私たちが息をする場所 - 後編 -

 
 人生が一変した幼いあの日程、自分が無力だと思った事はない。
 エレノア様は歳の離れた自慢のお姉さん。さらりと風に摘み上げられて一本一本が黄金色の光を流す髪の美しさに、幼い私はとても憧れて髪を伸ばした。ダンスの時にふわりふわりと広がるドレスの美しさ、背筋が伸びて指先まで行き渡る所作の美しさは今思い返しても最高の手本だ。大きくなるお腹を愛おしげに摩る様子に嫉妬したけれど、『この子のお姉ちゃんになってあげてね』なんて言われて、鼻の穴を大きくして夢中で大きなお腹の中にいるエレノア様の赤ちゃんに話しかけた。
 わたしが あなたの おねえちゃんよ。あなたは わたしが まもってあげる!
 赤ちゃんが産まれて誰もが幸せになると疑わなかった日、世界は一変した。
 恐ろしい事が立て続けに起きて、気がついた時には私は赤ちゃんが眠る籠を抱えたエレノア様に手を引かれて森の中を走っていた。夜の森なんて知らなかった私は、真っ暗で雨が降って冷たくて、でこぼこして、びしゃびしゃと黒い泥が顔に跳ね返って気持ち悪くて泣きたい気持ちになった。大好きで強いお父様がどこからか現れて、私を抱き上げて柔らかい毛布で包んで欲しかった。
 でも、声を出してはいけない。
 恐ろしい存在が私達を追いかけていた。
 その闇は馬に跨った首無しの騎士の姿をしていたと思えば、縄張りに踏み込んだ侵入者に襲い掛かる魔物を獣の姿になって八つ裂きにした。影はいくつもの追手に分かれて、森に逃げ込んだ私達を見つけ出そうと駆け回っている。どかどか。がさがさ。諦める様子はない。
 マルティナ。よくお聞きなさい。
 顔を寄せたエレノア様は雨除けのフードはぐっしょりに濡れて、光の下では金色に見える榛色の髪が白い肌に張り付いていた。ドレスは雨と泥に汚れて体に張り付いて、赤ちゃんの為に張った胸が浮き上がっている。
 雨除けの布の下から赤ちゃんが眠る籠を引っ張り出すと、静かに私の胸に抱かせた。大きな翠の瞳の目は閉じられて、ふさふさと榛色のまつ毛が目元を覆っている。つんと尖った鼻筋にむにむにと動く可愛らしい口。もう何度も私の手を握った小さい左手には、勇者の紋章がうっすらと浮かび上がっていた。真っ白いお包みに包まれて眠る赤ちゃんから顔を上げた私を、怖い表情のエレノア様が見下ろしていた。
 私はこのまま森の奥へ駆けます。マルティナはその子と反対へ走るのです。
 それが何を意味するのか、幼い私は漠然としか理解できていなかった。悲壮な決意を固めたエレノア様は、赤ちゃんのおでこに口づけして柔らかい頬を撫で、小さな手に冷え切った指を添えた。ぎゅっと握った熱に愛おしげに目を細め『ごめんなさい、レナート』と囁く。
 遠くから追手がこちらに向かってくる音が近づいてくる。エレノア様は勢いよく立ち上がると、私達を振り切るように背を向けて駆け出した。生い茂った葉っぱをがさがさと音を立ててかき分け、枝を踏み折った音が雨の音を弾いて響く。人が通っただろう道らしい場所に出て、森の奥へ向かって瞬く間に消えていく。
 赤ちゃんを抱きしめて座り込んでいた私達の頭上を、追手が繰る馬が地響きを立てて駆け抜ける。それが森の奥へ消えて行って、私はエレノア様が私達を逃す為に囮になったのだと分かった。そして、人の足が馬より早くない事も知っていた。エレノア様は追いつかれ殺されてしまうのだと、寒さとは違った震えが全身を揺さぶり上げた。
 溢れて雨水と混ざり合う涙を拳で握ると、頬をじゃりっとした砂が擦っていった。
 わたしは レナートの おねえちゃんだ! わたしが レナートを ぜったいに まもらなくちゃ!
