ある恋人たちの叶わなかった約束 - 後編 -

 
 不死の魔王が討たれた時、あんなに丸かった月はすっかり細くなっていました。鉤爪のような月は星を掻き崩して海に投げ込んでいるのか、絶え間ない波の音に揺られてきらきらと輝いている。夜気に冷えた空気と海風は、私が羽織っていたショールを大きくはためかせたのです。
 ざん、ざざん。兄様が不死の魔王を倒した事で、明日も一年後も千年後も続く波音に耳を澄ませ空っぽになった心に、不死の魔王と相打ちしたと宣言された兄様の事が蘇る。
 ペガサスの神々しい白金の輝きを望遠鏡で確認していた兵士が兄様の帰還を告げ、お父様もお母様も、そして私もバルコニーへ駆けつけたのです。今まで幾多の戦場を駆け抜け、多くの民を守ってきた兄様が、不死の魔王の討伐を宣言される瞬間が迫っていたのです。
 兄様の口から高らかに平和が宣言される事を今か今かと待つお父様は、期待に頬を赤らめ、少年のように目を輝かせていました。しかし、そのお顔がふと何かに気がつき目を瞬かせると、浮き立つ表情は瞬く間に冷えていきました。
 接近するペガサスは、人影には見えない何かを乗せていたのです。
 ペガサスに跨がれるのは勇者のみ。盟友カミルでさえ、乗る事は許されません。不安に胸を押さえた私の肩をお母様が支えてくださるのを感じている間に、お父様は兵士長を残して人払いをされました。
 そして、ペガサスは私達の前に降り立ちました。
 数多の色彩が混ざり込んだ事で生まれる禍々しい黒は泡立ち、弾けた気泡から黒い煙を棚引かせ広がる鼻が曲がりそうな強烈な魔瘴の臭い。その黒い塊は常に蠢き、竜や蛇や獣など、ありとあらゆる魔の一部に変質しては、他の一部に食われたり潰されたりして一つの塊に戻っていくを繰り返す。まるでペガサスの上に寄生した悍ましい生き物のようで、闇はペガサスの光をじわりじわりと侵食していました。
 傍にペガサスがいなければ、グランゼドーラの精鋭が切って捨てたでしょう。
『不死の魔王ネロドスの脅威は去りました』
 その闇の塊が兄様の声で喋った瞬間、私は全てを理解しました。しかし、カミルの為に『魂を対価に全ての力を封じる秘術』を使ったとしても、これほどまで恐ろしい異形に成り果てるなど想像もできなかった。誇るべき勇者である兄に、世界平和に身を捧げた兄に、こんな不幸な結末があっていいのか天を呪う。
 高濃度の魔瘴に耐えかね、私の意識は兄様に別れを告げる間も無く途絶えてしまいました。
 そして私は、見慣れた倉庫のような部屋ではなく、兄様の部屋で目覚めました。兄様の香りが残る、兄様の私物がそのまま残された部屋を呆然と見回す。やがて、兄様はもう城に戻って来れない事、私が勇者の血筋を伝えるべく命懸けで子を成さねばならぬ事を悟ったのです。
 これでは、まるで…。
「夜風に当たりすぎては体を壊しますよ。囚われのお姫様」
 驚いて振り返れば、そこには黒づくめの影。息を詰まらせ青褪める私を見て、影は慌てて顔に掛けられた黒のヴェールを持ち上げたのです。
「ヴィスタリア様…!」
 ほっと詰まらせた息を吐き出し、背筋を伸ばして夜風を受ける未婚の未亡人に向き合う。
 黒いレースの手袋で包まれた手もシンプルな真っ黒いドレスも金髪の巻き毛を覆う黒いヴェールも、美しいファルエンデの人の特色を味気ないものに褪せさせる。それでも、アルヴァン兄様の許嫁の藤色の瞳は、微かな光を吸って曙のように燃えていました。ワインレッドの紅を引いた唇がにっと持ち上がって、悪戯っぽい笑みを溢す。
 アルヴァン兄様には婚約破棄を突きつけたものの、グランゼドーラ国王夫妻には伝えていなかった為に、レンダーシア各地より訪れる弔問客に妻として対応しておられる。それらがひと段落したら、故郷であるファルエンデ国へ帰られるのを止める事すらしない。私が子を成せば、兄様の許嫁など邪魔な存在でしかないと暗に言われている気がして申し訳なく思ってしまいます。
 聡いヴィスタリア様は理解した上で、程よく使われているのでしょう。
「いいえ、フェリナ様」
 ヴィスタリア様はスカートの裾を引き上げ、膝を折ると、私の手を恭しく取りました。そのまま手の甲に接吻しそうな仕草に、私の鼓動が早まって頬が熱ってしまいます!
