私たちが息をする場所 - 前編 -

 
 兵士達の重い足取りが、グランゼドーラ王国の疲弊を物語っていた。
 鎧は埃と泥に塗れ、赤黒い血の跡が拭われず、陥没がそのままの兜を被っている者も見受けられる。流石に割れたままの鎧兜を装着している者はいなかったが、兵士達の顔にべっとりと絶望の色が張り付いて幽鬼の葬列か何かと思うだろう。
 兵士の隊列の重要部からやや外れた位置に、俺を含む義勇軍が疎に配置されている。とはいえ、レンダーシア全土に戦域を広げる魔王軍相手に義勇軍を出せる地域などなく、その多くがレンダーシアの外の五大陸からやってきた他種族の傭兵達だ。俺の隣では魚の鰭のような耳を生やした長身痩身のウェディ族の若者が、短い角を生やし赤岩のような肌質の強靭な体格のオーガ族の戦士と楽しげに語らっている。王国存亡の危機に直面している人族に比べれば他人事で楽観的ではあるが、この陰鬱とした戦場において彼らの明るさは松明の灯火のように尊い。
「話の途中ですまんが、風下に注意を払ってほしい」
 ウェディ族の肌の色は人族にはない海の色彩だが、顔の造形は良く整っている。ホメロスに似た目元を細め、親指と人差し指をくっつけて丸を作り『オッケー』と美しい声色が応える。
 聴覚が優れたウェディ族が、吹き荒ぶ潮風の合間の敵の音を拾おうと耳を澄ます。
「グレイグ殿。そろそろだと思うか?」
 人の良さそうな顔を引き締めたオーガ族に、事前に襲撃箇所を予測していた俺は頷いてみせる。
 グランゼドーラ王国は、不死の魔王が率いる魔王軍と熾烈を極める戦いを繰り広げている。王国の南東海上に突如現れた魔王軍は宣戦を布告し戦争を仕掛け、勇者であるグランゼドーラ王国のアルヴァン王子を大将に徹底抗戦していた。勇者が大魔王を撃退した事は幾度かあり、人々は今回も勇者アルヴァンが不死の魔王を倒してくれるだろうと消えぬ希望を胸に抱いている。
 だが、目の前で魔王の軍勢と戦う者達にとっては、蝋燭の火よりも頼りないだろう。
 不死の魔王が率いる十二の将は、それぞれに魔王から不死の力を与えられているという。
 先の戦場で討伐した将が、次の戦場で復活して猛威を振るう。同じ種族の似たような個体かと思えば、先の戦場での記憶がしっかりと残っているらしい。念入りに死体を燃やし、海に灰を撒き、封印を施す等、考えられる手立てを講じたが不死身の軍団を崩す一手にはなり得なかった。
 倒れぬ敵に挑み続ければ、疲弊するのは人間側だ。
 これに追い討ちを掛けるのは、魔王軍の士気の高さだ。不死の魔王の威光が十二の将を従わせ、戦慣れした一騎当千の将の下で魔物達は力を存分に発揮する。
 将を退けられる勇者アルヴァンや盟友カミルといった戦士達が駆けつけらるまで、防戦どころか押し切られかねない人間は崖っぷちに立たされていると言って良い。死地に向かわされる兵士達の表情は、死の恐怖と生き残っても次の戦場に向かわされる絶望で真っ暗だった。
 俺が指揮する軍では、こうならないようにしよう。
 胸の中に渦巻く疎外感と無力感を、唾と共に胃に流し込んだ。
 ぴくりと、鰭のような耳が大きく動いた。風下に目を向けた時には、それは頭上を滑空する。
 黒々と頭上でとぐろを巻く分厚い雲の下を、真っ白い巨体が発光しながら横切っていく。
 ハヌマーン。奇襲を得意とする魔軍十二将の一人だ。
 森は焼け落ち漆黒の荒野となった平地は、遮るものも隠せるものもなく見通しが良かった。誰もが魔王軍の襲撃に備え、目の良い者は瞬きすら惜しんで警戒をしていただろう。白い毛皮に七色に滑る油膜のようなものが見えて、事前にマヌーサの幻惑を張り巡らせ迷彩としていたようだった。
