剣は正義の名の元に - 前編 -

 
 盟友カミルの存在は、非常に疎ましいものでした。
 勇者アルヴァンと並び魔王と戦う勇ましい女剣士。どんな恐ろしい魔物もその鋭い剣戟に平伏し、どんな狡猾な魔物の企みをも見抜く明晰な観察力を持つのは、世界中を旅した叩き上げの剣士からくる経験でありましょう。勇者の隣に盟友あれば、不死の魔王にすら負けはせぬと人々に希望を与える不動の実力。洗練された剣技から生まれる美しい所作は、生まれながらに王子であるアルヴァン様に引けを取らないでしょう。
 目深に被った白いフードの下にあるのは、戦乙女と呼ぶに相応しい整った美貌。魔物の鮮血がより際立つほどに白い肌。金色のまっすぐな髪は、手入れをすれば絹糸もかくやとなりましょう。勇者に向けた敬愛に溢れる瞳を、疑う者はいない程に美しい碧。
 そんな碧が困惑で揺れ動いている様を見るのは、ころころと笑い声が漏れる程度に愉快な事でした。エンタシスマンの掲げる燭台の明かりが、浸水した水面に火花を散らす中、発光する程の純白の衣が膝を着く。のっぺりとしたフードが深々と額付いたのです。
「ヴィスタリア様。この場は大変危険です。どうか、お戻りを…」
 あら。わたくしは己の頬を指先でなぞりながら、視線を空間へ向けました。
 ヤスラムが突き止めた不死の力を封じる秘術が隠されし神義の護堂は、悠久の年月封鎖されていた関係で魔物の姿はとても少なかったのです。何処かから入り込み繁栄する種もなく、この護堂に息づくのは護堂の機能として配置させられた物質系の魔物が殆どです。そんな魔物達も与えられた使命か契約か、正規の手続きで侵入した我々が目の前を悠々と歩こうが害する事はないのです。この闇に泥濘んだ空間で、魔物に追われた蜘蛛や鼠や蝙蝠などの生き物達が微睡んでいるようでした。
 それよりも目を奪われるのは静謐な護堂を神秘で彩る、鮮やかな魔法陣の輝きですわ。カミルが封印を解く際に唱えたアバカムの呪文が、護堂内全域に広がるアバカムの魔法陣に反応したのです。真っ黒に沈む苔むした煉瓦の上を、妖精が舞った軌跡のようにキラキラと輝く魔法陣の線のなんと美しきこと。
 何が危険だと申されるのか、正直理解に苦しみますわ。 
「百戦錬磨の盟友様は、一人の娘も守り通せぬと申されますの?」
 ぐっとカミルが言葉を飲み込んだのが、純白の絹地の照りでわかってしまいます。
 それはそうでしょうね。この世界で最も安全とされるグランゼドーラ城内であれば守る必要もないのに、従者のヤスラムだけを伴いグランゼドーラから飛び出したか弱き姫など赤子同然の弱さ。勇者と盟友に心酔する民ならば『安全な所へ戻りなさい』と一声掛けるだけで、素直に応じて帰っていくのでしょう。
 しかし、わたくしはファルエンデ王国の姫にして、勇者アルヴァンの婚約者であるヴィスタリア。地位が高いが故に命令はできず、懇願での説得をいかに彼女が手間に感じているかが手に取るようにわかりました。
 当然、未来のグランゼドーラ妃となる者として、誉められた行動ではないのは分かっています。彼女の進言を受け入れ、城に帰る事が魔王と戦争をするグランゼドーラの国益になる事も理解している。だからこそ、それに言及せず意地の悪い言葉を返すのです。
「図星のようですわね。先日、身を挺して守るべき勇者を負傷させてしまったのは、他ならぬ貴女ですものね」
 その言葉にカミルの額が床に擦り付けられる程に下がる。
「勇者を守るべき盟友の役目を果たせず、逆に守っていただくなど申し訳もございません」
 グランゼドーラ王国の南東の海上に出現した魔王城に魔物達が集結し、総攻撃の準備をしている事を魔軍十二将は隠しもしない。勇者アルヴァン様と盟友カミルは、それぞれペガサスと飛竜に跨り偵察を重ねていました。先日、魔物に気取られ戦闘となり魔王城に踏み込み、魔軍十二将を蹴散らし不死の魔王に深手まで追わせたものの致命傷は瞬く間に完治し撤退に至ったのです。
 たった二人で魔王に挑む。