 幼い私の決意は、私の弱さで果たす事はできなかった。
 私は赤ちゃんを手放してしまった。絶対に守ると誓った赤ちゃんを、私は守る事が出来なかったのだ。
 ロウ様は私を責めなかった。濁流に消えて行った産まれたばかりの孫の死を嘆くよりも、運良く川岸に引っかかって助かった私を抱きしめて喜んでくれた。初孫をあんなに喜んでいたロウ様が、心から愛した娘夫婦の家族の話題を一切しなくなったのに心が引き裂かれ沈黙が重石のように沈み込んでくる。
 エレノア様は例え私と赤子が助からないとしても、追手を引きつけ囮となって、少しでも子供達が一秒でも長く生き延びる可能性を生み出す為に最善を尽くした。
 エレノア様が犠牲になった事。赤子を守れなかった事。それを、責める者は誰もいない。
 それが、どんなに辛いことか。
 自分の無力を呪うしかない。その呪いを自分への怒りに変えて、己を苛め抜いた結果が今の鍛え抜かれた体と死を恐れず魔物を翻弄し討伐する戦い方になった。しかし、死ぬ事はロウ様から固く禁じられた。エレノア様が命を懸けて守った私の命を、粗末にしてはならないと戒める。
 息苦しさが、鎖のように私を雁字搦めにする。
 しかし目の前で背を丸めるフェリナ姫の鎖は、己の病弱な体だろう。
 グランゼドーラ王国の第二子であられるフェリナ姫は、名前を授けるよりも早く棺桶が用意されたと逸話のある病弱な姫と言われていた。艶のない白髪を結い上げた小柄で痩せた体は、貧困街の少年を彷彿とさせる。朝に一瞬だけ見られる淡い紫色のローブの裾から覗く手足は、骨に皮を貼り付けたようで、夜霧のような死を彷彿とさせる青白い肌色だ。痩せたお顔には、極上のサファイアを思わせる濃い蒼い瞳は大きすぎてバランスを欠く。寝床から起き上がる事すら難儀する彼女が、こうして自室から出ているのを兄のアルヴァン様が聞いたら満面の笑顔で喜ばれる出来事に違いない。
 今、フェリナ様は刺繍をしておられた。
 刺繍は淑女の嗜みであるのは世界共通だ。この魔法が発達した世界において、刺繍はただの飾りではない。魔法陣が書かれた巻物を読み上げれば魔力が少ない者でも呪文が発動させられるように、正確に刺繍された魔法陣は効果を発揮する。死の呪文を防ぐ魔法陣を縫い込めばザギを防ぎ、メラ系の魔法陣が縫い込まれた肌着は寒さから持ち主を守る。解毒の魔法陣を縫い込んだ布を傷口に当てれば炎症を防ぎ、癒しの魔法陣は治癒力を高める。
 二つ目の神話で兄の無事を祈り、呪いすら弾き返す刺繍を施す妹姫の物語は淑女達が針を持つ時に必ず聞かされる。私はホメロスに白馬を見せてもらえるって舞い上がって、全然聞いていなかったけれど。
 刺繍はフェリナ様にとって、数少ない王国への貢献であった。
 休み休み時間を掛けて完成させるが、その完成度は親愛なる勇者と憧れの盟友に捧げられた程だ。全く刺繍のできない私から見れば、緻密で繊細な糸遣いと、センスの良い色選びは勇者に捧げる逸品に相応しかった。
 技術もセンスも確かなフェリナ様の手は、絡みついた鎖に小刻みに震えていた。普段なら疲れたら直ぐに横になれるベッド上での作業になるのに、今日は針子達が集まる部屋で他人と作業をしているのだ。クッションが敷かれている椅子に座っているが、ずっと同じ姿勢で休まず数時間と作業をすれば疲れが出るのは当然だった。
 もう、お休みされるよう声を掛けねば。身を乗り出した私より早く、震える指先を華奢な手が押さえた。
「フェリナ様。作業をお止めなさい」
 はっと顔を上げれば、フェリナ様の目の前にこの部屋の主人が立っていた。
 勇者アルヴァンの婚約者である、ファルエンデ王国の王女ヴィスタリア姫だ。曇りひとつなく磨き抜かれたティアラで飾った、香油で艶やな榛色の御髪は美しく巻かれ、ふんわりと白磁の頬に触れておられる。服は動きやすさを意識した染色されていない白無地のドレスだったが、レンダーシアで最も高貴な女性に相応しい最高級の絹とフリルがあしらわれた逸品だ。腰に留められた大きな藤色のリボンが、彼女の高貴さを誇るように鮮やかに部屋に君臨する。
