踊りましょう、あなたの掌の上で - 中編 -

 エテーネ王国が現在の王都へ還都した際、重要な神事を行った神殿を模して時見の神殿が作られている。現在も『時の指針書』の更新を始め、王国で執り行う全ての神事が行われる場だ。
 一軒の家相当の大きさの立方体『時見の箱』は、この闇の中で太陽のように輝いている。その周囲には数え切れぬ程の小型の箱を従え、溢れ出る時渡りの力の神々しさは、このエテーネ王国が神に等しい尊き存在であると如実に語っていた。
 その神器の力を身に纏う余は、神を体現したと言って良い。
 頭上に『時見の箱』を従え、王冠の周りに輪を、背には翼を形取る小箱達。小箱が崩れ無数の燐光となって余を包み込み、体は重力から解き放たれ頭上から降り注ぐ水は余を濡らす事はない。溢れ出る力は例えようもない高揚感をもたらし、全てが思うがままに成し遂げられると確信させる。
 余は眩い輝きを取り戻した『時見の箱』を満足そうに見上げた。
 やはりメレアーデは優秀だ。
 誰も彼もが余が時渡りの力を持たぬ、未熟な世継ぎを成すだろうと思っておった。愚弟に至っては『兄上。生まれる子が息災であれば、時渡りの力の優劣など瑣末な問題ですよ』と嘲笑った。爽やかな笑みを浮かべる愚弟の陰湿さに、吐き気が込み上げる。
 そして妻ルミラーハが成した第一子メレアーデは、愚弟には劣るとも強い時渡りの力を有した。第二子は時渡りの力に恵まれなかったが、メレアーデさえいれば余に時渡りの才能がないと嘲笑った者共を黙らせるには十分! あの愚弟が亡き者となった今、メレアーデこそエテーネで最も強い時渡りの力の使い手なのだ! そしてその父は、このドミネウスである!
 込み上げる笑いを漏らし、余は『時見の箱』を抱き締めるように手を広げた。
「もう少しだ…」
 余は何を躊躇っていたのだろう。
 滅びの未来を回避する偉業の為なら、どんな犠牲も些細なものだ。
 あの愚弟の妻と子供を殺し損ねたが、僥倖だったと言える。それなりに時渡りの力を持っていよう女とあの愚弟の子であれば、メレアーデに劣るも『時見の箱』を満たすに違いない。このエテーネ王国の栄光を永遠のものとする礎になるなら、命尽きるまで時渡りの力を搾取されるのも本望であろう!
「目の前の雑音を排除すれば、滅びを回避する未来を『時見の箱』が見せてくれる」
 成人して始めて『時見の箱』と相対した時、余はエテーネ王国が滅ぶ未来を見た。
 先代国王であり余の父ルザイオスに、余は滅びの未来を再三に渡って説明し対策を立てるよう嘆願したが聞き入れられなかった。それどころか長子である余の存在がありながら、王位を愚弟に譲ると戯言を言い放つ。常に揚げ足を取り余を道化にしてきた愚弟の本性は、ついぞ余にしか知られる事はなかった。愚弟に協力を仰ぐなど死んでも御免被る。
 余だけが見える滅びの未来。
 この未来を回避する事ができるのは、この未来を知る余だけだ。
 エテーネ王国国王となった余だけが成し遂げられる、特別な使命なのだ!
