暗闇に光の楔を打ち込んで - 後編 -

 勇者が生まれる大国として昼も夜もなく賑やかに栄えていたグランゼドーラは、巨大な繭に照らされてひっそりと静まり返っていた。世界各国から行商が訪れて朝から夕方まで色鮮やかな敷物を敷き品物を煌びやかに並び立てる市場は、繭の周囲に沸いた黒い雲から落ちる豪雨で開催なんてできそうにない。城壁内に犇く家々の生活を支える、パン屋や雑貨屋といった商店も臨時休業のお知らせが貼られていたが、雨風に吹き飛ばされてなくなっている。そうでなくとも、多くの家が鎧戸をピッタリと締め扉を打ち付けている。
 巨大な繭から魔物が現れたと噂が瞬く間に流れたが、未だに討伐の噂を聞かない。繭の脅威を勇者様が払ってくれると恐怖に耐えられていた人々も、ついに王国から逃げ出した。
 世界宿屋協会が運営する宿屋は、グランゼドーラ城下町に入る大門の真横にある。まさに一等地だ。がらがらと馬車の車輪が石畳を転がる音が聞こえて目を向ければ、数台の馬車が避難の為に出発する所だった。三門の関所まで護衛する兵士達と、代表者だろう男達が頭を突き合わせて何かを話している。
 繭が出現した当日は、王都の大通りが身動きの取れない程の馬車でごった返していた。宿屋のフロントもチェックアウトの手続きをして慌ただしく旅立つ人々で騒々しかったが、今は誰もいない。
 僕の向かいで珈琲を啜っていた宿泊者のカンダタさんは、諦観した目で必死に逃げようとする人々を窓越しに眺めていた。伝説の大盗賊に肖って名乗る人は案外多いけれど、彼程に貫禄がある人は初めてだ。ラチックさんと競える隆々とした筋肉に、右頬に大きく走る古傷。眼光の鋭さと潜った修羅場の多さを感じる威厳は、先日一緒だったバディントでさえ小物に思えてしまう。本物の大盗賊ってこんな人かもしれないって、思ってしまう人だ。
「王都に残るのは王宮の関係者と、施設の責任者くれぇなもんか」
 僕は曖昧に相槌を打った。
 世界で最も繁盛しているだろうグランゼドーラの宿の宿泊者は、僕と兄さんを含めてたった五人。新たに宿に来る宿泊客は来ないだろうと、常駐している従業員はケネスさんとアインツのたった二人だ。宿泊者が全員知人だからか二人の接客も砕けていて、宿でありながら自宅のように過ごさせてもらっている。
 食事は毎食温かいものが食べれて、外から帰ってくればお風呂も頂ける。三日に一回部屋の掃除をしてくれて、ゴミ一つ、シワ一つない部屋を見ると二人は宿屋協会の人なんだなって思うんだ。凄く悪い気がして僕の原始獣のコートを洗うのを手伝った時、水が真っ黒になってびっくりした。今は新品みたいにツヤツヤだ。
 穏やかな時間が、賢者様達が稼いでくれた刹那の平和だとは分かっている。
 カンダタさん。蝋燭の灯りを吸って、血溜まりのような暗い赤を宿す瞳が向けられる。
「命を賭けろって言われて賭けれます?」
「死ぬ気はねぇが、状況に寄るかな」
 意地の悪そうな笑みを浮かべて答えてくれる。ゆったりと珈琲を啜って僕の言葉を待っている大人の気配に、僕の口はどうしても滑らかになってしまう。
 今、王宮では不死の力を持つ魔獣を倒す方法の捜索で、書庫がひっくり返されていた。
 その方法の一つとして『僕が千年前のグランゼドーラに行って、不死の力を封じる秘術を探し出す』というのが上がっていた。キュルルに相談したら、時間超越には双方の時代に存在する目印となるような強い縁が必要になるらしい。千年前の不死の魔王との交戦時に建立され、現代も現存する勇者アルヴァンの石像が、その条件を満たすだろうと断言した。
 こうして僕達が千年前に赴き、秘術を探す事が決定的になった。
 それは、別に良い。
 見つけてこなければ世界が滅んでしまうなら、見つけなくちゃいけないってわかってる。
 でも…
「僕が見つけてくる『術者の魂が対価』となる禁術。それを使えば人が死ぬんです」
 アンルシア姫様。ピペちゃん。ラチックさん。三人は互いに自分が禁術を使って死のうと考えている。自分が死んで、残った二人に幸せに生きて欲しいと願っている。
