剣は正義の名の元に - 後編 -

 
 勝利への光が見えた宴が、潮騒と混ざり合って聞こえてくる。
 グランゼドーラ城で最も奥まった場所にある私室は、この国で国王よりも大事な人物に当てられる。かつては妹のフェリナの部屋だったそこは、現在、僕の許嫁であるヴィスタリア姫が使用している。彼女が好む白と桃色を中心に整えたカーテンやリネンはドレスに仕立てるような一級品、花嫁道具である裁縫箱は外見は質素な白木のチェストだが、扉を開ければ螺鈿細工で飾り立てた宝石箱だ。この戦時下において、豪華過ぎず、ファルエンデ王国として恥じないよう心配られた品々。
 美男美女が多いと評判のファルエンデ王国の至宝が、指先まで洗練された所作で茶を飲む。憂を帯びたお顔は、まるで一幅の絵画のようだ。
「明朝には出立されるというのは、本当ですの?」
「賢者セレディーネ様の治療で傷跡すら残っていません。体調も万全です」
 先日、不死の魔王から受けた傷を心配しているのか、許嫁殿の真剣な瞳が腹部に注がれる。そんな彼女の不安を拭うように、僕は殊更元気に笑ってみせた。
「不死の力を封じる秘術を、カミルと許嫁殿が力を合わせ探し出してくれた。今、天は魔王と討伐すべしと全ての気運が高まっているのです」
 カミルに討伐されたジャミラスが復活するまでの間は、魔王軍は勇者が秘術を手にした事を知らずにいる。それを証明するように不死の魔王はグランゼドーラに向けて総攻撃を仕掛けるようだと賢者シュトルケ殿から報告があり、手薄になるだろう魔王城に乗り込み魔王を討つ絶好の機会ともいえる。
 勇者と盟友が魔王城に乗り込む事でグランゼドーラの守りは薄くなるが、各地の防衛拠点からできる限りの人員を集結させる事で耐え凌ぐつもりだ。不死の魔王が倒されれば、不死の魔王の力で蘇生されている魔軍十二将も瓦解するに違いない。
「許嫁殿。平和な時まで今暫くご辛抱ください」
 不死の魔王を倒し、世界に平和をもたらすまで後少し。勇者の本能なのか心が浮き立ち、声が弾むのが抑えられなかった。
 人々の恐怖に硬った表情をほぐしてきた笑顔だが、許嫁殿の顔は硬いままだ。
 なんだろう。
 言い様のない不安が、彼女の開いた真っ暗な口腔から不気味な手となって這い出してくる。
「アルヴァン様はカミルが使う秘術の事を、どこまで聞きましたか?」
「不死の力を含め、ありとあらゆる力を封じる事ができると、聞き及んでいます」
 人払いがされた部屋で、『そう』とため息のように声が漏れた。小さい花弁の唇が閉ざされて、純白のロングスカートのように広がった沈黙は、いつもなら聞こえる筈の波の声すら退けたようだ。互いの呼吸音、僕の心臓の音、そして彼女がそっと置いて擦れた陶器の茶器。
 アルヴァン様。許嫁殿が僕の名を呼んだ。
「わたくしと初めて会った時の事を、覚えておいでですか?」
 空になったカップにお茶を注いだ許嫁殿は、手の平を温めるようにカップを掬い上げた。ゆらゆらと揺れる紅茶の奥底を覗き込んでいた許嫁殿の藤色の瞳が、紅葉の睫毛を押し退け向けられる。許嫁殿は不思議なお方だ。無邪気に振る舞ったと思えば、全てを見透かしたような目で僕を見る。
 勿論です。そう答えながら、記憶が過去に向く。
 王族にとって他者が決めた婚約はよくあること。父も母も物心付いた頃に親が決めた許嫁同士だった。互いの子が婚約し、互いの血が混じって結束を深める行為を、レンダーシアに存在する王国や有力者達は何千年は言い過ぎではない年月繰り返していた。
 初めてお会いした許嫁殿は、乾いた目で僕を見ていたのが印象的だった。
「グランゼドーラが同盟を強化すべき国として、ファルエンデの優先度は低いのです。ファルエンデはグランゼドーラから遠く、現在直面している不死の魔王との戦いで疲弊した軍需を補う為に差し出せるものはありません」
 許嫁殿に礼を失してはいけないよ。アルヴァン。
 朗らかに笑みを浮かべながらも、有無を言わせぬ王の声で父は言う。