 余は愚か者達に振り返る。
 荒事しか能のないクズと『時の指針書』を持たぬ異邦人共が、武器を余に向ける姿が滑稽だった。まるで蟷螂が鎌をもたげて威嚇するようで、なんら脅威に感じなかった。余に擦り傷すら付けられぬだろうに、その健気なまでの姿勢にいじらしさすら感じた。
 心地よく満ちる力。今までの人生で感じた全てを凌駕する多幸感。余は多くの人々が到達する栄光への道を閉ざそうとする愚か者達へ、福音を授けるよう声を掛ける。
「さぁ、『救国王ドミネウス』となる余が導く永遠の為に、その身を捧げよ!」
 剣神が振るう音速の剣戟も、神と等しき余の目には止まっているように見える。滑稽なほどに真剣な顔を覗き込み、ゆったりとした足取りで背後に回り込む。そんな何気ない動作でも、余は己の体が若き全盛期の頃の軽やかさであると気がついた。漲る力でさっと腕を振りろすと、輝く小箱が槌の形に集まりてサラリとした髪の上に落ちた。
「レナートさん!」
 甲高い童の声に、愚弟を彷彿とさせる髪がさっと横に流れる。小麦色の残像に流星が降り注ぎ、黄金色の水飛沫が高々と舞い上がった。
 短い息を吐き大きく下がった異邦人から、余は己の手のひらに視線を落とした。『時見の箱』から注がれた時渡りの力に、まだ慣れておらぬのだろう。
 一瞬で背後に回ったクズの攻撃を、一枚の板のように展開した小箱の集合体が受け止める。甲高い音を立てて打ち重なる鋼だが、停滞した時には如何なる力も食い込む事はできぬ。停滞した時は強靭な盾であると同時に、時の流れに身を置く全ての万物を破壊する矛でもある。一瞬にして光の剣へ形を変えた一撃が、クズを跳ね上げる。『時見の箱』の周囲を廻る無数の小箱に当たり、メレアーデが横たわる側に落下して動かなくなる。
 ふと、微風が触れるように未来が見える。小箱の中に紛れ込んだ赤毛の猫のような生き物が、脆弱な爪を余の体に食い込ませようと迫る未来だ。余は錫杖を突き出し小さな生き物を串刺しにする。己の死に気が付かぬまま大きく見開いた目に、異邦人の童の泣き顔が映る。
 余はにやりと笑みを浮かべた。
 これが時渡りの力。
 どんなに素早い攻撃も、強力な一撃も、予想外の不意打ちも、余には届かない。全ての存在が属する時間を支配した余に、敵など存在しない! 口を開け放ち高らかに笑い声を響かせる事が、なんと心地よいことか!
「慈悲である! 一瞬で息の根を止めてやろうぞ!」
 余は時渡りの力が見せる未来の通り、錫杖を突き出した。一瞬先の未来が陽炎のように見えて、それを追うだけで生き物が絶命する未来へ至る。生き物はまるで錫杖に吸い込まれるように飛び込んでくる。
 あぁ、なんて愚かな存在だ。
 エテーネ王国国王たる余以外の全ての存在が、こうまでも愚かであるならば、偉大なる導き手が必要なのも然もありなん。余はエテーネ王国の『救国王』のみに留まってはならない。この世界の全てを統べ、世界を栄光の未来へ導く存在にならねばならぬ!
 『時見の箱』の力を得し余ならば、それが可能である!
 いや、余だけしか成し得る事はできぬ!
 余は輝く未来に身を投じていた。エテーネ王国の繁栄が隅々にまで行き渡り、見渡す限り美しき自然に満ちた大地。『時見の箱』より全ての災いを回避する術を導き出せし余は、愚民達に慈悲深くも救いの手を差し伸べるのだ。余の言葉に涙を流し喜ぶ民は、自ら余の偉大さを崇め奉る。余の尊顔を見れる事に至福の喜びを感じ、余の言葉を生涯の宝とするであろう。『時の指針書』が行き渡る場所に、光り輝く未来がある。
 海を越え全ての種族達が頭を垂れる先にいるのは、偉大なる王冠を戴く『世界王ドミネウス』の姿!
 あぁ、なんと待ち遠しい!
 貴様達の死がこの栄光の第一歩になることを、喜ぶがいいっ!
 生き物の丸みを帯びた腹に、錫杖が吸い込まれる瞬間。甲高い音と小さい衝撃が、錫杖の先に走った。ほんの小さな衝撃が手に伝わり、ちりっと静電気が走るような痛みが走る。
 瞬きを一つして見上げた未来は、違うものになっていた。
 一本の矢が錫杖の先端を突いていた。あんな細い錫杖を突いた矢は弾かれ、まるで川魚が跳ねたかのように跳ね返って光を振り撒いた。錫杖は光の軌跡が大きな弧を描いた。錫杖の先につられてゆっくりと捻られていく手首が、他人のもののように思えた。
 さまざまな光が散る世界を、赤が引き裂く。
 熱が顔を斜めに走り、そこからドロリとしたものが滴る頃には痛烈な痛みが走る。視界が真っ赤に染まって、思わず手が痛みに触れた。生暖かいぬるりとした気持ち悪い感触が、手から肘に向かって流れていく。口の中に血の味が流れ込んでくる。
 なにが起きた?
 『時見の箱』が見せた未来が、変わった?