 アンルシア姫様は勇者様であるからか、自分の命を平和のために捧げるのが当然だと思っていた。でも次代の勇者の存続のために、アンルシア姫が秘術を使う事を王が認めないだろう。ピぺちゃんとラチックさんは、そんなお姫様を守る為に死ぬ事を厭わない。そこに付け込んで二人のどちらかに禁術を使わせ、美談として後世に残す。そんな筋書きが見えて吐き気がする。
 残された人間は幸せになれない。僕がそうだもの。
 家が新しく建って、ハツラツ豆の畑が豊かに実り、新しい移住者達がどんなに楽しく暮らしていても、僕は冥王ネルゲルに蹂躙され死んでいった村人達の事を忘れられない。幸せで、楽しければ楽しい程、死んでいった彼らの苦しみが込み上げて辛くなる。
 残された二人にそんな気持ちは抱いてほしくない。
 それでも、世界が滅んで全員死んでは意味がないのもわかっているんだ。
「僕が使えば良いって思うでしょうけど…」
 怖い。
 冥王ネルゲルに追い立てられた恐怖が、腹の底から湧き上がって体が氷のように冷え切っていた。兄さんの魂に寄り添って温もりを感じても、常に傍にあった冥界の冷気。
 恐怖に身が竦むと、頭の中は理由探しで渦巻いている。
 兄さんを悲しませるとか、テンレス兄さんを見つけるまで生きたいとか、三人でエテーネ村に帰るんだとか、そんな自分が生きて良い理由を考える。誰かが僕の代わりに死んで良い理由には到底ならない、軽いものばかり。最低だ。なんて最低な奴なんだろう。
 えぇ! 閃光のように声が思考を切り裂いた。
「ルアム君が死んじゃうの、あたしは嫌だな!」
 互いに声の方向に顔を向ければ、涙をいっぱいに溜めた赤と青の目。診察を終えた兄さんとロトさんが立っていた。パイナップルヘアーが胸に突き刺さる勢いで飛び込んで、見上げた兄さんが潤んだ目を尖らせた。めっ!とばかりに、頬がぺちぺち叩かれる。
「相棒、ちょーテンション低いと思ったら、そんな事考えてたんだ。オイラのこと、もっと頼ってくれたっていーじゃん!」
 今、宿屋にいる宿泊客が全員集まったからか、アインツがひょっこり出てきてお茶を用意してくれた。気持ち大きくカットされたチーズケーキが並べられ、テーブルの中央には宝石のような大きな果物がゴロゴロ入ったジャムや、生クリームを盛った器が置かれていく。ここぞとばかりに全部乗せのロトさんと兄さんのお皿の上は、ケーキの上を覆った生クリームの上を食欲が失せる絶妙加減で色とりどりのジャムが這っている。
 スパイスは何に使うんだろうと思ったら、カンダタさんがスパイスを掛けてロトさんにメラで炙らせて香ばしい香りを放つ。
『こんな美味しいチョコレートムースを独り占めだなんて最高キュ! この時間を無限に味わう為に時間を歪曲させてループ状にしたいくらいキュ!』
「いいなー。自分より大きい甘いもの食べるって、全プクリポの夢なんだよなー」
 兄さんが羨ましそうに、ツヤツヤのチョコソースを掛けてナッツを乗せたチョコムースに目を向ける。『キュルー!』と喜びの声を上げているキュルルが、生クリームとブルーベリーソースでムースを飾っている。甘味お化けを見た後だと、とても美味しそうだ。
 で! ロトさんが紅茶をごくんと飲み込んで、声を上げた。
「人が死んじゃうってヤバくない? なんで死んじゃうの?」
 なんでと言われましても…。
 基本的に魔術は使用者の魔力を対価に支払って発動するものだそうだ。呪文を唱えた人が死ぬ事は、稀にある。ナドラガンドの嵐の領界でエンジュさんが魔力を使い込んだ時、イサークさんが適切な処置を行えなかったら命に関わったそうだ。魔力を対価に支払う場合は、発動を維持し続けられるよう力を制限したり、疲れたら休んだり、使用者本人の裁量で量が設定できる。
 しかし、魂を対価に用いる術は全く違う。
「どんな力も封印しちゃうからじゃないですか?」
 魂を対価に使ったら、もう、その魂は戻ってこない。薪を火に焚べる感じなのだろう。
 そして魂を対価に用いるほどの効果が、禁術によってもたらされる。今回は不死の力を含め、あらゆる力を封印するという効果を発動させる為に魂を対価にするのだ。
 ロトさんは大きな膨らみの上に腕を乗せるように組んで、ふっくりと頬を膨らませた。
