コイントスに命を懸けて - 後編 -
嵐によって巻き上げられた潮と大粒の雨が混ざり合い、繭が仄かに振りまく光に照らされ、勇者の橋は嵐の只中で烟っていた。濡羽色の石畳の上を強風に叩きつけられた雨粒が白い線を描いて駆け抜け、強風が表面を撫でて水を彼方へ押し流す。賢者様達が生み出した四重の空封の残滓が、あっという間に風に攫われていく。
不死の魔獣は四重の空封に封印された状態より、ひと回り巨大になっていた。
体を覆う硬い表皮は濃い紫色になって金属めいた光沢を帯び、角のような突起がより鎧の意味合いを高めていく。筋肉が脈打つ肌は晴天の下に広が海の色だったが、雨粒が触れると音を立てて蒸発し白い蒸気を纏わりつかせていた。最も顕著なのは尾で、赤い飾りのついた斧のような刃が付いている。手足についた爪は一回りも巨大になり鋭さを増し、逆に口元の牙は小さくなっている。
小さく開いた顎に赤い稲妻の亀裂が走る。
「弱き者共。滅びろ」
まるで金属を剣先で引っ掻いたような耳障りな声には、私達人間を滅ぼすという明確な意志が感じられた。そして、確実にそうできるという自信が、辿々しい口調だから際立つ。
「喋るだと? 進化しているとでもいうのか?」
おそらく、加勢の余力を残した上での封印解除であっただろうが、賢者様達は強い疲労を滲ませて不死の魔獣を取り囲んでいた。ルシェンダ様が驚きに腰を浮かす横で、エイドス様の帽子のツバから滝のように雨水が流れ落ちる。
「我々の世間話を何日も聞かされているとはいえ、なかなかの賢さを備えているようだな」
私は背負ったピぺの体温を感じながら、緩く首を振った。ポニーテールに結った髪が水を吸って重く揺れ、ピぺに張り付いた。唸ったピペは瞬く間に私の髪をお団子にしてしまったわ。
「いいえ。滅びるのは不死の魔獣、お前よ!」
レイピアを突きつけた私に、魔獣の宝石を嵌めたような無機質な目が向けられる。
魔王マデサゴーラに匹敵する脅威を目の当たりにして、勇者の力が燃えるように私の中を駆け巡っていた。アストルティアを守るため。私の大切な人を守るため。今、ここで戦い、目の前の脅威を倒せと、私の細胞の一つ一つが、魂が、叫んでいる。
「我は不死。無限、蘇る」
何故なのだろう? 言い様もない不気味さが、怒りの中に困惑を混ぜ込む。その生き物には機械系や物質系の魔物に似た見た目も相まって、マデサゴーラに感じた生の厚みを感じなかった。
マデサゴーラは芸術家としてアストルティアを評価していたが、大魔王として賞賛する世界を滅ぼす事も厭わなかった。そう選択した魔族としての生き様が、大魔王の覇気として感じられたものだ。
不死の魔獣は何が原因で、アストルティアへの敵意を抱いているのだろう?
もしも、見た目の通り誰かに生み出された存在だとしたら、その敵意は刷り込まれたものである可能性が高い。目の前の不死の魔獣を討伐したとて、第二第三の魔獣が私達を襲うだろう。私達は目の前の魔獣の討伐で安堵してはならない。その背後にいる敵を、見定めなくてはならない。
油断なく眇めた視線の先で、緩く開いた魔獣の爪が雷光を鋭く反射した。
「そして、強くなる」
しかし、先ずは、目の前の不死の魔獣を討たねばならない…!
レイピアを構えた私の両脇から、二つの影が駆け出した。
「ラチック! 悪戯に魂を消費できねぇ! 確実に、一撃で、やるぞ!」
雨を弾き飛ばす速度で魔獣に迫るのは、二振の隼の剣を引っ提げたケネスだ。水を吸って相当の重量になっているだろうコートを羽織っているのに、その速度は全速力の私をも超える。やはり、皆の魂が懸かっているからか、いつもよりも声にやる気がある。
「うん!」
私と魔獣の間に立つようにラチックの大きな背中が立ちはだかり、大きな盾を構えて一歩一歩大きな水飛沫を上げながら前進する。勇者の仲間として確かな実力がある二人の圧は、己を殺害する脅威として魔獣の余裕を押し潰した。
魔獣が体を仰け反らせ、金切り声の咆哮が雨音を薙ぎ払った。
突進してくるかと身構えたラチックの背が、誰かが『上だ!』と言った声に伸び上がる。私も誰もが、頭上に重く伸し掛かるような繭を見上げた。
まるで月のような淡い乳白色の光の繭を切り裂くように、黒い線が伝う。それは繭の底の部分で雫のように大きな塊となり落ちてくる。塊が弾けると、粒ひとつひとつが腕を広げて凶悪な爪をぎらつかせる。
あれは、異形獣!
