呪文

 温泉郷マイラ、そう呼ばれた村へ向かう道程は半分を過ぎた頃から過酷な道になっていきます。
 山岳地帯の中腹を縫うように作られた街道でしたがその標高は総じて高く、平地で暮らしていた人間には空気の薄さに苦労するという話は多いのです。標高が高くなり平原で見るのとは違う植物が目に留まる頃合いになると、ローラ様の足取りはぐっと遅くなりました。同じくマイラを目指す旅人に道を譲り進む速度は正しく蝸牛でしたが、アレフさんはそれを怒る事はしませんでした。
 私が足を止めると、アレフさんは直ぐさま振り返りました。
「ローラが疲れたか?」
「あたしは疲れてないよ」
 私の隣でローラ様がアレフさんに向かって言うのを聞きながら、私はローラ様の腕を引きました。
 神経を集中させ周囲の環境を探ります。周囲を木々に囲まれ、雨が降った際に水が流れ込むからからか少し抉れたようになっている山道です。風は木の葉を擦らせさわさわと心地よい音を発している中に、何かが移動する音が混ざっている。それも、一つ二つの話ではない。
 少し困った様に私が眉根を寄せると、アレフさんは面倒そうに荷を固定していたベルトを外して荷物を路肩に放る。どさりと音を立てて転がった荷物を見る事無く、目の前を見つめた。
「待ち合わせでもしてたか?」
 アレフさんがぽつりと零した頃には、周囲の草むらから魔物の姿が現れ始めました。
 死肉の匂いを嗅ぎ付けた訳でも、殺気を必要以上に放った訳でも、大声で騒いでいた訳でもないのに集まって来るのは実は珍しい事。魔物とは大抵己の縄張りに立ち入らなければ人間を襲う事もなく、そう言った点ではマイラの山道は魔物の縄張りに非常に近い場所を歩かねばならない場所です。目の前に現れたのも、珍しい事に複数の種族の魔物達です。
 光の下では蛍光的な黄緑色の体毛を持つメイジドラキー。斜面にへばりつく様に降りて来る大サソリ。錆び付いた剣を持つ骸骨。互いに縄張りの違う存在が、人間を襲おうとしているようでした。
 アレフさんが小さく鼻を鳴らすと、剣を静かに抜き放ちました。
 彼が何度か抜いた事のある状態の悪い鋼鉄の剣ではなく、初めて見る立派な宝剣です。白金を彷彿とさせる青白く輝く刀身は鋭く光を反射し、黄金が作る鳳凰の鍔は優美な風情を漂わす。戦いの場に相応しくなさそうな名剣は、無骨で使い古された皮のグローブに握られていました。
 アレフさんが僅かに振り返り我々を見ます。
 感情を押し殺した色はそのままで、真剣味と殺気を色濃く宿した瞳は漆黒にすらみえました。魔物達を見る視線はいかに効率良く敵を倒し、平らげることができるかを考えていたのでしょう。傭兵としての強かさと経験の深さを垣間見て、私は背筋がゾッとするのを堪えられませんでした。敵でなくて良かった。そう思わせるのです。
「イトニー。ローラを頼むぞ」
 呟いた声も正に真冬の冷気の様に冷たい。
 今まで見せていた薄い日差しの日向のような、僅かな暖かみも余裕もない。それは目の前の敵に油断はないという彼の気概も含まれていたのでしょう。
 彼は惜しげもなく視線を外し、躊躇いもなく魔物達が一番密集している箇所を目指して駆け出しました。鋭い剣が大サソリを切り裂き、その反動で飛んだ尾針が骸骨の肋骨に引っかかりもろとも倒れる。メイジドラキーが得意のギラが使えなくて右往左往するなが、意を決して放ったが仲間を傷つけるばかり。
素人ならば無謀と思われる行為でしょう。しかし素人ではない者の目で見れば、一挙一動に無駄がなく的確に戦闘不能に追い込む一撃に息を飲みます。まるで舞う様に淀みなく、相手の反撃も恐れず躊躇いもない。勝敗の分かれ目ギリギリで相手を倒していく危なっかしさに、身を竦める事もありません。私にはまるで…
 死ぬのが恐くないかのように見えます。
「あ、危ないよ!イ、イトニー!!」
 今まで何度も魔物の襲来と戦闘を見て来たローラ様でしたが、今までにはない多勢な敵に単独で戦いを挑むアレフさんを見て声を荒げます。私も加勢したいと内心では思いますが、アレフさんに傾き始めた戦況を見て加勢は必要ないと判断していました。ただ、彼女の腕を引き寄せ、走って行かないよう宥めるだけです。