「今宵の わたくしは貴女様を冒険の夜に誘う、魔法使いでございます」
 ま、まほうつかい? 驚いて目を瞬かせる私に、ヴィスタリア様はにんまりと笑った。
「貴女様が一歩勇気を出して踏み出すだけで、胸が弾む冒険も、輝くペガサスに乗って闇を駆ける事も、困り果てた人を手助けする勇者になる事も、わたくしが叶えてみせましょう」
 芝居掛かった声に助けを求めるように視線を彷徨わせれば、控えている侍女のカティーラが立っている。彼女は暖かいコートを手に、私の決意を見届けるように立っていました。
 私は黒いヴェールを潮風に靡かせ、返事を辛抱強く待っているヴィスタリア様を見下ろしました。
 私は彼女を快く思っていませんでした。兄様とカミルが互いにお慕い申し上げている仲であるのに、公式な文書では妻となる事が定められた女性。それが兄様が提案した事だとわかっていたけれど、私には勇者と盟友を超えて絆を結ぶ運命にある二人の邪魔者にしか見えなかったのです。
 私の目は曇っていた。病弱だからと狭まった目で、勇者を支えるべく最善を尽くしていた彼女を正しく見ていなかった。そんな彼女が勇者の血を後世へ伝える重要な存在を戯れに連れ出し、危険に晒す事は絶対にあり得ないと確信していました。
 私はヴィスタリア様に深く頷き、黒いヴェールの手を握りました。
「まぁ。なんて素敵なんでしょう! 魔法使い様、是非、私を連れて行ってください!」
 返事をして部屋の中に招かれれば、カティーラは瞬く間に私をドラクロン山の山頂に行くような姿に仕立ててくれました。厚いタイツに、毛皮が裏打ちされた歩きやすいブーツ。頑丈な手袋に、暖かいミンクのコートを羽織る。ヴィスタリア様が丸めた布団にナイトキャップを被せて私が眠っているように偽装して出てくると、カティーラに向かって小さく頷いてみせた。
 カティーラが意を決したように頷き返すのを見届けると、未亡人の装いの魔法使いは手を私の頭に翳しました。何も持っていない手から、柔らかい布の感触が髪を覆う。
「これはレムオル粉を塗した特別なヴェールでございます」
 手慣れた様子で髪留めでヴェールを固定するヴィスタリア様は、流れるような動作で部屋に掛けられた一幅の絵の裏に手を伸ばしました。かこん。遥か遠いオーガ族の暮らすオルセコの勇壮な闘技場の絵の裏から音が一つすると、壁が奥へずれ込んだのです。
 王城にあるとされた秘密の通路! こんな所にあったのね!
 口元を手で覆い驚く私に、カンテラの明かりを手にしたヴィスタリア様が手を差し出しました。
「さぁ、一生忘れ得ぬ冒険が始まりますよ」
 闇で浸された螺旋階段を、柔らかいオレンジ色の光が切り抜きました。光が照らされたぎりぎりの場所で、きらきらと金属質な丸い生き物が階段を降りていく。丸い体に小さい足と長い紐のような腕を引き摺る不思議な生き物は、まるで書物で見た生きる金属の魔物のよう。階段を一つ降りる毎に ふるりと体が震え、短い足で段差を飛び降りたり、時に転がり落ちたりとなんとも可愛らしい仕草なのです。
 ここからはお静かに。そう、ヴィスタリア様の芝居掛かった声で言うと、階段を降り切って突き当たった壁を動かします。武器が雑然と置かれた倉庫、整然と並んだ貯蔵されたワイン樽の合間を進み、地下牢らしきものが並ぶ廊下を抜け、巡回の兵士の目を盗む。彼女の指示で隠れたり、走ったり、胸が高鳴って闇の中で響いてしまいそう!