「兵士達は前へ! 賢者様達をお守りしろ!」
ノガートの鋭い声と共に、武装した兵士達が駆け出していく。勇者の橋に続々と異形獣が落ちて、瞬く間に見渡す限りが戦場と化す。爪と剣が交錯して火花が飛び散り、地面に邪悪な眼のような魔法陣が描かれたと思えば爆発を振り撒く。目の前の敵だけではない戦場に、兵士達は混乱の只中でも必死に戦っていた。
私も手近な異形獣にレイピアを突き刺して、驚きに目を見開いた。
手応えがない。
目の前に異形獣がいるのに、まるで空気を突いているような感覚。
しかし、見渡すとしっかりと異形獣と切り結んでいる兵士もいる。襲いくる殺気に身を屈め頭上を通り過ぎる鋭い爪を躱し、貫いたレイピアは確かな感触をもって異形獣を絶命させる。
混乱する頭を、甲高い声が貫く。
『アンルシア姫! 勇者の眼を使うのでアール!』
真実を見抜き、幻を打ち消す勇者の眼。声に従って目を凝らすと、戦う兵士達の魂の輝きと異形獣の魔瘴を煮詰めたような闇が入り乱れている。戦場の向こうにいる大きな輝きは、ケネスとラチックだろう。
ふっといくつもの異形獣の頭上に小さい炎が灯ると、漆黒の闇が透けて見える。
幻だ!
驚いて目を見開く私の前で、賢者ブロッゲン様が散歩するような足取りで異形獣の合間を歩く。異形獣の頭上に杖を向けると頭上に炎が灯り、その異形獣が幻であるのがはっきりとわかった。ブロッゲン様は実態と幻を見分け、印をつけているのだ!
ドワーフの賢者は、編み上げるほどに豊かな毛髪の向こうで力強い瞳を覗かせた。
「まやかしを打ち消し、仲間を助けよ」
「ありがとうございます! ブロッゲン様!」
ブロッゲン様がつけてくれた幻を勇者の眼で睨みつけると、幻の異形獣は魔瘴の煙となって潮風に薙ぎ払われていく。幻と実態を見分ける必要は無くなったが、幻をかき消すのは集中が必要だ。目の奥が痛み、消せば消すほどに視界が霞んでくる。
ピぺの小さい手が労わるように私の目の横に添えられると、目元を筆がさらりと触れる。痛みが和らぎ爽やかさすら感じて鮮明になる視界に、私は盟友の存在の心強さを新たにする。
勇者の橋が激しく揺れた。ゼルドラドが直に攻めてきた時ですら崩れた事のない堅牢な石橋が、不死の魔獣の激しい一撃にがらがらと崩れていく。ギガスラッシュの閃光が走って、不死の魔獣の加勢に集まっていた異形獣達が薙ぎ払われた。
ラチックが低く腰を落として、盾を身構える。
「邪魂の鎖 出る!」
ラチックと王宮の門の前で禁術の宝玉を制御するロトさんの間を、蜘蛛の糸のように細く絹糸のように煌めく銀の糸が結ぶ。ケネスやお父様といった禁術に参加した者達をも結んで、まるで光の河の中にいるような神秘的な光景を生み出した。魂の輝きは雨に濡れた冷たい体を暖かく愛撫し、不安な心に寄り添い、怖気付く気持ちを勇気で鼓舞する。
その一つを、真っ黒い邪悪な闇が遡っていく。
それがラチックの背に到達すると、ラチックが がくりと膝を付いた。
「いたい! いたい! 死ぬより 痛い!」
ラチックだけじゃない。傍に立つお父様も、胸を掴み顔を苦悶の表情に歪ませる。銀の糸に結ばれた者達の殆どが動けなくなり、防衛の為にと不参加を命じられたノガートが動ける者に守るよう指示を飛ばす。
ラチックに落とされようとした三連続ドルマドンが、二重のギガスラッシュで消し飛ぶ。残り一つをスペルガードで凌いだ大柄な弟子の頭を、助けたはずの師匠がぽかりと叩いた。
「俺も死ぬより痛ぇとは思うが、気合いで動け!」
そんな乱暴な師匠に、ラチックは可愛らしく小首を傾げてみせた。
「ケネス 死んだ事 ある?」
「あるある! 百万回くらいあるぞ!」
