱の黒とで二分して神秘的な雰囲気を醸した。
 神器同士が共鳴する不思議な音と、ふわふわとした空気の流れが肌の上を這いずる。
 最下層は水がくるぶしまで浸かり、硝子張りの床は頭上に輝く神器の光を照り返していた。さらさらと降り注ぐ霧雨のような雫が、神器の光を受けて丸く虹を描く。レナートが丈の短い外套のフードを被り、プクリポが身を振ってぐっしょりと濡れた毛皮から水を吹き飛ばす。
 ここが時見の祭壇の筈だが、父上の姉さんの姿も見えない。
 姉さんはどこに? 視線を巡らすと、流れ落ちる雫に逆らって金色の光が立ち上っている。ふわりふわりと淡い光の球が、最も大きな神器に吸い込まれるように向かう。その光の元を目で追うと、ガラス張りの床の端に設られた装置に辿り着く。同じ装置がいくつもある中、それだけが稼働しているようだ。
 嫌な予感に急きたてられ、ばしゃばしゃと水を跳ね散らかして近づく。この神殿と同じ光を吸い込む黒い素材でできた装置の内側から溢れる光が、人の影を溶かしている。光に目を凝らし見つけた人影は、紫の髪が赤銅色に炙られ明るい色のドレスが光に透けて溶けている。
 誰か。確認するまでもなかった。
「姉さん!」
 目を閉じ、薄く開いた唇。触れようとした手が、見えない何かに遮られる。
 よく見れば姉さんの体を覆うように、硝子が装置に嵌め込まれている。素早く目を走らせ、手元の高さにある菱形の光に手を振れれば、硝子が上に滑るように動いた。膝が折れない絶妙な角度の傾斜に身を横たえる姉さんを抱き上げる。
 固く閉じられた目は震える事なく、唇は呼吸をしていないかのように微動だにしない。それでも抱えた姉さんの体は冷え切ってはいたが、弱々しくも鼓動を感じていた。外傷は目に見える限りなく、ただ意識を失っているだけのようだ。
「装置に触れるな!」
 吐こうとした安堵の息が、胸の奥で痞えた。
 剣を抜いたレナートと矢を番えたルアムの間に、声の主の姿が見えた。青紫の直毛を肩口で切り揃え、黒羽で飾った黄金の冠を戴く大柄の男の影。しゃらりしゃらりと錫杖の輪を打ち重ねる音を響かせ、祭壇へ続く階段を一歩一歩と降りていく。水を吸った髪の毛から雫が滴り落ちる俺達と異なり、その空色の外套も真紅の紋様が美しいオレンジのローブも濡れている様子がない。
 第四十九代エテーネ王国ドミネウス。
 俺は姉さんを抱えたまま、形だけ頭を下げる。
「父上、ご無事で何よりです。父上を騙る人形を討伐いたしましたが、肝心の父上の無事が確認できず最悪の事態も脳裏を過ぎった次第です。杞憂に終わ…」
「政務など人形任せで良い」
 俺の言葉を遮り、父は苛立ちを隠さずに言い放つ。
「時見の祭司である余の双肩に、王国の未来と臣民の命が掛かっておる。貴重な時間を雑事になぞ費やせるものか」
 王国の民の生活を左右する政が、人形に任せる程度の雑事。それがエテーネ王国の現国王であり、血の繋がった父から発せられた言葉であると理解するのに時間が必要だった。
 頭のどこかで、何かしら理由があるのだと信じたくない気持ちがあった。
 しかし、気がついた時には腑の熱が口から迸った。
「なんて無責任な! 国王のする事ではないっ!」
「口答えをするでない! メレアーデを装置に戻せっ!」
 血走った目を見開き、青筋を立てて父は怒鳴る。力任せに振り下ろした錫杖が、足元の階段を貫いて破片が飛び散った。
 姉さんを戻せ? この装置の中に?
 俺は腕の中に抱いた姉さんを見下ろす。神器の放つ黄金色の光で気がつかなかったが、顔色は蒼白で呼吸は虫の息だ。異形獣に襲われた者達によく似た状態だと結びつけば、この状況にした原因が姉さんを閉じ込めていた装置であろうと容易に推測できる。父の言葉の通り装置に戻せば、命を失うかもしれない。
「良いか、クオード。余はエテーネ王国の為に、神器を時渡りの力で満たさねばならぬ」
 姉さんの肩を抱く手に力を込めた俺に、父は威厳ある声で語りかけてきた。
「元々の予定ではヘルゲゴーグで効率良く収集し、神器を満たす筈であった。しかし高純度の時渡りのチカラを抽出するならば、やはりこの方法に勝るものはない」
 ヘルゲゴーグ。ヨンゲの研究資料からしか知れぬ、異形獣の正式名称。俺が証拠を突きつけた段階で人形が王に成り代わっていたならば、知る由もない名前のはずだ。
 やはり父はヨンゲに異形獣の作成を命じた。そればかりかエテーネの民に異形獣を嗾け、マローネ叔母さんや生まれて間もない従兄弟の命を危険に晒す。効率が良いからと実の娘を便利な道具のように扱うなど、到底理解できなかった。
 こんな男を王に戴く事に、こんな男が俺の父である事に、頭の中を素手で掻き回されるような激情が苛む。恥ずかしいとも、愚かしいとも、呆れたとも、言い切れないようなさまざまな負の感情が煮詰まって思考が焼き切れてしまいそうだ!