 そして一見壁に見える秘密の扉を抜けると、日向のような光に包まれる。
 兄様が跨っていたファルシオンというペガサスに、全身黄金色である事以外、瓜二つのペガサスがそこにいたのです。まるで太陽の光を溶かし込んだ触りこごちの良い体毛が覆い、長いまつ毛も、玉のように滑らかな瞳も全てが黄金。私が近づいて手を伸ばせば、賢い瞳を瞬かせて頭を下げたのです。ごつごつとしたグローブ越しに額を撫でると、私の顔に頬擦りしてくれる。
 思わず笑い声を上げた私とペガサスを挟んだ向こうから、ひょいと長身が片手を上げた。
「よ! 勇者ちゃん! 俺のペガサス号に乗っていくかい?」
 撫で付けた空色の髪に乗せたのは、まるで船の船長を思わせる羽根飾りがあしらわれた帽子。舞踏会の貴族が好みそうな手の込んだロングコートに、太ももまであるロングブーツを履いた武器を得意としない痩身。そんな背から扇のように広げられたのは、子供の背丈程ありそうな金色の羽根飾り達。日に焼けた人懐っこく笑うお顔は、賢者シュトルケ様!
 よく、お花を持ってお見舞いに来てくださった賢者様の頬を、ヴィスタリア様がつねったのです!
「キャプテン・シュトルケ! 世界観が大事だって言ったじゃありませんか!」
「いだだだだっ! 破邪船をペガサス型にするの、ちょー大変だったんだってばぁ! 勘弁してよぉ、ヴィスタリアちゃーん!」
 わたくしが言いたいのは、そこではありません! そうぽかぽか叩かれるシュトルケ様は、さっと手を上げる。ペガサスが私が乗りやすいように膝を折り、シュトルケ様が背の羽を抜いて放ると黄金の馬が二頭生まれる。
「さぁて、可愛い勇者ちゃん! 君の盟友の元へ、こいつでひとっ飛びだ!」
 まるで風になったよう!
 広大な鍾乳石の洞窟を、破邪の光を放つペガサスが飛ぶように進んでいきます。黄金の光は乳白色の泉を青や赤という不思議な色で照らし出し、上へ下へと伸びる鍾乳石を闇から浮き上がらせる。魔物達も破邪の光に驚いて、闇の中で息を殺して通り過ぎるのを待ってくれています。光苔を食べる蛍を蹴散らし、飛沫を虹色に染め上げながら滝の裏を抜ける。
 大きな段差を飛び越えても着地は羽に触れたように柔らかく、揺れは馬車よりも少ない。ペガサスの背に跨っているというのに、しっかり足の裏で地面を踏んでいるかのように踏ん張りが効くのです。
 闇を抜けたのはあっという間の出来事。私のペガサスは断崖を飛び出し、黄金の翼を広げて海の上へ駆け出したのです!
 なんて。
「なんて、素敵な光景なの…!」
 漆黒のような地平線から、色彩を晴天の空へ移ろわせ数えきれぬ星々が集まる河へ変わっていく。大きな光、小さな光、点にもなれなくても集まって淡く色づく夜空の移ろい。私の世界の全てだったグランゼドーラ城も闇に沈み、はるかドラクロンも夜空に溶ける。光を写し込んだ闇の色の海と混ざり合って、まるで星空の中を飛んでいるよう!
 あまりの美しさに、涙がぽろぽろと落ちていく。その涙が黄金の光を吸い込んで、世界をさらに輝かせた。
 黄金のペガサスは海上を何度か旋回した後、ゆっくりと海と風がくり抜いた複雑な形の崖に降り立ったのです。シュトルケ様とヴィスタリア様が、立派な歴史を感じる扉の脇に立って私を迎える。シュトルケ様の手を借りてペガサスから降り立つと、ヴィスタリア様が慇懃に言いました。
「勇者様。貴女の助けが必要な人が、この先に待っています」
 誰が待っているのでしょう?