 愛を育むのは手を繋ぎ心を重ね共に足並みを揃えるステップにあると、レンダーシア一のおしどり夫婦の夫は語る。戦線が悪化しグランゼドーラにようやく戻れた時も、『身綺麗にしたら、許嫁殿にまず会いに行きなさい』と叱責されたくらい女性に気を配るよう言われている。もし、許嫁殿に礼儀を欠き、失態を犯したならばライデインが頭上に落ちてきたに違いない。
 時間が許す限り許嫁殿と共に過ごした。お茶の時間を設け、花を愛でる為に中庭を歩き、兵士の訓練を見に来ては許嫁殿手ずから守りの刺繍を施した肌着やハンカチを差し出していた。
 決して仲は悪くない。このまま婚約しても、良き夫婦であれると思っている。しかし…
「何か、礼を失する事をしてしまいましたか?」
 許嫁殿は遠回しに婚約破棄を匂わせている。
 喉が渇いていたのだろう。暖かい紅茶の香りが喉を焼くように通り過ぎ、胃を焼き尽くすような熱気が鼻に抜けていく。檸檬の酸味が痛む喉に追い打ちをかける。
 許嫁殿の瞳が真実を見据えたように、僕を捕らえた。
「貴方は兄上を殺したカミルの命を救う為に、ファルエンデ国王にとって魅力的な勇者との婚姻を対価に差し出したのですね?」
「違います!」
 僕は腰を浮かせ言い放った否定が、許嫁殿の前髪を浮かせた。
 『不死の力を封じる禁忌の秘術を、ついに手に入れました』そう僕の隣で父上と母上に報告するカミルの誇らしげな顔は、この果てなき戦争についに終わりが見えた希望と安堵に輝いてすらいた。秘術の入手に尽力した許嫁殿の話に及べば、父上も母上もこの国に嫁ぐ嫁の勇ましい逸話に驚きを隠さなかった。
 智将と名高いジャミラスを出し抜いた経緯を聴き終えた瞬間、父は『まことに天晴れなり!』と膝を叩いて賞賛した。淑女たる許嫁殿の大胆な行動は、勇猛果敢な父の琴線をかき鳴らしたようだ。
『二人が結婚すれば国は安泰。のぅ、エメリヤ?』眉尻を下げ、隣に座った母上に上半身を捻って笑いかける。
『勇者に相応しい、献身と勇気ある娘は他におりますまい。魔王討伐が成ったならば、立派な婚礼をあげるがよいぞ、アルヴァン』母上が嬉しげに頷いた。
 はい。しっかりと頷いた僕を睨めつけるのは、妹のフェリナだ。
 許嫁殿の歳は僕よりもフェリナに近いだろう。戦争に貢献できないとされた許嫁殿に、フェリナは何かと張り合っていたように見えた。いつも縮こまり隠れる妹が鮮烈な感情を顕にする姿に、刺激となった許嫁殿には一生頭が上がらないだろう。
 それに。きりっとした盟友を横顔に、初めて見た笑顔が重なる。
 僕ですら見た事がない、零れるような笑顔。初めて耳にする笑い声。普段から完璧な盟友であれと誰よりも己を強く律しているカミルが、誰よりも僕と共に過ごしているカミルが、年相応の娘のように笑う。兄を殺した相手を笑顔に変える許嫁殿の底知れなさに、嫉妬さえしてしまった。
 僕のお嫁さんはとんでもない人だ。勇者の伴侶とは、きっと許嫁殿のような方に違いない。
「許嫁殿! 貴女は僕の妻には勿体無いくらいの、素晴らしい女性です!」
 きっぱりと告げた先で、許嫁殿が花が綻ぶように笑った。そして肩を震わせ、口元を隠し、弾けるように愉快な声を上げた。喜んでいるとは思えない反応に、口を開けて見守っているうちに許嫁殿は滲んだ涙を拭って落ち着かれる。
「貴方とカミルは不死の魔王を討伐するまで、愛だの恋だの結婚だなんて気が回らないでしょう。ただ、婚約者がいるだけで煩わしい話題から逃れられるなら、わたくしは良い緩衝材になったのでしょうね。わたくしの役目は勇者のお役に立ち、グランゼドーラの勝利に貢献する事。十分に役目を果たしたと思っております」
 そんな事は…! 否定の言葉を迸ろうとした口に、ほっそりとした指が当てられる。
「もう、わたくしの心は決まっております」
 まるで不死の魔王の如き威圧に、ひゅっと喉に言葉が詰まった。口に当てた指に力を込められて背もたれに背を押しつけられた僕を見ると、許嫁殿は母上に似た威厳ある声で告げる。