 エメリヤ妃が顔を真っ青にして叱責した程の、無謀な行動でしょう。王の三歩後ろに控える淑やかな王妃が声を荒げたのも、アルヴァン様が怪我を負って帰還したからです。さらにその傷の原因が不死の魔王から盟友カミルを庇った為と聞けば、怒りのあまりに昏倒してしまわれましたわ。
 致命傷ではないにしろ、決して軽傷と軽んじられない傷。
 アルヴァン様は『魔王城を掻き回したので暫くは総攻撃はないでしょう』と、朗らかな声で休息を取ると宣言したのです。勇者にも休息が必要であると常々考えておられたジュテ王も、カミルへの叱責の言葉を飲み込み下がらせました。
「勇者に迷惑を掛けぬよう、より一層己を律すると誓います」
 慇懃に紡がれた言葉に込み上げた苛立ちを、どうにか飲み下す。腹に力を込め背筋を伸ばし、頭を垂れるカミルを見下ろしました。
「アルヴァン様を見捨て、ヤスラムと逃げようとしたのではと疑惑を抱きました。しかし、こうして護堂に足を踏み込んだ貴女が、勇者の為に行動している事は信じましょう」
 ちらりと背後に控える従者を睨みつければ、優男の顔が狼狽でみっともなく崩れました。
 グランゼドーラの南の玄関口である三門の砦を西に抜けた海岸には、他種族が暮らす五大陸とを往復する船が満月の夜にやってきます。ヤスラムがカミルに愛の告白をした事は、すでに城下町で噂となっていました。満月が近づく頃に城を離れれば、駆け落ちの疑いも増す事でしょう。
 わたくしの従者と盟友が不死の魔王を目の前に駆け落ちなど、主人である わたくしこそが許してはならないのです。グランゼドーラとファルエンデの不和によって戦線が崩壊し、不死の魔王の軍勢が雪崩混んでくるなどあってはならない。
「しかし、わたくしはヤスラムの主人として、勇者アルヴァンの婚約者として、貴女が秘術を見つけたという朗報をもたらすまで見届ける義務があります」
 不死の魔王を討伐できなければ、この世界は滅びてしまうのです。不死の力を封じる秘術を手にする事は、勇者を筆頭に全ての人々の悲願でもあります。
 わたくしは膝を折るカミルの脇を通り抜けて、先に進む。
「時間が惜しいですわ。先へ参りましょう」
 床は長らく封鎖されて風通りが悪かったからか、石畳の上は満遍なく苔むして滑りやすい。カミルは抜き身の剣を片手に持ちながら、利き手でいつでも わたくしを支えられるよう横を歩いていました。階段が上下に貫く吹き抜けをどこからか染み込んだ水が滝になって流れ落ち、水没している水面には魚が悠々と泳いでいる。ぴちゃんぴちゃんと奏でる水滴が護堂の構造によって反響し、終わらぬ演奏会が続いていました。
 アバカムの光量は わたくし達を導くように広がっていました。
 秘術を封じる空間へ向かう方角から外れようならば、一段と暗い闇が行手に広がっているでしょう。秘術へ向かって足を進める程に、日差しの中のような眩さになっていくのです。
 そして辿り着いた場所は、壁に埋め込まれるように騎士と賢人の石像が並んだ円形の空間でした。騎士が光る盾と剣を装備し、賢人は杖を掲げて、この空間にやって来た者を品定めするかのような威圧を放つのです。石像の表面を覆う紋様一つ一つが魔法陣の一部。騎士や賢人は万華鏡のように、同じ時が一時も存在しない光に彩られていました。
 そしてアバカムの魔法陣の中枢に、純銀の鎧を纏う騎士が立っていました。その体越しに反対側の壁にある賢人の石像が透けて見えていたが、素晴らしい技術の粋を集めた緻密な装飾の杖は本物のような存在感を放っていた。
『全ての力を封じる秘術を求める者よ。我に力を示せ…』
 背に冷たい刃を突き立てられたような、不気味な死者の声に身震いしてしまう。しかしカミルは臆する事なく進み出ると、雄々しく剣を掲げ声を張り上げたのです。
「今代の勇者アルヴァンの盟友カミル、推して参る!」
 それから先の戦いは、ファルエンデで見たどんな試合よりも激しいものでしたわ。武勇に秀でた兄様が率いる王国軍は、レンダーシアでも屈指の練度を誇るもの。王国軍を率いる兄様が決勝で相手となる一戦は、ファルエンデ最高の試合であり、素人のわたくしでさえ息を呑む剣戟の応酬でありました。