 興奮の余韻が醒めぬ私の前で重たい扉が開き、闇が閉じられて澱んだ空気を吐き出したのです。すぅっと差し込む星明かりを反射し黄金の扉がきらりと輝く。いえ、その扉の黄金を、月のように柔らかい白が切り抜いたのです。
 純白のフード付きの衣は降ろされ、白金の長い髪が吹き込んだ潮風に舞い上がる。煩わしげに乱れる髪を押さえ振り返り、ぱっと輝くような白い肌と澄んだ翠の瞳。腰に吊るした剣一本で幾万の人々を守り抜き、凛とした姿で人々の希望となり、溢れる自信が勇者の盟友に相応しい私が最も憧れた女性の姿があった。
 私は駆ける。走って。でこぼこした床に転びそうになって、受け止められる。
 私の体を支える腕。押し付けた頬に伝わる鼓動。抱き締める私の背に、躊躇いがちに回って包む温もり。生きてる! 溢れた涙が彼女の真っ白い衣を濡らすのも構わず、私は胸に顔を押し付けて泣いた。
「カミル! カミル! よく…よく生きて…!」
 カミルは盟友から一転して裏切り者となった。
 本来なら『魂を対価に全ての力を封じる秘術』を使うのは盟友カミルであり、カミル自身もそうするつもりだった。お父様もお母様も国の誰もが、不死の魔王を討伐し世界に訪れる平和の礎となろうとする盟友を英雄と称えた。
 しかし、実際に使ったのはアルヴァン兄様だ。
 兄様が秘術を使うだろうと、私は確信すらしていました。だって、兄様はカミルの事を愛していたんですもの。魔王を倒し平和が訪れれば、生き残ったカミルが幸せな人生を歩む事を疑っていなかった。
 そんな兄様の願いは、命懸けで守り愛し信頼した人々によって裏切られる。
 魔王軍の総攻撃を耐え切ったグランゼドーラ城下町は、廃墟のような凄惨な状況でした。頑強な城壁が崩され、美しい石畳が巨大な魔物の足跡の形に踏み砕かれ、煉瓦を積み重ねた頑丈な教会の壁に大穴が空き、多くの民家が焼かれて黒々と燻る柱がガラガラと崩れる音が聞こえてくる。そこかしこに瓦礫が転がり、多くの勇敢な兵士や魔物の亡骸が残される痛ましき地。
 そんな廃墟の間を、苛烈な攻防を制した人々が殺気立って駆け抜けている。
 温厚な老人は杖に縋りながら歩を進め、立派な体躯の男性は隆々とした筋肉に槌を担ぐ。気丈な女性はフライパンを持ち、子供達もその小さな手に武器と呼べる棒を握りしめる。
 まるで濁流のように勇者の橋へ雪崩れ込む群衆は、大声で叫んだのです。
 裏切り者カミルを断罪せよ!
