ある恋人たちの叶わなかった約束 - 前編 -
不死の魔王との邂逅は、まだ僕が幼かった頃だったとアルヴァンは言いました。
ドラクロン山の麓から垂直に聳り立つ頑強な巌の天辺から、赤い三つの光が僕を悠然と見下ろしていた。体を舐め上げた魔瘴の悍ましい臭いに吐き気を堪えるので精一杯だったが、僕は本能的に目の前の闇の正体を知った。勇者である僕の宿敵。アストルティアを危機に陥れる大魔王。闇の中で瞬く三つの星のような光を睨み上げていると、ふと声が降り注いたんだ。
『我が名はネロドス』
雲が切れて月が地上を照らすと、闇に溶けていた宿敵が露わになった。
隆起する胸板の厚み、はち切れんばかりの腕や太ももの筋肉。それらは想像を超える鍛錬と修羅場が生み出す、生物として羨望を抱かずにはいられない美しさだった。黄金を溶かしたような金髪は短く切り揃えられて、精悍な顔立ちに良く似合っていた。飾り気など一切ないネロドスだったが、匂い立つような強者の雰囲気が抗い難い魅力となって僕を圧倒した。
緩く広げられた手は無骨な武人の手で、尖った黒い爪一枚一枚が鋭い刃のよう。それがゆるりと僕の首に掛けられた。
『歴戦の猛者は勿論、老人も女子供も赤子でさえ、このネドロス手加減などという無粋はせぬ。本来なら幼き勇者にこそ、敬意を払い全力で殺害せねばならぬだろう』
僕の細い首を、ネロドスの親指の腹が羽根で撫でるかのように触れている。咄嗟に逃げようとしたり攻撃を加えようとすれば、当時の僕の細い首は手折られた花のように落ちていただろう。
ただ、大魔王の心一つで生かされている己の不甲斐なさに、体が燃えるような怒りを感じていた。僕の憤怒を嗅ぎ取ったネロドスは、唇を歪めて真っ白い歯を覗かせた。
そう、いきり立つな。そう、己に言い聞かすように低い声が這いずった。
『我は勇者との戦いを、心から楽しみにしている』
まるで恋焦がれる相手に囁くように、大魔王は己の心を打ち明ける。
アストルティアの希望としてネロドスに対峙するようになって、この想いが長きにわたるものであると知った。魔界でありとあらゆる強者を屠り、生き物が息づく場所を全て戦場に変えた男が、勇者と戦う為だけに大魔王となった。
しかし、不死の魔王が見た勇者は幼く弱い。彼が焦がれた強者とは真逆の存在に落胆したとて仕方がない。この時のネロドスは、赤い瞳の奥に潜む強烈な殺意を押さえつけて言った。そうアルヴァンは振り返る。
『これから貴様の眼前に広がる踏み場もない屍の山を、瞳が割れるほどに焼き付けるがいい。その手から零れ落ちようとする命を、歯を噛み砕きながら守り通せ。煮えたぎる憎悪と激怒を力に変えよ』
首から手が離されると、次の瞬間には鮮血が土砂降りとなって降り注いだ。僕の護衛をしていた兵士達が肉塊になった後に、彼らが漏らした最後の声が空気に溶けて消えていく。
凄まじい血の匂い、生暖かくぬるりとした血の気持ち悪さ、少し前まで生きていて笑っていた者達の最後、僕は堪え切れずに内臓がひっくり返る程の吐き気に蹲った。
ネロドスの笑い声が星々を落とさん程に響き渡る。
『勇者よ、我が命を脅かす強者となるがいい!』
配下の魔軍十二将が城に攻め入り、町を焼き、村を蹂躙する戦争行為は全て勇者が強くなる為。最愛の人を失った嘆きも、故郷が焼き払われた喪失感も、魔王軍に襲われて受けた苦しみも、全ては僕がネロドスが求める勇者になる為だった。
アルヴァンはキツく歯を食いしばり、天を仰いだのです。
