暗闇に光の楔を打ち込んで - 中編 -

 十二分に準備ができたとは言えないが、待ち構える有利さがあったはずだった。
 アストルティアの滅亡に関わる繭という存在をホーローから報告を受けたのは、グランゼドーラの頭上に現れる前からだ。未来を予言する伴侶と孫を持つホーローが、確信をもって断言すればグランゼドーラ付きの賢者ルシェンダの名で賢者達の召集が宣言される。何の手がかりもなく空振りであっても、大魔王の危機を脱し弛緩した意識を正すには良い刺激となった。
 そしてホーローより新しい情報がもたらされる。
 情報源が滅亡の予言を告げた少年と聞けば、どんな些細な内容も知っておきたかった。正直、エテーネ王国という高度な文明が傾ぐという内容に何の関わりがあるのかと疑問に思うが、ルアム達の帰還と繭の出現が同時であると思えば無視はできぬ。アンルシアが記憶を失っていた時の恩人というのもあり、礼を兼ねて王城に上がって情報を提供してもらった。
 最も念入りに聞き込んだのは『異形獣』。製作者がヘルゲゴールと名付けた生物兵器だ。
 硬い装甲を持ち、俊敏な身体機能と、鋭い爪と強靭な膂力による破壊行為。実際に存在したとなれば、民に多大な被害をもたらす事になる。実際にエテーネ王国では多くの被害者が出たそうだ。
 実際に遭遇し戦闘したルアム達の証言を基に、戦い方を検討し、必要な装備を行き渡らせる。強襲され心構えがないままに蹂躙される事に比べれば、考えられる限りの準備をした筈だった。
「そんな…!」
 アストルティアの勇者が信じられぬと声を上げる。
 土砂降りの雨の中、勇者の橋の上では一匹の黒い影が体を起こそうとしていた。
 薄紫色の外皮が鎧のように体の重要部分を覆い、青紫の肌から盛り上がった筋肉が見て取れる。額と目の部分に赤い宝玉が嵌り、口らしき部分に牙にしては大きすぎるものが生えている。ルアム達が報告した魔力を採取する宝石付きの角はなく、オーガの角を彷彿とさせる円錐形の角が額の上に一本生えている。手は体の比率を考えれば大きく、片手剣よりは短く大ぶりの短剣より長い爪が指の代わりに生えている。前傾になった体を支える尾が、橋を叩いて石畳が砕けた。覚悟していたキラーパンサーの俊敏さで襲い掛かってはこないものの、人に近い形が放つ一撃はギガンテスもかくやの重さを誇る。熟練のパラディンであるラチックでなければ、受け流すこともできないだろう。
 戦いは有利に進んでいた。事前情報と差異はあったが、魔法を中心に異形獣を追い込む。アンルシアに会心の一撃を叩き込まれ沈黙した異形獣に、歓声が上がったのは数呼吸前の話だ。
「確かに死んでいたわ!」
 アンルシアがレイピアを体に突き刺しギガデインを直接流し込めば、レンダーシアに存在するほぼ全ての魔物が絶命する威力を誇った。崩れ落ちて石橋に走った鈍い衝撃が、嘘だとは思えない。意識を失っているだけなら、アンルシアは構えを解かなかったろう。
 死んだように見えて、実際には死んでいない。
 目の前の異形獣が幻であれば物理攻撃も魔力も通用しない。実際に攻撃を叩き込んだアンルシアやラチックが、真っ先に気がつくはず。可能性は低くとも検証が必要だ。
「ブロッゲン」
 素早くブロッゲンに目をやれば、雨水を吸って重く垂れ下がる眉毛が上がる。ドワーフが好む幾何学模様が惜しげもなく刺繍されたローブを重ね着た賢者は、こつこつと杖を突きながら進み出た。
「確かに…そこに存在する」
 私と同じく幻を疑ったのだろう。既にブロッゲンは眉毛の影に爛々と輝く双眸で、異形の獣を見据えている。
