暗闇に光の楔を打ち込んで - 前編 -

 三対の塔が優美なグランゼドーラ城の門を潜ると、不死の魔王との激闘を制した勇者アルヴァンの石像が訪問者を迎える。
 その大きさは大聖堂の高さに迫る天井に、その雄々しい頭髪が触れるほどの高さ。足元から見上げたとしたら、分厚い刀身のバスタードソードを軽々と捌いたとされる胸筋に顔が隠れてしまうだろう。引き締まり隆々と鍛え抜かれた筋肉は、オルセコの猛者達が『ガズバラン様と張り合える肉体美』と賞賛した逸話がある程だ。
 今代の勇者アンルシアが大魔王を制する少し前に、消失した勇者アルヴァンの盟友の像が復建された。盟友カミルはほっそりとした優美な女性で、風を含んで柔らかく皺を刻む服の下に女性らしい輪郭が浮かんでいた。フードを下ろした戦場の女神のような顔には、盟友としての固い決意が滲み出ている。盟友はレイピアと錯覚する程の細い刀身の剣を交差させるように掲げ、足をぴたりと揃えている姿勢に生真面目さが滲んでいた。
 勇者達の尊顔を見る為に、石像の前には城の内装と同じ作りの物見台が設られている。階段を上がり二階相当の高さに登れば、先代勇者と盟友の顔がはっきりと見えた。
 いつもなら観光客で列ができるのに、今は俺とケネスだけ。
 原因は勇者を輩出する王国の上に出現した巨大な繭だ。
 出現してからずっと、グランゼドーラ周辺は不安定な天気が続いている。黒々とした雲からゴロゴロと威圧するような音が響いて、紫電が爆ぜて稲光が大地を照らす。大地の植物は突発的に降り注いた雨の多さに項垂れ、雨水を海に流す水路が溢れてグランゼドーラの大通りは踝まで水が溢れていた。
 ほぼ真上に巨大な繭が空から吊り下がっている。青白い光の糸を幾重にも巻いて作られた繭は、巨大な入道雲と大差ない大きさだろう。一際大きな満月くらいの光量は、太陽の日差しを阻む雲の下でも白夜の明るさで大地を照らしている。今はただ頭上に突如現れただけだけでも、その不気味さは人々を震え上がらせるには十分だった。
 大魔王を討った勇者が居る王国から諸外国へ抜ける唯一の関所は、入場規制が敷かれている。王国から関所に殺到している避難民達が作る馬車の列は、レビュール地方を縦断するくらいに長く伸びているそうだ。
「何なんだよ待機って。俺を巻き込むんじゃねぇよ」
 ケネスは火の入っていない煙管を咥えて、怠そうに目を眇めていた。城下町の人が普段使いしそうな布の服に、撥水を施し過ぎて重くてかる外套を羽織っている。腰に穿いた二振りの隼の剣が、喫煙できない苛立ちを代弁するように瞬いていた。
 元気になって良かった。
 ランガーオ村でアンテロが使った猛毒を吸い込んでしまったケネスは、毒の治験の為にナドラガンドに出向いていた。本当はもっと重篤なアロルドというオーガの若者の治療を優先させたかったが、移動にもナドラガンドの過酷な環境に耐えられる状態じゃない。ケネスが治験を行って毒に有効な解毒剤を開発し、ガズバランの器のマイユが完成品を持ってアストルティアに帰還した。ケネスの元にはアロルドが快方に向かっているという朗報と、治験に協力してくれた感謝の声が届いているそうだ。
 ただ、ナドラガンドへの旅はケネスにとって、嬉しくないものだったらしい。
 今ではナドラガンドの状況を一番よく分かっているという事で、世界宿屋協会のナドラガンド進出の全てを調整する羽目になっているとか。グランゼドーラの執務室の書類の洪水は、ドアを開けると廊下に溢れ出てしまうらしい。
「ケネス 勇者の 仲間 違う?」
 ちーがーいーまーすー。本人は大きく口を動かして否定したが、誰一人『そうですね』と同意してはくれないだろう。俺とピぺとケネスは勇者の仲間として王国に召集され、待機を言い渡されている。ピぺが勇者一向を肖像画に残してからというもの、ケネスは世界宿屋協会警備部長ではなく勇者の仲間という認識だ。