 兵士達は濁流を止めようともせず、城門を開け放って向かい入れたのです。屈強な男達が破城槌を担ぎ上げて突撃して間も無く、城を揺るがす衝撃と、土煙が舞い上がりました。脚を砕かれたカミルの像が砕かれたと理解したのは、カミルの石像の一部が続々と城から運び出されたからだ。人々は砕けた石像に武器や拳を振り下ろして更に砕き、油を撒いて火をつける。
 純白の石が真っ黒に焼け焦げていく様を、人々は興奮した様子で囲い込んでいた。
 その様子を、私は涙を流して見ていました。
 誰もがカミルに救われた命。命懸けで不死の魔王と戦い、最愛の勇者を守りきれず残された盟友の絶望に対し、裏切り者と罵り断罪を叫ぶだなんて…! 盟友を擁護せず、民衆の憎悪を見て見ぬふりをする国王夫妻が私の親であることが恥ずかしい。
 見つかれば処刑されてしまうだろう盟友でしたが、私が最も恐れたのはカミルが兄様の後を追って自ら命を絶つ事でした。そうなってもおかしくないくらい、兄様はカミルの全てだったのです。
 ひくひくと吃逆が止まらぬ背を撫でてくれる優しさを感じながら、潤んだ視界でヴィスタリア様が二人組の旅人に向かい合っている。
 ご苦労様でした。マルティナ。グレイグ。
 そう言いながらじゃらりと重い袋を渡すのを眺めながら、グランゼドーラと縁がないからこそ、盟友ではなく一人の人間としてカミルを守ってくれたのだろうとぼんやりと思う。
 フェリナ様。カミルの柔らかい声が耳に染み込んでくる。するりと背に回った手が解かれ、カミルの温もりが離れて体が冷える。私の前に膝を折り頭を垂れた兄様の盟友の旋毛から、切なる訴えが響いた。
「王家の聖域への道を、私の為に開けてください」
 私は顔を上げて王家の墓の中心に立つ、金の扉を見ました。
 その黄金の扉こそ、この王家の墓を特別足らしめる。
 精緻なレースを思わせる黄金細工の扉の隙間を覗き込めば、円形に囲んだ棺が見えています。ドアノブを回して蝶番が軋む音を響かせて開けたとしても、ぐるっと回り込めば同じ。ただの装飾品だと誰もが思うでしょうがそうではありません。冥界の目を持つ者が見れば、この扉越しに冥府を覗き込む事ができる。何千年もの長きに渡り、王族や勇者と共に戦った英雄達の亡骸を弔ってきた場所は魔力の坩堝となり、この空間を特殊なものとした結果、扉の向こうに聖域が発生するに至ったのです。
 聖域に至る方法は王家に連なる者か、王家が認めた賢者が道を開くのみ。
 そこへ、兄様は己を封じた。
 秘術により魂が穢され侵食され、間もなく自我が失われ怪物となると悟った兄様。聖域の中は魔族が跋扈する魔界のように成り果てているでしょう。
 それでも、カミルは行かねばならない。
 盟友だからじゃない。命を投げ出す事を躊躇わない、愛しい人。それが、アルヴァン兄様なのだ。
 永遠の別れ。カミルと言葉を交わす最後の機会だというのに、ぽかりと開けた口から迸りそうになるのは、行かないでという言葉ばかり。カミルの事が大好きだった。兄様に負けないくらい、私もカミルに幸せになって欲しかった。私の全てを捧げるから、限りを尽くしてカミルを幸せにしてみせるから、私を置いていかないで…! 叶わぬ願いが口走りそうになる。
 大きく息を吸い込み、ゆるゆると吐き出す。ぐっとお腹に力を入れて、私はカミルに声をかけた。
「約束なさい、カミル。兄様の魂を救い、必ず、生きて帰ってくると…」
 死ぬ覚悟を見透かされていた事に驚いたのか、カミルの肩が一つ大きく跳ねたのです。そして、地面に擦り付けるように、深く、深く頭を下げたのです。
「必ず…。必ずや、吉報を携えフェリナ様の元へ帰って参りましょう」
 私は小さく頷いて、膝を折るカミルの横を抜け扉の前に立ちました。護身用の聖なるナイフを取り出すと、指先に当てすっと横に引く。ぴりっと熱い、間を置かず指先から痛みが駆け抜けて、私は唇を噛み締めました。指先に一本走った朱がぷくりと玉を結ぶと、瞬く間に大きくなって指先からこぼれ落ちる。
