雪の白、黒の闇、血の赤 - 前編 -

 
 ロンダ岬に積もった処女雪が、故郷に本格的な冬の到来を告げる。
 強烈な潮風が生み出すダイアモンドダストが散る体感温度の中で、村の戦士達が夜通し舞を踊る。戦士達の燃える肉体は白い湯気を発し、屈強な男達が叩く太鼓はランガーオ山地に響き渡り、老人は篝火の火を絶やさぬよう番を務め、女子供問わず参加者達が踏み鳴らす音がロンダ岬の洞穴の氷柱を震わせる。
 ランガーオ村にとって、最も大事な儀式だった。
 腕を突き、四股を踏み、腹の底から気合を発する奉納の舞は、戦の舞として古くからオーガ族に伝わる伝統的な踊りだ。太鼓のリズムは心の臓を震わし、体の奥に炎となって燃え盛る。寒さも疲れも一切感じることなく朝日が昇るまで踊り抜ける、不思議な活力。オーガの種族神ガズバラン様の恩恵を、全身で感じられる機会だった。
 ランガーオの高い山を越えて太陽の光が届いたのは、昼頃だった。村王の合図で太鼓の音と舞手の高らかな気合いが大きく響き、盛大な拍手と歓声で儀式は終わりを告げる。村の女達が炊き出してくれた暖かい食事や酒が行き渡り、参加者達は熱る体をロンダ岬に吹き込む潮風で冷ましていく。
 自分も二人分の食事を手に、友人達の元へ向かった。
「美味そうな匂いだな! ルミラ。ありがとう」
 虹を帯びた銀の鱗が肌を覆い首から上は竜の頭が据わっているダズニフは、待ちに待った様子で自分を迎えた。黒曜石を彷彿とさせる黒々とした角と同色の柔らかい髪は目元に厚く落ち、強風に吹き上げられると固く閉ざした瞼が覗いた。白と紫の布を合わせて帯で締める原始的な装いだが、光の加減で模様が浮かび上がる一目で最高級と思わせる布だ。引き締まった肉体が布地から浮き上がり、種族神の長子の子供らしい威厳を漂わせている。
 鼻の穴を膨らませたダズニフは、嬉しそうに皿を受け取った。
「グランゼドーラの方が騒がしいってのに、こんな貴重な儀式に参加させてもらって飯まで貰えるだなんて、申し訳ねぇな」
 アストルティアが滅ぶ未来が迫っていると、ルアム達は自分達へ手紙を出していた。
 実際にグランゼドーラ上空に巨大な繭が出現し、その周辺の天候が嵐の続く異常気象にさらされている。不死の力を持つという異形の魔獣が出現し、勇者アンルシア姫と盟友のピペ、仲間であるラチックとケネスとで討伐する予定だと手紙には綴られている。仲間の危機に駆けつけたい所だが、これだけ歴戦の猛者が集っているのなら問題ないだろうという信頼がある。
「この儀式はオーグリードの安寧に、必要不可欠な重要性を持つと伝えられている。村王たっての参加要求に応じてくれて感謝しているよ」
 ギルに繭の偵察をさせるか返事を書いた時、その嵐の苛烈さから危険だと断られた。ダズニフなら可能だったかもしれないが、ランガーオの儀式を優先してくれた心遣いはありがたい。
 この祭りに参加した他種族の者は、一千年以上の歴史の中でも数える程度しかいない。それだけこの儀式は重要であり、その儀式の参加を許された者はランガーオに深い縁を持つということ。見学を申し出た吟遊詩人だという人間の男は勿論、自分達の友人としてついてきたギダも、ロンダ岬に立ち入る事を認められなかったしな。
「ランガーオ村を守った英雄だなんて、こそばゆいよ」
 複雑な顔をした横顔に、自分は気にするなと笑う。
 神の器を狙ったアンテロが飛竜を嗾け、ランガーオ村は襲撃を受けた。建物の損壊は酷かったが、死者が一人も出なかったのはダズニフのお陰だ。同族の尻拭いをしただけと笑うが、村の為に死力を尽くしたダズニフに恩義を感じる村人達は多い。
 ダズニフが顔を上げると、こちらに向かってくる一際大きな影がぬっと落ちた。木をくり抜いたジョッキに注がれた熱い酒の湯気で顔は見えないが、挨拶もせずに硬い雰囲気を醸す朴念仁を自分はよく知っていた。
「飲み物を取りに行こうと思っていたのだ。ありがとう、ジーガンフ」