 先代盟友の美しい顔を睨みつけながら、ケネスが恨みがましく言った。
「あんのちび助め、余計な真似しやがって…」
「俺 嬉しいぞ」
 俺はケネスの背後から手を回して、首筋にぐりぐりと頭を擦り付けた。魔物は親愛の対象に匂いを付ける習慣があって、その癖は人間になっても抜けやしない。
 やめろって! ケネスが暴れるが、体格差と俺の手が完全に捉えた状態じゃ逃げられない。笑う俺の姿を、巡回の兵士達はいつもの戯れ合いかと視線を戻した。
 俺は胸に回した手を緩めて、ケネスの耳元に囁いた。
「ケネス。勇者って なに?」
 顰めた低い声が耳に滑り込み、ケネスは腕の中でさっと視線を走らせた。赤と碧が移ろう不思議な瞳が、聞こえる範囲に兵士がいない事、雨音が声を相殺する事を確かめる。何気ない仕草で前を向くように促され、俺達は勇者と盟友の像を見る今代の勇者の仲間達という体になる。
 屈めた体を起こした俺を、ケネスは見上げる。
「どうした? そんな抽象的なお問合せじゃ、一般常識程度の答えになるぞ」
 大魔王がアストルティアに現れる時、グランゼドーラ王家から生まれる勇者。創作する上の情報収集として、世界中のあらゆる文献を読み漁っているピぺの親代わりなら当然の知識だ。
 俺は緩く頭を振って、声に籠ってしまう感情を殺す。
「俺 少し 怒ってる」
 大魔王マデサゴーラを討伐し、世界に平和を宣言する祭典の場で誘拐されたアンルシア。ナドラガンドから生還した彼女を待っていたのは、涙ながらに生存を喜ぶ両親と夥しい量の婚約話だった。
 多くの勇者を輩出してきたグランゼドーラ王国にとって、血筋を絶やす事はこの世界の平和を維持する使命を遂行する上で、絶対にあってはならない事らしい。
『兄様が身罷られた以上、これが私の務めなの』
 アンの然も当然という言葉に、開いた口が塞がらなかった。
 これで頼り甲斐のある男性が番になるなら分かるが、盟友の打診を蹴った連中だと聞けば眉を顰めたくなる。再び大魔王相当の敵が現れた時、震えて隠れるような男では結ばれるアンが可哀想だ。勿論、番候補とて勇者の血筋に加わる名誉を得る為に、家から差し出されたお飾りの王配になるだろう男達も被害者かもしれない。子供達の幸せよりも親が損得で番を決めるあたり、如何にも人間らしくて腑が煮え繰り返りそうだった。
 互いの意思がないまま、進められる話が気に入らなかった。
 そして頭上に現れた繭の脅威に颯爽と立ち向かうアンを、人間達は当然と思っている。アンの勇気を称えるどころか、臆して安全な場所へ逃げ出すなんてどうかと思う。
「アン 勇者 違う。一人の 女の子」
 ケネスは煙管を咥え直して視線を宙へ投げる。アンの近況を整理したのか、煙管を口から離してふっと息を吐いた。
「グランゼドーラ王家にも傍系は存在するが、大魔王を倒した実績を持つ勇者の子が欲しいんだろう。アンルシアが子供さえ産んじまえば、強敵に差し向けて死んでも血統を失う心配はねぇもんな」
「アン 道具 違う!」
 思わず語気が強くなって、ケネスが人差し指を口元に当てた。俺もそれは思う。そう、前置きして人差し指の向こうから言葉が紡がれる。
「勇者とは大いなる闇の根源と契約した者が現れるのと連動して、グランゼドーラの王家から生まれるアストルティアの防衛手段みたいなものだ。なぜグランゼドーラ王族限定なのかは俺も知らんが、神と初代勇者が何らかの契約を結び、初代勇者の血統を介してグランゼニスが勇者の力を与えてるんだろう」
 確かに不思議には思っていた。勇者が血筋によって生まれるなら、王族全員が勇者の力を持っているべきだ。しかし、アリオス王も兄であるトーマ王子にも勇者の力はなく、アンだけが勇者の力に目覚めている。
