コイントスに命を懸けて - 前編 -
ざあざあと降り注ぐ豪雨の音が響く薄暗い城内を、燭台や松明の灯りが照らしている。
特に勇者アルヴァンと盟友カミルの像が建つ場所は天井が高い為に光が届かず、不死の魔王と戦った英雄達の顔は闇に溶け込んでいた。そんな二人の尊顔が見える場所に膝をつき、娘は一人祈りを捧げていた。
「先代勇者アルヴァン様。どうか不死の魔獣を討ち、世界を守る勇気を分けてください…」
娘の切なる願いが叶うよう、わしも先代勇者様であり、ご先祖様であるフェリナ様の兄上に祈る。そして、先代の勇者様の悲痛な想いを噛み締めていた。
高貴なる御方と呼ばれし勇者アルヴァンの妻ヴィスタリア様が伝えた伝承と、王家の迷宮を踏破した娘達の言葉から闇に葬られた千年前の状況が明らかになった。その上で、わしは勇者アルヴァン様は己の死後を予想できていたのかもしれないと思ったのだ。
娘のアンルシアと同じく勇者として大魔王を討伐した後は、グランゼドーラの王となり為政者となる道があった先代。そんなアルヴァン様ならば、為政者としての判断に理解があったはずだ。
秘術を使い化け物と成り果てた勇者の死は、不死の魔王との名誉ある相打ちと書き換えられる。盟友カミルは勇者の死の責任を負わされて、よければ追放、最悪処刑の未来。当時のグランゼドーラ王であるジュテ王の完璧な勇者の国でありたい願望は、わしの中にも存在する。
そんな最悪の死後の世界に盟友を置き去りにする事が、どんなに残酷なことか、アルヴァン様は理解していただろう。互いの想いが通じ合っていれば、共に死ぬ事が最も幸せな道だと察していたかもしれない。
それでも盟友を死なす選択を、選べなかったのだろう。
娘が盟友の死を拒んだ時の悲痛な声は、まるで生きながらに身を引き裂かれるような悲鳴だった。トーマの死に勝るだろう声が、娘と盟友の魂が結びつく程の絆を示している。盟友とは勇者にとって己の半身であり、命よりも大切なものであり、必要不可欠で、決して失いたくない存在なのだ。
娘が過去から持ち帰った禁術を使い、化け物になってでも不死の魔物を討ち、穢れた魂を王家の迷宮に封印する。勇者の使命を果たし盟友を生かしたアルヴァン様の選択を、娘がなぞる覚悟を決めていたのを知っている。
目の前で跪く娘の細い背中を見下ろす。
大魔王を倒し平和になった世界で、娘は幸せに生きていくはずだった。良き婿を迎え、わしが整えたグランゼドーラ王国の治世で穏やかな日々を過ごし、子や孫に看取られて寿命を迎える。ナドラガンドから救出されて、ようやく幸せな未来が娘に与えられるはずだった。
なぜ、神はこんな過酷な運命を我が娘に課すのか?
ぐっと拳を握っていると、人々の足音が城中から集まり闇をくすぐる。手を解いて振り返れば、娘が信頼する仲間達が準備万端で立っていた。盟友は防水のフード付き外套を羽織って、たくさんポケットがついた道具鞄を抱えるように装備しているし、そんな盟友をフードに収め要塞みたいな大盾と重厚な鎧を纏う保護者が立っている。宿屋協会の警備部長と、過去に旅立って見事禁術を入手してきた若者達も並んだ。彼らの背後にはノガート兵士長と大臣のコルシュが控えている。
そんな錚々たる面々から一歩踏み出したのは、アンルシアと変わらぬ歳に見える娘だ。光すら吸い込むような黒曜石のような剛毛は自由奔放に跳ね回り、福与かな体格が旅人の好む厚手で頑丈な服を着ていても冒険者に結びつかない。にこにこ無邪気で、どこぞの村の出身と言われたら信じてしまう素朴な娘。
そんな娘が禁術の宝玉を乗せた布を大事に捧げ持ち、頬にくっきりと笑窪を刻んで言った。
「アリオス王様とアンルシア姫様に、ご報告します!」
女性の握り拳程度の宝玉は硝子玉の中に白い液体と黒い液体を注ぎ込んだような不思議な球体で、二色の液体は揺れ動いても決して混ざり合うことはない。過去から持ち込まれた先代勇者が不死の力を封じる際に用いた秘術の宝玉は、相変わらず心がざわつく不気味な雰囲気を漂わせていた。