「貴方に償いたい気持ちがおありでしたら、貴方がどうしてカミルを救う為に命乞いをしたのか教えてください」
 どういう事ですか? 掠れて声にならない吐息を飲み込み、許嫁殿の言葉に頷く。
 許嫁殿の心地よい声色に導かれ、オーガ族の大陸独特の赤い地層が剥き出しになった荒涼とした大地が思い浮かんだ。乾燥して白くすら見える薄い青空と、真っ赤な大地の間を渡る風が髪を引っ掴み体を押し退ける。
 まるで大規模な落石でもあったかのような、歓声にはっと目を向いた。
 世界中から武勇を響かせる猛者が集まる武術大会。オルセコの中心に作られた闘技場を、囲むように作られた王城や居住区から溢れ落ちそうなくらい多くの人々が戦いを見つめていた。
 その門戸は他種族にも開かれ、招待客として各種族の戦士達が招かれていた。一瞬で相手の武器を両断する圧倒的剣技を見せるエルフの剣豪。如何なる豪剣も寄せ付けぬ盾一枚で、倍以上の偉丈夫を薙ぎ倒したドワーフの騎士。まるで流水と戯れるように攻撃を往なし、いつの間にか地に伏せさせる妖艶なウェディの武道家。姿を見せず一瞬で相手を昏倒させる素早さと技量を持つ、プクリポの盗賊。
 そんな古今東西の猛者達の中で、カミルは一際暗く澱んでいた。
 世界でも名を馳せる戦士達は、己の力を誇りにしていたし、相手の力に尊敬の念を抱いていた。エルフの剣豪は己の武器を念入りに手入れし曇りなき刀身でもって相手の礼儀とし、ドワーフの騎士は無傷の敗北という侮辱を与えんが為に誰もが納得するような苛烈な戦いを繰り広げた。互いの全力を尽くす事が、相手への敬意となる世界。
 その世界において、カミルの力は抜きん出ていた。華麗な剣捌きも、的確な判断も、全ての試合において相手を圧倒し勝利してみせた。彼女は初戦から優勝候補として注目されていた。
 だから、彼女の行動が目につくのだ。
 カミルにとってその素晴らしい剣技は、ただの方法でしかなかった。相手に向き合っても感情の一つも浮かべず、相手の技量に翻弄されても悔しさも嫉妬も浮かばず硝子のような冷静な瞳で見るのみ。勝利の際に一礼はするも、相手を讃えることもなく立ち去る姿にオルセコの闘士達は相当鬱憤を募らせていた。終盤では入場と共に野次が飛ぶ程だった。
 最初は来るべき大魔王の斥候かと思った。
 大魔王の手の者かどうか確信したのは、ファルエンデ王国の王子が殺された瞬間だった。カミルの剣技に蘇生呪文も間に合わず絶命し、真っ赤な血で汚れた神聖な闘技場に呆然とカミルが立っている。
 どんなにファルエンデの王子が気が短く殺気を放ってしまったとしても、カミルには相手を昏倒させるなりして戦闘不能にさせる力量の差を持っていた。それなのになぜ、殺害に至ってしまったのか。
 彼女はうっかり、王子を殺してしまったのだ。
 それを、その場にいる誰もが理解した。相手への敬意もなく、戦いへの意欲も低く、そして己を律する意志の弱さ。闘士達が最低な剣士に対して、唾を吐きつけ、恐ろしい呪いの言葉で空を震わせ、足踏みは地面を揺すり上げた。指が槍衾のようにカミルに突きつけられ、息子の仇を討とうとしたファルエンデ国王に向かって『殺せ! 殺せ!』と声が上がる。
「カミルの実力を直に見た、今のわたくしなら理解できます。カミルはファルエンデ王国の次期王位継承者を故意に殺したのだと…」
 今にもカミルの素っ首を刎ねる為、剣を振り上げるファルエンデ王の斜め後ろに許嫁殿が品よく手を重ねて立っていた。
「仮に兄様がアルヴァン様を殺したならば、ファルエンデ王国は兄様か父様の首をグランゼドーラに差し出さねばならなかったでしょう。カミルの処刑は、現在のレンダーシアの常識においても妥当な対応でした」
 だらだらと汗が頬を伝い顎に溜まり、ぽたりぽたりと鮮血に落ちていく。
 カミルの剣術があれば来るべき大魔王との軍勢に、有利に働くと思った。僕の下で死ぬまで仕えるという事は、大魔王との闘争に命を捧げる死と同じ意味を持つ。ファルエンデ王もそれを理解して、剣を納めてくれたのではないか?