がらがらと痛んだ声で叫ぶケネスの顔にも、びっしりと脂汗が浮かんでいた。それでも、その顔は無理矢理だとしても笑っていて、意地の悪いケネスらしい表情だった。『嘘だ』『本当だって』そう互いの脇腹を突き合っているのを見ていると、突然の魂を削られる痛みの衝撃が和らいだらしい。膝を付いた兵士達も己の武器を持ち直し、戦いの邪魔にならぬよう後退を始める。
ケネスがラチックの背を、バンと叩いた。
「行ってこい! ラチック!」
ラチックが両手で盾を構え、全速力で不死の魔獣へ駆け出した。
その勢いはまるで戦車のよう。阻もうとする異形獣を弾き飛ばし、叩きつけようと振り上げた不死の魔獣の腕から上がケネスの剣によって斬り飛ばされる。再生のためにボコボコと盛り上がる肉だが、ラチックが懐に入る方が早かった。魔獣の目元から三つの光が迸ったが、ラチックは盾の陰で身を屈め、うまくこれを回避した。
「鎖よ! 不死の力 封じろ!」
不死の魔獣の懐に入り込んだラチックが、渾身の力を込め盾で突き上げた。足元の石畳が ばきりと音を立てて割れ、突き上げられた不死の魔獣の背からまるで真っ黒い大樹が生えたように、無数の鎖が貫いた。その鎖の中に引っかかるように黄金の光を放つ大きな力の塊がある。
あれが、不死の力…!
が。が。不死の魔獣が顎を大きく上げ、再生が止まった腕を光の塊へ伸ばす。
「不死なる精魂、我に、力を…!」
光の塊から光が溢れると、光に触れた不死の魔獣の腕が再生を再開する。その腕を踏み台にし、ケネスが不死の魔獣の上を取った。
銀の光の河を放たれた矢の速さで黒い光が逆流し、ケネスに到達する。ケネスは歯を食いしばり、真っ黒に染まった両手で黄金の不死の力を掴んだ。溢れていた光がぎゅっと玉の中へ引っ込み、不死の魔獣の腕がどろりと腐って落ちていく。
「これはお前のものじゃねぇ! ネロドスのもんなんだよ!」
怒り狂った魔獣が尾を振り落ろし、ケネスが橋に叩きつけられる。意識を失ったのかぐったりしたケネスだったが、不死の力を胸に抱え込んで手放さない。そんなケネスを殺意を迸らせ見下ろした魔獣は、大きく尾を振り上げた。
「ケネス!」
例えケネスであっても、不死の魔獣の渾身の一撃を受けたらタダじゃ済まない!
仲間を助けようと駆け出した私の横を、さらに早い速度で誰かが追い抜いていく。その背を黒い光が遡り、手に持った剣が眩い光を放つ。
グランゼドーラの紋章が刺繍された真紅のマントを翻し、光の剣を下段に構えたのはお父様。振り下ろされる尾を下から切り上げた剣は、まるで柔らかいものを斬るように難無く尾を分断した。絶叫する不死の魔獣を後目に、お父様はケネスの傍に膝をつき、抱え込んだ不死の力に手を伸ばした。がっちりと掴んだ手の間に剣の鋒を当て、お父様はまるで魔王ネロドスに向かい合ったように表情を引き締めた。
「魔王ネロドスよ。其方の宿敵の代理として、今代の勇者の父であるこのアリオス、聖魂の剣にて不死の力を打ち砕こうぞ!」
お父様が両手に持った鞘に全体重を乗せ、ガクンと揺らいだ。まるで大地を割ったような重い音が響き、千年前にグランゼドーラを脅かし、現代において再度脅威となった不死の力が断たれたのだ。
ざぁざぁと降り注ぐ雨の中、憎悪に塗れた咆哮が迸る。
「よくも! よくも! 我の力を…!」
地団駄を踏む魔獣に、私は静かに剣を向けた。
静かに闘気を漲らせレイピアにギガデインの稲妻が這うのを見て、不死の力を失った魔獣がじりじりと後ずさるのを見た。不死の魔王の威を借りていた魔獣の真の姿は、世界を破滅に導く存在としてはあまりにも小さく見えた。