 本来ならグランゼドーラ城の最上階にある、勇者アルヴァン様の私室と同じ階に与えられた部屋で過ごすレンダーシア指折りの貴人だ。しかし、ヴィスタリア姫は自ら作業部屋に籠り、選び抜いた針子達と共に鉄には実現できない布製の防具の指揮を取っていた。彼女は糸の素材、染料がもたらす魔力との親和性、布の織り方、そして刺繍で施す魔法陣まで計算した、最高の一品を作り出す芸術家でもあった。
 部屋で絶え間なく響いていた機織りの小気味良いリズムも、糸を紡ぐ音も、糸と布が擦れ合って刺繍する囁きも、息を顰めるように止んでしまう。
 あ。あ。青い顔で喘ぐフェリナ様の、か細い声が響いた。
「ヴィスタリア様。私は、まだ…」
 凍えるように震える体を抱きしめ食い下がろうとする義理の妹になるだろう娘に、『まだ?』と落雷のように声が落ちる。ぐらりと傾ぐ体を咄嗟に支えた。
「そんな乱れた刺繍で、『まだ』何だというのですか? 刺繍はお守りではないのよ?」
 ヴィスタリア様の指摘は正しい。私の目から見ても乱れた刺繍では正しく魔法が発動できず、結果着用者が不利益を被る事になるだろうと分かる。フェリナ様が一生懸命作り上げたものだからと、被った不利益を強いるのは無責任というものだ。この作業部屋を預かり、針子達を束ねるヴィスタリア様が兵士達を守る武具を作っているという矜持から出たお言葉に反論の余地はない。
 フェリナ様の呼吸が浅く早い。
 病弱で満足に日常生活すら営めぬ、兄と違って王国の負担でしかない己が唯一認められた刺繍。それを取り上げられる事の屈辱が、ぎらぎらと命を燃やす瞳の輝きに見て取れた。
「ヴィスタリア様は、なぜご自身の刺繍を勇者と盟友に捧げなかったのです?」
 フェリナ様の問いに、人形のような微笑みを浮かべた顔がゆっくりと瞬きをする。淡い紅を塗った唇が、何の感慨もなく淡々と答えを紡ぐ。
「刺繍の出来が拮抗しているなら、想いが強い方に軍配が上がるというものです」
 嘘よ! フェリナ様が声を荒げた。
「出来の悪い守りを持たせて、兄様やカミルが危機に陥ればと望んだのでしょう!」
 お針子達が息を呑み互いに顔を見合わせた。
 産まれた時より勇者であると定められたアルヴァン様には、婚約者候補は存在すれど確定はしていなかった。不死の魔王との戦いで、勇者の伴侶として狙われる危惧を避ける為とされている。そんな中で、ファルエンデ王国の王女との婚約が唐突に決定したのだ。
 その頃、ファルエンデ王国では最も王位継承に近かった王子が身罷られ、後の盟友となるカミル様がオーガ族の国の武闘会で勇者アルヴァンに引き抜かれグランゼドーラにやってきている。亡くなった王子も同じ武道会に参加していたのもあり、カミル殿が王子を殺したのではないかという噂が、まことしやかに囁かれている。
 様々な憶測が流れる中で、グランゼドーラとファルエンデの同盟強化の為の婚約であると公表される。勇者の国との関係強化と後の勇者の血筋に己の血統を混ぜたい思惑が渦巻く中、ファルエンデ王国が勇者の伴侶の座を得たのだ。
「フェリナ様、憶測は慎みなさい」
 今、私を含め誰もが聞き耳を立てているだろう。
 城内の噂は枯れ草に火を放つが如く燃え広がり、火傷で済めばいいが火達磨になりかねない。大声で真実を述べたとしても、噂好きな針子達が好みの脚色を加えて囀る事だとて考えられる。フェリナ様の激情が迸らせた発言は、まさに噂好きな者達が望んだ付け火だった。
 ヴィスタリア様はどう返答されるのか。
 噂の信憑性が増す材料が、勇者の婚約者の口から語られようとしているのだ。固唾を飲む音が聞こえてきそうだった。
「もし貴女の憶測が正しいのなら、私の刺繍が私の婚約者や盟友の元に渡った事でしょう。恨みや妬みは呪いとなって、持ち主に悪き結果を及ぼすものですからね」
 温度のない真実だけを告げる声が、フェリナ姫に凍える息となって吹き掛かる。
「貴女が従者を使って、カミルを唆かそうと…!」
 ついに倒れ込んだフェリナ様の肩を抱き、過呼吸気味の呼吸をゆっくりするよう促す。これ以上何を言っても、勇者の妹姫のお言葉は誰の心にも届かないだろう。もし、彼女が望むように肯定する意思があったとしても、王国に技術を捧げる勇者の婚約者が人類に不和を持ち込むとは思えない。ヴィスタリア様のお立場なら、とっくに如何様にも出来た筈なのだから…。