 ジョッキを受け取り席を薦めると、ジーガンフは毛皮と敷き布を重ねた宴席に腰を下ろす。引き締まり隆起する立派な肉体を持つオーガの戦士でも、一際体格に恵まれた男だ。精悍を通り過ぎ岩のような愛嬌のない顔に、短く切り揃えた黒髪はよく似合っている。
「ジーガンフ殿。貴殿のような素晴らしい実力者の隣で、舞を踊れてとても楽しかった」
 熱い酒を片手に朗らかに賞賛するダズニフに、ジーガンフの表情筋はぴくりとも動かない。初対面の相手であれば戸惑うだろう反応だが、目が見えないので気にもしない。
「敬称は要らん。ダズニフ殿のような武人と出会えた事が、俺にとって何よりの収穫だ」
 じゃあ、俺もダズニフって呼んでくれ。気さくな声に『うむ』と、ダズニフだから聞き取れる唸り声が返る。
 毎年、ランガーオ村の武術大会の優勝者が儀式の中央で舞手を務めるが、今年は飛竜の襲撃で大会が中止されている。村王は傷の深さに日常生活に支障はないが、時折、内臓が引き攣るのか動作にぎこちなさが生じる。村王の娘婿も、一命を脱したばかりで日常生活が精々。そんな父と婚約者の世話を甲斐甲斐しくする村王の娘。
 村の中核を担う存在が舞手を担えない状況の中、呼び戻されたのがジーガンフだった。マイユと並び神童と呼ばれる才能を見せていたが、修行の旅に出てから更に磨きが掛かったといえる。
「旅立つ前に一戦交えたい」
 喜んで。赤い岩のようなオーガの手と、鱗が覆う竜族の手ががっちりと握られる。暇乞いをして離れていくジーガンフを見送り、ダズニフは『ルミラ』と随分深刻そうな声で囁いた。内緒話をするように、頬の横に手を添える。
「ジーガンフはお前に好意を持ってるのか?」
 想像だにしなかった言葉に、思わず吹き出してしまった。あぁ、勿体無い。
「そんな、笑うかぁ? お前に声をかける時、鼓動が早まるからよぉ。気があるのかって思うじゃないか」
 溢れ出た声が可笑しさに弾む。拗ねて背を丸めるダズニフの背を撫で、自分はジーガンフの消えていった方角へ視線を向けた。
「姉はジーガンフに『大人になったら、ジーのお嫁さんになりたい』と告白したことがあるのだ。姉と自分は瓜二つだったから、大人になった姉を想って意識してしまうのだろう」
 ジーガンフと自分達はランガーオで子供時代を過ごした幼馴染。しかし、病弱な姉は家のベッドにいることが殆どで、健康で武術の才能に溢れたジーガンフに憧れるのも当然の成り行きだったろう。南のガートランド王国へ旅立つ日、姉は両親や妹の自分の目を盗んでジーガンフに告白したのだ。
 叶う事のない告白だと、誰もが分かっていただろう。
 姉はもう二度とランガーオに戻れず、長く生きられない事を悟っていた。
 ジーガンフとて、姉が大人になれるとは思っていなかったろう。まるで枯れ木のように細い手足の病弱な姉に、何の魅力も感じていなかったに違いない。
 それでも、姉の想いはジーガンフに微かにでも届いたのだろう。
「死んでしまった姉を想ってくれる。これほど素敵な事はない」
 力を尊ぶオーガ族において結婚を申し出る女子も引く手数多な男が、未だに修行にのめり込む朴念仁。愛も快楽も知らず武術を極める人生を、人は寂しいと言うのかもしれない。
 それでもジーガンフの最も近い場所にいる娘は、今は亡き姉に違いない。
 あの男は、あぁ見えて情の深い男なのだ。

 宴もたけなわとなり、空になった釜や篝火の台座が片付けられ撤収の雰囲気が漂ってきた頃、ダズニフが弾かれたように顔を岬の方へ向けた。自分も異様な気配に鋭く視線を向ける。
 断罪絶壁の岬の先端に打ち付ける波が、白い飛沫となり、日差しに透かされて輝く。轟々と響く波の音と裏腹に穏やかに広がる青い海に、鋒を突きつけるように伸びる黒々とした岬。
 薄明るい空に、ぽっかりと黒い点が穿たれていた。海鳥のように風に流されるでもない。まるで見えない地面に立っているように、黒い人影は外套を海風にはためかせていた。その人影はゾンガロンが封印されている石壁に、剣を抜いて鋒を向ける。
 誰だ?