「メレアーデはお前と違い優秀だから、エテーネ王国の為に喜んで身を捧ぐだろう!」
 姉さんはエテーネの民の為なら、己の身を捧ぐ事を躊躇ったりしないだろう。ただし父の目的が不明瞭で、姉さんの意思も分からぬ以上、俺が姉さんを装置に戻したりは絶対にしない。
「さあ、もう気は済んだだろう。メレアーデを装置に戻すのだ」
 目を眇め心底面倒そうに言った父の言葉が、俺の冷静な怒りに油を注ぐ。
 少なくとも父は俺を納得させようと、説明してくれたのだろう。全く要点を欠いて目的が見えず、民を害したのは己だと自供し、我が子を道具とする人として有るまじき行為。どれをとっても納得も理解もできないが、少なくとも父の誠意だったと思いたかった。
 しかし同時に、父が己は何も悪き事をしていないという、弁明を連ねているようにも感じた。実の娘の命を脅かす行為は、己の意志ではなく王国の為だと責任を転嫁する。俺が従えば己の弁明は正当化されるのだろう。
 俺は姉さんを抱き上げ装置に向き直るのを見て、父が満足そうに頷いた。
「あと少しで時見の箱が、余にエテーネ王国の滅びを回避する未来を見せてくれる」
 もう父の目に俺は映っていない。
 俺が装置の前に姉さんを横たえた、水が少しでも避けられるように外套を掛けたのにも気がつけない。愛しい人を見上げるような熱のこもった眼差しが神器に注がれ、うっとりと陶酔した横顔が見えるばかり。
 ぐずる子供を宥める風を装った、雑な扱い。衰弱した我が子を心配すらしない、親の自覚の無さ。世界が己を中心に回っている王は、抱き留めるように神器に手を広げる。
「滅びの未来を回避すれば、余の名は『救国王ドミネウス』として未来永劫語り継がれる! 余の功績は太陽のように燦然と輝き、愚弟など家系図を汚す惨めなシミになるであろう!」
 鞘の中を刃が駆け抜け、涼やかな音を立てて抜き放った。
「パドレ叔父さんへの劣等感だけで、これだけの事をしでかしたのか!」
 なんて愚かな!
 時渡りの力が弱い事は、王家の恥。その劣等感は、父だけのものではない。
 姉さんは時渡りの力があろうとなかろうと、俺を受け入れてくれた。父が俺を疎ましく思っていると知っていても、姉さんの太陽のような笑みがあればいくらでも耐えられた。
 叔父さんも叔母さんも、クオードという一人の人間として見てくれた。誰が陰口を囁こうと実力を否定できないと、時渡りの力に代わるものを模索する俺を応援してくれた。王国軍に入団した時、叔父さんは父よりも早く祝いの言葉と品を持って駆けつけた。叔父さんが贈ってくれた剣は、今では命を託す相棒だ。俺が剣を差して敬礼して見せると目を細めて喜んでくれて、その時を思い返すだけで喜びが込み上げる。
 ディアンジとザグルフが俺に向ける尊敬の眼差しを、どれほど誇らしく思えたか。王国軍の軍人達が、俺を王族の子でなく一人の仲間として受け入れてくれたと実感した時、どんなに胸を焦がしたか。
 俺は父と同じく時渡りの力の弱い、王族の恥だろう。
 だが俺は、俺をクオードとして受け入れてくれた人々が、誇れる存在でありたい。
 だからこそ、俺は俺を卑下しない!
 違う! 父上の否定が悲鳴のように空間を引き裂き、俺の言葉を振り払うように腕を振り回す。歯を食いしばった必死の形相で、黄金に眩く輝く神器に訴える。
「時見の箱よ! 神殿の祭司たる余に、繁栄と栄光の未来を見せよ!」
 巨大な神器の周りに浮遊する小さな立方体が、父を取り囲む。父の周りを様々な速度で回る立方体で光り輝く体に、神器から一条の光が額辺りに降り注ぐ。
 狂ったように笑っていた父が、驚きの声をあげ身を強張らせた。
「滅びの未来を回避すべき未来予知が上手く行かぬのは、『時の指針書』に従わぬ異邦人が存在するからか! 余が手ずから排除する事で、栄光の未来が開かれるのだな?」
 立方体は父の王冠の周りに輪のように広がり、背に翼のように一対に並んだ。その耀き姿は九つ目の神話に語られる守護天使を彷彿とさせる。しかし神聖な見た目とは裏腹に、瞳は欲望に塗れ口元はいやらしい愉悦に歪んでいた。
「おぉ…! なんという全能感…! これが時渡りの力なのか!」
 哀れなり、ドミネウス!
 鼻先にちらつかされた栄光に目が眩み、自ら思考と決断を放棄するとは! 貴様もまた『時の指針書』に躍らされた悲しき暗愚の王よ! まだ国民達が愚かさに気がつく前に退位し、凡庸な王として歴史を刻むのが子としての最後の手向けになるだろう!
「この瞬間より、貴様を父と呼ぶ事はあるまい!」
 俺はレナートとルアム達の前に立ち、ドミネウスに剣を向けた。
 不思議な事に実の父に剣を向けているというのに、怯む気持ちは一欠片も浮かばなかった。それどころか実の子に剣を向けられ否定されているというのに、悲しみの表情ひとつ滲ませぬドミネウスの姿に剣を持つ手に力がこもっていく。
「歴代の王が守りし崇高なる王座を汚す者に、聖王を名乗る資格はない!」
 この愚か者め! そう叫んだドミネウスの声は、魔物の咆哮そのものだった。