私は魔獣に向かって駆ける。レイピアの鋒を魔獣の心臓へぴたりと向け、レイピアの刃と腕が一直線になるように肘をめいいっぱい引いて、全身の筋肉を前へ前へ走らせる。ピぺの手が置かれた部分には、バイキルトの力が込められた護符が添えられたのか力が漲る。閃光が目を焼き、ピぺの描いた暴走魔法陣の紙が白を黒く切り取る。
狙ったように、魔獣の心臓の上。
私の一撃が、暴走魔法陣を貫く。
雷光一閃。暴走魔法陣によって増幅されたギガデインが、レンダーシアの外海の彼方へ走る。真っ黒に焼け焦げた魔獣の腹は大きな穴を開けて荒れ狂う海を見せていたが、ゆっくりと勇者の橋の上に倒れた。
立ち上がらぬ脅威を見下ろし、私は勝鬨を上げた。
「これが貴方が弱き者と侮った、人間の力よ!」
わっと湧きあがった兵士達の歓声は、瞬く間に尻窄んだ。
乳白色の光を放つ繭からゆっくりと降りてくる黒い影に、気が付かぬ者などいなかったからだ。その黒い影は魔獣ではなく人間の男性だった。真っ黒の衣とマントが繭の光に沈んでいるが、闇の中に浮かび上がる片手剣の鞘に剣士であろうと推測できる。黒衣の剣士は二階相当の高さに浮いて、眉間に皺を刻んだ険しい表情で私達を睥睨した。
「早過ぎるな。何故このような事に…」
顎に当てていた手を息絶えた魔獣へ向けると、繭から糸が解れて魔獣へ掛かっていく。不死の魔獣だけではない。勇者の橋で兵士達に討たれた異形獣達も絡め取られ、繭へ引き上げられていく。まるで獣が捕食対象を食らっているような光景に、言い様のない気味悪さを感じずにはいられなかった。
あれが、不死の魔獣の背後にいる存在?
叡智の冠の賢者様達も、繭の中身がなんなのかは分からないといった。しかし、今ならなんとなく理解できる。世界を滅亡の危機に追い込むかも知れぬ脅威である不死の魔獣。それすらも吸収した繭の中には、アストルティアが滅ぶ程の厄災が微睡んでいる。
あの繭を育成しているだろう黒衣の剣士が、黒幕かは不明だ。だけれど、奴を止める事ができれば…。レイピアの柄を握る手に、無意識に力が入る。
ふと、黒衣の剣士が何かに気がついたように、鋭い目元を見開いた。
「どうやら、お前達は我が目的の障害となり得るようだ…」
ゆっくりと剣を引き抜き、上段に構えた直刀が紫の妖気を纏わせる。それを真っ直ぐに振り下ろすと、紫の光が衝撃波となって前方へ迸った。グランゼドーラ城前の後方。そこに、黒衣の剣士が殺害を決める何があるというの?
勇者の橋に巨大な剣撃を刻みつけながら走る衝撃波は、黄緑色の光によって遮られた。甲高い剣同士がぶつかり合う音を聞いて目を眇めた剣士は、剣を握っていない手で指を鳴らす。
繭から再び異形獣が勇者の橋へ滴り落ちるが、異形獣達は私や兵士達に目もくれず、剣士が衝撃波を放った先へ突撃した。しかし、その異形獣達も瞬く間に切り伏せられていく。ある異形獣は胴を両断され、ある異形獣は鋭い突きに橋から転落し、頭上を取った影がまるで舞うように複数の異形獣の首を飛ばした。両手に持った双刀の剣が ぎらりと光った瞬間、二重のギガスラッシュが黒衣の剣士に襲い掛かる。
黒衣の剣士は眉を顰め、紫の光を這わせた剣を無造作に振り下ろした。異形獣を一撃で屠る剣士の渾身だろう一撃を、黒衣の剣士は難なく相殺して見せたのだ。
何の感慨も浮かばぬ黒衣の剣士は、一つ瞬きをした合間に、元々そこにいなかったように姿を消していた。いや、黒衣の剣士だけではない。頭上に広がる繭も、先ほどまで多量にいた異形獣達もいない。
残されたのは戦いの跡と、ルアム君達が縋り付く気を失った剣士が一人。
頭上には忘れかけていた青空が、美しく広がっていた。