「そんなざっくり広範囲の効果に設定しちゃうから、対価が大きくなっちゃうんだよ。お水飲みたいなーって思ったら、風呂桶いっぱいにお水要らないでしょ? コップ一杯で十分じゃん」
「確かに、風呂桶いっぱいは要らねーな」
 んん。ロトさんの説明で兄さんが納得してる。難しいなって思うの、僕だけなのかな。
 魂使えば簡単に強い術生み出せるからって、難しい構成すっ飛ばすなんて怠慢だよねー。ロトさんがソファーの上でゆらゆらと体を揺らすと、剛毛の黒髪がもさもさと動いた。
「きちんと対象を絞ってきっちり術式を組めば、簡単でお手軽なものに出来るんだよ。声を封じるマホトーンなんか、難しい呪文じゃないでしょ?」
 僕も獲物が仲間を呼ばないよう唱えるくらい、マホトーンはお手軽な呪文だ。そんな簡単な封印も対象になるなら、魂が対価なんて高すぎる。
 術を小さく。そんな概念が暗闇の中で灯る。
「つまり『不死の力を封印する』に限定したら、魂を使うまでもない術になるんですか?」
 ロトさんが左手を顎に添えると、手の甲にレナートさんと同じ紋章が見えた。白いぽっちゃりとした手にうっすらと赤く付いているのは、錨のようなつるはしのような不思議な紋章だ。何の意味がある紋章なんですか?ってロトさんに聞いたら、良く分からないって言ってたっけ。
 しげしげと見ている間、ロトさんは考えながら喋り出す。
「理屈上はそうなるね。蘇生を妨害するだけなら、ザオ系の生命流動を阻害すればいいから魂までの対価は要らなくなると思うよ」
 だがよ。口を挟んだカンダタさんは、珈琲のカップを置いて身を乗り出す。
「城で聞いた話じゃ、不死の理屈はザオ系じゃねぇらしいぞ。魂を命の石みたいに使ってるらしいぜ」
 厳戒態勢のグランゼドーラ城に、どうやって忍び込んだんだろう。
 でも、異形獣や繭の脅威に身構えてるんであって、人間に対しては警戒が緩んでいるのかもしれない。城下の人々は避難しているから、箝口令すら敷いていないのかも。
 命の石と聞いて、兄さんがお腹からエンゼルランプの硝子瓶を取り出した。エテーネ王国に行った時大きくひび割れたロトさんの作ってくれた石は、帰ってきた時に器の中で真っ二つになった。この石が砂になるまで兄さんを守ってくれるそうだけれど、時空転移をしなければ良い話だ。今回任される千年前の禁術の捜索も、回避できるならしたい。
「身代わりかぁ」
 ロトさんが天井を仰ぐ。
「相手が保管して身代わりにできる魂の数を上回れば、死ぬのかなぁ。それとも、保管してる魂を昇天させて手元から無くすか…」
「昇天はお勧めしません」
 ロトさんの後ろから、アインツがお茶のおかわりを持ってきた。コンシェルジュ達が着る服と同じ型の服を水色で染め、胸元のスカーフが柔らかいオレンジ色だ。湯気のたつ紅茶を注いでロトさんの前にカップを音も立てずに置くと、空いたお皿を小さな指先が掬い上げてお盆にひらりと乗せていく。小さく会釈した黒髪の向こうで、碧の瞳が瞬いた。
「魂は大変繊細ですので、無理をすれば壊れてしまいます」
 むずかしいなぁー。ロトさんの白い喉元から声が漏れる。
 賢者様達が封印しか選択できなかったのを思えば、こんな宿屋のお茶会で解決策が浮かぶ訳がないんだ。やっぱり、誰かが死ななきゃいけないのか…。そんな言葉が零れてしまう。
 まって。ロトさんの手が天井に伸ばされる。
「もうちょっと、考える」
 体を起こして、腰に吊るした使い込んだ本を取り出す。革張りの本の中に、隅が焼けたクリーム色の紙が分厚い頁を構築して、濃厚なインクの匂いに微かに潮の香りがした。全ての頁にはぎっしりと文字が書き込まれていて、印刷とは違う独特の癖に手で書き起こされたのだと分かる。
 見ていてどきどきする。
 プクレット村で初めて海を見た時を思い出した。森と平原と山に囲まれた村しか知らなかった僕に、シンイさんが歌うように教えてくれた塩っ辛いどこまでも続く水溜まり。ざざんざざんと寄せては返す波の彼方まで、まるで水鏡のように真っ平な水平線。星空と海が重なり合う場所から白が夜空に広がっていく。広がって広がって、赤い太陽が昇ってくる。
 村の皆が死んだのに、恐ろしい冥王に殺されそうになったのに、テンレス兄さんがどこかへ消えてしまったのに、僕はこれからどうすれば良いんだろうと途方にくれていたのに、僕を貫く朝焼けに全て掻き消されていた。