 そんな試合すら色褪せる、鋼同士が撃ち合い火花が爆ぜる鮮やかさ。女性の細腕で守護者の渾身の一撃を点でもって穿ち抜き退ける正確無比の軌跡。ギガスラッシュの閃光は盟友の気迫を物語っていました。
 カミル。盟友を見る目に憎悪が宿り、拳に力が篭るのを堪えられなかった。
 勇者アルヴァンに命を救われたと言われていますが、その時のカミルは命の危機になど瀕していなかった。目の前の彼女を見ればわかる。父が首を落とせる存在ではない。勇者アルヴァンの為に命を捨てる事を厭わぬ彼女だが、王国や名誉の為に命を捨てる世界に彼女は属していなかった。彼女が自らの命を惜しんだならば、数多の戦士を跳ね除け勇者アルヴァン様さえも振り切って逃げる事など容易かったに違いない。
 そんな彼女が美しい顔を必死に歪めて渾身の力を振り絞る。魂を燃やす彼女を見ていると、苛立ちに体の震えが止まらなくなる。
 瞬きを忘れて乾いた目にヒビを入れるように激しい閃光が走り、音が止みました。
 一撃をすれ違い様に叩き込んだのか、背を向け合った盟友と秘術の守護者。光が落ち着き闇が頭上からふんわりと帳を掛けてきたと自覚する頃、守護者の手からからりと杖が落ちて床を転がったのです。見事なり。そう感嘆の声を漏らして、守護者が片膝を付いたのです。
 カミルは剣を納め、ゆるりと立ち上がった守護者へ頭を垂れた。
『其方の覚悟、太刀筋よりひしひしと伝わって来た。二つの対となる秘術を授けるに相応しい』
 差し出された手甲からこぼれ落ちた光をカミルが受け取ると、光は凝縮して一つの宝玉となったのです。宝玉はまるで水と油が混在しているように、黒と白い部分がとぷりとぷりと揺れ動いていました。天と地、水と気泡、どんなに揺れ動かしても混ざり合うことはないようでした。
『一つ目の秘術は邪魂の鎖。この世界に存在するありとあらゆる力であっても、この鎖がもたらす封印から逃れる術はない。それが可能になるのも、邪魂の鎖が術者の魂から生成されるからである』
 はっと顔を上げた瞬間には、鍛治の炉の炎のような熱が放たれた後でした。秘術を封じ込めた宝玉を破壊する為に放たれた火炎の球は、身を挺した守護者によって掻き消える。無数の光の粒となって消えていく守護者の向こうで、カミルが剣を抜いてこちらへ身構えたのです。
 凄まじい獣と血の匂いに振り返ろうとして、ゴワゴワとした毛皮のようなものに覆いかぶされる。頬に冷たく鋭いものが這った。
「貴様はジャミラス!」
 ジャミラス。魔軍十二将の中でも、知略に長けた『智将』の二つ名を得ている魔物。その魔物は器用にも わたくしを抱えながら、慇懃に会釈をしてみせたのでしょう。わたくしの白いドレスの前に夥しい血を吸って硬くこわばった羽根がぞろりと広がり、硫黄のような禍々しい凹凸が見えるほどの至近距離に わたくしをひと呑みにしそうな嘴が見えたのです。
『盟友に恋焦がれるヤスラムを演じるのは、楽しかったですよ。しかしこの姫がファルエンデから輿入れした時から入れ替わっておりましたが、王と王妃をくびり殺し、病弱な妹姫を陵辱の果てに殺し、兵士達を皆殺しにする栄誉が与えられぬ日々は鬱屈したものでしたが…』
 ヤスラムに化けていたジャミラスがねっとりと語りながら、わたくしの頬を爪先で撫でていく。
「姫に擦り傷一つでもつけたら、即刻首が落ちると思え!」
『私達は不死の魔王様のお力で何度でも蘇ります。死など、瑣末な問題です。あぁ、それでも盟友の鋭い剣は怖いですねぇ。手の震えが止まりませんよぉ』
 大袈裟に震え上がって見せながらも、ぐっと顎を掴む手に力が込められて、わたくしは思わず呻き声をあげてしまいました。それを見て、カミルが剣を足下に置いたのです。
『あぁ、未来のグランゼドーラの王妃様の為に命を危険に晒すとは、なんという献身なのでしょう! 敵ながらに胸が打たれてしまいます』
 しかぁし。ジャミラスの舌が わたくしの頬を舐めて来て、あまりの生臭さに目をきつく閉じる。ヤスラムの時は口臭なんか気にならなかったのに…!