 それに、アレフさんには悪いですが私は貴方を護衛するようあの方に仰せつかった身。例え、貴方を見殺しにする事になったとしても、ローラ様の傍をいかなる理由でも離れる訳にはいかないのです。これくらいの魔物風情、私が本気を出せば雑作もありませんがアレフさんの敵でもありません。
 ローラ様の加勢を望む視線を抑え、私は言い放ちました。
「大丈夫です。むしろ我々が動いた方がアレフさんに危険がおよびます」
 乱闘でギラを封じ、同士打ちを誘う行動は、魔物達が侵入者を殺すために築いた柔い統率を的確に乱しています。確かに援護はできませんが、このような事ができるのも私という後衛がいるからこそです。むしろ、彼に並んで戦うには彼と共闘に慣れた存在である必要があるのです。
 切り伏せる鮮やかな手際に魔物達の中に冷静さを取り戻す者が現れ、動かない私達に示し合わせたようにメイジドラキーが向かってきます。
「何か企んでいますね。ローラ様、私の背後に回って下さい」
 ローラ様を背後に回らせて、私は攻撃に備えて杖を握り直します。
 すうっと意識を集中し、周囲の風が私の力に応じて渦を巻き始めるのを感じます。精霊達の気配が、耳元でざわめく。
 次の瞬間、ギラのレベルではない熱波が迫ってきます!メイジドラキーのギラの大合唱が放たれたのです。
 アレフさんが目を見張るのを視界の隅で、ローラ様が悲鳴を上げるのを聴覚で捉えながら、私は燃え盛る炎を生み出す呪文を唱えるため、瞬時に魔力を法則に乗っ取った形に組み上げ空気中の力に呼応させます。空気が呪文の力で白く輝き、密度が増した力が解き放たれる合図を待っています。
 鋭く突き抜けるように声を響かせ呪文を唱えます。
「ベギラマ!」
 白く輝く熱がメイジドラキー達が放ったギラの熱波を一蹴し、そのままメイジドラキー達を黒焦げにして貫き、その奥で乱闘していた一団に熱波が届く!
 ぶわっと吹き抜けた真夏よりも暑い香ばしい風にアレフさんが両腕で顔を覆い、魔物達の間を吹き抜けてゆきます。
「すげぇ…」
 アレフさんが煤けた顔で呟く頃には、集まっていた魔物達が蜘蛛の子を散らすように逃げて一匹もいなくなってしまいました。

 □ ■ □ ■

 見るだけならば雄大な大自然で美しい限りなのです。見るだけならば。
 マイラへの山道はメルキド程長くも厳しくもないですが、趣味の登山とは比べ物に生らぬ程大変です。マイラ地方は標高の高い山々が集まっており、その谷底は雲と霧の湖となって旅人達を飲み込むとされています。マイラの山道が街道の役割を担い、標高が高くもなく低くもない所を繋ぎあわせたように延々と続き、魔物対策に吊り橋よりも頑丈な石橋が崖の上を行く人々を渡しています。雪深い時期は山を登るのを禁じる時もある程、山道は険しく長かったのです。
 山の天気は変わりやすいもの。一刻前は晴天であったのが、黒雲が覆って雨が降るという事もしばしばあります。ようやく平地で慣れたローラ様の歩行も山道では辛く足を何度止めるかと心配になりましたが、突如変わる天気に足止めされる事が多くなりました。アレフさんも濡れる事は体力を奪うと、直ぐに雨宿りを決めていました。
 幸い雨宿りの場所は、森林が多い関係と小さい横穴が多くあるお陰で困りません。
 場所を決めて時間が経って、そのまま野営に移行する事も少なくありませんでした。それだけ山道が恐ろしいという事と、アレフさんが慎重なのだという事なのでしょう。
 今回も雨宿りをしてそのまま野営をする事になりました。雨で湿ってしまった木を微調整した呪文で湿気を払い、火炎呪文で焚火を作ります。その手際の良さを羨ましそうにアレフさんが見る様になりましたが、ローラ様が連れて行く事にしたスライムに呪文を教え出した頃についに口を開きました。
 『呪文はやはり難しいか?』
 その言葉を皮切りにアレフさんに呪文を教える為に様々な事をしました。まぁ、呪文を学ぶ者が最初に受ける授業みたいな初歩の初歩的な内容でしたが、そこを行っている時点で私は躓いてしまいました。
「アレフさんって、思った以上に難しい方なんですね」
 思わず呟いてしまった私の言葉に、アレフさんが怪訝そうな顔をされました。一瞬『しまった』と思ってしまいましたが、気を取り直して彼に視線を合わせました。
「魔法を使う為には先ず資質を問う必要があるのですが、アレフさんはその資質が非常に見極め難いんです」
「そうなのか…?」