 魔物は種族傾向とは別に、親の才能を子が継承する。氷の息を吐く魔竜族の子は氷の息を得意とする子供が生まれるし、メラ系とイオ系が得意な両親を持つ子は両方の呪文の才能を持って生まれる。突然変異は全くなくはないが、勇者の力は常識を軽く超えている。
 ケネスは渋い顔で天井に視線を投げた。
「元々、勇者の力は強い。だが勇者の力が特別なのは、大いなる闇の根源と契約した者に対して効果抜群ってところよ」
 俺も煤で黒っぽくなった天井に視線を向けて、その先にあるものに思い当たる。
「繭の 中身は」
 そうだ。ケネスは厳しい顔で煙管を弄びながら頷いた。
「大いなる闇の根源と契約していない生物相手なら、勇者様も一流の冒険者と変わらんって事だ」
 俺は目眩で世界が傾いだ気がした。
 大魔王を倒したからって、世界中の厄災を勇者と盟友に任すだなんて間違ってる。
 勇者と盟友の使命は大魔王を倒した時点で終わった。二人とも愛する人と結ばれて、純白のウエディングドレスで美しく着飾って、子供を授かって笑って生きて良いんだ。
 でも、アンはそれを望まないだろう。
 困っている人を自分が助けられるなら、力を惜しまない。今回の繭も、誰に頼まれるまでもなく襲撃に対応できるよう待機している。どんな恐ろしい敵と戦う事になろうと、命を失う事になろうと、皆が笑って平穏に生きれるなら構わないと言って退けるだろう。
 分かっている。アンはそういう子だ。
 アンの為なら、ピぺも運命を共にする事を躊躇わないに違いない。勿論、俺も二人の為に命を惜しむつもりはない。
 だからって…
 俺の肩に温かい手が触れた。はっと目を向けると、眩しそうに目を細めた赤と碧の瞳が俺を見上げていた。
「今代の勇者は仲間に恵まれたな」
 俺は体を屈めてケネスの手に頭を付ける。そのまま動かない俺を見て、ケネスが一つ息を吐いて頭を撫でてくれた。えへへ。ケネスはあんまり褒めないから、嬉しいなぁ!
 徐にケネスは手を引っ込め、切なそうな顔で俺を見た。
「歴代の勇者と盟友の末路は、どれも碌でもねぇもんばっかりだ。お前らだけでも『大魔王を倒した勇者様達は、末長く幸せに暮らしましたとさ』で終わってもらいたいもんだ」
 ぱぁっと視界が明るくなった気がした。ケネスが俺達の幸せを願ってくれているだなんて、すっごく嬉しい! がばっと手を広げて抱きしめようとしたが、猫のようにするりと逃げられる。それでも傍から離れない師匠に、俺は向き合った。
「勇者と盟友 要らない 世界 作りたい」
 そうして初めてアンとピぺが、普通の幸せを手に入れられると思った。アンとピぺが勇者と盟友に囚われないで、自分で自分の幸せを選べるようにしてあげたい。
「ケネス。どうしたら いい?」
 目元を煙管を持っていない手が覆って、ケネスが大きく息を吐いた。大きく肩を落として項垂れる。どうしたんだろう? 注意深く見守っていると、うっすらと開いた口から声が漏れた。
「そんな創造神もできない事、俺の天使様以外にも言う奴がいんのかよ…」
 手を外して虚空へ投げられた視線が、ゆっくりと俺に向けられた。一つ息を吐いて『先ずは、真上の繭をなんとかしてからだ』と呟いて、ケネスは俺に言った。
「やれるだけ、やってみるか」
 ケネスが協力してくれるなら、できない事なんてない!
 うん! 反射的に抱きついて、ぐえっと声が漏れたけど気にしない。人肌の体温が心臓の鼓動と共に染み入ってくる。ケネスが諦めると、分厚い壁と空間を抜けて強くなる雨脚が静寂を脅かしてくる。頭上の繭の圧が確かに体に伸し掛かっていた。
 戦うしかない。戦って、戦って
 二人の幸せを、世界から勝ち取ってみせる。