「この場で作るお国を護る多くの兵士達に行き渡らぬのは残念ですが、貴女の刺繍は貴女の想い人に捧げるべき逸品でありましょう。ご自愛なさいませ、フェリナ様」
 労わりの言葉を紡ぐヴィスタリア様のお顔には、侮蔑も嫉妬も浮かんでいなかった。耳触りの良い言葉を如何様に受け取ったのか、お針子達の中には暗い笑みを漏らす者もいた。
 可哀想だが、お疲れで狂言を言ってしまったと片付けた方が丸く収まるだろう。務めて柔らかく優しく、フェリナ様のお耳に囁いた。
「フェリナ様。お部屋でおやすみになりましょう」
 羽のように軽い体を扉へ向け、暇乞いをする。ヴィスタリア様の声掛けで作業が再開された室内で、退室する私達に気を掛ける者は誰もいなかった。過呼吸にふらつく体を抱えながら、私達は王族の居住区手前の小さな部屋に入った。兵士が警備する区画から外れた小さな部屋が、勇者アルヴァンの妹姫フェリナ様の私室なのだ。
 それはフェリナ様が望んだ事だった。
 兄の婚約者に部屋を譲り、自身は物置だった部屋に身を寄せておられる。
 勇者の兄と違い、いつ儚くなるともしれぬ病弱な妹。指揮で忙しく中なにくれと顔を見せる王も、息子の無事を祈って聖堂に籠りきりでも茶の時間を作ってくださる王妃も、戦場から戻れば必ず足を運んでくれる兄も、フェリナ様を大切にしてくださっている。しかし、時代は魔王との戦争の最中。フェリナ様はなるべく、家族の、そして王国の負担にならないよう息を顰めるように生きておられた。
 部屋の隅に置かれたベッドにフェリナ様を横たえると、部屋に控えていた侍女が暖炉に薪を焚べて火を強めた。窓のない部屋はどこかカビ臭く、警護を担当するようになって清掃をこまめに行っているが埃っぽさが拭えない。テーブルの上に置かれた一輪挿しの花瓶には、私が庭から摘み取った小振りな薔薇が挿されている。
 侍女のカティーラに目配せすれば、心得たと小さく頷かれる。
「フェリナ様。お医者様からお薬をいただいて参ります」
 薪が爆ぜる音に混じって、フェリナ様の嗚咽が聞こえた。細い手で顔を覆って震える肩にショールを掛ければ、か細い苦悶の声が指の合間から溢れてくる。
「ヴィスタリア様のような女性が出来る事すら、できないだなんて…」
 病弱であるが故に世間を知らぬ傲慢さと、身が焦がれるほどの焦燥感から嗚咽が聞こえる部屋を後にした。
 武術の心得のある女性を貴人の護衛に付けたいと王国に雇われたが、実際にはフェリナ様の侍女紛いな事もしている。魔王との交戦中の非常事態では仕方がないと言いたい多忙な城内を慮るフェリナ様は、最低限の世話だけでいいと専属の侍女はカティーラただ一人なのだ。グランゼドーラ城はレンダーシアで最も警備の厚い場所である為に、警護の仕事が暇な私も人数に加えてフェリナ様のお世話を手伝っている。
 薬の包みと茶器と水差しを乗せた代車を押して、フェリナ様のお部屋に向かう私に突然声が掛かった。
「マルティナ嬢。丁度良かった」
 振り返れば、先ほど話題に登った人物に目を見開く。
 ヴィスタリア様の従者であるヤスラム殿が、両手に紙袋を持って歩み寄ってきた。灰色の髪に黒い瞳の整った顔立ちの男は、女性なら誰もが頬を染める蕩けるような笑みを浮かべていた。暗い赤紫色に染めた格式高い衣類に身を包んだ男が、優雅な仕草で紙袋を差し出してくる。
「我が領の二級品の茶葉ですが、本日のお茶にとヴィスタリア様より預かっております」
 受け取って中身を見ると、特注品なのか手書きのラベルが貼られた缶と、ほのかに温かい包みが入っている。この場で確認するのは失礼なので、礼を述べて台車に置かせてもらう。
 お待ちください、ヤスラム殿。一礼して去ろうとした貴人の従者を引き止め、周囲に誰もいないのを確認して囁く。
「貴方がカミル殿と良くない関係にあると、噂が流れております。お気をつけください」
 噂の発端がフェリナ姫である事も、ヴィスタリア様の従者であれば把握しているだろう。あの作業部屋に集まった針子達の口に戸を立てる事は、誰であろうとできないのだ。ヤスラム殿とカミル殿の挙動が、この城で注目を集める事になるのは必至だった。