 アレフさんは専門外の事だからか、思った以上に素直に言葉を受け取りました。
 私は『少し専門的な事になりますが…』と前置きして説明を始めました。
 魔法とは様々な属性傾向があり、火や水、風や雷など自然に存在するありとあらゆる力を行使するものであります。しかし、この世界に存在している生命がその全ての自然の力を行使するという事は不可能なのです。なので、魔法使いにはそれぞれ得意な呪文があり、私は火炎の呪文に秀でています。逆を言えば、火炎以外の属性魔法は全く駄目駄目な訳です。
 しかし、自然の力とは現在魔導書で形式化され人々に知れ渡った魔法のみではありません。未発見であったり、資質を持つものが少ないが為に形式化しなかった呪文も数多くあるでしょう。過去の賢者もそう示唆する内容を示されています。
 私が難しいと言ったのも、アレフさんが持つ資質の属性は未発見の分類に属するのではないかと思ったからです。呪文の基本であるメラですが、火属性の資質がなければどんなに凄い魔法使いでもメラが使えません。なので私が一生懸命教えても、魔導書に記されている以外の呪文を教えるのは難しい話になるのです。
「アレフさんはご自分が思ってる以上に資質がありますよ。魔力の点でもそこら辺の魔法使いよりも高いかもしれません」
 そこまで説明して、私は一息置いてアレフさんを見ます。
 そう、この方は彼自身や私が思った以上に素質のある人なのです。たしかに属性の資質が特殊なのではないかとは思いますが、それを差し引いても弱いながらに様々な属性呪文を扱えてもおかしくは無いでしょう。
 無意識下で常に魔力を使っているという事もあり得ます。素質が高い人程そう言う傾向が強く、人間の防御的反応から常にスカラが自分に掛かっている状態だったりする事もあるそうです。私が見た限りではそういう魔力の動きは見えませんが、この世界の存在は同時に二つの呪文を行使できないので可能性を捨てるのは早過ぎます。
「ですけど、今のアレフさんが回復呪文を必要とする程弱いとは思いませんけどね」
 言ってから私は少し笑います。アレフさんもその言葉に渋そうな顔をされました。
 実は、彼の実力こそが呪文が使えない最大の原因と私は思っています。魔法とは学んだだけで得られるものではなく、資質や魔力にも大きく左右されます。しかし、一番必要なのは行使者にとっての魔法の必要性。武術と魔術の相性が悪いのもこれが原因です。
 剣術を極めてしまったアレフさんには、魔法は必要の無い物なのでしょう。今まで幾多の修羅場を呪文に頼らないで潜り抜けて来た強者が、今更に呪文を求めてもそれはちょっとした興味や関心程度。呪文は心の底から求める程習得が容易く、その為に非力な女性や子供が悟りを開くとされています。
 アレフさんは少し諦めた様子で視線を外しました。
 潔いくらいあっさりとしています。きっと今までも何人か魔法使いに教えを請うたのでしょう。そして、どのような説明を受けたのか知りませんが、誰もが彼に魔法を教える事を拒否したのでしょう。
 彼は焚火の傍に居るスライムを見ると、ぴんと指先で弾く。ぷるんと強く震えた体に張り付いた笑顔は変わらない様に、アレフさんにしては珍しく露骨に不機嫌な表情に顔を歪めました。
「だとしたら本当に解せねぇな。スライムの方が才能があるなんてよ」
 もう一発、指先でぴんと弾く。その様子を見ていたローラ様がスライムを抱えて顔を膨らませた。
「苛めは良くないよ。アレフ」
 煩いとでも言い放ちそうな顔を苦々しく歪め、口を閉ざして目を閉じます。完全に黙り込んだアレフさんを見て、ローラ様は居心地悪そうに姿勢を直しました。
 恐らく、アレフさんは無愛想で冷静な人物を装っていますが、実は面倒見の良い賑やかな性格なのかもしれないと思う時があります。今のように何かを言いたそうでありながら、自分の感情を押し殺していると分かる時がそうでした。きっと、それは彼の持つプロ意識がさせるのだろうと思うのです。私とローラ様は依頼主。踏み込んではいけない一線を越えぬ為に、彼は己の感情を殺し踏み留まるのです。
 私やローラ様と、傭兵という同じ職種の同胞と同じ対応だとは思いません。
 しかし、共に旅をして数ヶ月。ローラ様ももっと仲良くなりたいという想いも見え隠れし、私も実際そうなって下さると嬉しいと思っています。ありのままのローラ様を見て下さる人間が、1人でも増える。しかもアレフさんの様に強く頼もしい人なら…と、余計な期待を抱いてしまうものです。