 綺麗で、大きくて、すごかった。そんな海の記憶が呼び起こされる。
 よし。ロトさんの声が、本を閉じるように記憶を遮る。
「みんなで、お神輿わっしょいしよう!」
 お
「おみこし わっしょい?」
 目をまんまるくして凍りつく僕の袖を引いたのは、兄さんだった。生クリームをぺたぺたつけた頬をぺろりと舐めて、楽しげに笑う。
「エルトナのお祭りだよ。神様が地上に降りて過ごすちっちゃいお屋敷を、エルフ達が力を合わせて担いで練り歩いたの見ただろー? カミハルムイなんて物見櫓みたいな、でっかい神輿を引き回して迫力満点だぜ!」
 そういえば、見た。
 エンジュさんのお誘いで、皆でツスクルのお祭りに行ったんだよな。深い森の闇の中に、竹で組んで紙を張った筒状の物の中に蝋燭を入れて灯す提灯ってものが、たくさん吊り下げられて幻想的な空間。生まれたばかりの世界樹の精霊と、村で選ばれた幼子がヒメア様が祝福した世界樹の若木を持って座る。その空間は納屋くらいありそうな立派な社だ。柱も梁も瓦屋根まで、美しい木目で選ばれた一級品。職人が施した世界樹の枝葉を再現した細工は本物のようで、様々な花や果物で飾り立てられていた。大勢で声を合わせ汗を迸らせ、時々、沿道のご隠居に水をぶっかけられながらツスクルの村を練り歩いていたっけ。
 一人では不可能な事も、皆で力を合わせれば可能になる。だからお神輿なのか。
 …やっぱりロトさんの例え、難しくない?
「カンダタが集めてきた話だと、禁術を使った勇者様って即死しなかったんだよね。つまり魂を消費して禁術を発動させたんじゃなくて、魂を媒介に禁術の力を行使したんじゃないかなって思うの。最終的に禁術を媒介して、魂が修復不能なほど傷ついちゃうから『魂が対価になる』って話になってるんだと思う」
 言われてみればピぺちゃんが伝え継いだ内容では、勇者アルヴァンは当時聖域とされた王家の墓に自身を封印する余裕があった。死ぬタイミング一つでそこまでわかってしまうだなんて、詳しい人は目の付け所が違うんだな。
「みんなでわっしょいしたら、みんな痛くなっちゃうんじゃねーの?」
 兄さんが首を傾げると、ロトさんも一緒に首を傾げる。
「媒介する魂の数を増やして負担を分散させれば、それぞれの魂の自己回復力の範囲内で収められると思う。そうなれば、誰も死なずに済むと思うんだよねー」
 これはたった今、ロトさんが考えた確証のない想像なのはわかっていた。実際にその方法で不死の異形獣を倒せるかなんて分からないし、誰も死なないなんて断言できない。
 それでも、誰も死なない方法を考えているのは彼女だけだ。
 アンルシア姫も、ピぺちゃんも、ラチックさんも、王様や王妃様、兵士の皆も、僕達でさえ、誰かが死ななければ倒せないと思っている。その誰かに自分がなろうと思っても、心の恐怖で言葉にならず手も挙がらない。己の臆病に憤り、誰かが名乗り出ないかと周囲を伺う空気。誰かが名乗り上げたら感謝をしながらも、殺してしまったような罪悪感を抱いて生きていかなければならない。
 この光に手を伸ばさなければならないと、僕はロトさんの名前を呼んだ。
「アンルシア姫に会っていただけませんか?」
 青い目が何回かぱちぱちと瞬いた後、ぱぁっと顔が輝いた。憧れの勇者様一行にお会いできるって、感激しているんだな。今話した打開策を提案したら、世界の命運を背負わされるって言うのに、遊びに行くようにしか見えない。
「アストルティアの勇者様に? すごーい! うれしーい!」
 いやー。分かってるのかなぁー。
 カンダタさんに目配せすると、苦笑いを浮かべながら首を小さく竦めてみせた。
「じゃあ、ルアムくん!」
 満面の笑みを見ていると、この困難を乗り越えられると思えてくる。冷え切った僕の手を掴んだ手は、柔らかくて温かくて力強い。相棒。顔赤いぞって、兄さん余計なことは言わないでほしい。
「お神輿、ちゃんと用意してきてね!」
 僕と兄さんは顔を見合わせて、一つ噴き出したら笑うのが止まらなくなっちゃった!
 禁術をお神輿なんて言う人は、世界広しといえど貴女くらいだと思いますよ。