それを福与かな指先がひょいと摘むと、ぐっと指先に力を込める。宝玉に魔力が注がれて淡く光ると、弾かれたように浮かび上がった。次の瞬間、闇に沈んだ天井一面に巨大な魔法陣が浮かび上がる。白い魔法陣と不気味な紫の光を這わす黒い魔法陣が重なって広がる様に、集まった者達が一様に首を仰け反らせて魅入っている。
「伝承の通り、ありとあらゆる力を封印する禁術だよ」
白い指先が頭上に広がる魔法陣を指差して、不吉な術の内容を告げる。
「黒い魔法陣は魂を封印の術に作り替える禁術で、白いのが魂を破壊の術に変換する。魂を禁術によって魔法に変えてしまった空白部分は穢れとなり、術者の魂に致命的な損傷を与える。これは、そういう禁術だよ」
この瞬間、ヴィスタリア姫が現代に残した伝説は事実であり、誰かが犠牲にならなければ魔獣の不死の力を封じる事ができないのだというのが確定した。
わしは生唾を飲み込んだ喉仏が大きく上下したのを、他人事のように感じた。長く瞑目していた瞼をゆっくりと押し上げ、娘の仲間達を割り、家臣達の間を通り、物見台から正門に至る広間を見下ろした。そこには繭の出現と魔獣の襲撃という命の危機が迫る状況下でも城に残り、勇者と王族を支えてくれた忠臣達が集まっていた。
彼ら一人一人の顔を心に刻むように見つめ、わしはそっと口を開いた。腹の底に息を送り込み、嗄れそうな喉を咳で払う。
満を時して迸った声は、見事押し寄せる雨音を薙ぎ払った。
「触れに出した通り、現在のグランゼドーラは…。いや、世界は危機に瀕しておる。不死の力を持つ魔獣を討ち果たせなかった場合は、その損害はアストルティア全土に及ぶであろう」
集まった家臣達が表情を引き締めた。
戦う力を持つ者は命を賭ける覚悟を新たにし、戦えない者も最後まで己の為すべき事をする決意を固める。間近に迫った死をも跳ね除け、使命を全うしようとする頼もしい表情に、わしは誇らしさが込み上げていた。
「不死の力を封じる方法として選べる選択は一つだけ。先代勇者アルヴァン様が用いた禁術を使う事である」
ざわりと、家臣達の顔に動揺が走った。王家が過去の勇者が禁術を用いたという汚点を、認めたという発言に他ならないからだ。
時間を掛ければ他の方法があるやも知れぬ。しかし、千年前の賢者様が勇者アルヴァン様が使った禁術以外の方法を見出せなかったからこそ、現在に不死の魔王に対して使った禁術以外の術が存在しないのだ。この瞬間に選べる方法は、アルヴァン様の禁術以外存在しない。
娘が袖を引き不安な顔でわしを見上げたが、そっと肩に触れて前を向く。
「禁術は単独で使うならば必死の術である。先代勇者であり不死の魔王を討伐したアルヴァン様でさえ、例外ではない」
しかし! 私は鋭く声を発した。
「勇者アルヴァン様だからこそ、一人の犠牲で済んだだけだ。この禁術は、一人の犠牲があれば完遂する術でない!」
三つ目の神話の勇者の名を持つ賢者は、魂を魔術に変換する禁術について知る限りを説明してくれた。
魂を使用する術が禁術には、二種類の発動方法がある。
一つが魂を消費する禁術。魂を消費することで、一定の力が必ず発動するもの。
そしてもう一つが今回我らが魔獣に使用する禁術である、魂を魔術に変換する事で発動する禁術である。この発動方法は禁術に変換される分だけ魂が使用されていく。その為、使用者は即死せず、アルヴァン様は不死の魔王を討伐できたといえる。
魂を魔術に変換する禁術には、最悪な問題がある。
発動時間が長ければ長いほど、効果を強く望めば望むだけ、多くの魂を必要とするのだ。
アルヴァン様はたった一人で禁術を使って、自身を封印するまで自我を保てたが、アルヴァン様以外の人物が使って同じ結果になるとは限らない。魂が急激に穢される状況に耐えられなければ魂は壊れ、禁術は自動的に解除され最初からやり直しとなる。魔獣を葬るまでの間、禁術を発動させ続けられるかは、やってみないとわからないというのだ。
これほど、肝が冷える賭けが存在するだろうか?
わしは当時のジュテ王と同じく、盟友やその保護者が禁術の使い手となり、後の世に英雄として伝えれば良いと浅ましい事を考えていた。しかし、勇者に近い精神力と使命を持った盟友や保護者が倒れた場合、誰の魂を禁術に捧げればいい?