 なぜ。
「なぜだ!」
 余はエテーネ王国の神器を、『時見の箱』を見上げた。多くのエテーネの民の『時の指針書』に正しき未来を書き込んできた神器が、未来を違えるなどあり得ぬ事だ。だが、たった今、余が箱を通じて見た未来は変わった。
 まさか。汗と混じり合った血が、ぽたりと顎から滴り落ちた。
「ドミネウス陛下」
 余の名前を呼ぶ声に、意識が外界を意識する。赤くぼやけて良く見えない世界に、人影が浮かんでいた。
「独りで出来る事って、本当に何もないんですよ?」
 声は嘲るでも、同情するでもない、ただ淡々と真実を述べるように紡がれる。ただその声の主は、独りで何もできなかった過去を振り返るような、底の見えぬ谷のような感慨深さを言葉に乗せていた。
 この声を余は覚えている。
 父だ。父はルミラーハと出会う前の余に、良くこんな声で語りかけていた。
「貴方の服も、貴方が暮らす王宮も、貴方の頭上にある王国の神器も、誰かの途方もない努力を紡いで作られているんです」
 人影が一歩前へ踏み出す。
 来るな! 余の拒絶を感じ取り、小箱が防御体制となって人影と余の間に壁を作る。しかし、人影はまるで壁などないかのように、するりと抜けて近づいてくる。余が大きく後退り、錫杖を振ってどんなに強固な防壁を築こうと、人影がカーテンを開けるかのように突破していく未来に置き換えられる。
 人影がはっきりと姿を結んだ。この世界で最も憎悪すべき、愚弟の姿。
「貴方は積み重ねた全ての上に立つ者として、敬意が足りなかった」
 凛とした真っ直ぐな瞳には、邪な感情など何一つなかった。余に向けた言葉に何一つ嘲りの感情などなく、清く朗らかな言葉が汚い言葉よりも余を打ち据えた。貴様の妻と子を殺そうとした余に会って言う事が、憎しみの言葉ではなく殊勝にも諌める言葉であるとは…!
 食いしばった歯に走った微かな亀裂は、精神に到達した。
 そ ん な 貴 様 が 大 嫌 い な の だ !
 今まで感じた事のない鮮烈な怒りとなって、余の体を引き裂き迸った!
「エテーネ国王である余に、説教を垂れるなっ!」
 錫杖が光の尾を引きながら愚弟を薙ぎ払うと、ほろほろと崩れ去った悪夢の向こうに、あどけなさが残る童が立っていた。その姿を見て、冷や汗が噴き出る。怒りで燃えるような熱と、悪寒によって震える程の寒さに、体が二つに割れてしまいそうだ。不意に沸いた対極の感情に、余は言いようもない不気味さを感じていた。
 神と称えるに相応しい余が、見窄らしい旅人の子供に何を感じている?
 『時見の箱』はその童を殺める、様々な未来を余に見せた。小箱が流星群となって童を貫く未来。錫杖が薄い胸を貫く未来。吹き飛ばし四肢があらぬ方向に折れて動けなくなる未来。余が手ずから細い首を手折る未来。一瞬の間に、余は童をこの世界に存在する、ありとあらゆる方法で殺害した。しかし、どの未来も訪れない。指一本動かす事はできなかった。
 静かに童が立っている。
 余をひたと見つめる夕暮れの最後の一片を宿した瞳が、余に狙いを定める鏃の光に灼かれる。弦が引き絞られる音が甲高い音の隙間を縫って、余の耳に突き刺さる。
「貴方はあんなにも多くの命を奪ったのに、自分の手を汚すのは嫌なんですね」
 童の瞳にはっきりと軽蔑の光が浮かんだ。
「僕の兄さんを動物か何かだとお思いですか?」
 や。漏れそうになった声を飲み込んだ。
 余が何を言おうとした? あり得ぬ。あり得ぬ!
 余は世界の王として全ての愚民を導く使命を帯びているのだ!
 童が矢を放つ。その動きはまるで水の中を進むように緩慢で、軌道に小箱を滑り込ます事など造作もなかった。鏃にクズの一撃を完全に防いだ小箱の一片が触れる。こんな細く頼りない木の矢など、いとも簡単に弾いてくれるだろう。
 にやりと持ち上がった口角が、そのまま開く。
 鏃はまるで砂糖菓子でも貫くように、小箱を砕いた。驚愕と己の身を守ろうとする反射で、多くの小箱が矢の進軍を阻もうと隊列を組んだ。軌跡に幾重にも重なって重厚な盾となろうと、矢は悉く貫いてみせた。矢を叩き落とそうと全力で錫杖を振り下ろしたが、逆に錫杖がひしゃげる結果になった。
 なぜだ! なぜ、たかが一本の矢止められぬ!
 鏃の金属面に、余の顔が映り込む。エテーネの王として肖像画に描かれし威厳ある顔ではない。恐怖に塗れ、生き延びようと醜態に歪んだ男の顔。これが余の顔だと言うのか?