「大魔王は勇者が強くなるのを、辛抱強く待った。その月日はそっくりそのまま、レンダーシアの民の受難の日々となったんだ」
今まで誰にも打ち明けなかった想いを告げた勇者の手を、私はそっと包んだ。
「アルヴァン。貴方が弱いから人々が苦しんだというのなら、私も同罪でしょう。オルセコの地でようやく貴方に出逢い、盟友となって共に挑んでも魔王に届かないのですから」
ごつごつとして暖かい手に力を込めながら、私は魔王の呪いを受けた勇者を想う。アルヴァンが幸せになるなら、私の命は全く惜しくなかった。
跨っていた飛竜が頭を下げて翼を折りたたむと、ぐんと東雲色の空の下へ身を躍らせる。濃密な緑が茂る森が途切れ、昇ったばかりの日差しに茜色に輝く海が広がった。
飛竜の翼が瞬く間に海に到達したというのに、焦りが募るばかり。
アルヴァン。アルヴァン、どうか、秘術を使わないで…。
全ての力を封じる秘術を宿した宝玉を持ち去ったのが、私の勇者でない事を神に祈りました。しかし、盟友となって片時も離れる事がなかった勇者が、決戦を前に行方を眩ました理由。決戦を前に語う際に、私が意識を失った原因。それらが勇者へと繋がってしまうのです。
飛竜は既に全速力であるのに、手綱を握る手が込められた力に震えている。
その秘術を使うのは、魂を対価に死ぬべきは、貴方の盟友である私なのです。
勇者の国より南東の海に突き立つ魔王城。本来なら近づくだけで叢雲のように空を飛ぶ魔物達の迎撃があるというのに、全く会敵する事なく城内に降り立つことができた。総攻撃の為に、城から溢れんばかりいた魔物は殆ど残っていなかった。残っていた魔物達も、先に踏み込んだのだろうアルヴァンの太刀筋によって亡骸と化していた。
ざん。ざざん。城に打ち付ける波の音を靴音で踏み散らかしながら、点々と転がる亡骸を辿って玉座の間へ向かう。魔瘴を含んだ岩石で出来た暗い城の中、まだ滑る血溜まりが篝火を吸って妖しく照る。
自身の荒い息の合間に、微かに剣戟が聞こえてくる。
アルヴァン!
まだ、生きている!
その希望が篝火の光を含んで、道を照らす。そして、勇者の危機が魂に警鐘を鳴らし、私の中に秘められた盟友の力が呼応する。溢れた光が体を包み込むと、人間の体が消え失せ光の粒子となって世界を鳥のように滑空する。守るべき勇者の元へ引っ張られるように、不死の魔王の玉座の間の扉を突き破りアルヴァンの前に躍り出た!
「カミル!」
アルヴァンの声で生存を確信し、安堵で鼻がつんと痛む。
光の粒子が霧散した闇と共に周囲へ散っていき、不死の魔王の巨躯が眼前に見えた。巨大な戦斧を軽々と振り回す偉丈夫の体は、無数の刀傷を刻みつけられながらも大魔王の威厳を体現する悠然さを見せつける。その精悍な顔に浮かんだのは悦びだった。
「間に合ったようだな! 盟友よ!」
間に合った。ネロドスの言葉に微かに力が抜けた私は、背後に庇ったアルヴァンへ振り返る。振り返りながら、玉座の間の窓ガラスに邪悪な力を帯びた鎖のようなものが浮かんでいるのが見えた。それを不思議に思いながら、私は万感の想いでアルヴァンを視界に収めたのです。
「カミル…」
背後にあったのは闇でした。
真っ黒い闇が塊となり、塊から解れると紫色の不気味な光になって霧散していく。光り輝く聖なる力を行使した勇者とは思えぬ闇の中から、アルヴァンの長剣の鋒が覗いていた。ぐるりと歪んだ視線が紫色をなぞると、闇の塊から三本の太い鎖が飛び出してネロドスへ向かっているようだった。鎖も漆黒を溶かしたような黒から紫色の光へ変じる、邪悪さと悍ましさで鳥肌が立つ。