 突如現れた竜の腹を見上げて半狂乱になる兵士達を、鋭い爪が振り下ろされて真綿を引き裂くように肉塊に変える。尾を振るえば幾人もの兵士達の上半身がかき消え、残された下半身から噴水のように血が迸る。それらを悠然と見下ろす獣の白金の毛皮には、一滴の返り血すらつかなかった。
 竜の翼を大きく広げ、獅子の顔が極限まで顎を開ける。
「耳を塞げ! 意識をしっかり持つんだ!」
 超音波と共に放たれたメダパニーマに、天も地も失われ視界が不快に歪む。意識が混濁して、込み上げる制御できない感情が剣を握ろうと手を動かそうとする。殺せ。殺せ。邪悪な囁きが己を追い詰めようと囁いてくるのを、俺は握りしめた短剣を手の甲に突き刺す事で掻き消した。
「ぐぅっ!」
 痛みが頭のてっぺんに突き抜けたが、その痛みが煩わしい声を吹き払った。
 超音波で脳髄を揺さぶられて込み上げたものを吐き出し、俺はさっと視線を走らせる。耳の良いウェディ族であるからか、昏倒し頭から倒れた友を横に見る。筋肉隆々の腕が斧を振り上げるのを見て、俺はオーガ族の足元にタックルして転倒させる。
「俺は敵ではない! しっかりしろ!」
 頭を打ち付けたのが幸いしたのか、うめき声を上げて殺意が消える。俺は軽いウェディ族の体をオーガ族の上に放り投げて、剣と大盾を構えて立ち上がった。
 地獄の釜の底の光景がそこにあった。
 混乱して刃を振り回す兵士に、成す術なく斬り殺され飛び散る血飛沫。混乱した兵士を取り押さえようと必死に呼ぶ叫びの横で、既に形を失った胸に何度も何度も槍を突き刺す苦しげな悲鳴。混乱から運良く逃れ、隊列から逃げ延びた者に待ち受けていたのはハヌマーンが敷いた伏兵だ。連携が取れず混乱から立ち直った人間は、自ら頭を魔物の口に差し入れるように首を噛みちぎられ喰われていく。
 統制は完全に崩壊し、混乱が支配する世界。
 最も強い音波が放たれたのは、隊長格の兵士がいた辺りか。入り乱れる黒い影の向こうは、混乱に赤く烟ってすら見える。
 このままでは、全滅しかねん…!
 俺は王より賜った剣を高々と振り上げた。双頭の鷲の紋章を鍔に刻みし、黒鉄の剣が雷光にぎらりと光る。
「正気を取り戻した者は、我が元へ集え!」
 響き渡った声に、弾かれるように視線を向けたのは正気を保った光。振り撒かれた混乱に、誰が味方か敵か全く分からず、単身で荒れ狂う海に放り出されたような孤独に耐えた者達の光が篝火のように煌めいた。彼らは俺の掲げた剣が灯台の光に見えた事だろう。誰もが剣を手に、無我夢中で駆け寄ってくる。
 俺は盾を持った兵士と、武器だけを持った兵士に交互に並ぶように指示する。勇者アルヴァンが誕生してから大魔王と戦う事を使命として訓練してきた者達は、俺の一言で盾を持った者が両脇にいる盾を持たぬ者も守る陣形であるのを理解する。
「円陣を組め! 負傷者を内側にして守るんだ!」
 背後に庇った仲間を中心に組まれた円陣は、瞬く間に効果を発揮した。槍を持つ兵士と剣を持つ兵士は、互いに隣り合わぬよう示し合わせ、盾を持つ兵士は剣を納めて防御に徹する。弓を持つ者が空から強襲する魔物を射落とし、呪文の使い手の強力な一手が殺しきれなかった魔物にとどめを刺していく。
 頭上を悠然と舞うハヌマーンが、火炎の息を吹きかけ、混乱を来す超音波を放っているのを遠目に見る。空からこちらを視認され攻撃される前に、体制を整えねば潰されてしまう。
 集まる人数が増えて広がる円陣の中に向かって、俺は大声で指示する。
「戦えぬ者は炎を掲げ、正気に戻った者に呼びかけろ!」
 背後で煌々と焚かれた松明の熱が、火花になって潮風に吹かれる。負傷して動けぬ者を円陣の中に引き摺り込み、順次回復呪文が施される。混乱から立ち直った者達も、戦線に加わっていく。
 前へ! 前へ!