 私が何時までもローラ様の傍に居られる訳ではないし、ローラ様も今の状態が何時までも続くとは当然思っていませんから。心の何処かで淡い期待が叶わないだろうと、実は皆分かっています。私も少しばかり感情移入しているという自覚はあるんです。
 そっと笑うと、私はアレフさんを励ます様に言いました。
「比較しても仕方がありませんよ。種族が異なる為の違いのようなものです」
 人間と魔物は全く違うものでしょう? そう続けると、アレフさんも困ったような顔になって『そうだな』と同意しました。
 アレフさんがスライムを苛めないと分かったのか、ローラ様が私の横に歩み寄って座りました。胸に抱いたスライムはころんと零れる様に落ちて、私の目の前に転がってきました。焚火に落ちない様に拾い上げてローラ様を見ると、まるで呪文を教えるのを請うているようなキラキラした目を向けています。
「イトニーはどうしてそんなに呪文が使えるの? 魔物じゃなくたって、他人に教えるのっていっぱい勉強して知ってないと駄目じゃない」
「魔法使いとしてはイトニーは一流だよ」
 その問いに直ぐ反応したのは、アレフさんでした。彼は焚火の向こうで火の勢いを見ながら、素っ気無く言い放ちました。
 実践で何人もの魔法使いを見て来た彼ですから、私が戦闘で魔法を使う際の技量を見ての評価なのでしょう。呪文展開の速度、呪文の威力、制御力、魔法使いでなくても彼なりの経験から見て知れる事は多いのです。
「一流だなんてそんな…」
 私が照れた様に笑うと、アレフさんは私を一瞬見てから焚火に視線を戻します。
「お世辞じゃない」
「そうだよ!イトニー凄いよ!」
 きゃあきゃあとはしゃいで戯れる様にローラ様が抱きついてきました。豊かな金髪を流す背中を見下ろして苦笑する他無い。
 自分の実家は魔法使いの名門の出身。呪文の素養は元々あって当たり前、家に直に依頼を申し込む者も多く、その道ではとても名が知れている名門です。厳しい祖父と父、名門に嫁いで誇らしげな母に才能あふれた兄弟。そんな家では、自分は落ちこぼれです。この年齢になっても嫁がないで小言を言われないのは、今御仕えさせて頂いている主が誰もが尊敬する存在であるからです。誉れある職業に就いても、落ちこぼれを返上する程の賞賛にならなかったのを実感したのは随分と昔からです。
 勿論そんな話をした事が無いので、このような言葉は同情から来るものではないでしょう。
 だから、このように自分を魔法使いとして褒めて下さるのが、嬉しくもあり申し訳なく思うのです。
「ありがとうございます」
 そういえば、このような賞賛を受ける様になったのは家から出る様になってからでしょう。肩を並べ主に仕える者の中では魔法に秀でた自分でしたから、仲間からは一目を置かれる存在だったでしょう。
 一番驚いたのは主からの賞賛でした。あの方は自分よりも遥かに知識も実力も抜きん出ているのに『イトニーは凄いな』と言って下さる。
 魔法と呪文の知識や修練の日々か、書物の犇めく書庫に埋もれているか、仕事の補佐で父や祖父に付き添ったりするばかり。呪文しか知らない箱入り娘であった私には新たな主に仕えるとはいえ職場は驚きの日々ばかり。書類の整理やお茶のいれ方を学び、食事もろくに摂らない方なので夜食の作り方を厨房に習いに行き、ひとたび出張が入ればその方直々に野営の仕方まで教わりました。星の解き方を教えていただき、町に行けば町の逸話を余すところなく教えて下さるその姿に周りの者達は恋人同士かと信じきってしまわれるほど…ってそれは言い過ぎですね。
 教えてもらってばかりなのに、あの方は私を褒めて下さる。
 会ったばかり間も無い二人が無条件に賞賛して下さる。
 イトニーはなんて幸せなんでしょう。
「イトニー」
 むくっとローラ様が顔を上げました。最初はきょとんとした無防備な表情が、にやりと意地の悪そうな表情に変わります。
「なぁんか幸せそう。良い事、あったの?……ちゃん とさぁ?」
 主の名前を発する事無く唇を動かしただけですが、その名前を読み取っただけで顔が凄く熱くになります。それはもう、火炎竜のブレスを浴びせられたくらいに熱くなってしまいます!