 賢者ブロッゲンは現と重なるあらゆる世界を俯瞰する。彼は魔力の流れを空気に光を混ぜたように鮮明に認識し、魂の形をも捉えてあらゆる幻を看破する。ブロッゲンが幻ではないというのなら、これは実態を伴う生命体なのだろう。
 ただ。嗄れた声が編み込んだ口髭の下から漏れる。
「勇者が仕留めた事で…、魂は…確かに肉体より離れた。だが…奴は天使の守りとは…違う方法で、死を…免れておる」
 死とは魂が肉体から剥がれ、戻れぬ状態になった故に肉体の機能が完全に停止する状態だ。魂が肉体に引き摺られて傷つかぬ為の防御反応で、致命傷を負ったり生命活動が停止した肉体に魂が留まり続ける事は不可能とされている。『天使の守り』は魂と肉体を強制的に結びつける事で、肉体が致命傷を負っても魂が剥がされず死を免れる。
 ホーローが首を傾げる様子に、他の賢者達も同じ疑問に至ったようだ。死を免れる『天使の守り』とて、魂が肉体から離れれば機能しない。
「命が失われているのに、死を免れているとはどういう事じゃ?」
 生命活動が停止したならば、息を吹き返す方法はザオ系統の蘇生呪文しかない。ザオ系統は生命活動に必要なエネルギーを外部から流し込む事で、死亡した肉体を蘇生させる。
 そんな魔力の流れは感じなかった。私が異形獣に眼差しを向けると、背後からブロッゲンの睡魔と戦う声が、雨粒を縫って響いた。
「別の魂を…糧に…」
「他者の魂を対価に己の死を免れているというのか?」
 あまりの悍ましさに、鳥肌がたつ。魂を用いる禁術は、邪悪と唾棄すべき行為だ。
 それでも、この不可解な状況は、魂を用いる事でしか説明ができない。魂は非常に利率の高い対価で、たった一つの魂で奇跡のような大きな力を行使できる。しかし、魂は唯一無二の宝。決して侵してはならぬ存在と定義されている。
「まるで不死の魔王のようじゃな…」
 雨の中では喫煙ができず、珍しく煙管を咥えていないエイドスが顎髭を撫でた。
 不死の魔王ネロドス。千年前、アンルシアの先代にあたる勇者アルヴァンが討伐した魔王だ。ネロドスの眷属である魔軍十二将を筆頭に、どんなに倒そうとも復活する不死身さから『不死の魔王』と恐れられた。
 轟音が響き渡り、石橋から地響きが這い上がってくる。
 ラチックの渾身の一撃が、異形獣の頭を叩き潰したのだ。渾身切りすら受け流した外皮が、大きくひび割れてひしゃげている。割れた硝子のようなヒビの隙間から、血や肉、場所によっては骨が飛び出していた。
 倒れた異形獣の上にアンルシアが乗り上がると、大木の幹のような首に柄までレイピアを差し入れた。次の瞬間、渾身のギガデインで頭部が真っ黒に焼け、ヒビがぼろぼろと崩れていく。シャン。澄んだ音を立ててレイピアを払えば、水飛沫を散らしながら異形獣の頭が勇者の橋の上を跳ねる。
 ずしゃりと、アンルシアを背に乗せた異形獣が崩れ落ちた。
 誰もが、死んだと思う状況。
 大楯を構えたラチックが飛び降りたアンルシアを背に下がらせた時、変化が現れた。
 ぼこぼことまるで泡立つ音が響く。いや、実際に泡立っていた。切断した首から滴るはずの血が泡立ち、ドス黒い色の血が透明な雨水に滲んでいく。
 強い潮風と嵐が横殴りの雨で吹き付ける中、橋の上にいる誰もが固唾を飲んで見守っていた。城門の前で王と王妃を守るべく槍を構える兵士達も、霞む雨の彼方で城下町に決して侵入させまいと魔力を練り上げる兵士達も、異形獣と戦う勇者と仲間達、そして叡智の冠という称号と共に正しい判断を求められる私達賢者。全ての無数の視線の前で、ぐったりと崩れ落ちた巨体が脈打った。