 俺の声に鼓舞され、隊列の端から始まった反撃が巨大な波となって魔王軍を押し返そうと迫る。その様子に気がついたハヌマーンの巨体が、ゆらりと旋回し迫る。歯痒い戦況に苛立つ双眸が、爛々と俺を見据えていた。大きく開いた顎の闇の中に、ぽっと赤い光が灯る。
 俺は我が剣を捧げし主の王国の紋章を掲げ、腰を低く落とし構える。
「身を寄せ、盾を掲げよ!」
 炎を孕んだ風が巨人の拳のように盾に打ち付け、支える腕の筋肉の痙攣が全身に広がる。盾を持った分厚い革のグローブがじゅうじゅうと音を立て、手の甲から肘に掛けて鉄板を押し付けられたような激痛。燃え盛る火炎の圧に押されて、踏ん張る足がジリジリと後退する。
 耐えろ! 耐えろ、グレイグ!
 俺が崩れてしまえば、燃え盛る火炎が後方に庇った全員を飲み込む。例え、王から賜った盾が溶解しようとも、その身を盾とし民を守るのが騎士の本分。肌から吹き出した汗が、一瞬にして蒸発して皮膚が剥がされるような痛みが走る。
 流石のハヌマーンにも肺活量というのはあるのだろう。燃え盛る火炎が止み、圧が消え去った腕が勢い余って大盾を振り抜く。
 ばちん。空気が爆ぜて、鼻先を打った。
 ハヌマーンの白金の毛皮が帯電して白熱し、空気が急速に乾燥してむき出しの肌が痛み出す。背後で『雷だ!』と悲鳴が上がる。ハヌマーンが得意とする雷は敵味方問わず、周辺の全てを打ち据える。燃え盛る火炎も輝く息も耐え抜く自信はあるが、電撃は防ぎ切れるのだろうか?
 いや、考えている暇はない!
「デルカダール王に剣を捧げし騎士、グレイグ! 推して参る!」
 俺は黒鉄の剣を大きく振り上げると、喉も裂けよとばかりの気合い諸共ハヌマーンの顔目掛けて投げつけた!
 暗雲が垂れ込め、炭を流し込んだような大地。焼け焦げた大木が立ち枯れ、薙ぎ倒されたり折れた幹が横たわる。大地は数日間降り注いだ雨にぐずぐずと抜かるんで、足の踏み場もないほどの人間と魔物の遺骸が沈み込んでいた。死と絶望を混ぜ捏ねた闇を、稲妻の閃光が塗り替える。
 眼球を貫いた痛みに手遅れと後悔したが、もはや剣は指先を離れている。
 剣が回転し空気を引き裂く音がひゅんひゅんと耳に囁いていたが、それも次の瞬間に落雷の轟音に踏み潰される。頭の上から足元へ貫く、圧倒的な音量と圧力に反射的に身が竦む。
 それでも、俺は敵から片時も目を離さなかった。
 剣が真っ白い光の中で輪を描くように浮いている。その鋒が光を絡め取り、黒鉄の軌跡が光を切り裂いていく。俺の剣はまるで水中をもがくようにゆっくりと回り、離れていくのか小さくなっていく。随分と距離が離れたものだと、ぼんやりと思った時、剣が何かに当たったように弾かれた。
 ぎゃおおおおぉぉおおっ!
 獣の絶叫に光は霧散し、光に眩んだ目にも闇の中で悶える白い巨体が見える。さらにその白い巨体の脇腹を炎の球が直撃し、ハヌマーンは溜まらず地上に墜落する。
「皆さん! よくぞご無事で!」
 ちょっとした一軒家くらいの大きさのアルゴングレードの成体に跨ったのは、少年が誰もが憧れた竜騎士ではなく、麗しい華奢な女性だ。短くカットした翡翠色の髪に、円な瞳と滑らかな陶器のような白い肌。服装も桜よりも淡い色合いで純白にすら見えるローブに、首から掛けた赤い布が一際鮮烈に映える。
 賢者セレディーネ様。兵士達がまるで幻を見るように呟き、目を擦った。戦場に似つかわしくはない儚げな女性が消えずにいれば、喝采と共に大声で賢者セレディーネを讃える声が膨れ上がる。
 人間達の声を掻き分け、真紅の鱗の巨竜が身を低くして唸る。空いた口からぞろりと覗いた鋭い牙とは裏腹に、紡がれた言葉はあどけなかった。賢者セレディーネが素早く竜の背から飛び降りると、竜は凄まじい雄叫びと共にハヌマーンに突撃した!