『我が主君、不死の魔王様は血が湧き肉踊る闘争をお望みです。その闘争に水を注す秘術を、ぜひ私にお預けください』
 秘術が封じられた宝玉が宙を舞い、ジャミラスは手に取ると恭しく頭を下げた。丁寧に礼を言うが、わたくしを拘束する手が一向に緩まないことは感じていました。武器を手放され、勇者の勝利に必要な秘術を明け渡され、なすがままの盟友。この卑劣な魔物が次に望むことなど、想像に容易かったのです。
「待ちなさい、ヤスラム。いいえ。智将ジャミラス」
 勇者の勝利と わたくしの命を天秤に掛けた盟友に、わたくしは激しい憤りを隠しませんでした。
「ここでカミルが亡き者となれば、盟友の名誉は地に落ちるでしょう。兄の命を奪い、英雄と誉めそやされる女を憎く思っていたけれど、貴方のお陰で溜飲が下がったわ」
 ヴィスタリア様。辛そうに口元を引き結ぶカミルを、冷ややかに見る。
「ヤスラムとして一時でも仕えてくれた身。一つ、わたくしのわがままを聞いてはくれないかしら?」
 側頭部に触れていたジャミラスの頬が、にまりと笑みで動いたのを感じました。
 なんなりと、ヴィスタリア様。
 そう背後から手を回され会釈する大鳥の化け物を侍らす姿は、まるで邪悪な魔女でしょうね。そんなことを考えながら、護身用の短剣を引き抜いた。
「わたくしがカミルを殺したいの」
 傍仕えのヤスラムに散々カミルへの苛立ちを零していただけあって、わたくしがカミルを殺したいと言う言葉を疑いもしない。こんな小娘が剣を持ってもスライム一匹殺す事ができない、例えジャミラスに剣を向けたとしても簡単に首を刎ねる事ができるという驕りもあるのでしょう。
 仰せのままに。
 よく研がれた護身用の短剣に映ったジャミラスの満面の笑みは、一生忘れることのない邪悪なものでした。両手に短剣をしっかりと持った わたくしの手の上から、大きな羽がついた手が添えられる。
『ヴィスタリア様のお力では、殺害に難儀されるでしょう。僭越ながら、私がお手伝いいたします』
 咽せ返るほど甘ったるい声に、礼を言って一歩を踏み出す。
 わたくしの小さい足幅に合わせて、ジャミラスもついて来た。こつ。のし。こつ。のし。二つの重さの明らかに違う足音が、まるで拙いダンスを踊っているかのように歩を進める。足元の石畳が中央に向かって円を描いて狭まって、遺跡の中心である要の石が迫る。要の石は丸い宝玉で、束ねられた遺跡の光を静かに蓄えていました。
 丸い宝玉に爪先を引っ掛け
 かこん。
 軽い音を立てて、要の石が外れて転がっていったのです。
 ぶつん。まるで夜の帳が音を立てて落下したように、護堂の光が消え失せたのです。な。戸惑ったジャミラスの声は、次の瞬間、驚きの声に変わる。
『ない! 秘術を封印した宝玉が! どこに? どこにいった!』
 そう。この神義の護堂は、全ての力を封じるとされる秘術を封印する為に作られています。護堂の入り口を開ける為にカミルが唱えたアバカムとは、鍵を解錠する呪文と知られていますが、元々は封印を解除する呪文でありました。そんな解除の術式が護堂の内部にまで深く組み込まれ、この中心部では魔法陣としてしっかりと描かれている。何を解除する為なのか。
 秘術の封印を解く為に、アバカムがあるとしたら。
 発動しているアバカムの力を閉ざしてしまえば、秘術も再び封印の状態に戻される。その予想は正しく。要の石が外れてアバカムの力が行き渡らなくなった空間で、秘術の宝玉は跡形もなく消えてしまったのです。それに動揺したジャミラスの腕から逃れ、わたくしは床の上に転がり言い放ちました。
「グランゼドーラの未来の王妃が命じる! 盟友カミルよ! ジャミラスを討ちなさい!」
「御意!」
 闇の中を煌めきが走った次の瞬間には、ジャミラスの断末魔の声が響き渡ったのです。

 把握な気配が消失し鼻が曲がりそうな魔瘴の匂いが薄れて、どれくらい経ったのでしょう。カミルが闇に呑まれた要石を拾い上げて戻ってきました。再び要の石を有るべき場所に嵌め込めば、秘術の宝玉が何事もなかったかのように護堂の床の上に転がっていました。宝玉を拾い上げたわたくしは、膝を折り額付く盟友を見下ろしていました。
「ヴィスタリア様。私めを殺すのを、待ってはいただけないでしょうか?」
「やはり、秘術を使って死ぬつもりなのですね?」