 ラチックとアンルシアが大きく下がると、彼らが立っていた場所を尾が薙ぎ払う。
 首のない異形獣がぐっと立ち上がったと思った瞬間、まるで獣のように手で地面を掻き、足で大地を踏み締める。石畳に深く爪痕を刻みながら、一足飛びで首の元に辿り着いた。首の前で犬のように膝を折って腰を下ろすと、切られた頭に向かってゆっくりと肩を下ろしていく。
 みちみちと湿った音に目を凝らせば、真っ黒い頭から筋組織一本一本が幼虫のように蠢いている。その様子に堪らずアンルシアが口元を手で覆った。
 首の筋組織が切断された頭と繋がっていく。その様子を険しい顔で見ていたエイドスがこぼした。
「これは勝てぬな」
 あぁ。息を吸うだけで口の中に水が溜まりそうな湿度にも関わらず、喉から掠れた肯定が漏れた。
 首を切断しても、首と胴体を離しても、炭にしても復活する脅威。ただ分かるのは、このままどんなに優位に戦い続けても、いずれ疲弊して負けるという事だ。
「勇者アルヴァンは、不死の魔王をどうやって討伐したか知っているか?」
 叡智の冠。世界最高峰の賢者と称えられた者達を、私は見据えて訊ねる。
 一様に苦虫を潰したような顔になるのは分かりきっていた。勇者アルヴァンと不死の魔王の戦いは、盟友カミルの存在が不明だった事が物語る通り多くが謎に包まれている。当時のグランゼドーラ付きの賢者シュトルケが残した内容でさえ、勇者がどうやって不死の魔王を倒したのかなど肝心の部分が不明なのだ。
 あり得ぬ事だ。
 歴代勇者を輩出するグランゼドーラ王国は、魔王との戦いに備えて賢者を常駐させている。魔王との戦いに備えるという目的上、賢者は魔王と関わる資料を全て後世に残す役目がある。
 しかし、残せなかったのだ。
 不死の魔王が禁術に関わった時点で、その打開策が真っ当ではなかったのだろう。かつての私の推測の通り、ピぺの村に伝わっていた伝承で不死の魔王を倒す方法が『術者の魂を対価にあらゆる力を封じ込める禁術』である事が判明した。勇者が禁術を使って魔王を倒すなど、とても後世に伝える事ができなかったのだろう。
 しかし、私は当時の賢者の想いを汲む。後世の勇者が同じ轍を踏まぬよう、新しい方法を後の賢者達に模索させる為にあえて残さなかった。そこに、当時の賢者の誰かに犠牲を強いる戦いをさせた後悔を感じずにはいられなかった。
 ルシェンダ様。ホーローが真っ白いローブに恰幅の良い腹を浮き上がらせ、颯爽と進み出た。丸い顔を緊張に窄ませて、私の名を呼ぶとハキハキと提案を述べる。ホーローは判断が早い。今回の繭の件のように、実際に表面化する前から関わっている事も少なくない。その判断が今に何の意味がなかったとしても、彼の直感は最終的に最善に繋がるのだ。
「時間を稼ぐ為に、四重の封空を創りましょう」
 封空とは空間そのものを切り取り、封じる手段。異形獣そのものが脅威である以上、対象物に魔法陣を刻む封印は危険だ。空間ごと封じてしまった方が安全で、複数人で維持すれば強固な封空に長時間捕らえる事ができる。叡智の冠の賢者四人がそれぞれ封印を重ねて四重となれば、普通なら如何なる魔物も脱出はできぬ。
 それが良かろう。人の身で極みと評価して申し分ない魔術の使い手であるエイドスが、重厚感のある声で同意した。既に船を漕ぎ出したブロッゲンに代わり彼の杖が『ブロッゲン様も、それが最善と申しておられるのでアール!』とけたたましく言った。
 私も頷いた。今、不死の魔王と先代の勇者について、文献を洗い直す余裕はない。口惜しいが、自分達が成すべき最善は、もう、時間を稼ぐ事だけになっていた。