 アルヴァン様。許嫁殿がゆるりと歩を進め、白いドレスの裾が義兄殿の血を吸い上げる。
「勇者様はこの世界を救う希望であり、全てにおいて優遇されています。我がファルエンデという弱小国が、グランゼドーラという大国の要求を拒む事がどうしてできましょう? 貴方はわたくしとの婚姻を持ち出しこの場を上手く納めたとお思いでしょうが、父上は息子も娘を奪われたと血の涙を流しておられます」
 はっとファルエンデ王の顔を見上げれば、歯を食いしばりすぎて口から溢れた血と滝の如き涙が混ざり合って、まさに血の涙が流されていた。
「貴方は勇者であるよりも前に、一人の人間なのです」
 肌は透き通った陶磁のように白く滑らかで、小ぶりな唇は健康的な薔薇の色。榛色の髪は丹念に手入れされて瑞々しく潤っており、巻いている髪を覆う艶は夕焼けを溶かし込んだような美しさがある。針を握る手は摘んだだけで折れてしまいそうなくらい細い。深夜の燭台だけの灯りの下では濃い藤色の瞳が、真っ直ぐ僕を見据えていた。
「それを、今、証明して差し上げましょう」
 僕は心の底から凄まじい嫌悪感が噴き上がり、目の前の娘の首を締め上げてしまいそうな衝動に駆られていた。
 グランゼドーラの第一王子アルヴァンは、生まれた時から勇者と定められていた。来るべき大魔王と、アストルティアの存続を掛けて殺し合う運命にある。その為に物心ついた時には剣を持っていて、僕よりも大きな存在を打ち負かしてきた。最初は兵士を、他種族の猛者、巨大な魔物、そして魔軍十二将と不死の魔王ネロドス。戦い勝利した後は、子孫を残し未来に備える。そんな人生が生まれた時から決まっていた。勇敢で正義感溢れ、礼儀正しい、人々が描く勇者像は僕そのものでもある。
 人間の敗北を意味する勇者の否定。それは誰もできない事のはずだった。
 いや、許嫁殿はできる。
 彼女は勇者の傍に立つ事ができる器量を持つ女性なのだから。
 だが、どうやって?
 疑惑と混乱に胸がかき乱される中、許嫁殿の声は清流のように冷たくするりと入ってきた。
「秘術が生み出す『邪魂の鎖』は術者の魂から生成される。そう、秘術の守護者は申しました。全ての力を封じる秘術は、魂を対価とする禁術やもしれません」
 困惑に沸き立つ胸に、ひやりと冷たい不安が湧き上がった。
 なぜ、気が付かなかったのだろう?
 三つ目の神話で世界を照らすための力を、己の魂でもって生み出した女王がいた。九つ目の神話で己が大国を守る為に、魔神に同盟国を差し出した王がいた。あの、僕達を散々苦しめた不死の力すら封じる行為に、どれ程の対価が必要であるかなど、少し考えればすぐに思い至れた筈だ。
 いつもの無表情に僕だけが分かる喜びを浮かべて、カミルは秘術を見つけたと言った。この秘術を使えば、不死の魔王を倒せるのだと感慨深く言った。カミルの言葉に僕も父も母も、グランゼドーラの民全てが喜んだ。もうすぐ戦いが終わる。勇者が勝つと、夜も明けるというのに宴は終わる様子がない。
 その勝利を手にする為に、カミルが、死ぬ?
 嘘だ。そんな事、カミルは一言も言ってない。
 カミルは僕の盟友だ。どんな絶望の戦場でも僕と共に乗り込み切り開き、どんな強敵も力を合わせれば負ける事なんてなかった。言葉を交わさずとも、たった一目視線を交わすだけで互いの全てが伝わった。あのまっすぐな瞳に、嘘はかけらも感じなかった。
「カミルは敢えて、貴方に秘術の全てを伝えなかった。それは、不完全な状態であっても不死の魔王を打破する効力があるからです」
 許嫁殿は苦しそうに目を眇めた。
「不死の魔王を討つ為…というのは建前。カミルはアルヴァン様の為に、己の魂を捧げるつもりなのです」
 カミル…!
 僕は勢いよく立ち上がり、椅子が大きな音を立てて倒れた。心臓が握りつぶされそうな程に痛み、胸の中の空気は空っぽで頭が落ちそうな眩暈が世界をぐるぐると回している。不死の魔王を倒さなくては。グランゼドーラを、世界を、守らなくては。カミルが死ぬだなんて嫌だ! 感情が脳を掻き回すような激痛となって、全ての色が混ざった漆黒の世界に反響する。
 その闇の中に一際輝く、カミルの白い姿。
 カミル! 行くな! カミルッ!