 邪魂の鎖は術者の魂から生成されると、秘術の守護者は言った。
 魔法使いが強力な呪文を唱えれば相応に多くの魔力が必要であるように、同じ魔法陣でも大きければ大きいほど効果が強いように、巨大な力であればある程に対価は大きくなる。現在は禁術に指定されているけれど、使い手の命や魂を対価に求める魔法も存在しているのです。
 この世界のありとあらゆる力。魔王が持つ不死の力をも含めて封じる事ができる秘術が、使い手の魂を奪う禁術であっても不思議ではありません。
 顔を上げたカミルは静かに肯定しました。
「不死の力さえ封じる事ができれば、絶対にアルヴァンは魔王に勝てるのです! 姫が望むならこの腕の一本や二本、目玉であろうと捧げましょう。どうか、命だけは…!」
 ぱんっ! 景気の良い音を立てて、わたくしの平手がカミルの頬を打った。
 はっと息が抜けるような声を漏らし、張られた頬に手を当てたカミルが わたくしを見上げています。わたくしはじんじんと痛む手のひらで秘術の宝玉を握りしめて、呆然と見上げる顔を睨め付ける。
「カミル。わたくしは謝らないわ」
 わたくしは何も悪くない。この腑が煮え繰り返るような怒りも、グランゼドーラで道化を演じるような屈辱も、婚約者の妹が向けてくる明らかな敵意も、全て目の前の女が悪いせいなのだ。
 この女が兄を殺さなければ、わたくしは兄様を失う事はなかっただろう。乱暴なところもあったけれど、わたくしにはとても優しい兄様だった。二人きりの兄妹で、死んだ事はとても悲しかった。この女がアルヴァン様に取り立てられなければ、命を助ける代わりに わたくしをアルヴァン様の婚約者にするという交渉は通らなかったろう。わたくしには好きな子がいたと言うのに、突然勇者と婚約するだなんて悲しい気持ちにさせられたわ。
 この女がもっと嫌な女なら、素直に憎めただろう。
 完璧な盟友たらんと修練に打ち込む姿を、夜遅くまで刺繍をしていた わたくしが知らないわけがない。口さがない異邦人への悪態を聞き流す切なさを、わたくしだって痛いくらいに理解している。
「貴方の事が大嫌いよ。わたくしに命乞いをする理由が国でも世界でもなく、アルヴァン様だと口走るくらい分かっているくせに…」
 ぽっかりと開いた口が、すっと息を吸った瞬間をわたくしは見逃さなかった。
「口を閉ざしなさい! 盟友としての悲願とか、勇者と共に不死の魔王を倒す使命とか、私情なんか一切ありませんなんて御託はね、うんざりするほど聞いてるのよっ!」
 何が勇者と盟友よ! 貴女がアルヴァン様に寄せる感情なんか、誰が見たって恋慕でしかないわ! 好きな男の為に死んだ目に生気が灯るのは美しいけれど、それを平和の為だ魔王討伐だと言い訳されて面白くないに決まってるでしょう!
 極め付けが、アルヴァン様の隣に立つ人物に、わたくしが相応しいと心の底から思っている事よ! 結婚しても心の底から喜んで仕える姿がありありと目に浮かんで、腑が煮えくり返ってしまいそう!
「本当に腹立たしいわ! いい加減、アルヴァン様を愛してるって自覚なさい!」
 わたくしが言葉を突きつけるも、驚きに凍りついた碧が見開かれたままだ。
 ふ。一つ息を吐いた次の瞬間、肩を震わせカミルが笑い出す。笑う。アルヴァン様やフェリナ様相手に微笑む顔は何度も見かけた事はあるけれど、笑い声を聞いた事は一度もない。口元に当てた手からはみ出る笑みの形に開いた口と、溢れる華やかな弾む声。細められた瞳に赤み注す頬は、わたくしが知る中で一番生き生きとした可愛らしい盟友の顔でした。
「…ヴィスタリア様もご冗談を言うのですね」
 かっと感情が迫り上がった瞬間には、淑女ならぬ声が迸る。
「冗談じゃないわ! 貴女はアルヴァン様を男性としてお慕いしているのでしょう?」「勿論、アルヴァンは勇者として以上に男性として大変魅力的です」「勇者と盟友の関係に身分も何もないでしょう! 『汝、告るが良い』と女神ルティアナ様も申しているでしょうよ!」「アルヴァンは身分も性別も関係なく、私を盟友だと頼りにしてくれる以上の回答がありましょうか?」
 永遠と続く押し問答。わたくし達を探しに来てくれたアルヴァン様は、拍子抜けした顔で言うのです。僕の盟友と許嫁殿は、いつのまにこんなに仲良くなってしまったんだい?ってね。
 二人揃って鈍感では、先が思いやられますわ!