あるゔぁん…? 自分の声が遠くに聞こえ、手を伸ばす闇が彼方にあるよう。
「ごめん、カミル」
蠢く闇の隙間から口元が見えた。うっすらと開いた唇の間から見えた白い歯並びが、つっと頬を涙が伝った事で鮮明に見えてしまう。闇の中にぽっかりと浮かんだ瞳は、濁りながらも私の勇者の色だった。
あ。あ。息が途切れ途切れに漏れて、喉が笛のような音を立てる。
間に合わなかった。私は、間に合わなかった。
アルヴァンは不死の力を封じる為に、秘術を使ってしまったのだ。
「これが、死! 死というものか!」
不死の魔王の笑い声が玉座の間を震わせた。
頬の冷たさを感じながら剣を抜き放ち相対すれば、不死の魔王の体には三本の鎖が突き刺さっていた。胴体から背中を貫いた鎖は蛇が鎌首をもたげるように不死の魔王の頭上へ伸び、幾重にも巻き付いて球体になっている。
そんな状態になっていながら、不死の魔王は両手を広げ身を仰け反らせて笑っていた。
「今までの万の強者と戦いが、霞んでいたと思わされる鮮明さよ! 全身を駆け巡る血の熱さ、心臓の鼓動、魂がひりつく緊張感! まるで新たに生まれ変わったようではないか!」
邪魂の鎖で貫かれても不死の力が封じられるだけで、肉体的な痛みはないのだろう。ネロドスは心底愉快そうに一頻り笑うと、私達へ視線を向けた。
「これこそが、魔界の強者を一掃し、大魔王として君臨した我が望んだ最高の闘争!」
闇がアルヴァンの形となって傍に並び、剣を構えたのを感じました。
そうだ。アルヴァンが秘術を使った事に動揺していたが、今こそ、不死の魔王ネロドス討伐の千載一遇の機会なのです。多くの兵士が、民が、苦しみもがきながら繋いだ今という瞬間を、アルヴァンが魂を穢して切り拓いた勝利への道を、無駄にしてはいけない。
「不死の魔王を倒してグランゼドーラに、世界に平和を取り戻そう!」
私はアルヴァンの盟友。例え勇者が死に瀕していても、世界の平和の為に共に戦っていた志を手折る事は許されない。アルヴァンが死ぬその一瞬まで、私は勇者の盾であり、共に戦う剣でなければと誓ったではないか!
私は真っ直ぐネロドスを見据え、剣を構えた。
「はい! アルヴァン!」
ネロドスが戦斧を構え、襲い掛かる私達に悠然と言い放った。
「さぁ、勇者よ! 盟友よ! 最高の死闘を楽しもうぞっ!」
ネロドスは隙が生まれやすい魔王だった。
勿論、圧倒的な攻撃力や、想像を超える修羅場を潜った判断力、そして全ての力を勝利へ繋げる技量全てを鑑みれば、ネロドスはこの世界において最高の武人である事に違いない。しかし、不死であるが故の驕りなのか、詰めが甘いというか油断があるというか、なにかと隙があった。その隙を上手く突く事で、私達は奴に致命傷を与え、その都度不死の力で蘇生させられて辛酸を幾度となく舐めさせられた。
それがない。
激しい嵐のような戦斧の攻撃を、バスターソードを手にアルヴァンも応じる。斧を正面から受け止めたアルヴァンの足元は大きくヒビ割れ、打ち重なった刃から衝撃波が吹き荒れる。弾かれた勢いに乗って、二人の体が大きく獲物を振り上げ渾身の力を込めて叩きつける。がぁん! がん! がんっ! まるで激しい舞踏を繰り広げるように、踏み込み、回転し、振り上げる様は、勇者と魔王の戦いでなければ見惚れる程の一戦だ。
吹き荒れる衝撃に、私は息を詰まらせた。