 必死に手を伸ばして、バランスを崩しかけた体が突っ張る。
「アルヴァン様。それが、恋です」
 許嫁殿が僕の前に立って、にっと歯を見せて笑う。
「勇者でも王子でもなくアルヴァンという一人の人間が、カミルに恋焦がれているのです」
 ペガサスが雲を抜け晴れ渡った天へ飛び込んだような、煩わしいものが一切ない清々しさ。勇者として多くの人々を救って込み上げる誇らしさとは違う、新しい感情が僕という器から溢れ出していく。
「魔王軍の総攻撃が目前に迫って、時間がないのは理解しています。それでも賢者様によって、守護者が伝えられなかった秘術の全てを明らかにするべきです」
 僕は自然と膝を折り頭を垂れた。
 父も母も尊敬に値する人物だったが、畏まるのは王子としての儀礼でしかない。心の底から湧き上がる暖かい水のように、頭上に降り注ぐ命を育む光のように尊く思った存在に、僕はこの時初めて出会った気がする。
 それでも、己の心臓のように、欠けたら生きていけぬものがある。
「最後まで私の名を呼ばなかった貴方は、婚約者としてとっくに失格よ」
 そう許嫁殿に言われて、今更ヴィスタリア姫の名前をお呼びした事がない事実に気がつく。どうして、僕は彼女の名前を呼ばなかったのだろう?
 人形めいた品の良い笑みは匂い立つような生気に今にも弾けそうで、悪戯好きな猫を彷彿とさせる爛々と輝く瞳が僕を写している。王族に相応しいお嬢さんよりも、魅力的で可愛らしく見えた。腰に手を当て僕を睨め付ける仕草も、戯れ合う気安い感じがする。
「貴方の恋が成就する事で、わたくしが婚約破棄へ至った諸々も『少しは』報われるというものですわ」
 許嫁殿。貴女とは別の出会いをしたかった。カミルの命を救おうとあの恐慌を収める手段として利用してしまったのに、貴女は僕を愛してくださる。貴女と過ごした日々は絹のように滑らかで心地よく、平和な未来が今ここにあるように錯覚させてくれた。
 許嫁殿が僕を心から愛してくれるからこそ、僕が最も幸せになる未来の為に道を示してくれる。
 あぁ。許嫁殿。貴女に何も返せない僕が憎い。
 ただ、レースに包まれた細い手を取り、その繊細な白と肌が織りなすモザイクの上に唇を恭しく落とす。あまりにも自然にした自分が自分でないようで、今更ながらに遅い恋を自覚する。
「ヴィスタリア様。僕が導く平和を、貴女に捧げましょう」
 ヴィスタリア様は懐から折り畳んだレースのハンカチを取り出すと、一つ深呼吸する間に何かを強く願ったようだった。分厚い夕焼けの奥にある夜の始まりが、見下ろしたハンカチを僕の胸の隠しポケットに差し入れた。重ねられた手が、僕とカミルの無事を願って小刻みに震えている。
 椅子が倒れた物音に驚いたのか、隣室に待機していた侍女や護衛が扉を開けて見ていた。許嫁殿の指が指し示した先は、僕が欲して止まないカミルが生きて世界が救われる未来に輝いて見えた。
「お征きなさい! 勇者アルヴァン!」
 はい! 僕は感じたことのない強い輝きに突き動かされ、部屋を飛び出していく。
 不死の魔王はまだ倒れていないというのに、まるで平和が訪れたような宴が繰り広げられている。僕を見つけた兵士が、貴族が、父が、母が、勇者の勝利を赤ら顔で喜んでいる。
 カミル殿が秘術を使えば魔王は滅ぶであろう! 父上によく似た、威厳ある声が弾む。勝利の為に命を賭すのも厭わぬカミルは、世界の誇りじゃ。母上にしては珍しいと錯覚するような、そっくりな声。カミルが秘術を使うと明言したからか、誰もが盟友カミルを讃えている。盟友カミル万歳!と宴のあちこちで歓声が上がっていた。
 一刻も早く僕の盟友を探し出さなくてはならない。秘術を片手に白い後ろ姿が、闇夜に溶け込む幻がありありと浮かんだ。
 カミル! 行かないでくれ!
 足が自然と早まり、いつの間にか全力疾走の速度に達する。あの華奢な肩を探して、大きく振った手が藪のように密集する人々を掻き分ける。荒くなった息が、ぐらつく視界が、体を構築する細胞全部が一瞬でも早く盟友の元へ行こうとする。
 神様。一生のお願いだ。どうか、間に合ってくれ…!
 今この瞬間に、カミル、君と二人で話がしたいんだ!