  嘘だ! 拒絶が時を止めようと足掻くが、どんなに遅くなろうとも矢は止まらぬ。移動して逃げようとしても、見えない力に縫いとめられたように体が動かなかった。
 どうしてこうなった?
 何がいけなかったのだ?
 突きつけられた現実に、やり場のない怒りが湧き上がる。そしてその怒りは、全ての元凶たるあの名前すら呼ぶのも悍ましい愚弟に向いた。
 愚弟の時渡りの力があれば、箱はとうに満ちておった。彼奴がリンジャハルの厄災に乗じて、姿を眩ましおったのが最も悪い。エテーネの王族の責務を放棄し、余が王国の滅びを回避すべく身を粉にしているのも、彼奴が協力を惜しんだからだ。
 そうだ、全て彼奴が悪い!
 被害者である余が、こんな無残な目に遭うなど間違っている!
「『時見の箱』よ! 今一度、余に栄光の未来に至る道を示せ!」
 余が腕を振るうと、時見の神殿の天井が割れた。王宮中央にある環境維持装置が生み出す大量の水が球体となって、綿毛のように緩やかな時に身を任せて降りてくる。その水飛沫の間を、凄まじい勢いで降りてくるのはヘルゲゴーグ達だ。
 赤い光の線が走る体にこびり付いた血や肉片を、停滞する時間の中に置き去りにして、四肢で床や壁を激しく抉りながら疾風のように駆けつける。その額から伸びるの先端を飾る宝石が、流星のような光の尾を描いて美しかった。
 デク人形が計画した『黄金刑』をつまらないと思ったが、王宮に多くのエテーネ人が集う良い機会だと判断した。ヘルゲゴーグを放ち、効率よく時渡りの力を集める事ができる。メレアーデとクズが共謀し多くの人間を地上に逃がしおったが、それでも『時の指針書』に従って留まる者だけでも、これだけの力が集まるなら上々と言えよう。
 十はいるだろうヘルゲゴーグ達が『時見の箱』を囲むように床に着地する。
 停滞する時間の中で引き伸ばされた音を聞きながら、ヘルゲゴーグ達が背筋を伸ばし『時見の箱』に角を向ける。光の柱が『時見の箱』へ伸び、眩かった光が空間を飲み込み全てを白く染め上げる。
 おぉ! 余の感嘆の声を聞きながら、未来を見る為に意識を集中する。高齢の父上に代わり時見の司祭の神事に関わるようになった年月を思えば、呼吸するのと等しい慣れた行為だった。
 いつもならエテーネ全土の民の未来が、風景を見るかのように感じ取れた。民の行いが風のように向かうべき方向へ流れていく。司祭の時渡りの能力を補佐する『時見の箱』が、余の見た未来を実現すべく最も合理的な言葉を『時の指針書』に書き連ねていくはずだった。
 真っ白い光が晴れぬ。
「なぜだ! なぜ、何も見えぬ! この状況を切り抜ける未来を、どうして見せぬ!」
 余はエテーネ王国の国王ドミネウス! 世界中の愚民共を導く、偉大なる王となる存在であるぞ! 余は腹の底から、人生で最も大きな声を張り上げる。口から迸った唾液が、顎から滴る汗が、ぴちゃぴちゃと耳障りな音を立てて水の冠を作った。
「どうした、箱よ! 応えろ!」
 箱は相変わらず光を放ち続けるが、満たされた力が増す感じがしない。なぜ、求めに応じぬ。箱から溢れんばかりの時渡りの力一片でも得れば、余はこの窮地を容易く脱する事ができると言うのに!
 神器と呼ばれるも所詮は箱。時渡りの力を持つ者の補助しかできぬ、道具に過ぎぬのか!
 矢はもう手を伸ばせばすぐの場所に迫っていた。時の停滞を解除すれば、瞬く間に眉間を穿ち抜くだろう。いつまでも代わり映えのない世界に、焦りが黒いシミになって落ちる。
「えぇい! ここぞという時に役に立たぬ箱め!」
 叩きつけた言葉と同時に、何か鋭い物が背中から胸を貫き、胸を張った拍子に顎が上がる。『時見の箱』の眩い光が網膜を灼く。込み上げる熱が喉を遡って口から溢れた。ドクドクと心臓が脈打つ毎に、口からごぼりごぼりと次々にあふれて息を吸う事もできず溺れそうだ!
「俗物が…」
 低い声が耳朶に触れると、時が動き出す。
 大きく開いた口腔の中から頭に向かって衝撃が貫く。