 ありがとうございます。灰色の髪が慇懃に下げられて礼を述べる。
「強ち間違いではありません。私はカミル様より、内密で調査を依頼されているのです」
 私は思わず怪訝な顔になるのを、堪えることができなかった。
 カミル殿は勇者の盟友。不死の魔王との戦いにおいて、王国軍を率いる勇者の隣に立つ副将的立場の存在だ。カミル殿が一声命じれば、例え魔王城の間取りであっても調べる為に兵を派遣できる。
 ファルエンデ国の一従者に何を内密で調べさせているのか? きな臭い話だ。
「なぜ、お受けになられたのです?」
 盟友が内密にしている範囲はわからない。しかし国王や勇者にも秘密にしていた場合、内容によっては婚約によって強固になった同盟のみならず、勇者と盟友の絆にもヒビが入りかねない。
 なぜ? ヤスラム殿が小首を傾げた。
「私はカミル様の献身に感銘を受けております。美しい金髪と整った顔立ちの美しさが霞む、戦いの女神が降臨されたような雄々しいお姿。グランゼドーラの為なら喜んで命を捧げる献身を、私は余所者であるが故に尊く感じているのです」
 なるほど。勇者と盟友を信仰している民というのは存外に多く、ヤスラム殿もその一人なのだろう。直接盟友に頼まれればどんな条件でも呑んでしまうのも、致し方ないのかもしれない。
「だからこそ異邦人であるカミル様が、この国の為に殉じるだなんて哀れだと思いませんか?」
 女性が見惚れる甘い顔立ちが、尊敬とはかけ離れた想いに上気していた。
 恋は盲目というが、この場で話していい話題ではないだろう。
 確かにこの国は敗戦に向かっている。魔軍十二将との戦いで国土は荒れ果て、多くの民が死に絶えた。城内に魔王軍の軍勢が入り込んだ事もあり、勇者のお膝下であるグランゼドーラ城下町が明日にでも戦場になるだろうと言って冗談と思う者はいない。
 確かに、勇者と盟友は諦めずに不死の魔王と戦っている。
 それでも不死の魔王を倒す手段のない勇者に、勝ち目はないと誰もが心のどこかで思っているのだ。
 盟友カミルの献身が一際大きく取り上げられるのも、彼女がレンダーシア出身の人間ではないからだ。遥か遠き他種族の大陸からやってきた異邦人が、人々の為に戦い続ける事を王国は美談として大きく取り扱っていた。だからこそ、レンダーシアから脱出するかもしれない懸念は、欠片でもあってはならない。
 どれほど危うい話題をしているのか、自覚できていないのだろうか?
「ヤスラム殿。貴方の言葉通り、カミル殿は守るべき者の為に命を懸けれるお方ですよ」
 えぇ。そうです。その通りです。
 勇者の婚約者の従者が、やや興奮した様子で早口で肯定する。
「私はカミル様がグランゼドーラの為に、犠牲になるお覚悟を決めておられると確信しております。こんなにも国に尽くし、逃げる道を自ら閉ざし、果てに命を捨てるなんて、神はこの世界に居られないと呪わんばかりです!」
 なんなの。私の勘が警鐘を鳴らし、体が反射的に身構えるのを他人事に感じていた。
 ヤスラム殿の中では、カミル殿は死ぬ事とされている。確かにグレイグから聞き及ぶ最前線は危険極まりなく、デルカダールの将軍を務める彼が幾度となく命の危険を感じた激戦区だ。勇者と肩を並べる一流の剣士にして、盟友として特殊な力に目覚めたカミル殿とて命を落とすやもしれぬと思うのは仕方がない。
 それでも勇者と盟友は人々の希望だ。死ぬだなんて縁起でもない事を、思ってすらいけない空気がある。私は息の荒いヤスラム殿を落ち着けようと、殊更穏やかに言葉を返す。
「落ち着いてください。あのカミル殿が死ぬだなんて、あり得ぬ事でしょう」
 いいえ。死にます。ヤスラム殿がきっぱりと断言した。
「私は見つけてしまったのです」
 そして改めて周囲に人通りがない事を確認して、彼は『ここだけの話ですが…』と声を潜めた。
「勇者の勝利に必要な、不死の力を封じる秘術の所在を…」
 勇者が何度致命傷を与えても瞬く間に回復していった為に、魔王は不死であると言われていた。その力を封じる事ができる。グランゼドーラが待ちに待った福音と呼べる朗報の筈だった。
 しかし私には、悪魔の囁きに感じてならなかった。