 黄金の扉の前に落ちた血は、水面に水滴を落としたように青白い光の輪となって王家の墓に広がっていきました。足の裏から墓に、さらに深い所で微睡む先祖達の魂と繋がる感覚を意識し、私は喉を励ましはっきりと宣言したのです。
「私はグランゼドーラのジュテ王と妻エメリヤの子。そして勇者アルヴァンの妹、フェリナ! 私の中に流れる勇者の血でもって、王家の聖域への道を開かん!」
 黄金の扉が音もなく開かれていく。
 いいえ。この王家の墓の中心に据えられた黄金の扉は、相変わらず閉じられたまま。現世と重なる常世の世界の扉が開いたのです。潮風が光に向かって吸い込まれていく。カミルは開かれた扉から溢れる光の前に立ち、振り返ったのです。
「フェリナ様…。どうか、お幸せになってください」
 笑っている。まるで光を見るように眩しく眇めた優しい眼差し。
 大丈夫。もう、大丈夫なの。カミル。
 兄様も、カミルもいなくても、私を助けてくれる人が沢山いる。私の為に薬湯を用意して、日々体調を気遣ってくれるカティーラ。兄様を失い、心から慕うカミルの門出を見送るべく機会を用意してくれたヴィスタリア様。安全に洞窟を抜けさせてくれたシュトルケ様。
 病弱で、何の力もなくて、誰からも期待されなくて、私は不幸だと思っていた。でも、違った。私が勇気を出して一歩を踏み出してから、今までの人生で一番って思える沢山のことが起きた。それは、奇跡なんかじゃない。
「貴女も、兄様と幸せになってね」
 カミルは微笑みを浮かべて、未練を振り払うように前を向く。
 兄様と並んだその背を、何度、見送っただろう。
 兄様の隣が、カミルの居場所なんだ。いままでも。これからも。ずっと。
 光に呑まれ、元々カミルという人間はそこにいなかったかのように何も残っていなかった。金の扉は静かに佇み、床にぱたぱたと雫が落ちる音が聞こえるほどの静寂。崖に打ち付ける潮騒が会話を遮るほどに響くはずの墓は、繋がった常世の残り香を漂わせていた。
「盟友カミルは裏切り者として闇に葬り去られ、世界の為に自身を封印した勇者は不死の魔王と差し違えたと伝えられていくでしょう」
 淡々と事実を告げる雰囲気が、次の瞬間刃物のような鋭さを帯びる。
「そんな事、わたくしが許しませんわ」
 黒いヴェール越しに爛々と光る藤色の瞳は、狂気すら帯びてカミルが消えた先を睨んでいました。
 私よりも強くカミルを汚す言葉に立ち向かったヴィスタリア様。大国の王に直訴し、異形と成り果てた息子に心が壊れて狂った国母に立ちはだかった、亡き勇者の婚約者。勇者の子を孕んでいなかった事で、もはや何の意味もなくなったヴィスタリア様は、その無力を威嚇する獣のように歯噛みして悔やんでいた。
「何十年、何百年、千年掛ろうとも、わたくしは真実を伝える事を諦めませんわ」
 まるで己に言い聞かせるように囁くと、小さく息を吐いて私に顔を向けました。恐ろしい顔は無邪気な年相応の女の子の顔になって、私の頭をそっと撫でたのです。
「フェリナ様の事は伝えませんわよ。貴女は勇者と相打ちした兄に代わり、命を賭けて子を成した病弱でも勇気あるお姫様として伝わるでしょうからね」
 私はかぁっと、頬が上気するのを堪えられませんでした。
 勇者の妹として、グランゼドーラの血を後世に残せるのは私しかいないのです。遠縁の親族はいますが、子孫を残す役目を譲るつもりはありませんでした。勇者や盟友として命懸けで使命を果たしたように、王女として責務を全うしたい。
 でも、それって、殿方とあんなことやこんなことをするのでしょう? は、恥ずかしいわ…!
「でも、そう伝わっては欲しくありませんわ。子を産んで生き延びて、わたくしの結婚式に出てきていただきますわよ。頑張ってアラハギーロの大砂漠を超えていらっしゃい」
「セレディーネちゃんに頼んどくから、出産を乗り越えて長生きしような!」
 そう、私の顔を覗き込む笑顔が、私の胸を温かくする。
「カミルは、アルヴァン兄様を救ってくださいますよね?」
 ヴィスタリア様は、はっきりと頷いてくださった。
 盟友は勇者を救う。
 そうなる運命が、きっと未来にある。