 そう誰もが疑問を浮かべる前に、ダズニフが駆ける。
 振り下ろした剣から紫色の衝撃波が走り、ゾンガロンが封印された石牢が爆ぜる。放物線を描いて砕け散った岩が降り注ぎ、儀式の参加者達が逃げ惑う。その中で村王の側近を務めるギュランが大きく腕を振って、ローブの裾が旗のようにひらめいた。
「氷穴に駆け込め! そのまま、ランガーオへ駆けろ!」
 ギュランが自分の視線に気がついて、小さく頷いた。
 ランガーオ山地に生息する魔物は強い者から腕試しで狩られてしまうので、村の周辺は魔物でも最弱と評されるスライムや一角兎くらいしか近寄れない。この儀式に参加するような者なら、老人でも返り討ちにするだろう。
 黄緑色の閃光が岩の影を貫く。
「貴様! ナドラガ様に何をした!」
 粗暴な態度でも普段は温厚なダズニフからは想像もできない、怒りに満ちた声が頭上から降ってくる。振るった拳が悉く防がれたダズニフの横から、自分は男を見上げた。村の戦士がアイスコンドルすら射落とす豪速球の石礫を放つが、甲高い音と共に生じた黄緑色の障壁に阻まれる。
「あの防壁、ルアムの兄テンレスが時の力を用いた物に似ている」
「教団が手も足も出なかった殻か!」
 竜の顎が力一杯歯軋りし、まるで砂利を噛み砕くような音を響かせる。拳を握り込み ぶるぶると全身を震わせるダズニフの肩に、そっと手を置く。
「落ち着け、ダズニフ。らしくないぞ」
「あの男、ナドラガ様の血を被っている! しかも、ナドラグラムで魔瘴に膨れ上がった時の血の匂いだ!」
 ダズニフは盲目故に、視力以外の全ての感覚が鋭敏だ。そんなダズニフが男からナドラガ神の血の匂いがするというのなら、間違いはないのだろう。
 しかしナドラグラムで復活した時に、あのような男がいただろうか?
 がらがらと石牢が崩れる音が収まってくると、地響きが体を突き上げる。石牢を構築していた石壁に、鋭い爪が掛かり、のそりと黒い体が日差しの下に這い出た。
 ごくりと、生唾が乾いた喉に張り付いた。
 ロンダの岬へ行き、封印された悪鬼ゾンガロンを見にいく。それはランガーオの子供達が一度はする肝試しだった。連れ戻そうとする大人達を掻い潜り、雪原や氷穴の魔物達を倒す力を持って達成した子供達は生涯同世代の英雄だ。自分もマイユとジーガンフとアロルドとで、ランガーオ史上最年少で成し遂げた偉業。しかし、英雄達は子供らしく偉業を触れ回ったりはしない。
 子供達は見るだろう。
 石牢の奥に囚われた悪鬼の、身の毛がよだつ邪悪さを。今にも瞼が押し上げられ、恐ろしい相貌に射竦められる恐怖。その鋭い爪が心の臓を貫き、その巨大な手に押しつぶされる幻。封印されて尚、何も知らぬ子供達をも震え上がらせる圧倒的存在感。
 封印の奥深くで微睡んでいた姿が、見たこともない角度でそこにある。
 二本足で支えるには重すぎる筋肉を支える、隆起した大岩のような腕と、前進する太腿が発達した黒光する足。背には真っ黒い手の形をした翼が生え、その根元にから顔の前へ大きく湾曲した金属質の角が生えている。白髪の立髪はまるで髪や髭のように艶やかで整っていて、知性の名残のように毛皮を加工した腰布が巻かれている。
 にたりと笑みの形に持ち上がった口が開き、白い息を吐いた。
「礼は言わぬぞ、人間」
 封印を破壊した黒衣の男は口元をわずかに持ち上げ、忽然と姿を消す。
「武器を取れ! ランガーオの戦士達よ!」
 村王クリフーゲンの叱咤に、縮み上がった戦士達が我に戻る。
 掲げた剣が、潮風に巻き上げられた飛沫を浴びて きらりと輝いた。
「ランガーオの民がオーグリードの全ての同胞と交わせし盟約を、果たす時!悪鬼ゾンガロンが復活する時、我らは命を顧みずこれを討つ! 全ての鍛錬はこの時の為!」