己が禁術を使う状況になると自覚した瞬間、わしは己の愚かさを痛感した。そして醜い人間らしく、皆が助かる道を必死に模索しようと思ったのだ。
家臣達の動揺が落ち着くのを見計らって、わしは静かに語りかけた。
「だが、多くの者が術に参加し魂を捧げることで負担は小さくなり、誰も死に至らぬ可能性を、ここにいるロトという賢者が示した。私は、それに賭ける!」
魂を魔術に変換する禁術には、抜け道があるとロトは言った。
発動時間が長く効果が強いほど多くの魂を必要とする秘術には、使用者の制限が存在しない。その特性を逆に利用するのだ、と。
複数人で使えば禁術に変換する魂の量は分散し、変換した結果生まれた穢れの程度が軽ければ魂の自己回復が望める。人数が多ければ魂が壊れる前に術から離脱して死亡を免れることもでき、離脱したことで術が中断されることもない。それが『誰も死なずに禁術が使える』カラクリの仕掛けだ。
最初から最後まで禁術を行使する者が必要となるが、ロトは提案者としてやり遂げると約束してくれた。グランゼドーラとは何の関わりもない、行き摺りの旅人に追わせる負担ではないのはわかっている。それでも、わしは彼女の覚悟に術の成功を確信した。
「私が、最初にこの術の志願者となろう!」
ざわりと、動揺が膨らんで弾けた。王自ら命を危険に晒すなど、王国の存亡に関わるからの。だが、わしは王として最低な事を民に頼まなければならない。
わしは拳を振り上げ力強く断言した。
「そして、私と共に皆で不死の力を封じた魔獣を、勇者と盟友が討つのだ!」
お父様! 娘が強い言葉が、わしを貫く。
「いけません! お父様はグランゼドーラの王です! お父様の代わりに、私が…!」
兄が死んだ傷は癒え切らぬのだろう。父親の覚悟を前に毅然とした勇者の顔は崩れ、泣きそうな娘の顔があった。わしは不安に下がった眉尻を愛おしそうに見つめ、胸の前に強く握った拳を解して温めるように指先を包んだ。
「勇者と盟友は世界の希望だ。アンルシア、ピぺ、お前達は志願してはならぬ」
どうして、最初からこうしてやれなかったのだろう。
トーマが勇者の影武者を申し出た時、なぜ、わしは許してしまったのか。世界を守る勇者の国の王として、その判断は正しかった。しかし、父親としては間違っていた。トーマもアンルシアも等しく大切な子供であり、勇者であるなしに関わらず守っていかねばならなかった。
未来ある我が子の為に、親として役立てるなら命とて惜しくない。
ラチック。わしの声に盟友の保護者は、ゴーグル越しに視線を合わせてくる。
「盟友の保護者として、共に魂を捧げてはくれぬか?」
「もちろん」
厳つい黒々とした顔が笑みで綻び、白い歯が三日月のように浮かび上がった。低い夜の声が、喜びを滲ませて『ピぺとアン 守る』と答えてくれる。そんなラチックの傍から、警備部長の赤髪がひょっこりと覗いた。
「俺も参加しとくよ。俺が闇に穢れてバケモンになった瞬間に、俺の天使様が殺してくれるだろうからよ」
私も。俺も! わしも! 残った家臣達が次々と声を上げる。
一人一人が勇者の国に仕える者として、世界の平和に貢献している自負のある者達だ。力ある者も、非力で戦闘とは無縁であった者も、勇者の勝利に貢献できるなら命を捧げることも厭わぬ決意を秘めている。それらが顕になった目の前の光景を、わしはグランゼドーラの王として万感の思いで見ていた。この国の王である事に、目が眩むような誇らしさが募る。
わしは娘を抱き寄せ、忠臣達を正面に見る。
それでも、勇者である娘は申し訳なさそうな困った顔をしていた。勇者として守るべき者達に助けられなければ、目の前の危機を乗り越えられぬことが、勇者の力量不足と感じているのだろう。
そんな勇者の心を見透かすように、声が響いた。
「甘えていいんだよ、勇者様」
ロトの紫色の外套が忠臣達の合間を割って進み、城の門を開け放った。
白濁した外の光が城内の闇を切り裂くように差し込み、ごうごうと豪雨の音が流れ込んでくる。勇者の橋の上に浮かんだ、賢者達が生み出した四重の空封は大きな亀裂が今まさに走ったところであった。
亀裂は瞬く間に広がり、豪雨の中で魔法陣が描かれた巨大な球が砕け散る。瀑布のような雨の向こうに、魔獣の巨大な影がのそりと身を起こした。
それを見届けて、明るい声が導きの旗のように翻る。
「世界は、皆で守るもんなんだからね!」
そうだ! 誰もが同意した言葉が、高々と掲げられた輝きと重なる。
「さぁ! 宝玉に心を向けて! 繋げるよ!」
燦然と輝く宝玉へ意識を向けると、光が己の胸を貫く。まるで心臓に杭を打たれたような痛みに体を折り曲げたが、不思議と新しい力が痛む心臓から広がるのを感じでいた。
まるで普段使い慣れた呪文のように、邪魂の鎖と聖魂の剣の使い方が分かる。
そして、まるで自分自身のように宝玉と繋がった魂の存在を感じていた。作ったことのない料理が上手く作れるような、知らない知識が何故か当たり前のように理解できるような、見たことのない景色に抱く既視感。己と他人の力が混ざり合う感覚。忠臣達と一つになったような連帯感が、わしの心をこれ以上もなく昂らせる。
わしは剣を抜き放ち、高らかに宣言した。
「征くぞ!」
世界の命運を賭けた戦いの第二幕は、我らの雄叫びによって幕を開けた!