 アルゴングレードは希望に酔いしれる人間を飛び越え、ハヌマーンの腹に尾を叩き込む! ハヌマーンの毛皮から骨折した骨が飛び出るのを見れば、その衝撃の凄まじさがわかると言うものだ。竜はハヌマーンの翼を折り、尻尾を噛み千切り、四肢をもぎ取る。断末魔の悲鳴が徐々に弱まり、ハヌマーンはいつの間にか絶命していた。最後の仕上げとばかりに竜がハヌマーンに火を放った頃には、伏兵として潜んでいた魔物も散り散りに消え去り姿はない。
 拳を振り上げた兵士達が、勝利の雄叫びを上げた!
 俺は喜び合う兵士達にもみくちゃにされながら、炎に包まれているハヌマーンを見ていた。
 賢者セレディーネが間に合い今を生き延びることができた事、雷撃を回避できた事、全てが運がよかった結果であると思うと自分の無力さを痛感する。ぐっと手の甲を貫いた傷口に爪を立てると、温かい熱が傷口を覆い痛みが消えていく。
 驚く俺が視線を脇に向けると、戦場に似つかわしくない乙女が俺の手に回復呪文を施しているところだった。背後には真紅の龍が俺の首筋に鼻を寄せて匂いを嗅いでいて、取り囲んでいた兵士達は既に戦が終わった場所へ散っている。おそらく乙女の要望に従って行ったのだろう。俺もいかねばと、麗しい賢者に首を垂れる。
「すまぬ、賢者殿。俺よりも重傷の者を手当してやってくれ」
 いえ。翡翠色のまつ毛に縁取られた、青い瞳が潤んでいる。
「兵士の皆さんが、生存者の方々を探してくださっています。ハヌマーンの強襲を受ければ全滅も珍しくありませんが、今回は多くの生存者が見込めそうです」
 そう兵士達が戦場を徘徊する姿を見遣る。見つかったと声が上がると、周囲の兵士達が集まって折り重なった遺体の下から生存者を引き摺り出す。助けられた者達は泥や魔物の血を浴びて、真っ黒な影のように見えた。
 賢者セレディーネは回復呪文に特に秀でておられるが、このような劣悪な環境に塗れた体に悪戯に回復呪文を施せば、汚染された土や魔物の血といった害をなす物質を体内に取り込んでしまう。ある程度生存者を捜索してからベホマラーを戦場に放ち、最後の捜索をして撤退となるのだろう。
 しかし、生きて帰れたとしても次の戦場が待っている。
 俺には生き抜く確固たる目的があるが、全ての兵士達にそんな強い心を持てと言うのは酷な事だ。たとえ勇者という希望が存在したとしても、今回の戦場のように希望が及ばぬ事は少なくない。混乱していたとはいえ仲間に殺され掛けた恐怖、頭上を飛ぶ白金の影に刻みつけられた衝撃は一生涯拭い去る事はできないだろう。折れた心は荒み病んでしまう者を笑う事はできない。
 生き残った者達全てが、次の戦場に参加するとは限らないのだ。
「…この戦いが長引けば、間違いなく人は魔王に敗北するだろうな」
 賢者らしい険しい表情でセレディーネ殿が頷いた。
「諾々と敗北を受け入れるつもりはありません」
 ドラスケ。ありがとう。賢者セレディーネが年相応の乙女の顔で、真紅の鱗を持つ巨竜の頭を撫でる。ごろごろと喉を鳴らし、セレディーネ殿の白魚の手に額を擦り付ける竜はまるで愛玩動物のように人馴れしている。
 どうすれば、死なぬ魔王を倒せるのだろう?
 魔王を倒してくれる者。世界を平和にしてくれるだろう存在。どんな不可能も可能にしてしまう奇跡を体現した存在。平和な未来に繋がるならばと、人々が命を散らしていく。全ての人々の希望がたった一人の青年の肩に重くのし掛かっている。
 ぽつりと、頬を滴が伝う。暗く蓋をされた空から雨が落ちてくる様に、言い様もなく息が詰まる。
 この状況で、平和な未来などやってくるのか?
 それでも、心の中で縋ってしまう。
 勇者。浮かんだ言葉に俺は苦々しく噛み締めた。