もはや玉座の間は、本来の体を成していない。魔界でのネロドスの功績を描いた禍々しいステンドグラスは殆どが砕け、入り口から玉座へ伸びる真紅の絨毯は無惨にも引き裂かれるだけでなく、ネロドスの三つ目が放つ魔術によって青い炎を這わせて燃えていた。調度品は衝撃に壁に叩きつけられて粉々になり、床には護衛の魔物の獲物が転がっている。ネロドスが拳を叩きつけて立ち上がる為に頑丈な玉座だけが、魔瘴を練り込んだ黒い壁や床の中に浮かんでいるようだった。
魔王の隙を突こうと回り込んだ私に、ネロドスの額の目が向けられる。
瞬間、足元が赤く輝き、私は咄嗟に飛び退った。床に刻まれた魔法陣から、燃え盛る荊のような力が噴き出て灼熱が虚空を焦がす。それが次々と、まるで複雑な紋様のように並び、時には重ねられて床の広範囲を真紅に染め上げた。
ネロドスの口元が僅かに持ち上がった。
私を中心に広範囲に敷かれた魔法陣。全速力で駆けたとしても、陣の外に逃れる前に発動に巻きこまれ致命傷を受けると確信しているのだろう。アルヴァンでさえ、ネロドスから視線を外し目を見開いた。
「侮ってもらっては困る!」
私は床に転がった槍を手に取ると、駆け出して槍の穂先を石畳の隙間に差し込んだ。闇の中、槍を支えに高跳びの要領で白の残滓を残して体が宙を舞う。下方で発動した魔法陣から溢れた炎が、恨みがましく宙へ逃れた私へ手を伸ばす。服を焦がす熱に歯を食いしばりながら、私は玉座の間を支える柱の一つに足を掛けた。
膝を柔らかく折って、飛び上がった勢いが全て足の裏に加わる瞬間に、膝を伸ばした。太腿の筋肉が悲鳴を上げたが、目前の勝利には瑣末な問題だった。
フードが飛び、衣が大鳥の翼のように翻る。上からネロドスに迫る私は、剣を振り上げた。
「行くぞ、カミル!」
闇の中から大きく振りかぶった剣が、黄金の雷光を孕む。私も渾身の力を雷に変えて、刀身に這わせた。
「さぁ! 貴様達の全力で来るが良い!」
今代の勇者と盟友の必殺の代名詞であるダブルギガスラッシュが、不死の魔王に襲い掛かる! 魔軍十二将、さらには魔王ネロドスに致命傷を負わせるにいたる必殺の一撃を、不死の魔王は避ける事なく正面から堂々と受けた。
大きく戦斧を振りかざすと、不死の魔王の足元がずぐりと崩れる。いや、足元から赤黒い液体のようなものが湧き出して、凄まじい死臭が吹き荒れた。
「吹き荒れよ! 我が糧となりし幾億の血飛沫よ!」
ネロドスが血飛沫と言った赤黒いそれは燻る炭のように、ちらちらと火を含みながら嵐となって吹き荒れた! 横殴りの雨のように降り注いだと思えば、たった一滴が肌に触れただけで鮮烈な痛みを伴う。
ある痛みは生きながらにネロドスに切断された者、ある苦しみはネロドスを罠に貶めようとして返り討ちにされ海に沈められ溺死した者。胸に庇った我が子供共々焼かれる激痛。頭を素手で掻き回すような絶望は、ネロドスによって戦場となり失われた故郷を目に自死した者。復讐に襲いかかり、その首を掴まれ骨を折られた音。策で謀ろうとする者が受ける拷問。その赤はネロドスが奪った命の苦しみで出来ていた。
なんという。
私は赤黒い闇をギガスラッシュで切り裂きながら、その苦しみの深さに言葉を失った。レンダーシア侵攻の被害者の苦しみも当然あったが、圧倒的に魔界の者達の苦悶が多かったのだ。
魔界を生きる魔族達の苦しみが、アストルティアに生きる者達と変わらぬ嘆きの深さが、私の心に怒りを灯した。己の望んだ闘争の為に、生きとし生けるものを死に追いやる身勝手さに身を焦がすほどに燃え上がる!