 アンルシア。勇者の名前を呼べば、忘れかけていた晴天の青が瞬いた。
「このままでは、世界はあの獣に滅ぼされてしまうだろう」
 勇者と呼ぶには華奢で、乙女と呼ぶには凛々しい娘は表情を強ばらせた。賢者が滅亡を予言するのは、ただの世迷言とは一線を画す。たった一匹。しかしその一匹を止められないのなら、この世界の全ての生命を脅かす脅威となりうるだろう。
「我ら叡智の冠は四重の封空で奴を封印する」
 背後でラチックと精鋭の兵士達が戦闘を始めたのだろう。大楯が鋭い爪と打ち重なる金属音が、雷鳴もかくやと響き渡る。豪雨の最中では火炎の威力は上がらず派手さは無いが、ドルマ系の闇が爆ぜてなお暗い闇が光を押し退ける。
 繭の光を浴びたアンルシアが、並び立つ叡智の冠を目を細めて見ていた。
「封空の内部から幾重にも重ねる事で、可能な限り時間を稼ぐ。その間に不死の力を持つ、あの魔獣を倒す方法を見つけるのだ」
 共に冠を戴く者達を見回せば、心得顔で頷いた。それぞれが杖を掲げれば、封空の魔法陣が錬成され攻防の音が止む。暴風雨の音を押し退けて、兵士達の歓声が上がった。
 それでも喜んでいられる状況では無い。
 魔獣が封空を破ろうとしているのか、衝撃にブロッゲンが目覚めた。外から封空を維持できると自惚れるつもりはなかったが、想像以上に余裕はないかもしれぬな。
 待ってください! 勇者の縋る声が頬を叩く雨水と混ざる。
「ルシェンダ様も、賢者様方も皆が居なくなってしまったら、不死の魔獣を倒す方法なんてどうやって探せば…」
 確かに、我々叡智の冠はこの世界最高の識者と認識されている。我々が預かり知らぬ事は、世界の誰に聞いても知らぬと言える逸材達だ。だが不死の魔王と先代の勇者については、私達よりも詳しい存在が勇者の傍にいる。
 盟友ピぺ。
 彼女の故郷が残した千年前の事実は、グランゼドーラが闇に葬った内容を含んでいた。これに世界宿屋協会の諜報力が加わって分からぬなら、もう打つ手は無いと言って良い。
 それに…
「アンルシアちゃん。お主にはベストでパーフェクトな仲間と縁がある。アストルティアの力を束ね、この世界の線路を未来に繋げる役目もまた、勇者がなすべき事じゃ」
 茶目っ気たっぷりにウインクを一つして、お先にとホーローが封空の内部に入り込む。まるでシャボン玉のような円形に歪んだ空間の中にするりと入り込むと、魔法陣が描かれて魔獣共々内部が見えなくなる。
「安心するがいい。そう数日で突破される、柔な結界は作らぬでな」
 聞く者を安堵させるような低い声で断言すると、エイドスは『ホーローの術は大まかで早いが雑じゃな』と辛辣な呟きをする。魔法陣が鮮明になり輝きを増すと、エイドスも封印された空間に入っていった。
 それを見守っていたブロッゲンの杖が、アンルシアを励ますように言う。
『ブロッゲン様なら、寝ながらでも維持できるのでアール!』
 うむ。ブロッゲンが頷いているのか船を漕いでいるのか判別できない首の動きをして、コツコツと杖を突きながら封空の中に消えていく。
 アンルシア。雨に濡れて不安な表情の頬に張り付いた金髪を、耳にかけてやる。
「誰一人欠けぬ道を探し出すんだ」
 私は勇者に微笑むと、踵を返した。私の名を呼ぶ声を振り払い、雨は届かず、風は吹かず、寒くも暑くもない空間に入り込む。乳白色の空間の中で魔獣を取り囲み、既に賢者達が己の居場所を定めていた。エイドスが煙管を片手に美味そうに煙を噴かしている。
 私は杖を掲げ封空の魔法陣を構築し、高々と宣言した。
「アストルティアに未来を…!」
 未来を! 賢者達が復唱し、私達だけの戦いが静かに始まった。