 オーグリード大陸でランガーオ村は特殊な地位を持っている。オーグリードに創立するありとあらゆる王国は、この地を支配してはならない。その対価としてランガーオの民は悪鬼ゾンガロンの封印を監視し、もし封印が破られる事があれば全力を持ってゾンガロン討伐を試み、速やかにオーグリード全土へ伝える役目を持っている。
 この盟約が破られた事は、ランガーオ村の歴史上一度も存在しない。
 悪鬼ゾンガロンとは、それほどの脅威なのだ。
 まさか、自分の目の前で運命の時を迎えるとは思わなかったが、ランガーオの民として、一人の戦士として最善を尽くすのみ。ぐっと握った柄の感触は、己の心を深雪のように鎮める。
 オーグリードのどんな巨大な王国の戦士にも引けを取らぬ歴戦の勇士達が、己の獲物を構え悪鬼ゾンガロンへ向ける。その様を愉快そうに睥睨していたゾンガロンは、その巨大な顎門を開き、ランガーオ山地へ向けて宣戦布告とも言える悍ましい雄叫びを上げた。
「我の復讐の前菜として喰らってやろう!」
 戦士達の包囲網から、いの一番に飛び出したのはジーガンフの巨躯だ。武器を持たぬ生粋の武道家の戦い方が、オーガでも巨大な体躯であってもエルフのような俊敏さを発揮する。
「雪辱を果たす機会が、こうも早くに巡ってこようとは…!」
 先陣を切ったジーガンフに戦士達が続く。
 ゾンガロンの振り下ろした拳を、両手を交差して受け切ったジーガンフの足元が砕ける。それでも膝が折れる事なく受け切り、動きを止めた悪鬼に戦士達が襲い掛かる。
 悪鬼が唸り声をあげて首を捻り、顔の前へ伸びる角で戦士達の振り下ろす剣を受け流す。片手で雪原竜をも倒す戦士達が薙ぎ倒され、翼に切り掛かった戦士を逆に振り払う。足元に倒れた戦士を叩き潰そうとした腕に渾身の力で両手剣を叩き込んだが、固く硬った筋肉に阻まれて刃が入っていかない。
 銀の鱗のギガントヒルズに姿を変えたダズニフが、戦士達に注意喚起の雄叫びを上げて突っ込んでくる。驚きに目を見開いたゾンガロンはジーガンフを押さえつけていた手を離し、ダズニフが突き出した手を掴んだ。悪鬼の体は岬の先端に向かって、地面を砕きながら下がる。大岩のような重量と膨大な筋肉量を誇るギガントヒルズの突撃を、ゾンガロンは弾けそうな筋肉で正面から受け切った。
「竜だと…!」
 ダズニフに掛かりっきりになった隙を、ジーガンフは逃さなかった。一歩間違えれば押し潰されてしまうというのに、そのまま深く悪鬼の懐に入り込む。
 深く腰を落とし、肘を引き、拳をゾンガロンの心臓へ向ける。
「ランガーオの武を、その身に受けるがいい!」
 悪鬼が後ろ足を蹴り上げ、巨大な黒い影が宙を舞う。突き上げた拳は、わずかに届かない。
 巨大な翼についた爪が銀色の鱗を切り裂き、浅い傷でも驚いたダズニフが手を緩めてしまった。そのまま、翼はギガントヒルズの肩を掴んで巨大な体を超えると、悪鬼は戦士達に向けて巨大な口を開けた。咆哮と共に迸った黒い光を、二人の戦士が浴びる。
 昏倒した戦士を助けようとした者が、次の瞬間、驚いて身をひいた。
「がぁあああ!」
 黒い光を浴びた戦士達が、手にした武器を持って攻撃してきたのだ。それだけではない。筋肉が異常に膨張し、激しく脈打つ血管が浮き出ている。口からが唾液が流れ、目は完全に正気を失っている。友の名前を呼ぶ戦士達の声も届かず、身に染みついた動作も忘れやたらめたらに武器を振り回す。
 ダズニフが巨大な掌で暴れる戦士達を押さえつけると、誰かが『鎖を持って来い!』と声を荒げる。手から逃れようとする戦士達の力は強いらしく、ダズニフが歯を食いしばった。
「貴様らは運が良い。我がかつての全能を取り戻す時まで、生きる時間を得られたのだからな。恐怖に怯えるのも、諦めに幸せを噛み締めるも、美味に至る熟成であろう」
 視線を巡らせれば、悪鬼は岩壁の上から自分達を見下ろしている。くつくつと愉快そうに自分達が慌てる様を眺めてから、悠然と言葉を紡いだ。
「今度こそ全てのオーガを滅ぼしてくれよう!」
 山々に木霊する悪鬼の声に、オーグリードの民は脅威の復活を知る事となる。