「なななななななななにをおおおおおっしゃるるるんですか!?」
「あはははははは。動揺してか〜わ〜い〜い〜〜〜」
 ローラ様の笑い声を正面に受け、苦痛を感じる痛みがお腹から突き上げてきます。
「全く、阿呆臭ぇ」
 ぽそりと、それははしゃぐローラ様の耳には届かない呟きは、頬杖付いて見ていたアレフさんから。私がその声に気が付いて顔を見れば、彼は『しまった』と言いたげに目を僅かに見張りました。思わず滑った口でしたが、ローラ様が気が付いていないと分かると素知らぬ振りをして言いました。
「ほら、ローラ。いい加減休まないと明日に歩けなくなるぞ」
「えー…」
 ちらりと私の顔を見て来るので、私も首を横に振って相手にはしません。今まで無敵を誇っていた我が儘も我々二人が力を合わせれば大した事は無いのです。ローラ様も諦めがついてスライム片手に外套にくるまって丸くなりました。
 アレフさんは明日の朝食の下準備を粗方終え、私も荷物整理をして無言の時間が流れます。山道で疲れているローラ様も寝入り、いつの間にか降り出した霧雨に焚火の爆ぜる音が不満そうに一際高く響くだけです。
「きっと…」
 私の声にアレフさんが顔を上げました。
「呪文が使えない一番の理由は、資質の問題では無いのかもしれませんね」
「どういう意味だ?」
「呪文は『願い』を形にする物でもあります。アレフさんの場合、呪文という願いに頼らなくても乗り越える事が出来たのでしょう。火を起こしたいと願っても、貴方は自力で火をおこす事が出来る。呪文になるほどの『願い』にはならない」
 呪文は願えば出来る物ではありません。ですが、私なりに分かりやすく噛み砕いた説明です。彼は黙ってその言葉を聞いてから私を見ました。
「今更、呪文を覚えるつもりは無い。今回は久々に興味を持っただけだったから、逆に迷惑を掛けてしまったな」
 再び黙り込んで焚火の炎を見つめます。その瞳に映る炎の色は炎よりも移ろい、彼はその心の中にその言葉以上に複雑な考えを巡らせているのだと察しました。相談する相手に私がなり得ないというよりも、傭兵としての同職の人間に相談相手が居るのだろうかと思う程。その沈黙は孤独で、彼はその孤独を当たり前にしているようでした。
 私は彼に呼びかけました。アレフさん。そう呼んで、彼は素直に応じて顔を上げました。
「貴方はこれから、自分の力ではどうにもできないような事柄に出会うかもしれません。その時、心の底から望む事が出来れば、きっと呪文を修得できるでしょう」
 アレフさんはそっと笑いました。
 見る者が背筋を冷たくするような薄く冷たい笑み。冷笑なのかと思えば、良く見れば安堵の様にその瞳は穏やかでした。
「どうにもできないこと……か」
 彼が反芻するように呟いた頃にはその笑みは消えて、いつもの無愛想で無表情な顔が張り付いていました。
 きっとアレフさんにとって『どうにもできない事』は『死ぬ』ということなのでしょう。ラダトームからここまで、共に旅をしたからこそ解ります。
 独り故に何でもでき、独り故に失うものが無い。だからあんな無茶な戦い方もできる。だから孤独も耐えられる。
 アレフさんにとっては良い事かもしれませんが、少しでも貴方を知り貴方を友人と認めた者にとってそれはあまりにも辛いことではありませんか? 寄り添おうとして遠ざけられ、気持ちを知らない振りをして遠くへ行ってしまう。それは確かに互いに傷付く事はないでしょうが、傷付かないだけで何も得られないじゃないですか?
 ローラ様も『あのままじゃ、きっと何を考えてるか分からない奴って思われちゃうよ』とおっしゃられていました。私も同感です。
「きっと、貴方はずっと1人でいらしゃったんでしょう。どうか貴方に『願い』が生まれる事を、私は願っています」
 アレフさんは私の言葉を聞いて、じっと焚火を見つめていました。身じろぎ一つせず、食い入る様に見つめています。
 心の奥深くに立ち入らせない何か。
 慕われているのに、いつも独りの背中。
 だからアレフさんにはもう1つ言わなかった事があります。
 心を開く事。
 理に呼びかける呪文には、欠かす事のできないものです。もしそれが出来たならば彼は私と同じくらい、いえ、それ以上の呪文の使い手になるやも知れません。
 アレフさんが心を開く事が出来る友人や恋人が、彼の前に現れる事を私は願いました。それは私の主にも同じような孤独を感じるからこそ、尚強く思うのでしょう。
 もうマイラまで後少し。アレフさんとの旅も後少しで終わろうとしています。