それは、アルヴァンも同じだった。ギガスラッシュの光を膨らませ、ネロドスの戦斧と火花を散らす。
「不死の魔王、ネロドス! 貴様を絶対に生かしてはおけない!」
「やってみるが良い! 勇者アルヴァンよ!」
次の瞬間、天下無双の激しい攻撃が赤黒い闇をも切り裂いて襲い掛かった。ネロドスの戦斧がアルヴァンのバスターソードに叩き込まれると、勇者の剣が粉々に砕けてしまった。
アルヴァンの頭目掛けて振り下ろされた戦斧の前に、盟友の盾を展開して躍り出た!
「アルヴァンは、私が守る!」
睨め付けた魔王の三つ目が、ぐりんと揃って上を向いた。その動きに釣られ、私もネロドスの頭上へ視線を向けた。
その原因は『邪魂の鎖』で幾重にも巻き付けられた、不死の力の前に浮いていた。
凄まじい魔瘴の臭いを被り、マントや鎧から真っ黒い液体がぽたりぽたりと滴っている。片手剣を佩いているのか、マントが鞘の形に膨れていた。直毛の茶色い髪が覆う後頭部が見えるばかりだが、他種族の特徴が見られないから人間なのだろう。
どこから。いや、いつ、そこに現れた?
例え、ネロドスとの戦いに集中していたからといって、気がつかない訳が無い。ネロドスも突如現れた正体不明の相手に、三つの目が不愉快に細められる。
「神聖な闘争の場に水を差そうとは、とんだ不届き者がいるようだ」
戦斧が叩きつけられれば、真四角の黄緑色の障壁が甲高い音を立てて受け止めた。しかし、次の瞬間にネロドスの拳が障壁を破壊し、男は殴りつけられて床に叩きつけられる。打ちどころが悪ければ歴戦の勇士でも絶命する一撃に悲鳴ひとつあげず、男はのろのろと人形のように体を起こした。
ぞくりと、悪寒が背を撫で上げる。
人形のようにと表現した男の顔には、何の感情もなかった。ネロドスの攻撃を受けて額から目に流れ込む血を拭おうともしない。多くの戦士を見てきたからこそわかる、武芸を達人にまで極めただろう肉付きだからこそ、その無表情さが痛烈な違和感となって突きつけられる。
「魔王ネドロスが宿す不死の力、貰い受ける」
『邪魂の鎖』の塊に手を向けた男にネロドスは侮蔑の眼差しを向け、興味を失ったように逸らした。
「我が闘争を邪魔せぬなら、瑣末な事」
背後でアルヴァンの魔力が急速に高まっていく。
『邪魂の鎖』を展開し穢れて黒くなっていく体なのに、闇を突き抜け光が溢れていた。まるで暗雲の隙間に差し込んだ陽光のように、鋭い光の剣は四方八方に伸びて闇に突き刺さる。
「『邪魂の鎖』と対を成す『聖魂の剣』」
アルヴァンが掲げた『聖魂の剣』が、清らかな陽光の輝きを帯びる。アルヴァンの魂で作られた光の剣から迸る輝きは、アルヴァンの闇に侵食された背を浮き彫りにした。不死の魔王を前に、その背にアストルティアの全ての命を庇った雄々しい背中。
「あらゆる力を砕く『聖魂の剣』にて、ネロドス、貴様を打ち砕く…!」
その姿をネロドスは満足げに眺め、悠然と戦斧を構えた。
「来い! 勇者アルヴァンよ!」
本来なら勇者の勝利の為に、アストルティアの平和の為に、盟友として勇者を援護すべきなのだろう。しかし両者が最後にして最高の一撃を叩き込む間合いに、割って入る事はとてもできそうになかった。
大きく戦斧を振りかぶって構えるネロドスと、光の剣を青眼に構えるアルヴァンが対峙する。
高められた闘気生み出す、極限にまで張り詰めた空気。空気を吸い込む事も、吐き出す事も許されず、押さえつけられた無音の中で心臓の音だけが割れ鐘のように響く。頬を汗がずるずると滑っていく。
空気が動いたのは、男が手に力を込めた僅かな動きで『邪魂の鎖』の塊が萎縮した瞬間。
アルヴァンとネロドスが己の獲物を振り抜き、交差した。
その動きは盟友として勇者と魔王の動きを見てきた私の目にも留まらぬ。今この瞬間、どちらが勝者なのかもわからず、勇者と魔王は互いに獲物を振り抜いた姿勢で背を向けていた。
「見事なり」
がらん。石畳に分断された戦斧が落ちた。振り抜いた姿勢のまま、振り返る事なく、不死の魔王の声が私達に向けられた。
「我に初の敗北を与えし貴様らを、心より讃えよう…ぞ」
不死の魔王の背がバラバラと砕けた端から魔瘴の煙となって霧散し、乱入してきた男も元々存在しなかったかのように消えていた。
波の音が微かに聞こえる静寂の中で、からりと闇から秘術を宿した宝玉が落ちる音が響いた。あれ程までに切望した不死の魔王の死を喜ぶべき瞬間であるのに、私の心にはべったりと絶望がはりついていた。ころころと転がる白と黒が揺らめく宝玉から視線をあげる。
もう、闇はアルヴァンの形をしていなかった。ある場所は獣で別の場所は竜で、瞬きをするごとに蠢いて膨らんで人成らざるものに変わり果てていく。
カミル。優しい声が闇から滲み出た。
「僕は君が生きるアストルティアを、どうしても平和なものにしたいんだ」
私は涙が溢れるのを堪える事ができなかった。
不死の魔王の攻撃から身を挺して庇ってくれた時、魔軍十二将の猛攻を共に駆け抜けた時、彼は半歩後を走って私を守ろうとしてくれているのを知っていた。勇者が盟友の私を大事にしてくれていた事を、己の半身のように思っていた事を知っている。
だから、アルヴァンは秘術を使ったのだ。
私が生きるアストルティアがどんなに平和でも、貴方が、アルヴァンがいなければ何の意味もない! 勇者は私の全て。生きる理由であり、私の価値そのもので、世界中を探したって貴方の隣にしか居場所がない。そう伝えたい意志は、もう、何の意味もなかった。
「貴方を殺すだなんて出来ない!」
目の前の闇がネロドスに匹敵する災いになると、戦士の勘が警鐘を鳴らす。無防備に待っているアルヴァンの望みを、私は咄嗟に否定した。
アルヴァンは不死の魔王から世界を守る為に、あんなにも頑張っていたのに…! 彼が築いた平和な世界に、彼が存在できないだなんて酷い事がどうして起こるの!
賢者も、神も、勇者である彼ですら、救う事ができないの?
溢れる涙で歪んだ世界は、もう真っ暗だった。
それでも、アルヴァンはそこにいる。彼の優しい眼差しが注がれているのが分かる。だから、私は喉も裂けんばかりに叫んだ。
「私が貴方の穢れを祓う方法を、必ず見つけてみせる!」
痛みに痙攣する体を叱咤し、私はそっと微笑んだ。
「…穢れを祓ったら、私と一緒に世界を旅しましょう。貴方が齎した平和な世界を…」
この広い空の下をのんびりと歩く、ただそれだけでも心が弾んだ。復興した町を巡り、温かい食事と明るい笑顔に囲まれて、魔物の気配を気にする事なく眠る。アルヴァンの喜ぶ顔を思い描くだけで、胸がいっぱいになりました。これからレンダーシアの全ての人が享受できる平和を、私はアルヴァンと共に得たいと心から願った。
闇の中から微かな笑い声が聞こえた。
「カミル。待っているよ…」
闇は飛び去り、天から燦々と日差しが差し込む。
私の勇者は行ってしまった。